怠ける心を、追いやる。~山下泰裕名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■山下泰裕名言集

外国人と通訳なしで話して分かったのは、流暢に話せるかどうかはさておき、自分の口で話せば、相手との距離はグッと縮まるということ。

私はまだまだ未熟な人間です。金メダルなんて四半世紀も前のことで、今はただのオッサン。慢心せずに、もっともっと自分を磨いていきたい。

私の心の目を開いてくれたのは、自閉症の次男でした。私は外では柔道の指導に明け暮れていましたが、一歩家庭に入ると、家内が次男の子育てに奮闘していました。思いやり、理解し、共感し、支え合わなければ、一日だって生きていけないのです。強いだけでは全く通用しません。私は家内に誘われてボランティアに参加するようになり、ハンディキャップを背負った人たちの立場でものを考えることの大事さを教えられました。家内と次男がいなければ、私は自信過剰な、鼻持ちならない人間になっていたでしょう。

ハンディを背負った人々は自分の能力を卑下するのでなく、その人独自の花を咲かせたらいい。ハンディは一つの個性だと気づいたら、随分楽になる。

時間管理のポイントは「逆算」ですね。選手時代ならば、大事な大会に向けた準備を、まず手帳に書く。今なら、大事なプロジェクトの締め切りやプレゼンの日から逆算する。

世界で勝とうと思ったら、まわりの人の協力を得て、衆知を結集して戦う必要がある。いろいろな分野の優れた方々の知恵をいただくのです。

一生懸命努力したら、一度自分をリフレッシュさせてあげたり、リラックスさせてあげる。あるいは懸命に頑張っても、なかなか周囲が認めてくれない時は、自分で自分を褒めてあげる。小さなグラスビールでもいいから、きょう自分は頑張ったなと。そうやってまた、次の頑張りに繋がるようにご褒美を上手にあげないと、絶対に持たないと思う。

山登りに例えれば、山頂には自分の理想とする柔道があった。それを言葉で表現すれば「常に冷静で隙がなく、素晴らしい技の切れを持つ柔道家」といったところでしょうか。オリンピックだって、その理想に至る道程に過ぎなかった。だから、金メダルを取っても「まだまだだ!」と思っていた。

私は、中学2年生の時の作文に「僕の夢はオリンピックに出場し、メーンポールに日の丸を掲げ、君が代を聞くことだ」と書いています。そう書いた時に抱いた夢のイメージというのは、今も強烈に覚えているんですね。実際、オリンピックでの優勝を思い出す時に脳裏に浮かぶのは、ロサンゼルスで体験した現実の映像ではなく、それより10年以上も前に想像で思い描いたシーンの方なんです。そういう強烈な夢のイメージを持つと、頑張ろうと思わなくても、頑張れる。

生きていると、実にさまざまなことが起こります。順境も逆境も成功も失敗も栄光も挫折も、誰の人生にも起こりえます。その出来事に、どう向き合うかはその人次第、その人の受け止め方によって人生は大きく変わってきます。

どんなに柔道で頑張ってチャンピオンになったとしても人生のチャンピオンになれるかどうかは分からない。大事なのは頑張ったことを人生に生かすこと。

人は誰でも自分の頑張りを評価してもらいたいと思っている。短所よりも長所を見ることを大事にすると、まわりの人との関係はかなりいい方向に変わる。

世の中で起きることに、もともと色はない。成功であれ失敗であれ、起きたことにどんな色をつけるか。それは、受け止める人の心一つ。

「念じ続ければ必ず結果が出る」というのは私の実感。私は「やれる!」と信じました。誰よりも努力しました。一戦一戦に全力を尽くし、どんな厳しい状況に立たされても、持てる力のすべてを出し切ろうと練習を積みました。その結果、目標を達成しました。

