毒を盛られたって栄養にする!~原辰徳(読売巨人ジャイアンツ)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■原辰徳(読売巨人ジャイアンツ)名言集

組織の和というのは、競争原理が働く実力主義でないと保てないんです。レギュラーを獲得するのに遠慮なんかしていられません。

私自身ではチームを作る上で一番大切に思っているのは実力至上主義。力のある人がレギュラーになり、あるいはベンチに入り、あるいは先発ローテーションに入る。そこをしっかり守りさえすればチームの和は保てる。

日本の野球とメジャーリーグと決定的に違うのは連戦です。メジャーは9連戦とか10連戦とかが普通にあるけど、日本の場合は6連戦が基本。だから逆に効率的に投手を回そうとすると工夫が必要になってくる。ただ単純に5人で回せばいいってわけにはいかない。メジャーのいい部分と日本的な部分をうまく融合させて、いかに日本のスタイルで効率的な形を作れるか。それは打線の編成でも同じです。ただ、そのためにはやっぱり発想の転換っていうのは、これからもっともっと大事になってくると思います。

怖くない。批判されることは、僕にとってはむしろ誇り!

心に刻むことは、必ずペナントレースからいざ日本シリーズを戦うときになったらエネルギーになるはずです。だから僕はあえて『惨敗』という言葉は伝えました、2月1日にね。あえて伝えた。そうして必ずそのときになったら、僕の言葉がチームを躍動させるエネルギーになるはずです。

1軍を下支えするファームの存在、そのファームとの連携はチームを強くするために絶対に必要なこと。

まぁ、父からはね、その、リーダー論を学ぶような余裕をまったく持たせてもらえなかったですからだから、「リーダーたるものは‥‥」みたいな教育はまったく受けてないですね。ただ、プロ野球選手としてどうあるべきか、というようなことは、最低限、教えられましたけどね。たとえば、「‥‥辰徳」と。「プロ野球に入るんだな、お前」と。「自分も入りたかったんだぞ」と。「辰徳、プロ野球っていうのはな、毒を盛られたって、死ぬわけにいかないぞ」と。「毒を盛られたって栄養にするくらいの気持ちじゃなきゃ勝てないぞ」とか。

小さい頃、野球選手になりたい、ジャイアンツに入りたい。その夢を持って頑張りました。そして今日、その夢は終わります。しかし、私の夢には続きがあります。その言葉を約束して、今日、引退します。

結果は、出た瞬間に過去のもの。僕の宝物は目標に向かうプロセス。

一番最初に思ったのは、「のびのびと、そして、はつらつと 野球をしてもらいたい」ということでした。で、これって、もうなんか、野球少年に言うような言葉じゃないですか。でも、それがね、本心なんです。もうストレートに、プロ野球選手であろうがアマチュアであろうが、やっぱりその気持ちを持って、野球をやることがいちばん大事だと。ここ数年、いろんなスポーツにおいて、ちょっと嫌なニュースが多かったですよね。まぁ、指導者の問題だとか、内部告発だとか‥‥。そういうものが、やっぱり自分の中で悲しかった。で、やっぱり、どんなスポーツでも選手たちには、「とにかくのびのびと、そして、はつらつと」やってもらいたいと思った。プロ野球も同じです。のびのびとはつらつと野球をやることについては、野球少年もプロ野球選手もまったく変わりがないと思うんです。

勝ったら、素直に学べます。学ぶものが、すごくあります。あるけれども、勝ってしまった嬉しさでその学び取るべきものをすーっと通り過ぎるケースはありますね。

王さんの強さというのは、任せた人間に対する信頼の強さなんです。仮に自分の意見があったとしても、一旦、誰かに任せたなら、「もう100パーセント、君に任せた」と。その強さはすごいなと思いました。とかく、プロ野球のOBの人たちというのは、後進がなにかを成し遂げたときに、「あれは俺がそうさせたんだよ」みたいなことを言う人が多いんですが、王さんは一切そういうことを言わない。そこは、王さんに教わりましたね。

