常に上には誰かがいた~香川真司(サッカー)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■香川真司(サッカー)名言集

僕の両親は自分のやりたいことに対して本当に反対せずに応援してくれました。僕を信じて仙台に1人で行かせてくれた。自分のやりたいことに対して何ひとつ文句も言わずに、ただただ応援してサポートしてくれたので、それは本当にありがたいと思っています。親は子どものために出すぎるのではなく、そこは一歩下がって、子どものやりたいことや頑張っていることを素直に応援してあげることが一番大事だと思います。僕はそうやって育ったので、僕が親になったら自分の子どもには同じように教育したいなって思ってますね。

父が一番熱心でした。力入りすぎってくらい。実は小学生のとき、それがイヤで仕方なかったんです。サッカーの試合中に、父自身のボルテージがあがってしまい、大声でいろいろ叫ぶんですよ、毎回。それがしんどくて。だから試合がある日は、「今日お父さん来るの?」と恐るおそる母に確かめたり(笑)。でも来てほしくないとは言えないじゃないですか。応援してくれているのがわかっているだけに。だけどこのままではサッカーそのものが楽しくなくなりそうな気がして、小4のとき、思い切って言ったんです。どう伝えたかは忘れましたが、言うのにすごく勇気が要ったことははっきり覚えています。

宮城で過ごした中学時代は、個性ということを口酸っぱく言われました。当時の日本サッカーはパスサッカーが主流でしたが、『そういうのでは面白くない』『次の世代は個人技が大事だ』『もっと自分で打開して、自分をピッチで表現する選手になりなさい』と言われました。

練習はきつかったですし、いっぱい怒られました。みんなそうだと思うのですが、中高は一番苦しい思いをするときなのかなと思います。今考えると、学校に行って、練習して、よくああいう毎日を繰り返していたなと思うくらいタフな日程でした。でも、そういうものが今に生きていると思いますし、そこで鍛えられたメンタリティーが将来に役立つと思います。

市や県の選抜に選ばれましたけど逆に言えばその程度。誤解されがちなんだけど、僕は決してサッカーエリートではないんです。僕のまわりにはいつも僕よりうまい人が何人もいました。

地元の強豪校のサッカー部でもなければ、Jリーグの育成機関でもない、地域クラブです。僕らの練習場所はボコボコのグラウンドだったけど、そこから見えるJリーグの練習場は芝生が美しかったことをよく覚えています。だから僕は、エリートというよりも雑草魂を持った人間なんですよ。もともと負けず嫌いだったけど、ここでさらにメンタルを徹底的に鍛えられました。

監督から100言われて100やるつもりもないし、ロボットみたいな選手になりたくない。監督に媚を売るようなね。

2006年にセレッソ大阪に入団したのがプロとしての始まりですが、正直なところ、「毎日サッカーができて幸せ」という気持ちばかりで、プロになった実感はあまりありませんでした。初めはそんな感じでしたが、だんだんと、プロとして求められる結果であったり、サポーターの方の声援であったり、メディアの対応であったり、そういうものを経験するなかで「プロとは、こういうものだ」ということを感じていって、いまに至ります。プロとして求められるのは結果ですので、もちろんこだわりますが、すべてを結果だけに求め過ぎてしまうとバランスが悪くなる。サッカーはチームでの戦いであると同時に、個人としての戦いもあり、自分自身でやりたいこととチームとしてやるべきことのバランスが大切です。変な喩えですが、自分自身の結果だけを求めるのであれば、パスなんて出さずに、とにかく自分だけシュートを打てばいい。でも、それではチームは勝てない。チームの勝利と、僕個人の戦いと、それをどう表現していくのかというのは大切なことだと思います。

僕は、プロになって10年以上になりますが、うまくいかないときは必ずあるし、たくさんあります。プロ一年目で試合にでられなかったり、そういう壁がたくさんたくさんあるなかで、どう努力して考え抜いて、諦めずにやり続けていくか。僕自身、海外に行けばいくほど、厳しい個の競争があって、海外選手との力の差を痛感したり、自信を失うこともあります。ただ、それで諦めるのではなくて、どう彼らに打ち勝っていくかを見つけて日々努力し続けていくか。うまくいかないときに、どれだけ修正して諦めずにやり続けて行けるか。そうすれば、道は拓けるんですよね。プロの人たちは、ジャンルは違っていても、みなさん、道が拓けることを信じて、諦めずに努力し続けているのではないかと思います。

