泣いて生まれ、泣いて死ぬ。じゃあ生きている間は笑おうじゃないか。~アニマル浜口(濱口平吾)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■アニマル浜口(濱口平吾)名言集

人と出会い、書物や風景と出合い、人間は変わる。言葉は力を持っていて最後はよりどころになる。

目上の人を敬い、目下の人を助ける気持ちがなくて、どうして人は強くなることができようか。

大きな声を出すと、内面から人生で積み重ねてきたことが正直に出る。だから、悪事を働くときは声が小さく沈み、自分に恥じないときは大声となる。

試合は絶対に勝たなければならない。勝つイメージを持ち続けろ。

戦いに敗れたとき、何かの壁にぶちあたったとき、まずは初心に戻ることだ。「内省自戒」し、原点に戻る。成長を遂げ、地位を築いてきた人間にとって、それはなかなかできないことかもしれない。しかし、己の失敗を認め、改革を行う勇気を持って、自らの原点に返れ。

夢を叶えるにはエネルギーがないと!吠えるのも一策。

不安を感じる、恐怖におののく。それは弱いからではない。勝負の厳しさ、何が起こるかわからない戦いの怖さを知っている選手だからこそ、試合前に不安と恐怖を抱く。同じことが繊細さにもいえる。大胆に、小さなことは考えず、ドンと構えていることがいいわけではない。ほんの些細なこと、人から見たらどうでもいいようなことにも気を配る繊細さ。臆病なぐらい、何事も心配し、入念に準備することが肝心だ。野獣と化すのは、試合開始のホイッスルが鳴ってからでいい。

品格もいいけど、これからは野生も必要!

子供より努力しない親。生徒より努力しない先生。社員より努力しない社長や役員。国民より努力しない政治家。そういう者たちが多くなっているからこそ、今日の世の中はおかしくなっているんだ。どんな状況でも、決して自分のことだけを守ろうとせず、逃げ出さず、堂々と立ち向かう。そして、自分より年下だろうが、地位が低かろうが、相手のことを一番に考えながら、思いやりを持って接する。そんな指導者の後ろ姿を見て、下の者はついてくる。

困難を乗り越えられれば夢がつかめる。

若者よ、後味の悪いことはするな!虚しさ、後ろめたさの残るようなことはするな! 自分に嘘をつくな! 正直になれ! もっと正々堂々と生きろ! それには、まず自分の人生の目標を明確にし、一本に絞ることだ。そして、その目標を達成するためにすべてを投げうって、全身全霊を傾け、勝負しろ。一切の困難を乗り超えろ。勝負をかけた世界なら、いじめを受けても当然だ。それでも、絶対に逃げるな。我慢して、我慢して、我慢して、そしてすべてを乗り越え、あらゆるものを力に変えていけ。

燃えられるものを早く見つけて、変えていく努力をすると、運命って変わってくるもんです。

人生、前にも行けず、後に退くこともできない、ニッチもサッチもいけないことはある。それでも、勝負すると決めたら、逃げ出したりできないように、自ら退路を断ってしまうことだ。誰にも頼らず、自分の力で立ち向かえ。失敗しても、挫けても、何度でも立ち上がり、前を見て突き進め。そうしたら、夢は必ず叶う。

減量して、もう多少は食べても大丈夫だというときがきた。俺は茶碗に半分くらいよそったメシを、一口でほおばった。涙が出るほどうまかった。

近頃では、親が子供を叱り飛ばすということがなくなっているが、何も難しいことではないと思う。親が子供のことを大切に考え、慈しみ、愛情を持って、心血を注いで日々接すればいい。家族の団欒、何でも一緒に話し合う時間さえあればいいんだ。 大切なことは、やさしさだけではなく、厳しさを使い分けることだ。

子供たちは、一緒になって泣いてくれる両親や先生を求めている。子供たちは、両親や先生と一緒になって泣けることを求めている。涙は心の汗だ。涙は明日またがんばるためのパワーの源だ。

俺は最近つくづく人間は生かされていると感じるようになってきた。大自然や先人、両親をはじめとするご先祖様によって生かされ、導かれ、愛され、助けられ、許されている。だからこそ、人間は喜びと感謝の気持ちを持たなければならない。親はそのことを子供に教えてやってほしい。遠い向こうのほうに、明かりをちょっとだけ灯してやるように。それだけで、世の中はきっと変わってくるに違いない。

高い山を登っていくと、ある程度、道の頂上になってまた迷う。それでまた、新しい道に出会って、それでまた、鍛錬、修行する。その繰り返し。どんなに凄い選手でも、どんなに練習やっても、やっぱり不安、理由の無い不安というものが襲ってくる。

近頃急増する、死に急ぐ若者たちに、俺は敢えて言いたい。「自殺なんて逃げだ」ご先祖、ご両親に産んでいただいたこと。この世のあらゆるものによって、今、こうして生かしてもらっていること。そうしたことに心から感謝し、人生の意義を考えろ。そうすれば、命に対する哀惜の念がわいてきて、命の尊さが必ずや実感できる。毎日ダラダラと過ごさず、人生に夢を持つこと。 希望を抱くこと。目標を設定することだ。達成したいこと、残していきたいものがあれば、何があろうと、どんなことが起きようと、生き続けなければならないという気持ちになる。「ナニクソ、死んでたまるか」発奮力が生まれてくる。それこそが、人間の生命力だ。

大地に向かって立ち小便をするな。ツバを吐くな。

人間っていうのは、のたうち回って、苦しみぬいて、何かを、悟りを、ぶち破って壁を行く。苦しみぬかなきゃいかん。苦しんで苦しんで、のたうち回って、それでハッと、何かがわかる。高い山を登っていくとある程度、道の頂上になってまた迷う。それでまた新しい道に出会って、それでまた、鍛錬、修行する。その繰り返し。どんなに凄い選手でもどんなに練習やってもやっぱり不安、理由の無い不安というものが襲ってくる。恐怖感というものは。腹を決めた時、そこで本当の度胸が生まれる。闘いをやめれば負ける。持続は勝つ。気合だ!