日々の練習、試合を大切にしない者に「次」はやってこない。

僕には理想とする柔道があります。自分のいる位置はまだまだ低い。一歩でも二歩でもその理想に近づきたい。

理想の柔道の8割か8割5分しか達成できなかった。

重要なのは経験したことをどうとらえるか。よく「あの時の失敗が生きて、今の彼・彼女がある」などと他人を評論する人がいます。けれど、本当のところは「失敗が生きた」のではなく、その人が「失敗を生かした」ということではないでしょうか。同じ失敗をしても、生かせない人もいるはずです。

私が人生で何より望むのは、充実した毎日を送ることです。だから、「人間としての自分を磨く時間」「心身の健康のための時間」「家庭のための時間」の3つを確保することを意識しています。

仕事はいろいろな人が関わってやっていくもの。そこに信頼関係が結ばれていて一緒にやっていくのと、そうでないのとでは、仕事の進み具合が全然違う。信頼関係がない中で仕事をやるのは「いばらの道」。

一生懸命努力しても、苦しい練習をしても、必ずしもそれで優勝できるとかメダルがとれるとは限らない。ですが、はっきりしていることは、誰よりも厳しい練習をし、自分に勝たなければ絶対に勝利はないということです。優勝とは結果であり、努力しなければ成し遂げられないものです。

自信がない時は「なるようになれ!」と、迷いを断ち切り、ボーンとぶつかっていく。人生には、そんな開き直りも大事。

「キツい」のですが「辛い」と思った事はありません。

謙虚に他者から学び、常に自らを磨きつづける。目標には期限を決めて全力投入し、完全燃焼する。

現役の途中でもし一度でも振り返っていたら、登る力が弱まったかもしれないね。

頭の中にある夢のイメージがリアルだと、それが現実なのか想像なのか、自分でも分からなくなってしまうのでしょう。夢に近づくためにする努力が、苦労ではなく、当たり前のことに感じられる。自分の内側から無限のエネルギーがわいてくるあの感覚は、多くの人に知ってほしいですね。

いくつになっても、過去どうだったかではなく、今どうなのかが大事だと思うのね。僕自身、つねに前を向いて生きてきたことが、今の自分につながっていると思うんだ。

信頼関係さえあれば、自分と異なった意見も認めることができます。信頼関係を築いておけば、かなりの人はこちらの意見を聞いてくれます。あなたが本来果たすべき役割は……と本音で話をしても、自分のためにあえて言ってくれたんだと感謝されます。いい関係さえあれば、きついことも言えるようになるし、逆に相手に感謝されます。私はそういうところを大事にしてきました。

出来事に喜びの色をつけるか、希望の色をつけるか、慢心の色をつけるか、不平不満か……。その選択肢は我々の側にあり、その色づけで人生は大きく変わります。だから前向きでありたい。

私の生き方そのものは、今も現役当時も変わりません。常に理想を掲げる。過去を振り返らず、未来を見つめて、今をひたむきに生きる。

リーダーにとって一番大事なのは、人としての器、魅力。要するに「この人と一緒に行動したい、夢を追いかけたい」と、人に思わせる何かがあるか。

様々な試合に勝ち、世界チャンピオンにもなった。でも、それは支えてくれる人が大勢いたから。それを当たり前と思わないで、恩を忘れずに謙虚でいた。素直に人の話を聞いた。そして、悪いことが起き悪いことが起きても「これぐらいで済んでよかった」と思ってきた。だから、道が開けたんだと思う。

人間は人と自分を比較して優越感を覚えたり、劣等感を抱いたりするもの。でも、自分独自の花を咲かせたらいいんだと気づいた時、喜々として努力するようになる。

肉離れくらいで、今までの努力を無にして堪るか。

僕は気の小さい人間。根気もないし怠け者。しかし人一倍の闘争心が怠ける心を追いやる。

頑張った自分を、自分で認める。他人は、なかなか認めてくれないものですから。

■山下泰裕とは?

