カッコ悪くてもいい。~桑田真澄名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■桑田真澄名言集

野球しかわからない人間にならないように気をつけているのだ。野球だけでなく、勉強や遊びからも、忍耐力や責任感、自立心などを養い、自分を高めることができると思う。

注ぎすぎるということはないのが愛情。愛情をいっぱい受けた人間は、心が温かい人間、周囲に愛情を注ぐことができる人間に育つ。

母親にも打ち明けました。そうしたらまた母親に言われたのです。「せっかく目標にしていたPL学園に入学できたんだから、最後まであきらめちゃダメ。体が小さくても成功できる方法はきっとあるはず」と。その言葉を、なぜかスッと受け入れられたんです。「他人と同じ方法を採る必要はない。自分らしくやればいい」ということに気付いたんですよね。

どんなに成績が奮わなくても、スポーツができなくても、わが子が一番ですよ。自分の人生を精一杯頑張ればいいんだと、応援してあげるのが親の役目だと思いますよ。

親というのは子どもの一番の応援者であるべきだと思います。「親」という字は「木」の上に「立」って「見」守ると書くじゃないですか。直接何かしてあげたり、特別な言葉をかけてあげたりしなくても、見守ってあげていることが親の一番の役目だと思います。僕自身は子どもがミスしようと、失敗しようと、反抗しようと、何があっても一番の応援者でいたいなと思っています。

日本の指導者にどうしても伝えたいことがある。指導者は「選手に教える」のではなく「選手とともに考え、ともに歩む」存在だ。“金の卵” は大事に扱わないと、殻が簡単に割れてしまう。今こそ、指導者のレベルを底上げしなければ、日本野球の更なる発展はない。

いま振り返れば怪我をしてよかったなと思える。今後僕が指導者として若い世代と向き合っていくとき、彼らの苦しみや痛みを理解し、アドバイスを送ることができるからだ。怪我をしたときはとてもショックだったが今ははっきりと言える。怪我は僕にとって、かけがえのない財産であり勲章だ。

練習したからといって、すぐに結果が出るものではない。毎日コツコツ努力していると、人間はある日突然、成長する。

自分自身を応援してあげるんです。高校生のみなさんも野球にたとえるなら、自分の人生のマウンドに一人で立っているんです。ちょっと気取った言い方になりますけど、人生のリリーフは誰もいないんです。野球では投手交代がありますが、ひとの人生では誰も代わってくれないんです。だから、ピンチに陥った時に大切なのは「俺なんか……」「私なんか……」と卑下するのではなく、「俺だからこそやれる」「私だからこそ頑張れる」と言いきかせることなのです。大人になったら、自分にとって最大の応援者は自分自身であるべきなんです。どんなことがあっても自分を信じて応援してあげられる自分を作ること。それが本当の自信だと思います。

がむしゃらな努力は無駄だ。

いい事はもちろん、悪い事も視点を変えて良い試練だとポジティブにとらえることにより、怒ったり落ち込んだりすることなく、何事も自分の成長の糧にすることができる。

長い人生の中、常に成長しつづけることができるわけではないが、基本的なことを諦めずにやり続けていると、ある日、努力が報われて急にできるようになりたかったことができるようになる時期が来る。その収穫期のような時期のため、日々マイペースでいいので諦めずに努力を続けていく必要がある。

勉強で大切なことは100点をとることではなく、50点でもいい。次は51点を以上を目指すという姿勢が大事。

努力は、嘘をつかない。

努力は、量ではなく質である。短時間で、効率的、合理的に積み重ねてこそ成果がある。そして、「表の努力」と「裏の努力」を両立できてこそ、努力は報われる。

どんなに調子がいいときでも、どんなにもてはやされたとしても、常に謙虚であり続けたい。仁義ある野球人の共通点。それは謙虚であるということ。

ある日、中学校の授業中に先生の行動の中で面白いことに気がついたんです。それは、試験に出る問題は、必ずと言っていいほど先生が黒板をポンポンと2回叩いていることに気がついたんです。ちょっとした動作なんですが、そういう癖が無意識に出ている先生がいた。それで、「あー、これテストにでるんだなぁ」と思ってチェックしていると見事にテストに出てくる。そこで今度は他の先生の行動も注意深く見てみると、「よーく覚えておいてくださいよ!」というフレーズを言った箇所はやっぱりテストに出る確率は高かった。こうして、人のちょっとした仕草や言葉からも、癖や傾向を見て取れることが分かり、試合で打者心理を読む時にとても参考になった。