目標の定まった人というのは、波風があったとしてもブレない。

何事も時間厳守。公式の場や移動時にはスーツ着用し、ヒゲを生やさないというドレスコード。そういった先輩たちが培い、守ってきたものを実践し、次の世代へ教えていくということです。

消極的な成功よりも積極的な失敗を。

オレの中では自分の考えを100%反映させた用兵というのはある。でも、状況の中で選手やスタッフとスクラムを組んで気遣いをしていれば、なんとなく最初の考えとは違うと分かることがあるんだ。その時は即座に改める。その気持ちを常に持っていれば、いつも組織を新鮮に見ていられるし、逆に組織が成長していく過程も非常にわかりやすくなる。

手遅れは最大の愚策。

いままではね、プラスだけを求めていたところがあります。追い風だけを集めて、マイナスなんてとんでもない、というようなね。でも、いま思うのは、「プラスもマイナスもある」と。「これが勝負の世界だ」と。「足し算もあれば引き算もある」と。しかし、かならず、「トータルでプラスにするんだ」というのがね、いままでにない自分の姿じゃないかなぁ、と。

日本人の受けた教育や日本人の持っている精神はどこに行っても通用することだと思う。礼儀であったり、謙虚さであったり、あるいは想像力豊かな企画ができる点でも。そういうものを大いに伸ばしていってほしい。われわれの小さいころは「ものづくり日本」という言葉があったが、今は消えつつある。海外でものづくりをする時代になってきている。しかしそこを動かしているリーダーの人たちはやはり日本人の方が多い。そういう意味でもどこかでリーダー意識を持ちつつ、謙虚に、そして日本人であることに誇りを持って世界に君臨してほしい。

最下位ということは、これ以下はないということ。逆説的に言えば、まだ前半戦。のたうち回るようなことはない。

プレッシャーというのは、たしかにあって、ぼくもこれまでいろんな種類のプレッシャーを経験してきたと思います。しかし、プレッシャーを受けるというのは、考えてみるとすごく幸せなことだと気づくんですね。

人生に近道はないんです。我々のやり方が近道なのか、若者のやり方が近道なのかはわからないけれど、確実に時代は変わっている。

自分自身の決断をいかに信じるか。勝負の世界って良い決断をしても、良い結果が出るかってこれまた難しい。ただし、そういう風に自分が思えて決断するか。

野球が楽しい!心底からそう実感できるのは勝ったときです。ただ、個々のレベルでの活躍はその場の喜びで終わる。でもチームのために闘って勝てば、自分が成長し、豊かになる深い喜びを体感できます。勝利に貢献できたときの「楽しさ」はそれほど格別なんです。

勝負に近道なし、勝負に失望なし、勝負に待ったなし。

イチローを使い続けて負けても悔いはないが、イチローを使わずして敗れたときには悔いが残る。

みんなすごい。すごいサムライがそろって世界のつわものと戦い、堂々と勝った。目的は1つでしたから。1カ月以上経って、チームがまとまった、団結し進化した。重い試合で、イチローのセンター前というのは生涯忘れないでしょう。

個人軍はダメだ、巨人軍だ。

正々堂々と世界の強者と戦って勝ち抜くことができた。覚悟と潔さを持って「日本力」を見せ付けた。

皆さんに感謝。私の力は数%ですから。

■原辰徳(読売巨人ジャイアンツ)とは?

原辰徳。

1958年福岡県大牟田市生まれ、神奈川県厚木市、相模原市育ち。

幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、市内にある東洋高圧(現・三井化学)大牟田の社宅に住んでいた。

私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。

小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居。

厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校に在籍していたが、その後相模原市に再転居したため、厚木を離れた。

相模原転居後は相模原市立上鶴間中学校に転校して在籍した。

1974年、東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。

夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。

この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末に高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。

地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。

高校通算本塁打は43本。

その後東海大学政治経済学部経済学科に進学。

遠藤一彦は先輩、市川和正と津末は同級生、高野光は後輩にあたる。

1年生秋のリーグ戦で初本塁打を打ったが、打率.267で、ベストテンには入れなかった。

首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。

打撃三冠王を2度達成する(2年生秋・4年生春)。

リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学の江川卓と対戦。

4打数2安打1本塁打を記録するものの同年の全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。

3年生時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年生の岡田彰布と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。

