全盛期?これからだよ。~三浦知良(キング・カズ)名言集と今までの軌跡~




新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

三浦知良名言集

(食事について)意識し始めたのは35歳過ぎてからです。それまではしっちゃかめっちゃか。いまでもそういうときはあります。試合まで時間が空くときは脂っこいものも食べるし、みんながいうほどストイックじゃないですよ。人間ね、なんで仕事するかといったら遊ぶためだし、楽しむためでしょう。いい仕事をするためには思いっきり遊ばないと。

いつだったかな、日本代表合宿でゴンちゃんと一緒にランニ ング したんだよ。別に競争でないんだよ。でもお互いにトッ プを譲らないんだ。 オマケに終わろうともしない。ずっと無言で走り続けていたんだよ。 結局、誰かに止めてもらったんだけど、そうじゃなきゃ、倒れるまで走っていたね、きっと。

(自身が直前で漏れたW杯フランス大会で代表が全敗、新エースとされた城彰二が空港で水をかけられた事を知り電話で)水をかけられたという事はお前がみんなにエースと認められたという事なんだ。俺だってブラジルでファンにドラム缶を投げられたんだぜ。挫けるなよ。

『もうダンスはよしなさいよ』との声をいただきました。貴重なご指摘を重く受け止めつつ、次もやりたいと思っています。

市選抜にも県選抜にも東海選抜にも選ばれなかった人間が後で世界選抜に選ばれたわけです。

ブラジル生活も2年3ヶ月経過し、情熱を失いかけて帰国しようと思い、その前に最後に観光でも、と訪れた先で見かけた草サッカーで裸足の子や片足の少年がプレーしてたんです。それを見て俺にはスパイクもボールも両足もある、何て恵まれてるんだ…!って。それでまだ挑戦しよう!と思ったんだ。

もっとサッカーがうまくなりたい。その夢があるから、毎日、目標を積み重ねながら、現役プレイヤーとして挑戦し続けることができている。

大事なのは、結果が出なくても人のせいにしないこと。悪いことはつい誰かのせいにするけど、違うんです。自分自身に原因があるんです。僕はずっとそう思い続けてきました。

人生もサッカーも量じゃない。質だ。シュートの練習もそう。2000本打とうが、ただ打っているだけだったら上手くはならない。30本でも1本1本気持ちを込めて集中したほうが断然上手くなる。

イエスかノーで判断されるのがプロの世界。叩かれるうちが花だし、選手はそれを乗り越えて大きくなるものだ。批判に耐える強い精神を持っていなければ、上のレベルにはたどり着けない。

成功した時にスポーツ紙の一面になるのは普通の選手。失敗した時にスポーツ紙の一面になる選手は限られている。一面で失敗を取り上げられ叩かれることに誇りを持てばいい。

まず自分を省みること。それは多分、サッカーに限った話じゃない。「上司がちゃんとしてくれないから失敗した」とか、「僕らはできるのに、あの人のせいで仕事がうまくいかない」と、常に 誰かに責任をなすりつける人が会社にもいるんじゃないかな? そんな人と、「他人はともかく、自分のここがダメだった」と考える人の差は歴然と開いていくような気がする。

勝負事には運は必要なのだが、それ以上に大切なのは毎日努力を続けることだ。

僕にとって、夢は生きるための原動力。だから、同年代の皆さんには、どんなことでもいいので、夢を持ち続けてほしい。

常に何かに挑戦していれば輝きは失われない。挑戦してその結果が成功だとか、失敗だとかではない。挑戦したときがもう成功といえるのではないだろうか。

目標を立てて、夢を追いかけて成長するのに年齢は関係ない。

お金をもらうからプロじゃない。どんなときでも手を抜かず、全力で戦うからプロなんだ。

辛いときは練習ですよ。グラウンドで走って苦しむ。肉体的にも精神的にも苦しむことで発散できますよ。それで自分自身を取り戻せるというか、休みの日で一人で走る公園でもそれは感じます。

いつも必ず自分に勝てる人間なんて、そうそういるものではない。大切なのは、自分に負けたとき、「もっと強くならなければ」と願うことだ。

どんなに八方ふさがりのように思えても、道がなくなるわけではない。進むべき道、進んでいける道を見つけて、一歩ずつ進んでいけばいい。

上を向いている限り、絶対にいいことがある。明るい未来が待っているはずだ。

サッカーだけでなく、外で遊ぶときも、お風呂に入るときも、人と会うときも、もうすべて一生懸命行くぜ、という感じなんだと思う。

夢は語ったほうがいい。言わなきゃ、何も始まらない。

新天地での挑戦はいつだって、誰だって難しい。でも、人生は、いつの瞬間だって挑戦なんだ。

(高校の監督にブラジル留学を「人間100%はないが お前は99%無理だ」と言われ)1%あるんですね? じゃあ僕はその1%を信じます。

失敗して、考え悩むこともあるだろうけど、立ち止まっていてはいけない。一気に100メートルも進まなくていい。1センチでもいいから前に進もう。

あきらめる理由を探すんじゃなくて、あきらめない理由を探せ。

全盛期?これからだよ。

三浦知良とは?

三浦知良。

ニックネームは“カズ”、または“キング・カズ”。

1967年2月、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。

叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。

1973年、静岡市立城内小学校に入学。

小学時代には、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。

小学校4年生の時に両親が離婚、三浦姓を名乗るようになった。

1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退し、ブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属。

1984年、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍。

1986年1月、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。

1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。

5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たした。

しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。

翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍。

このクラブでもレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。

1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。

同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。

このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、三浦知良という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。

クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。

1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献。

1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍。ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾っている。

1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍。

1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導いた上、大会MVPにも選出。日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞。

Jリーグ開幕後は、ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉ら他、多くのチームメイトに恵まれ、川崎の名を冠していた時代のヴェルディの黄金期を支えた選手の一人として記憶されることとなった。

1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。
中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。

しかし、最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。

翌1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞。

1994年にはイタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。

Jリーグ復帰の1995年シーズンはリーグ得点王、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇にも貢献。

翌1998年はクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。

1999年7月、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた、京都パープルサンガに移籍。

2001年からは永島昭浩引退直後のヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。

2005年7月、横浜FCに移籍。

2006年2月からは登録上は選手扱いながら、横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任。

2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出。

2017年、背番号11にちなみ、1月11日11時11分に横浜FCのクラブ公式サイトで契約を延長。開幕と同時に50歳となり初の50代Jリーガーとなった。

この記録はイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『ガーディアン』など世界でも報じられ、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定。



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