人間に乗り越えられない試練なんかない~瀬古利彦(マラソン・陸上)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■瀬古利彦(マラソン・陸上)名言集

いつも仲間たちを引き連れて、家の近くの山や川を駆け回るような元気な子どもでした。そのときの岩場や砂場で遊んでいた経験が後の陸上競技の体作りの基礎になっていると思います。

父は体が弱く、家で寝ていることが多かったですが、逆に母はとても健康的な人でした。ふたりとも子どもたちにはとても優しく、その上夫婦仲も良かったと思います。ケンカをしているところは今まで一度も見たことがありません。

体を動かすことは大好きでしたね。僕が生まれ育ったのは三重県の田舎で、近所には野山があったり、河原があったり、自然に恵まれた場所だったんです。そんな場所ですから、家の周りにあるものすべてが遊び相手。休日になると、外で近所の子どもたちを引き連れて朝早くから夕方遅くまで遊んでいるような子どもでした。

特に熱中していたのは河原でやる野球です。石を投げて、それを木の棒で打って、川岸に届いたらホームラン……というのがいつものやり方で。そういう意味では球(石)はたくさんありますし、周りに人なんていないですから、当時は危険なこともなかったんです。もともとは兄2人が野球をやっていて、それに影響を受けていたこともあるんですが、「遊びと言えば野球」というぐらいに毎日夢中になっていましたね。砂地の上や岩の上を走り回るのが当たり前の毎日でしたから、今考えると、そういう経験が走る筋力を身に付ける大切なトレーニングになっていたんだと思います。

小学校の頃から「高校球児になって甲子園を目指す」と言っていたぐらい、野球が大好きでしたからね。おかげで、中学のときはピッチャーとして県大会にも進むことができました。 ただ僕の場合、実は野球部以外の2つの部活動でも県大会に出場していて。ひとつは試合前に急に欠場者が出てしまったサッカー部。当時は遊びでサッカーもやっていたこともあって、運動神経が良かった僕が穴埋めとして声をかけられてしまって(笑)。

小さい頃の河原での遊びのおかげで、とにかく走るのがダントツに速かったんですよ。だから、大会前になると陸上部の先生から「瀬古君、出てくれないか」と頼まれるようになって。 それで、実際に2年生のときに市の大会に出たら、いきなり優勝(笑)。「……あれ、僕ってけっこう走る能力があるんだな」と思っていたら、次の県大会でも1番になっちゃったんです。 野球では県大会の2回戦か3回戦で負けてしまったんですけど、陸上は練習もしていないのに1番ですからね。自分でも本当に驚いてしまって。 そうしているうちに、駅伝が強い高校に通っている先輩から「お前もうちに来いよ」と言ってもらって。せっかく陸上をやるなら、全国大会に出られるチームがいいなと思ったので、その学校に通うことになったんです。

当時日本陸上競技連盟で有望選手の海外短期留学派遣というのがあって、「マラソンの練習と英語の勉強もかねて、行ってこい」と言われて。でも、進路が決まっていない状態でアメリカに行くのは、どうしても抵抗があったんです。 それでもいろいろと相談をしたうえで渡米することになったんですが……やっぱり、自分には合わなかったですね。「来年はどうなるんだろう?」ということばかり考えてしまって、ホームシックになったんです。 ですから、10か月間の留学の間は毎日泣いてばかりでしたよ。その上、コーチも誰もいない状態で寂しいものですから、ストレスが毎日のご飯の方向に向いてしまって。 結局、日本に戻ってきたときには10キロ近くも太っていたんです。でも、逆に言えば、アメリカでそういう寂しい経験をしていたので、大学で中村清監督に初めて会ったとき、雷が落ちたような衝撃があったんです。

中村監督に初めてお会いしたのは、合格した直後に参加した競走部の合宿です。「地面の土を食べて君たちが世界一になれるというなら、私は迷わず食べる」と言って、いきなり土を口に放り込んだり、とにかくすごいインパクトでした(笑)。 でも、僕は留学中、ずっとひとりで寂しい気持ちでいましたし、とにかく誰かから走ることの指導を受けたかった。だから、監督との出会いは本当にうれしくて、直感的に「ずっと教えてもらいたいと思っていたのは、この人だ!」と思ったんです。 実際、監督は「私についてきたら、世界一にしてやる」とおっしゃいましたし、その言葉が嘘じゃないという気もしましたしね。だから、そのときから「この人に何を言われようとも、すべて『はい』と答えよう」と考えたんです。