この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。

大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。

1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。

1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツ新監督の藤田元司が4球団(巨人、広島、大洋、日本ハム)競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。

1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科を卒業する。

1981年4月4日、開幕戦に6番・二塁手で先発出場。

プロ初打席は中日ドラゴンズ・三沢淳の前にセカンドフライに倒れるも、代わった牛島和彦からプロ初安打を記録。

翌日には小松辰雄からプロ初本塁打を放ち、その17日後に行われた対大洋ホエールズ戦では、遠藤一彦から自身初のサヨナラ本塁打も放った。

試合終了後、興奮した大量のファンが乱入した。

シーズン当初はチームのポジション事情により二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により、アマチュア時代からのポジションである三塁に収まる。

空いた二塁には篠塚利夫が入り、中畑は一塁で復帰し、内野のレギュラー陣が固まる。

シーズン後半には疲労から成績を落としてしまったが、最終的には打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、新人王を獲得した。

1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。

本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位であった。

1983年は初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれた。

巨人における3割30本塁打100打点の記録達成は、青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次いで球団史上4人目だった。

1986年、前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、9月24日の対広島25回戦で津田恒実の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。

1987年、1988年は2年連続で3割30本塁打を記録。

特に1988年は本拠地が東京ドームに変わりチーム本塁打が激減するなか最後までホームラン王争いに加わった。

その後1996年に松井秀喜が38本塁打を記録するまでチーム内で30本以上ホームランを打つ選手は現れなかった。

1989年、監督に就任した藤田元司の説得で左翼手にコンバートされる。

4月8日、開幕戦のヤクルトスワローズ戦にて尾花高夫からNPBにおける平成第1号かつ自身通算250号となる本塁打を放つ。

同年、新人時代から9年連続20本塁打以上のプロ野球新記録を達成した。

近鉄バファローズとの日本シリーズでは、開幕から18打席連続無安打と極度に不振に陥る。

東京ドームで迎えた第5戦、近鉄・吉井理人は原の前を打つ4番打者・ウォーレン・クロマティを敬遠する満塁策をとり、不振の原との勝負をする作戦を選ぶ。

しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を放ち、溜飲を下げた。

ちなみに、原はこのシリーズは不調にあえぎ、わずか2安打に終わったが、その2安打が第5戦の満塁弾、第7戦の2ランといずれも本塁打であり、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広を上回る6打点を記録している。

1990年は開幕戦で脇腹を痛め戦線離脱したが、最終的には打率3割を達成し、チームの2年連続リーグ優勝に貢献した。

レギュラーシーズン127試合目となるナゴヤ球場での中日戦において3本塁打を放ち、10年連続20本塁打を達成。

翌1991年には、入団以来11年連続20本塁打の日本記録更新と年間犠牲フライのリーグ新記録を達成し、2年連続ベストナインに選出される。

1992年、一塁手にコンバート。

入団以来12年連続20本塁打の日本記録を更新し、この年のオフ、駒田、斎藤雅樹とともに、歴代の巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤーとなった。

1993年長嶋茂雄が監督に就任すると、三塁手に復帰。5月2日には4番出場が通算1000試合に到達した。

1994年 左脚のアキレス腱を部分断裂し開幕を二軍で迎え5月には1軍復帰を予定していたが背筋痛で復帰が延期された、一軍初出場は開幕から53試合目6月14日の阪神戦だった。

7番打者で先発出場しドラフト1位ルーキーで前月の月間MVP・藪恵市から本塁打を放ち意地をみせた。

2年連続で規定打席未達ながら夏場に3打席連続本塁打を記録するなどの活躍を見せ入団以来14年連続二桁本塁打を達成。

チームは10.8決戦を制して4年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズで原は欠場の落合に代わり四番・一塁手で出場。