人間は自分一人では何もできない。だからこそ、周囲の人たちに感謝しつづけたい。

桑田真澄の野球は心の野球です。

自分に甘くそして、優しく、子供達に厳しい指導者は要らないですよ。たばこを吸いながら、ミーティングをするのは止めて下さいよ。練習中に、煙草すら我慢できない弱い人に、何が指導できるんですか? 昼食に、ビールなど、アルコールを飲んで練習するのはよくないですよ。夜まで、アルコールを我慢できない自分に甘い人が、子供達に何を指導するんですか? 不思議ですよね? 子供達を指導する前に、誰かに指導してもらってください。

イチローも4割・5割の打率は記録できず、6割以上失敗する。人生も同じだ。失敗しても構わない。大事なのは、失敗してもそこから起き上がることだ。

「これであきらめるなら、お前の思いはその程度なんだよ」と、神様に試されているような気がする。

世の中には、永遠なものはない。家族、友達、命、財産、何ひとつ変わらないものはない。ゆえに、一瞬一瞬を精一杯生きたい。

人間は目に見えないものをあまり信用しない。でも僕は目に見えないもの、その力を大事にしたいんです。

言うこととやることが一致しているから、言葉に説得力がある。

遠回りしてやることも、素晴らしいこと。

実をいうと、僕はマウンド上でいつも不安や恐怖心と戦っていました。背負いきれないほどの重圧に、負けそうになることもしょっちゅうでした。でもマウンドではたった一人です。誰も僕の代わりに投げてくれる人はいないんです。そういう時に僕はどうしていたかと言うと、ボールに話しかけていたんです。僕の現役時代を見てくれていた人は知っていると思います。あの時、何を語りかけていたか。僕は「おまえならできる」「絶対やれるよ」「おまえがやらないで誰がやるんだ」と話しかけていたんです。

生きる目的は自分を磨くことだと僕は思う。だから試練や困難は、僕に与えられた砥石。

人は必ず死ぬじゃないですか。そして、いつ死ぬかわからない。だったら、命のある限り自分の好きなことをやって、ひとつでも多く挑戦を続けたいと思ったんです。だから当時は、自分にとって何がベストなのか、自分らしさとは何なのかということを常に念頭に置いて野球に打ち込んでいました。

一年間だけではダメです。一生です。僕は一生のスケジュールを立てています。

人生にマイナスはないですね。マイナスはプラスにするための準備期間だと思います。

昔のことは振り返らない。今を精一杯生きる。それが一番いいんじゃないですか。

自分の人生を振り返っても、失敗の連続でした。でもその失敗が、自分を大きくしてくれたと本当に思うんです。もちろん失敗したら辛いし、悲しいし、苦しいです。でもその経験は後で必ず生きますし、生かさないとダメなんです。僕が、なぜそこまで失敗しろというのか。それは、失敗とは挑戦した証しだからです。挑戦しない人生に失敗はありませんよね。失敗を奨励するというのは、たくさん挑戦しなさいという意味なんです。挑戦した数だけ人は成長すると僕は思っています。

やるか、やらないかですよ、人生は。やればそれだけのものが返ってくるし、やらなければそのままですよ。

人生で大切なのは「自分らしさ」なんです。流行に敏感なことはいいと思いますが、自分を見失って流されていくようでは、一流とは言えないんじゃないですかね。

大物とは他人の評価を気にしない。

人はいろんなことを言うかもしれないけど、僕の人生なんだからカッコ悪くてもいい。僕は野球しかできないし、とにかく野球が好きなんで、最後まで追い続けて、燃え尽きたらボールをそっと置きたいんだ。それを人にカッコ悪いと言われても、自分の人生、自分が納得できればそれでいい。

他人は失ったものに目を向けますが、僕は得たものに目を向けます。

格好悪くていい。”格好悪い” とは人の評価だからである。僕は自分が充実した人生を送るために生きているわけで、周囲の人から見て格好いいことをするために生きているわけではない。

試練が人を磨く。

■桑田真澄とは?