監督はよく練習中に「お前の今の走りでは、ゴールの数十メートル手前で○○になるから気をつけろよ」といったようなアドバイスを言うんです。それが実際の大会で、本当に当ってしまうんですね。あのときは監督を予言者だと思いました(笑)。 監督の話によれば、選手の目を見ていると、考えていることや体のコンディションが大体わかると言うんですね。そんなことを言われれば「やっぱり、監督ってすごいなぁ」って思うじゃないですか。だから、いっそう監督への信頼が強まったりしていましたよね。

勝てば勝つほど、逆にプレッシャーになっていくんです。「次の大会では、僕が負けてしまうんじゃないか……」と想像するようになってしまったり。 だから、あまり勝ちすぎるのは、恐い。実際、マラソンを走るのが恐くなった時期もありました。だからと言って、マラソンというのはひとりだけで走っているわけではありませんから。家族も、監督も、チームメイトもそばにいるわけですからね。

当時から、私はオリンピックが目標でした。オリンピックを狙っている選手が学生なんかに負けるわけない、と自負していました。区間新記録出して当たり前だと思って走っていたので、びびることはありませんでした。各チームのエースたちには箱根駅伝ではなくて、その先を目標にしてもらいたいと思います。ここが目標だと寂しいよ。『山の神になりたい』とかは私から言わせてもらうとナンセンスで、オリンピックの神様になってほしいと思います。神様は1人じゃないといけないので、そう何回も乱発してはいけないね(笑)。

僕は自分自身がやさしい性格というか、人に嫌われたくないというか……すぐ選手の言うことを聞いちゃうんですよ(笑)。練習をしていても、「瀬古さんは厳しい」とすぐ言われるので、「……そうかなぁ?」と考え込んだりして。指導者としては、今でも悩み続けていますよね。 人に何かを教えるというのは、とても難しいことですよ。歳をとった今でも、ますます難しいと感じています。マラソンの場合は、特にですね。 基本的に現在は選手の指導を私の教え子である今の監督に任せていますけど、そもそもみんな僕の子どもの頃のように裸足で自然を駆け回るような経験をしていないじゃないですか。

最後の最後は心の部分。試合で走れる練習ができるかどうかも、いざ、本番で走れるか走れないかも、全ては心が左右していると思います。

廃部に追いこまれたり,危ない所もありますしねぇ。寂しいですね。日本は,スポーツ自体が企業スポーツで成り立ってますから,企業スポーツがなくては日本は闘えないと思うんですよ。企業には頑張ってもらわないとね。スポーツで金儲けというのではなくて,社会還元というか。金儲けて余ってるから使う,というのでは長続きしないからね。長い目でアマチュアスポーツ応援してくれたらね。

現在日本のレベルは世界と大きな溝をあけられている。オリンピックだけでも、男子は1992年から、女子は2004年からメダルを取れていない。これは3年後に東京オリンピックを控えている今、かなり危機的な状況になっている。その大きな原因は、マラソンを本気でやろうとする選手が少なくなってきていること。われわれのときはマラソンが本業、駅伝が副業というのが普通だったが今は逆になっている。

心が安定していて、動じないタイプの人間は失敗を繰り返さない。いつでも自分のパフォーマンスが出せる。

昔は、今ほどフィジカルを鍛えるための科学的なノウハウがなかったんですよ。ただ、最初に教えられたのは、「いいフォームは走っていても作られないから、歩きながら作りなさい」。それで、握りこぶしぐらいの大きさの石を持って、歩きにくい革靴を履いて歩いていました。フルマラソンを走ったことがある人ならわかると思いますが、足だけでなく、肩から肩甲骨あたりにかけてすごく張るんですよ。5時間ずっと、チカラを入れた状態だから。つまり、体は枝葉を鍛えるだけではダメで、芯をしっかりしないと。すると枝葉もちゃんと動かせるようになる。

上下動がなかったでしょう? それは、歩いて体幹をしっかりと鍛えていたからです。プロのファッションモデルは歩く時に上下動がないんですが、私も同じように、石を持ちながら道路の白線をまっすぐ歩く練習をしました。そうして体幹をトレーニングしていたんです。これを、現役時代は、いつもやっていました。歩くときは必ず。ムダな時間というものは、ないんです。全てがトレーニング。寝ることも、いわば明日のためのトレーニングだから。1時間も1分もムダするな、というのが中村先生の教えです。

