いかなる時でも、言い訳をしない。~千代の富士(九重親方)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■千代の富士(九重親方)名言集

中学校の3年の夏に地元で大相撲の巡業があって、スカウトの免許を持っ た人から声をかけられたのがきっかけです。その巡業のとき、千代の山さんが先発で来ていて「身体の大きい子がいる」ということで家まで勧誘にきたのです。でも、最初は「相撲は嫌だ」って言って断ったのです。

まず話があって、東京行きが決まってから家族会議ですよ。親父は「もう中学校3年の男だから自分 で決めろ」と言ってくれました。お袋と姉は「そんな厳しくてきついところはやめて」と反対だったんですね。でも、東京に行ける、飛行機に乗れるのだから、と説得しました。なにしろ北海道に住んでいて札幌にも行ったことがない。せいぜい函館ですよ。

それは自分で「やる」と決めて東京に来たわけですから、しっかりやろうと思いました。朝早く起きて稽古をして、それから学校に行く。今ほど厳しくはな かったですが、義務教育で学業優先ですからね。 勉強もしなきゃいけないから、それは大変でした。

一日やそこらで苦手を克服できるものではない。

入門してすぐに親のありがたみを知りましたね。自分のことは、すべて自分でやる。そのうえで、先輩の洗濯をしたり食事の用意をしたり、いろいろやらなきゃいけない。福島町にいたころは、親や姉にやってもらっていたことを、すべて自分でやらなければいけない。

私は稽古場では、より厳しい状況を想定して稽古するようにしていた。

身長170cm、体重70kgが合格ラインでした。でも。今みたいに厳密じゃなくてね。身長は178cmくらいあったけど、体重は70kgなかった。それで1週間後に再検査があって、朝から目いっぱいご飯を食べていったのだけど、どうしても70kgま でいかない。体重計に乗ったら、やはり70までいかない。検査役の親方が、「1回降りて、もう一度乗れ」と言われて乗りなおすと、なんと70kgを越していた。親方の足も体重計に乗っているのですよ。それで合格でしたね。

相撲は興奮しすぎたら、ぜったいに勝てない競技と言える。

「とにかく相撲は人に聞いてやるものじゃない。みんな同じようなことをやるのだから、同じようなことをやっていてもダメだ」とは言われましたね。それと「部屋付きの親方から受けたアドバイスは聞きなさい」とは言われましたね。

今日いい稽古をしたからって明日強くなるわけじゃない。でも、その稽古は2年先、3年先に必ず報われる。自分を信じてやるしかない。大切なのは信念だよ。

どんなことがあっても辞められない、と思いましたよ。ケガは再三しましたが、その都度、「もうダメかな」とも思いましたが、心が弱いから番付けが落ちるのだ、と思っていました。ケガをして番付が落ちるのは仕方がないとは思っていましたけどね。

いま強くなる稽古と、三年先に強くなるための稽古の両方をしなくてはならない。

まあ、身体が小さかったからね。それくらい稽古しないと。くっついたら離れないという相撲ですから ね。それでも大きな相撲をとっていたね。やっぱり投げで勝つとうれしいのですよ。それも練習量が 増えた1つの理由でしたね。

誰も個性的で、よい相撲取りでしたね。そこへ割って入っていくのは大変でした。逆に、相撲を取るのも楽しみでしたね。

自分が相撲を取るわけですから、それができなかったら相撲に勝てないですね。人の相撲を見て研究するのも大切ですが、自分がどんな相撲を取るか、ということが重要ですね。自分の身体が、どれだけしっかり覚えた相撲をやっていくしかないのですよ。

左肩脱臼が千代の富士を変えた。

脱臼を直すには肩に筋肉をつけるしかない。

とにかく、北の湖関がいなければ、どんなに楽だろうかと思っていました。でも大きな壁があったからこそ、自分の相撲も伸びたのだと思いますよ。今の稀勢の里も白鵬がいなけりゃ、もっと早く横綱になれた、と思っているか もしれないけど、やはり努力することが大切ですよ。

横綱の名を汚さないよう、一生懸命頑張ります。

どっしり構えられてね。フワァっと立ってしまったのがいけなかった。それに、どんな形になっても負けるはずがない、と。負けたあとで大乃国が手を貸してくれたのだけども「自分で起きられるわ」と手を払ってしまった。腹立たしいというか、悔しくてね。苦い思い出ですよ。部屋に帰ってビデオを見たら「これは勝てる相撲じゃないな」と思いましたよ。負けた相撲はよく覚えています。「負けて覚える相撲かな」ですよ。

礼に始まり、礼に終わる。勝った喜びより、敗者を敬うことを重んじる。それが相撲道だ。

横綱として休むことはファンを裏切ることになるかもしれない。しかし、本当の裏切りは出場しても横綱らしさを見せられないことだ。

次の目標は、1001勝です。

自分が弱いんだから当たり前でしょ。横綱だろうが何だろうが勝てない相手がいれば、稽古して研究するのは当然。弱いから稽古する。どこがおかしいの。

20数年間、相撲を取ってきてね、「あれ、なんで肉離れするのだろう」なんてことが増えてきた。筋肉と筋肉とのぶつかり合いですからね。そういう自覚のないケガが増えてきた。そんな時、体力が落ちてきたのかな、引退かな、という考えがフッと頭をよぎる。一方で「引退はまだ早い」という考えもおこる。しかしあるとき「もう、これは、無理だな」と思った。ボロボロになるまで相撲を取るのも美学ですが、自分の考えで踏ん切りをつけることはできました。