認められたというか、それでパスは来るようになった。でも、そうは言っても、サヒンはオレと同じ歳ですから。このチームにはオレとタメの選手がいっぱいいるわけで、そいつらに認められなかったら終わりじゃないですか?そういう意味ではこっちが認めてあげるというか、お前らに負けてないという風には思っていますけどね。

「失敗したシーズン」とか「上手くいっていなかった」とか、そういうことを言われがちなんですけど、そういうものもすべて自分の経験ですし、自分に返ってくるものなので、いくら上手くいかないシーズンがあったとしても、そのシーズンがあったからこそ、今の自分がいると思っています。その過程で、「挫折」したと(周囲からは)言われることもあるかもしれない、でも結果論として、今こうやってその経験がプラスアルファとなって自分に返ってきているので、意味のないことは絶対にないです。自分に起こることには、必ず意味があるし、そういうものをどう未来に繋げていくかという前向きな考え方は、確実に必要なのかなと思います。

余計なことは考えない。どういう試合になるというイメージは持たない。ボールと相手とピッチだけを見て戦う。こういうプレーをしようとか、相手はこうくるだろうとかイメージしていると、その考えにプレーが縛られてしまう。だから、試合になったら無心になるようにしている。無心になって、本能に任せて動く。

本当に、日頃の積み重ねというか。その日やるべきことを、試合でできることを、自分自身のストロングポイントを発揮するために日々取り組むだけだと思っているので。

人それぞれだとは思いますけどね。勢いは大事だけど、そういうときこそ自分を見つめ直す必要があるんじゃないか。性格上、現状に満足しないということもあります。でも、 満足しないだけでなくて、自信を持つ必要もあって、その自信が今、プラスになって働いています。なんていうんだろう、そのバランスを大事にしている感じです。 自分を客観視する感じですかね。そういうのは自分で意識しているところでもあり、自分の特徴なのかなと思いますね。

座右の銘はないですが、大事にしている言葉はありますね。僕が中学校の時に入っていた仙台のチームで言われた「夢念ずれば花開く」という言葉です。夢を念じて練習して頑張り続ければ、いつか花開くという意味です。

おそらく、住み慣れた場所で、友だちがいて、食事や言葉に不自由しない、そういう場所が生活する上ではベストなのかもしれません。でも、サッカー選手としては、サッカーの本場である欧州を目指したい。日本でプレーしている中で感じられるものと、欧州で感じられるものとでは幅が違いますし、日本では掴めないものがあります。ましてや、外国人としてチームに入り、周囲には日本人もいない、そこで自分の評価を自分で高めていかなきゃいけない、そういうことをどうにか達成していく日々。少しでも達成できた時の嬉しさが自分自身を一人の人間としてさらに強くしてくれると思います。本当にやりがいしかないですし、サッカーのレベルを含めて、ここはサッカー選手としての僕にとって最高の環境。成長し、もっと上に行くために、なくてはならない環境だと思っています。

カメラはどうしてもボール持ってる選手に注目しますが、その選手のために他の選手がスペースを作ってあげたり、仲間のために犠牲を払って動いているシーンは見てほしいですね。そういったプレーが試合のポイントになることも多いので。

前線へ運ぶための工夫や孤立しないような動きが必要だと感じますし、そのためにも自分自身のレベルアップが必要だと思います。自分はチームのコンビネーションの中で生きるタイプで、相手に押し込まれると攻撃が単調になったりして孤立してしまうことがあります。そういう時に「身体能力に優れた選手やパワーがある選手のほうがいい」と周りから言われるようじゃダメですし、もっと上のステージで戦っていく上でも、ボールをキープする力や当たり負けしないフィジカルを身に付けることが大事だと感じています。

相手が嫌がるポジションを取ります。ビルドアップの段階ではボールを受ける必要がなく、どうすればボールを前に運べるかが一番大事なので、そのためのポジション取りですね。その中で、自分がボールを受けたほうがいいと判断すれば受けます。スペースを作る動きや、相手を引きつける動きが必要であればそうします。まずボールを前に運ぶために自分が何をするかですね。

J2で自分が本当に納得した試合は、1試合か2試合くらいで、他の試合はほとんど課題ばかりだった。『もっと上のレベルでやったら、あのプレーでいいのか?』とか、常に上のレベルを意識して試合を分析していました。

特におばあちゃんから毎日のように言われていたのは“感謝の気持ちを持ちなさい”ですね。本当にいろんな人に支えてもらってサッカーができている。それは絶対に忘れちゃいけないって。