日本のマラソンの歴史というのは、他の国より走りこむことで頂点を極めてきた。今の選手は走りこんでいないわけではないが、まだまだ練習が足りない。自分の現役時代の練習内容をDeNAの選手にやらせても、下地ができていないので今の段階ではダメ。ただ選手も前向きに取り組んでいるため、練習の内容は濃くなっている。練習量といえば高橋尚子選手。彼女は2日に1回、40キロ走る。それが金メダルの練習量。原点に戻って、走りこんで、泥臭くやらないと上位国のケニアには勝てない。

宗さん達は、私より4つ年上。4つ違うということは、1つのオリンピック分違うわけです。私が大学2年、まだマラソン選手として走り始めたばかりの頃に、宗茂さんは当時の世界歴代2位の記録を出したの。それも別府大分毎日マラソンという、2月のマラソンでね。びっくりしましたね。これは宗さんに勝ちたい、もし宗さんに勝ったら世界一なんだ、と思いました。

宗さんたちには本当に感謝しています。宗さんが上を目指すから私はもっと上を目指した。そこで日本のマラソンに火がついて、私や宗さんを追い抜いてやろうともっと上を目指したのが中山くん、谷口くん、森下くんといった選手たち。そうやって日本の黄金期ができた。その関係性を大迫選手や設楽選手が築いてほしい。世代全体が押し上がるためにもライバルは絶対に必要です。

マラソンは本当に苦しい競技。人からやれと言われてやるようだと続かないし育たない。

マラソンは選手と監督がマンツーマンになってトレーニングしなければ絶対にダメ。自分も駅伝で鍛えられたし、1年間同じ釜の飯を食べて全員で一つの事をやり遂げるというのはと言う駅伝の楽しさはわかる。ただ駅伝とマラソンの指導を両立させるのが難しい。強い選手が出てきたらとにかく、マンツーマンで強化するしかない。リーダーとして新しいことをいっぱいやっていきたい。

モスクワオリンピックの時、なかなかJOCが代表メンバーを発表してくれなかったんですよね。オリンピックに出られるのか出られないのか、分からない中で選手は集中して練習できないですよ。そういう意味で選手たちには、出るメンバーを変えないよと早く伝えて、練習に集中させてあげたかったという思いです。

当時、我々はあまり上に声をかけちゃいけないと、あまり思うことを言っちゃいけないという習慣がありました。山下君も泣かれていましたけど、あまり声を上げられなかったです。自分たちは声を上げられなかった。だから今の選手たちはどんどん声を上げて、思うことを言ってほしい。自分の言いたい事、やりたい事をどんどん発信してほしいと思います。

僕も悲しく思います。僕らもボイコットの時、本当は悲しかった。でも、人間に乗り越えられない試練なんかないですから。必ず乗り越えられます。

不安は当然僕らもあります。本当に来年できるだろうか。でもそれを思ったらもうおしまいですから。我々が前向きでいればね、絶対あると信じてやっています。スポーツ選手が後ろ向きになっちゃいけないんですよ。人間は思うようにいかない事はいっぱいありますから。それは自分が強くなるチャンスだと思ってね、私はやって来ました。今選手たちは練習場所も限られて試合もない、思うようにいかない環境の中でやっております。でもいいチャンスだと思って、これを乗り越えたら必ずひとつステージが上がるんじゃないかと思って、辛抱しなきゃいけないです。辛抱しただけ、僕は強くなると思っているのでね。

お寺へ行って座禅を何度かやりましたね。中村監督が禅を勉強されてたので、有名なお坊さんが書いた本があるんだけど、その本を読み聞かせてもらったりしました。中村監督からも「瀬古、マラソンをやるんでしょ。なら、座りなさい」と言われて。でも実際にやってみると40分くらいで苦しくなってきますよね。早く終わりたいとか、足がしびれたとか。でもその間、それ以外にも色々なことを考えるんですよ。そういうのがいいんです。考えること自体がいい。忙しくしていると考えられないようなことを考える。座禅という文化は500年続いているわけです。我々もそういう「道」を歩みたかった。柔道とか剣道とかの「道」があるでしょ。自分たちはいつも「マラソン道」だと思ってやっています。

当時は心理学的にとか、科学的にどうだとか、そういうのは全然ありませんでした。だからこそプラスになりそうなことは、全てやりました。宗さんたちも相当な量を練習してるし、私も宗さん負けないくらい練習していましたけど、それでは宗さんたちを越えられない。どこか違わないと。そこなんですよ。その違いが、気持ちになって最後の35㎞から出てくるわけです。「俺は大丈夫だ」っていう気持ちが湧いてくる。