山下泰裕。

熊本県山都町(旧上益城郡矢部町)生まれ。

実家は魚屋だった。

幼少期虚弱だったことから、祖父・鯛蔵からスパルタ教育を受ける。

しかし保育園入園頃には既に体格が大きく、4歳時点で身長122 cmもあり体重も20 kgを超え、わんぱく少年として喧嘩やいたずらに明け暮れるようになった。

小学校3年の1月に藤壺道場に入門し、柔道を始めた。

小学校6年生の時には熊本県の柔道大会で優勝し、名門・熊本市立藤園中学校に入学。

中学1年次には既に体重が100 kg近かった。

中学時代は監督の白石礼介の厳しい指導の下、組み手を左自然体に変えて、基本に忠実な柔道に取り組んだことでさらに力を付けた。

全国中学校柔道大会の団体戦には2年3年と出場して、ともにオール一本勝ちで藤園中学の優勝に大きく貢献し、「怪童出現」と一躍注目された。

高校進学に当たり、恩師の白石が新たに柔道部監督を務めることになった九州学院高校に進学する。

インターハイ重量級において、同大会史上初の1年生優勝を果たした。

2年生の時には7月の金鷲旗で10戦全勝してチームを優勝に導いた。

2学期から神奈川県の東海大相模高校に転校することとなった。

転校後、この年の全日本選手権で優勝した東海大学教員の佐藤宣践とその家族に公私両面で世話になり、稽古はほとんど東海大学で付けることによって、さらなる成長を果たした。

また、転校後間もない9月には、附属高校の生徒でありながら東海大学のヨーロッパ遠征メンバーの一員として加わり、現地での試合では13戦全勝を記録。

11月にはドイツとの親善試合にも出場して全勝した。

高校3年になる直前の3月には全日本選手権の関東予選に出場して、神奈川県警の諸井三義に内股で一本負けするものの、高校生ながら出場権を得た。

17歳で出場した1975年の全日本選手権では準決勝まで進出、3位入賞を果たした。

金鷲旗では11戦全勝して東海大相模の初優勝に貢献すると、インターハイ団体戦では8戦全勝して東海大相模を初優勝に導き、個人戦重量級でも6戦全勝して2年ぶり2度目の優勝を果たした。

10月には国体高校の部に出場して、8戦7勝1分けの成績で神奈川県の優勝に大きく貢献。

11月には全日本新人体重別選手権で優勝を果たした。

翌76年の1月には高校生にしてフランス国際を制した。

3月には全日本選手権の関東予選に出場して優勝し、同月、東海大相模高校を卒業。

4月には東海大学体育学部武道学科に進学。

10月には全日本学生大会の無差別級で史上初の1年生チャンピオンに。

12月にスペインのマドリードで開催された世界ジュニア選手権では、オール一本勝ちで優勝を飾った。

大学2年になると、全日本選手権の東京予選に出場してこれを制し、全日本選手権の本大会でも順調に勝ち上がって準決勝で高木長之助を小外刈の有効で下した。

決勝では前年のオリンピックで銅メダルを獲得した遠藤純男を相手に一進一退の攻防を繰り広げ、判定2-1ながらも19歳にして史上最年少優勝を果たし、「怪童」が「怪物」と呼ばれるようになった。

6月には全日本学生優勝大会で5戦全勝して東海大学の初優勝に大きく貢献。

7月には全日本体重別選手権で初優勝を果たし、世界選手権95 kg超級代表に選ばれた。

10月には国体成年の部で5戦5勝して神奈川県の優勝に大きく貢献した。

翌年2月にはグルジアのトビリシで開催されたソ連国際に出場して、95kg超級では予選でノビコフを注意で破ると、準決勝ではローザンヌ世界選手権2位のソ連のラマズ・ニチラーゼを合技で下し、決勝では予選に続いて対戦したノビコフを判定で破り優勝を果たすと、無差別級ではオール一本勝ちでの優勝を成し遂げて、2階級制覇を達成した。