桑田真澄。

1968年4月生まれ、大阪府八尾市出身。

小学2年生より町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」でソフトボールを始め、6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得。

小学3年生からはボーイズリーグの八尾フレンドに所属し、父親である泰次により創意工夫された練習や特訓なども行っていた。

小学5年生の終わりより主戦級投手として活躍。

1980年4月、八尾市立大正中学校に入学し、野球部に所属。

準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場。

入学直後に外野手兼一塁手としてレギュラーポジションを獲得。

秋から主戦級投手として活躍。

中3時(1982年)には、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇。

1983年4月、PL学園高等学校に入学。

高校野球で活躍し、同期の清原和博とはこの時に知り合い、共に「KKコンビ」と呼ばれる。

PL入学直後は中学時代の実績を考慮され、私学大会などで登板機会が何回かあったが、いずれも痛打を浴び、監督から外野手転向を言い渡され、球拾いをする。

6月にレギュラー組に昇格。

夏の甲子園に向けた大阪大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り。

打撃も買われての、投手兼外野手としての登録だった。

大阪大会において試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生桑田の公式戦先発デビューが急遽、決まる。

この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護、桑田は相手打線を散発2安打に抑え、完封する。

桑田の快進撃がそこから始まる。

1983年、大阪大会の決勝では当初の先発は田口だったが、田口が負傷で退場したため、急遽マウンドに桑田が上がり、相手打線を抑えてチームを甲子園出場に導く。

以降は、田口は調子が戻らず、桑田がエースに定着する。

夏の甲子園では、1年生で背番号「11」ながら同校の事実上のエースとして出場。

1回戦の所沢商業高校戦で夏の甲子園デビュー。

2回戦の中津工業高校戦を三安打完封、初本塁打。

水野雄仁を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「やまびこ打線」の池田高校を準決勝で7-0と完封。

決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。

この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験する。

以後、PLの黄金時代(1983年夏-1987年夏)を迎えることとなる。

1984年の2年生での春のセンバツ、夏の甲子園はいずれも決勝で敗れ準優勝。

1985年、3年生の春のセンバツはベスト4、夏の甲子園は決勝戦で宇部商業高校を下し優勝。

高校野球激戦区の大阪から甲子園に出場可能な5回全てに出場。

そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という記録を清原とともに打ち立てる。

打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原に次ぐ歴代2位の6本。

高校通算25本塁打。

1985年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受け入団。

1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。

6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。

このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。

また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。

翌1988年には、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手に抜擢された。

1989年からは監督の藤田元司独特の先発理論にもとづき斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。

2年連続で開幕投手に指名された1989年は開幕から負けなしの5連勝スタート。

自己最多の17勝をマークした。

近鉄バファローズとの日本シリーズは、第2戦こそ敗戦投手になったが、第6戦に勝利投手になってチームの日本一に貢献した。

1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。

シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出される。

10.8決戦で、7回から救援登板、9回までを無失点に抑えて胴上げ投手となる。

1994年の日本シリーズでは、第1戦で序盤に打ち崩された後は、第3戦で終盤の救援登板でセーブをあげ、第5戦で先発登板して完投勝利をあげ、1勝1敗1セーブであった。

1995年5月24日、阪神タイガース戦の3回表において、湯舟敏郎の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に右肘を強打、その後も6回途中に降板するまで遜色無い投球を続けていたが、後の検査で側副靭帯断裂の重傷を負っていたことが判明。