もう「巨人の星」の世界ですよね(笑) 科学的に見れば無駄かもしれないけど、そういうものが35㎞から40㎞になってくると甦ってくる。「大丈夫だ、絶対に宗さんたちは自分ほどはやってない」って思える。だから精神を鍛えるっていっても、そんなのは無理なんですよ。本を読んだって、そんなのは知識だけの話です。自分で経験した苦労というものがないと身につかないんです。それが自信につながって精神的にも絶対負けないぞということにつながっていくと思っています。

(失意のソウル五輪後、家族から贈られた手作りの金メダル)当時2歳の長男が私の首にかけてくれた。人知れず辛い涙も流したが、その瞬間はうれし涙で男泣き。家族はありがたいね。

ジムに行かなきゃトレーニングできないとか、決してそんなことはないんですよ。生活の中でできますから。強くなろうと思ったら、人と同じことをやっていたら強くなれませんから。人と違うことをやるから人に勝てるんです。同じことをやっていたら、素質のある人に絶対に負けてしまいます。

マラソンは監督の”やれ”という言葉だけ聞いていてだけではダメ。選手はみずから練習しないと。そして、いかに選手をその気にさせ、やりすぎないようにときとして選手を止めるのが監督の仕事。だからサラリーマンも上司に言われて仕事をしているうちはどうしようもない。言われる前に自分でやる。上司に止められるぐらい仕事しないと大したサラリーマンにならないと思う。

自分が苦しい時は、ライバルもまた苦しいのです。そう思うと、いたずらに苦しんで走ることの無意味さがわかります。自然のまま、静かに走ることで、闘志の燃焼をさらに深められるようになったのです。

マラソンは『人間』が走るものなんだから。人間性が出ますよ。それぞれのマラソンに。

35km以降の顔。苦しくなってから、どんな顔、表情をしているか。そこにその人の人生が表れます。

人は、乗り越えられない壁は与えられない。

■瀬古利彦(マラソン・陸上)とは?

瀬古利彦。

1956年生まれ、三重県桑名市出身。

中学時代は野球部で投手をしていた。

チームは県大会に出場するも早々に敗退するようなレベルだったが、瀬古個人には東海地区の野球の強豪校からの誘いもあったことなどもあり、当時の瀬古は高校球児として甲子園を目指すつもりでいた。

野球に関心を持ったきっかけは漫画『巨人の星』への憧れであったという。

ところが、1年生時に校内の5キロ走大会で優勝したことから、陸上部より懇願されて大会に出るようになる。

市の陸上大会の2000mで優勝、続く県大会でも当時の三重県記録で優勝したことがきっかけで陸上競技に魅力を感じるようになり、陸上競技の強豪校・四日市工業高校への入学を決意する。

入学直後から中距離走で頭角を現し、高校1年で山形インターハイ800mに出場し、3位に入賞。

高校2年生時には地元・三重インターハイの800m、1500mで優勝。千葉国体1500m、5000mで優勝。

3年生時には福岡インターハイにて800m・1500m・5000mの中長距離三冠に挑戦したが、5000mで中村孝生(前橋工)のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年生時同様に2冠に終わる。

しかし、800mで予選・準決勝・決勝の3レース、1500m、5000mは予選・決勝の2レースと4日間で合計15400mを走破しての2種目の優勝と1種目の準優勝の成績に対し、日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手と評価されていた。

茨城国体では、前年度に続き2年連続で1500m、5000mの二冠を達成。

全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した。

正式な区間記録をねらった3年生時は、途中で腹痛に見舞われて後退し、2年連続の区間賞獲得もならなかった。

大学進学に当たり関東の学校の誘いも多かった。

箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけたが、早稲田大学OBからの勧誘で早稲田大学の一般入試を受験した。

しかし合格に至らなかったため、高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、翌年早稲田大学教育学部に合格した。

1976年入学当初、浪人中の不摂生もあって約8kg増量していた。

早稲田大学競走部への入部直後、中村清監督から「君、マラソンをやりなさい」と勧められ、中距離からマラソンへ転向。

以後、恩師中村と二人三脚で鍛錬の日々を過ごすことになる。

箱根駅伝では1年次から4年連続で「花の2区」を走り、3、4年次で区間新を記録した。

1年生の1977年2月、京都マラソン(旧)で初マラソン。

10位となり新人賞を受賞。

2年生となった同年12月の福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を果たし、一躍次代のホープと目される。

3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす。

1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、ビル・ロジャース(アメリカ合衆国)に次いで2位となる。

この時の記録2時間10分12秒は日本学生新記録であった。同年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。

オリンピック開催年の1980年、大学を卒業して中村監督とともにヱスビー食品に入社、オリンピックでの勝利を目指したが、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった。