おばあちゃんからは毎日「感謝の気持ちを持ちなさい。いろんな人に支えてもらってサッカーができているんだから、それを忘れないように」といわれました。その時はサッカーや学校生活をする上で精一杯だったので、聞いていた感覚でしかありませんでした。今の自分にとってはそのおばあちゃんからの言葉が一番大事なことだと思いプレイしています。自分がサッカー選手としてプレイできているのは、数多くの方が僕をささえてくれているからだと思いますので、感謝の気持ちを誰よりも感じるサッカー選手だと思います。

「靴下をはいて寝なさい」「体が冷えたらあかんから、早く髪を乾かしなさい」とか、いろいろな事を言われるので、それにいいかえしてケンカにもなったり(笑)でも、今でも本当に感謝していますし、今の自分がいるのはあの頃のおばあちゃんがいてくれたからだと思います。

子供っていろんなことに興味を持って、チャレンジできるじゃないですか。だから、その中でいつか自分の夢を見つければいいと思うんです。サッカーでも野球でも、まずは自分でやってみたり、テレビのアイドルに憧れたりって色々ありますけど。そうやっていろんなことを見たり経験したりして、“自分もこうゆう風になりたいな”って思うことが大事じゃないかなって思います。それで夢が見つかった時には“夢を持ち続けて、それに対して努力とチャレンジを続けること”を大事にしてほしいですね。自分も小・中と変わらずサッカー選手になりたいって夢を持ち続けて努力を続けた結果、今があるので。

子供を大事にしてるからこそ“うちの子が、うちの子が”みたいになると思うんですが、そこは一歩下がって、子供が夢中になっていることや、やりたいことに対して頑張っていることを素直に応援してあげることが一番大事だと思います。もちろん、道を外せば教育してあげることも親の役目だと思います。僕はそうやって育ってきたので、自分が親になった時は、子供も自分と同じように育てていきたいなって思っています。

僕が幸運だったのは、節目節目に素晴らしい指導者に会えたこと。でもそれは、夢をあきらめず努力したから出会えたのかもしれない。何かにぶち当たってもそこでメゲずに乗り越えてきたという自負はあります。正直、この4年間は一番しんどかった。思ったように活躍できなかったり、代表に選ばれないこともあって。でもどんなときもあきらめないメンタルがあれば大丈夫。だから僕はこれからも新たな夢をもって新たな苦労をしようと思います。どういう選手になりたいのか、そのために何をすればいいのか。一つひとつ成長したいし求めたい。そうすれば、世界にもいつかきっと勝てると思うんです。勝ったときのうれしさは、もう最高です。だから僕もみんなと一緒に、新たなチャレンジをすするつもりです!

ドルトムントが優勝したのは僕がこのチームでプレーしていたからだと話してくれました。もちろん、ほかの選手たちもたくさんいましたが、あの言葉にはすごく勇気づけてもらいましたね。『君は心配する必要はないよ』とも話してくれて、僕も心配することはなかったです。彼の言葉は僕を幸せにさせて、あの瞬間を忘れることは決してありません。

僕は今までいろいろな悔しさを味わってきました。でも、そこで諦めるのではなく、『それに打ち勝ってやる』『負けないぞ』という繰り返しで育ってきたと思っています。それはプロに入ってからも同じ。試合に出られない時期もありましたし、年代別代表や日本代表でも悔しい時期をたくさん経験しています。ただ、それでも最後には絶対に勝ってやるという気持ち、絶対に負けないという気持ちしかなかったんです。

僕自身も落ち込むことも、思うようにいかなくて悩むこともたくさんある。でも、それを投げ出してしまえば終わりですし、どんなに紆余曲折しながらでもやり続けることに意味があると思っています。そうすることで、答えっていうのも少なからず見えてくることもあるので。諦めないことが大事なんじゃないかなって思っています。

オレが一番大事にしているのは、闘う姿勢。技術はその次、といったら変ですけど、まずは気持ちの面で絶対負けないという意識を持たないと。そういう気持ちを常に持ってやっているのがいい方向に働いているのかな。

常に自分より上の存在に対して、何年後か見ていろ、絶対に自分が活躍してやるんだという気持ちは常に持っています。これまで『香川が一番やな』という立場が一度も無かったから、勘違いもしなかった。常に上には誰かがいたから刺激があって成長できた。

成長する時って、必ず苦しい時期があって、一回叩き落とされて、そこを乗り越えて成長していく。俺にとってまさに今だよね。ここを乗り越えれば、素晴らしい未来が待っていると思うと、今は本当に苦しいけど、気持ちを強く持っていけるし、ポジティブに考えられる。

常に俺はね、『絶対に最後見とけよ!』と思っている。今は負けているかもしれないけど、コツコツと差を縮めて、絶対に追い抜いてやるという気持ちは、中学校の頃から持っている。

■香川真司(サッカー)とは?