頂上であって同時に崖っぷちなんだよ。

私が第58代横綱に昇進した時、師匠だった当時の九重親方の最初の言葉は、「おい、千代の富士。やめるときはスパッといこうな」だった。

貴花田との一番に敗れ、「ああこれで」と感じた。

皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…..体力の限界。気力も無くなり、引退することとなりました。

稽古の仕方が全然、違うよ。自分より強い人がいるんだろ?なんでその人のところへ行って胸を借りないの?強くなりたければ、自分より強い人と稽古するのが一番。そこへ行って最初は通用しないかもしれないけど、自分の課題もわかってくる。稽古を続けて少しでも通じるようになれば、それが自信になるんだ。それをやらないかぎり上には行けません。なんで、やらないのか、オレには不思議でしょうがないよ。

「あの世界にはったらいいんだぞ」と思わせるような相撲界にするにはどうすればいいか。魅力あるプロスポーツにするには何をすればいいか。常にわれわれはそのことを念頭に置いて、取り組んでいかなければならない。

プロはいかなる時でも、言い訳をしない。

流した汗はウソをつかない。

自信は自分でつけていきたい。

■千代の富士(九重親方)とは?

千代の富士。

北海道松前郡福島町で漁師を営む家に1955年に誕生。

子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。

特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。

中学一年生の時に盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉があまりにも厚いため、相撲の素質を見出し、病院長が若狭龍太郎に連絡した。

その連絡を受けた九重(千代の山)が直々に勧誘したが、自身は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。

それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。

本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所「千代の冨士」と名付けられた。

四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られており、九重からはそれだけの大器と見られていた。

上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。

相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。

土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。

そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6か月で中途退学して相撲に専念した。

小兵ながら気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、1974年11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。

異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「狼みたいだな」と言ったことから名付けられた。

1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第1号の新入幕を果たし、2日目には幕内初白星を元大関・大受から挙げるが、相撲の粗さが元で5勝10敗と負け越し。

その後は故障もあって幕下まで陥落し、昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号も当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼に先を越された。

人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節のかみ合わせが浅いという骨の形状から来る左肩の脱臼が顕在化する。

その頃の取り口は類い稀な運動神経を活かして力任せの強引な投げ技で相手を振り回すのを得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。

1977年10月29日に九重が死去したため、部屋は北の富士が継承した。

この頃から頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。

同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。

この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。

この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・旭國の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。

幕内に定着したと思われた1979年3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。

これは全治1年、手術すれば2年という重大なケガであり、「手術すれば半年は稽古ができない」「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と三重県四日市中央病院の藤井院長に勧められる。

この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。

当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという。

肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ、1980年3月場所から幕内上位に定着する。

横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。

同年9月場所には小結で幕内初の二ケタ勝利となる10勝5敗の成績を挙げた。

同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝した。

連勝は九日目輪島に敗れて止まったが11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。

1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃を見せる。

輪島を相手得意の左四つからの上手投げ、若乃花を外四つで寄り倒し、いずれも不利な体勢から2横綱を破るなど初日から14連勝を記録。

そして迎えた千秋楽、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。

本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、吊り出された時に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて作戦を立てており、それが見事決まって優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。

場所後に千代の富士の大関昇進が決定したが、千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達した。

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。

横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した。

この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。

一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。

1982年には3連覇を達成し初の年間最多勝を記録する。

千代の富士にとっての本格的な黄金時代は30代に入ってからで、両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。

この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。

1986年5月場所から1987年1月場所までは5連覇を達成した。

1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録するなど、他を寄せ付けない強さで昭和末期から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。

1989年2月に誕生したばかりの三女・愛がSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後4か月足らずで6月に死去してしまう。

自身や家族が受けた精神的ショックは計り知れず、師匠・九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われるほどだったという。

しかしその直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱北勝海を下して奇跡の優勝を果たした。

同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」授与が決定した。

この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。

翌9月29日に首相官邸において、内閣総理大臣・海部俊樹から賞が授与された。

1990年1月場所には優勝回数を3

0と大台に乗せた。

同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した。

しかし、同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。

さらに夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱が存在する中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。

1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。

翌場所も全休した。

復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦。

3月場所の休場を経て5月場所を出場した目的である貴花田と対戦するが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。

再燃する引退説をこの時は否定、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、現役時代で唯一なったとったりを受けて完敗。

この貴闘力戦の取組を最後に、その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見して現役引退を表明。

千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

1992年4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し九重部屋を継承。

現役にはいつも厳しい口調で辛口だったが、優しい一面もあった。

部屋では弟子との交換日記を欠かさず、赤ペンでアドバイスを送った。

2015年6月の定期検診で癌が見つかっていた。

2016年に入ってから癌が再発。

胃や肺などに転移しており、鹿児島県などで放射線治療などを受け続けていた。

2016年7月31日(日)17時11分、東京大学医学部附属病院にて膵臓癌のため死去。61歳没。

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