大学3年になると、全日本選手権では3回戦の上村戦こそ2-1の微妙な内容での勝利だったが、その後は順調に勝ち上がり、決勝では高木を大外刈で破り2連覇を達成した。

6月には全日本学生優勝大会で6戦オール一本勝ちを成し遂げて東海大学の2連覇に大きく貢献した。

7月には全日本体重別選手権の決勝で上村から内股で効果を取って2連覇を達成。

9月には日本武道館訪欧武道団によるヨーロッパ遠征メンバーの一員として各地で試合を行い、ウィーン世界選手権軽重量級で優勝したフランスのジャン=リュック・ルージェと引き分けた以外の10戦は全て勝利した。

10月には全日本学生選手権95 kg超級で優勝すると、無差別級でも2年ぶり2度目の優勝を果たした。

さらに国体成年の部では5戦5勝して神奈川県の2連覇に大いに貢献。

11月にはブラジルのリオデジャネイロで開催された世界学生選手権の無差別級に出場してオール一本勝ちでの優勝を果たす。

翌年1月にはフランス国際に出場して決勝でチューリンを横四方固で破ったのをはじめ、6試合オール一本勝ちで優勝を果たした。

大学4年になると、全日本選手権では初戦から一本の山を築き、準決勝では高校時代からのライバルで筑波大学大学院在籍の松井勲を横四方固、決勝では遠藤を合技で破るなどして、全日本選手権では戦後初となるオール一本勝ちでの3連覇を果たした。

6月には全日本学生優勝大会で5戦オール一本勝ちを成し遂げて東海大学の3連覇に大きく貢献した。

9月には全日本体重別選手権の決勝で遠藤を合技で破り、世界選手権95 kg超級代表に選ばれた。

10月には全日本学生選手権95 kg超級で2連覇を達成。

続いてアメリカ国際柔道大会に出場して、95 kg超級、無差別級ともにオール一本勝ちで優勝した。

12月にはフランスのパリで開催された世界選手権で初優勝を果たした。

翌年1月には選抜団体で3戦全勝して東海大学の初優勝に貢献。

3月、東海大学を卒業。

1980年4月には東海大学大学院体育学研究科修士課程に進学した。

入学直後の全日本選手権では準決勝で松井勲に判定勝ちすると、決勝では遠藤純男を横四方固で破り4連覇を達成した。

しかしながら、5月24日には日本オリンピック委員会総会において、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議するためオリンピック大会不参加が最終的に選択された。

1981年4月には前年5月以来約11ヶ月ぶりの試合となる全日本選手権に出場して、5連覇を達成した。

6月には体重別を欠場するが世界選手権では95 kg超級と無差別の2階級で代表に選ばれた。

9月にはオランダのマーストリヒトで開催された世界選手権に出場して、準決勝で韓国の趙容徹を内股、決勝ではソ連のグリゴリー・ベリチェフを横四方固で破るなどオール一本勝ちで優勝を果たすと、無差別でも決勝でポーランドのヴォイチェフ・レシェコを送襟絞めで下すなど、95 kg超級、無差別級の総計10試合で相手にいかなるポイントも与えず全て一本勝ちして、2階級制覇を達成した。

10月には国体成年の部で6戦6勝して神奈川県の優勝に大いに貢献した。

11月には日本国際柔道大会に出場して、決勝で斉藤に注意で優勢勝ちを収め、優勝を果たした。

1982年4月の全日本選手権では6連覇を達成した。

5月には前年のマーストリヒト世界選手権での2階級制覇が評価されて、フランス・スポーツ・アカデミー賞のグランプリに選ばれた。

9月の体重別選手権では決勝で斉藤を注意で破り優勝した。

11月の嘉納杯無差別では準決勝で天理大学の正木嘉美を大外刈で下すと、決勝では斉藤を小外刈による有効で下して優勝。

続く団体戦でも全勝してチームの優勝に貢献した。

1983年の3月には大学院を修了して、4月からは東海大学体育学部の講師となった。

そして全日本選手権では準決勝で新日本製鐵の藤原敬生に豪快な大外刈で一本勝ちすると、決勝では斉藤に判定勝ちして7連覇を達成した。

7月の全日本体重別選手権では決勝で斉藤を指導で下して優勝を果たし、世界選手権95 kg超級代表に選ばれた。

10月にソ連のモスクワで開催された世界選手権では、準決勝で東ドイツのヘンリー・ストールを指導で下すと、決勝ではオランダのヴィリー・ヴィルヘルムを横四方固で破り、世界選手権3連覇を達成した。