第2戦で西武ライオンズ・工藤公康から巨人の同試合唯一の得点となる適時打を放ち日本一達成に貢献した。

1995年シーズンを最後に現役引退した。

他球団からの誘いを断っての決断であった。

1998年10月14日、巨人の一軍野手総合コーチに就任しプロ野球界復帰。

2000年には、長嶋茂雄監督の元で一軍ヘッドコーチに昇格。

2001年シーズンオフの10月11日、勇退した長嶋の後任として巨人の監督に正式就任。

1年目シーズンとなった2002年のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。

当時オーナーだった渡邉恒雄に打診して、現役時代から親交があり、アメリカにコーチ留学していた鹿取義隆をヘッドコーチとして招聘した。

2002年は、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から離脱していた河原純一の抑え転向、清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。

日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初でシリーズとして1990年の西武以来12年ぶりとなる無傷のストレート4連勝で、「監督初年度での日本一」を達成した。

しかし翌2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜がFA権を行使しMLBへ移籍したことや、相次ぐ主力選手の怪我による戦線離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこと(チーム防御率は3.04から4.43に低迷)、更には阪神の快進撃などもあり3位に終わる。

当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・三山秀昭との確執もあり、同年9月26日監督を辞任することを表明し、特別顧問に転任した。

2005年10月5日、自身の後任監督である堀内恒夫が成績不振により引責辞任。

その後任として監督に再任した。

2006年、シーズン当初は開幕ダッシュに成功し5月まで首位をキープしていたが、小久保裕紀、高橋由伸、阿部慎之助など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに8連敗、10連敗、9連敗を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。

最終的には2年連続Bクラスとなる4位で終わる。

2007年、故障で出遅れた上原浩治を「今季のみ限定」で抑えに転向させたり、それまでクリーンナップを務めていた高橋由伸を1番打者に固定するなど、型破りな選手起用が成功しチームを5年ぶりのリーグ優勝へと導いた。

しかし、この年から導入されたセ・リーグのクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃した。

2008年は、一時は首位・阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるも、シーズン終盤の8月から9月にかけて12連勝含む26戦で21勝するなどし猛追、そのまま10月8日に阪神を逆転して首位に立ち、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成する。

クライマックスシリーズ2ndステージでは、中日を相手にアドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分の成績を残し、2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。

日本シリーズではパ・リーグの覇者・埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。

同年10月28日、日本野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。

背番号は83。

2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。

2009年9月23日にV9(1965年 – 1973年)以来のリーグ3連覇を果たした。クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗で勝利。

2年連続日本シリーズ出場となった。

日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。

監督として2度目の日本一を達成する。

11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。

11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。

監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を達成した。

2009年12月6日にスイス・ローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された。

2012年は独走でリーグ優勝を決めた。

また、クライマックスシリーズではファイナルステージにおいて中日に3連敗と追い込まれながらもその後3連勝して日本シリーズへの出場権を得た。

日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズを相手に4勝2敗と勝ち越して3年ぶりの日本一を達成した。

その後開催されたアジアシリーズでも優勝し、史上初の5冠を達成した。

その功績が認められ、阿部とともに自身3度目の正力松太郎賞を受賞した。

2016年に読売ジャイアンツの球団特別顧問に就任。

2016年12月、巨人OB会の幹事に就任。

2018年10月23日、高橋由伸の後任として自身3度目となる監督就任。

2019年からの3年契約。

同一チームにおける3度目の監督就任は球団史上初であり、他球団でも代理や代行を除けば天知俊一(中日)と吉田義男(阪神)の2人しか前例がない。

2019年7月30日、監督通算1000勝を達成。

2019年9月21日、監督として自身8度目、5年振りのリーグ優勝を決めた。

日本シリーズは福岡ソフトバンクホークスに4連敗で敗退した。

2020年9月11日、監督として通算1067勝を達成。巨人軍監督としての通算勝利数で川上哲治元監督を上回って、球団歴代1位になった。

2020年10月30日、球団史上38度目、監督として自身9度目となる2年連続のリーグ優勝を決めたが、日本シリーズは前年同様、福岡ソフトバンクホークスに4連敗を喫した。

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