治療のため、自身の左手首から健全な靭帯を移植する手術(いわゆるトミー・ジョン手術)を受けることを選択し渡米。

1995年シーズン残りと1996年を棒に振り、1997年4月6日の試合で661日ぶりに復帰。

復帰した同年は球数制限があったこともあり完投は無かったが2年ぶりに規定投球回をクリアし勝ち星も10勝を挙げた。

1998年には16勝を挙げ、復帰後初完封を含む7完投をマークした。

1999年は7勝9敗防御率4.23の成績に終わる。リリーフとしては9試合に登板し1勝0敗5セーブ防御率0.00の好成績を挙げた。

2000年は開幕ローテーションに入っていたが前年以上に不振の投球が目立ち6月半ばには先発から外され先発としては10試合3勝4敗防御率3.82の成績で終わる。

チームの先発投手が豊富になったこともあり残りのシーズンはリリーフ登板のみに終わる。

チームは4年ぶりにリーグ優勝を果たし、自身としては1994年以来の日本シリーズとなったが出番は大差を付けられた試合の敗戦処理的な登板に終わった。

2001年も開幕6戦目に先発登板したが復調の兆しが見えず以降は先発の谷間と中継ぎ登板で、4勝5敗の成績で終わった。

16勝を挙げた1998年から2001年までの4年間はいずれも防御率4点台だった。

そして共に巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一などのベテラン勢が引退、長嶋も監督を勇退した。

2002年からは長嶋に代わって原辰徳が巨人の監督に就任した。

桑田は前年オフに引退を決意していたが、原から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ、現役を続行。

この年は古武術を応用したトレーニング、投球フォームを取り入れたのが功を奏し4年ぶりの二桁勝利を果たす。

12勝6敗、防御率2.22の成績で15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献した。

規定投球回に到達しての防御率2点台は1994年以来8年ぶりだった。

西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦に先発。

桑田は大量援護にも恵まれ7回1失点と好投し、日本シリーズでは1994年の第5戦以来の勝利投手となる。

チームはストレートの4連勝で日本一に輝いた。

2003年には足首を捻挫。前年のような投球ができず5勝3敗、防御率5.93と前年より不安定な成績となった。

2004年は3勝5敗、防御率6.47の成績に終わり、前年とほぼ変わらない登板数でシーズンを終える。

2005年は12試合に先発し防御率7.14、0勝7敗に終わる。

2006年4月13日、東京ドームでの広島戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げる。

しかし、この試合で走塁中に右足首を再び捻挫してしまい、同27日の広島市民球場での広島戦では3回途中6失点KOされ敗戦投手となった。

この試合が1軍での最後の登板となった。

その2日後に登録抹消された。

現役を引退するのか、他球団で現役を続行するのか、動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグに挑戦することを表明、結局『引退試合』は『お別れ会』としてファン感謝デーで行われることとなった。

21年間在籍した巨人に別れを告げた。

2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表された。

日本人のパイレーツとの契約は、マイナーを含め第1号となった。

2007年の春季キャンプに招待選手として参加、キャンプ終盤まで途中のマイナー合流を命じられることはなく、開幕メジャー入りを目指していた。

3月26日、トロント・ブルージェイズとのオープン戦で登板した際、センター前ヒットを打たれ三塁ベースカバーに入る際に球審のウォーリー・ベルと激突し、右足首の靭帯断裂という怪我に見舞われた。

審判3人制だったために、ベル球審は三塁での判定をするため三塁に向かって走っており、桑田と交錯することとなった。

当面は怪我からの回復・リハビリに努めることを余儀なくされた。

パイレーツは桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで、3Aの故障者リストに入りリハビリを後押した。

6月2日に3Aでの公式戦初登板を果たした。

復帰してからのマイナーにおける投球はいずれも順調な回復ぶりを示すものとなり、ピッツバーグの中継ぎ陣が壊滅状態であったというチーム事情も手伝い、6月9日にメジャー昇格、6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たした。

39歳70日でのメジャーデビューは日本人選手では史上1位、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ記録となった。

しかしながら、日本時代にも指摘されていた球威の衰えに加え、桑田最大の武器であるコントロールも精彩を欠き打ち込まれる場面が増え、19試合に登板し0勝1敗、防御率9.43と振るわず、1勝も上げないまま8月14日にピッツバーグより戦力外通告を受けた。

退団時は「何も悔いはない」「メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい」と清々しい表情で語るなど引退を示唆。

引退後2009年1月28日、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格。

修士論文の題目は「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」。

本作で最優秀論文賞を受賞。

2013年1月下旬から、東京大学の硬式野球部で特別コーチを務め、2014年3月には、硬式野球部の特別コーチを務める東京大学で、大学院総合文化研究科の大学院研究生に合格。

同年4月から、コーチ職や従来の活動を続けながら、同研究科で投手・野手の動作の研究を行った。

2019年1月12日、PL学園硬式野球部OB会長に就任。同年2月22日、スポーツ庁参与に就任。

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