同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初の「サブテン」となる2時間9分45秒の記録で3連覇を飾る。

1981年2月の青梅マラソンに参加。

仮想ボストンとしてオープン参加。

モスクワ五輪銀メダリストのゲラルド・ネイブール(オランダ)に圧勝。

このとき記録した1時間29分32秒は、2019年にチェボティビン・エゼキエル(ケニア)に破られるまで、38年間大会記録であった。

3月22日にはニュージーランド・クライストチャーチでの記録会で、1レースで25000m(1時間13分55秒8)と30000m(1時間29分18秒8)の世界記録を同時に樹立した。

この両記録は2011年にモーゼス・モソップに破られるまで、国際陸上競技連盟(IAAF)が公認するトラック種目として日本人が唯一保持する世界記録だった。

その直後、4月のボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾る。

この時の優勝記録2時間9分26秒は前年のビル・ロジャースの優勝記録を1秒上回る大会新記録であった。

1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場。

ロドルフォ・ゴメス(メキシコ)や宗猛を相手に40km手前の鮮やかなスパートで競り勝ち、日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒の日本最高記録で世界歴代3位(当時)の好記録で優勝し、名実ともに日本のトップランナーとして復帰を遂げる。

この優勝により、瀬古は翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル候補として注目を浴びる。

同年12月の福岡国際マラソンでも優勝し、ロサンゼルスオリンピックの代表に選出された。

しかし、迎えた1984年8月12日(日本時間13日)のオリンピック本番では、予定通り先頭集団につけていたものの、35km手前でずるずると後退し始め、優勝したカルロス・ロペスから5分近く遅れた14位という結果に終わる(日本勢最高位は宗猛の4位)。

瀬古自身は20kmまでは体が軽くいけると思ったが、25kmぐらいから足にきた感じになり、35kmから40kmで集団のペースが一気に上がりついていけなくなった、と述べている。

本人の著書ではロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。

疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。

本番2週間前にはストレスから血尿が出てしまい、ドーピング回避のため漢方薬を飲んだが、下痢による脱水症状に悩まされた。

瀬古は初めて経験する夏マラソンにいつもの経験とリズムがつかめなかったのが最大の敗因と見ている。

1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝する。

同年10月のシカゴマラソンでは85年広島、87年ソウルのワールドカップマラソンに連覇することになるアーメド・サラ(ジブチ)を振り切り2時間8分27秒の自己ベスト(当時日本歴代4位、世界歴代10位)で優勝。

翌1987年4月、ボストンマラソンに3度目の出場。このレースは豪華な顔ぶれとなったことから「世界一決定レース」などと謳われた。

レースは強豪ランナー同士の牽制によりスローな展開となるも、心臓破りの丘で瀬古が抜け出し2度目の優勝を果たす。当時世界最強とみなされていたジョーンズは「瀬古はグレート。世界ナンバーワンだ。」とコメントした。これら3つのレースの優勝で、失意のロサンゼルスの惨敗から立ち直った。

ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンを負傷のため欠場。

本番のレースでは9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わる。

ソウルオリンピック後、第1回国際千葉駅伝で日本チームのアンカーを務め、これを最後に現役を引退した。

レース後、千葉県総合運動場陸上競技場で引退セレモニーが行われ、ライバルだった中山や宗から花束が贈られた。

引退後はヱスビー食品陸上部監督に就任したのち、1990年より4年間は母校早稲田大学競走部のコーチを兼任。

武井隆次・櫛部静二・花田勝彦・渡辺康幸らを擁し第69回箱根駅伝総合優勝を果たした他、全日本大学駅伝4連覇など母校の躍進に貢献した。

2006年3月限りでヱスビー食品陸上部監督を退任、同年4月1日付で同社スポーツ推進局長に就任した。

後任監督には武井隆次コーチが昇格し、中村孝生コーチが部長となった。

2005年3月より日本陸連役員も務めた。

2007年12月より東京都の教育委員に任命された。

2011年12月21日、東京都教育委員に再任。

2012年8月31日、ヱスビー食品陸上部の廃部の記者会見を行った。

2013年3月末、東京都教育委員を辞任。4月1日よりDeNAランニングクラブ総監督となる。

2016年11月より、日本陸連強化委員会が新たに2020年東京オリンピックに向けて設立した、マラソン強化戦略プロジェクトリーダーに就任している。

2019年6月1日付でDeNAランニングクラブ総監督を退任し、エグゼクティブアドバイザーに就任。

RSS
Follow by Email