1984年4月の全日本選手権では8連覇を達成した。

5月の体重別選手権は欠場したが、ロサンゼルスオリンピック無差別代表に選ばれた。

山下が唯一出場した、1984年8月のロサンゼルスオリンピックでは、2回戦で西ドイツのアルトゥール・シュナーベルと対戦した際、軸足の右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。

山下は左に組むため、右足・軸足の肉離れで大変に不利な状況に立たされた。

2回戦は送り襟絞めで勝利を収め、試合後控え室に引き返すまでの間、山下は肉離れを決して悟られまいと平然に振舞って普通に歩いたつもりが、誰にもわかってしまうほど明らかに足を引きずっていた。

山下が控え室に戻るなり、コーチ陣に慌てた表情で問い質され、自分の肉離れが全て悟られてしまったことに気が付いた。

山下は一旦は落ち込むが、次の試合時刻が迫ってくる中開き直り、“足を引きずってもいいから相手を見据えて胸を張っていけ”と自身に言い聞かせ準決勝に臨む。

準決勝の相手はフランスのデル・コロンボだった。

過去の対戦から組みし易い相手と山下は考えていたが、開始30秒で大外刈りによる効果を取られてしまう。

直後は動揺したものの直ぐに我に返り、激しく自身を鼓舞、守りに入ったコロンボを大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。

エジプトのモハメド・ラシュワンとの決勝戦。

冷静な山下はラシュワンの攻めに無意識に反応、ラシュワンが体勢を崩した瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固め。

一本を伝えるブザーが鳴った瞬間、山下は畳に両手を力強く突いて立ち上がり、涙でくしゃくしゃになった表情を隠そうともせずに喜びを表現した。

全て一本勝ちでの金メダル獲得である。

表彰台の中央に上ろうとする山下に、ラシュワンは山下の足を気遣って手を差し伸べ、友情の証として世界から評価された。

1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて国民栄誉賞を授与された。

1985年4月には最後となる全日本選手権に出場して、全日本選手権9連覇を達成した。

1977年10月の日ソ親善試合から1985年4月の全日本選手権優勝を最後に現役を引退するまで、約7年6ヶ月の間に203連勝を記録した。

また、同期間内に全日本選手権9連覇も達成。

1985年6月17日に28歳という若さで引退を決断した。

選手時代から全日本監督時代にかけての数々の海外遠征、そして留学経験などの様々な実績を買われ、2003年9月、国際柔道連盟の教育コーチング担当理事に就任する。

シドニーオリンピックでの篠原信一の銀メダル誤審問題により、国際試合での判定を厳密に審査する点においてシステムを見直す必要を感じ、2003年国際柔道連盟総会(大阪)教育・コーチング理事に立候補し、対立候補が無く当選。就任して改革に務めた。

2013年6月、新任で日本オリンピック委員会理事となり、アントラージュ専門部会長となる。

2016年1月より味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)のトップに就任することとなった。

2017年7月にはJOC常務理事となり、選手強化本部長に就任した。

2019年6月、JOC会長に就任。

同年7月多羅尾光睦東京都副知事とともに東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長に就任。

2019年10月には国内オリンピック委員会?連合(ANOC)より選手時代の実績が評価されて「傑出した選手賞」を授与された。

2019年12月5日、国際オリンピック委員会(IOC)理事会は山下を新たな委員候補に推薦した。

翌年1月10日の総会で正式に就任が決まった。

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