死にものぐるい、命懸けでやれば人間どんなことだって、できないことなんてないんだ。

恩を忘れたら、人間おしまいだ。自分が育ててもらった恩には、必ず報いなければならない。そして、精いっぱい努力して、恩は返さなければならない。世の中は、歴史は、そうやって次々と受け継がれながら、進化、創造してきた。俺はそう思う。だからこそ、俺たちの時代で止めるわけにはいかない。

空気がなかったら生きていけないじゃないか。太陽エネルギーがあるから生きていけるんだ。

気合いと笑いのコラボレーションで一切の困難を乗り越えられる。

生きぬいて、生きぬいて、生きぬいていきます!

負けることは恥ずかしいことじゃない。立ち上がれないことが恥ずべきこと。

世界一のバカな親父と思われてもいい。

どうせ人間は泣いて生まれ、泣いて死ぬ。じゃあ生きている間は笑おうじゃないか。

■アニマル浜口(濱口平吾)とは?

アニマル浜口(濱口平吾)。

元プロレスラー、ボディビル指導者。

ボディビルダー出身で国際プロレスや新日本プロレスで活躍し、闘将のニックネームで呼ばれた。

愛称は「浜さん」。

女子レスリング選手の浜口京子は長女。

島根県浜田市出身。

父親が事業に失敗し、9人兄弟を抱える家族の生活が困窮したため、小学5年生時(1958年)、母親と妹と一緒に島根県浜田市から親戚の住む大阪府堺市へ移る。

中学2年生時に単身で故郷の長兄宅に戻り、牛乳配達のアルバイトをしながら学校に通っていたが、母親の勧めで再び大阪に移り中学を卒業、家計を助けるため高校進学を断念する。

名古屋市、東京、横浜市と工事現場を転々としたが、16歳時(1963年)に大阪へ戻って製鋼所へ就職し、その間に重機操縦士免許を取得する。

1964年に、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。

同年8月にボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。

浜口には格闘技の経験がなく、身長も180cm未満でレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。

またテクニシャンで知られる同門の寺西勇や井上の動きを見習い、頭脳的(ときに狡猾)なプレーを自らのものとする。

1970年にはリングネームをアニマル浜口に改める。

1976年に2度目の海外修行に出発。カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングではリッパー・コリンズをマネージャーに迎え、ミスター・ヒトと組んでインターナショナル・タッグ王座を獲得。

プエルトリコのWWCではゴードン・ネルソンをパートナーに、アントニオ・ロッカ&ミゲル・ペレスから北米タッグ王座を奪取した。

国際プロレスの中心選手として活躍した。

1979年8月26日のプロレス夢のオールスター戦では、後の盟友長州力とコンビを結成し全日本プロレスの極道コンビ(グレート小鹿&大熊元司)と対戦した。

1981年10月に新日本プロレスとの全軍対抗戦に出場、そのまま木村・寺西と共に「国際軍団」を組み新日に参戦する。

国際時代とは一転、ヒールとして新日ファンからの憎悪を買った。なかでもアントニオ猪木1人と旧国際軍団3人(ラッシャー木村・寺西勇・アニマル浜口)の1対3変則マッチは今でも当時を知るプロレスファンの語り草になっている。

その後、1983年には国際軍団から離脱、長州力を中心とする維新軍に合流して新日正規軍と対戦、同軍の副将格、そして長州の参謀として大活躍した。

なおこのときに始まる長州との交流は立場を違えてからも続き、浜口の引退時、長州は陰で声を上げて泣いたという。

1984年に突如、長州力・マサ斎藤らとジャパンプロレスを結成し全日本プロレスに参戦する。

1987年にジャパンプロレス分裂→長州らの新日復帰に合わせ、現役を引退。

引退後は アニマル浜口レスリング道場を東京都浅草に開設。

日本有数のプロレスラー養成施設。

指導者となる傍ら、自らも一から体を作りあげて、ボディビルの大会(ミスター東京・シニア部門)に出場し優勝した。

出場するにあたり、100kg以上の体重を70kgまで落とした。

ジムからは小島聡、大谷晋二郎、大森隆男、小原道由、SUWA、本間朋晃、TAJIRI、高橋奈苗らを送り出した。

また、長女の浜口京子をレスリングの世界チャンピオンに育て上げる名コーチとして注目を集めた。

現在のジムは長男の浜口剛史がトレーナーとして指導に入っている。

2004年アテネオリンピックにおける「気合だー!!」という言葉は注目を集めた。浜口京子は銅メダルを獲得。

2008年に行われた北京オリンピックではアテネ同様に家族総出で現地に応援に駆けつけ、娘のオリンピック連続メダル獲得に大声で喜ぶ姿が世界各国のテレビで放映されただけでなく、地元の新聞の紙面をも飾った。

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