香川真司。

1989年生まれ、兵庫県神戸市垂水区出身。

幼稚園に通っていた頃からサッカーを始め、小学校1年生となった1995年から地元のマリノFCに所属した。

その後、東舞子サッカークラブを経て、小学5年生の時には神戸NKサッカークラブに所属した。

小学4年生で神戸市選抜のメンバーに選出された。

香川は小学5年生になると、神戸NKの監督からFCみやぎバルセロナへのサッカー留学を勧められた。

2001年、中学校入学と同時にサッカー留学を果たした。

仙台市立八乙女中学校に通いながら、FCみやぎバルセロナのジュニアユースに所属し練習に励んだ。

この時期、ナショナルトレセンやU-15日本代表にも選出されている。

2004年、宮城県黒川高等学校(土木科)に進学し、高校1年生の時に日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会に出場した。

2005年9月、高校2年生の時にU-18東北代表に飛び級で選出され、仙台カップ国際ユースサッカー大会 (U-18) にボランチとして出場し、MVPの1人に選ばれた。

2005年、Jリーグのセレッソ大阪、FC東京からオファーを受け、C大阪と仮契約を交わした。

年が明けて2006年にC大阪に加入し、同クラブと業務提携していたウィザス高等学校(通信制)に転校した。

同期加入の選手には、C大阪U-18からトップチームに昇格した柿谷曜一朗いる。

プロ1年目の2006年シーズンは出場機会を与えられ無かったが、チームの降格に伴いJ2で迎えた2007年シーズン中に当時の監督のレヴィー・クルピによって実力を見出され、レギュラーの座を獲得。

リーグ戦35試合に出場し5得点を記録した。

また、カナダで開催されたU-20ワールドカップにも飛び級で選出され、2試合に出場した。

2008年シーズンは開幕からC大阪の主力として活躍し、本来所属する世代であるU-19代表の他、北京五輪に出場するU-23にも飛び級で選出された。

リーグ戦では35試合の出場で16得点を記録した。

2008年に平成生まれの選手として初めて日本代表に選出され、同年5月24日のキリンカップにおける対コートジボワール戦で国際Aマッチデビューを飾った。同年10月9日のキリンチャレンジカップの対UAE戦では日本代表史上3番目の若さで代表初得点を挙げた。

2009年シーズンから背番号を森島寛晃が着用した「8」へ変更した。

J2第15節水戸ホーリーホック戦でプロ登録後初のハットトリックを達成し、その後も4試合連続ゴールを記録するなど得点を重ねた。

シーズン終盤は怪我の影響で主にスーパーサブとしての出場が目立ったが、リーグ戦で27得点を記録しJ2得点王に輝くなど、チームのJ1昇格の大きな原動力となった。

2010年シーズンの開幕前には国内外のクラブへの移籍も噂されたものの、シーズンの開幕時点ではチームに残留した。

C大阪所属としての最後の試合となった5月15日のヴィッセル神戸戦で自身初となる直接フリーキックでの決勝点を記録するなど、リーグ戦の出場期間の2ヶ月半で11試合7得点の好成績を残した。

2010年7月1日、育成補償金35万ユーロ(約4000万円)でブンデスリーガ1部のボルシア・ドルトムントに移籍した。

2009年12月にドルトムントのホーム試合に招待された香川は、8万を超える観衆が送る大声援に感激し、早い段階でドルトムントへの加入希望を伝えていたという。

2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグプレーオフ第1戦でのFKカラバフ戦に出場した香川は2得点を挙げ、ドルトムント移籍後の公式戦初得点を記録した。

ブンデスリーガ第3節・VfLヴォルフスブルク戦で移籍後のリーグ戦初得点を記録し、第4節・シャルケ04とのルールダービーにて、「僕が2点取って2-0で勝つ」との公約通りに2得点を挙げ、キッカー誌、ビルト紙等で最高評価点『1』を獲得した。

UEFAヨーロッパリーグにおいてはチームは決勝トーナメント進出を逃したが、香川自身は同大会の8試合で4得点を記録した。

このシーズンの香川はリーグ前半期17試合で8得点を記録し(MFとして登録された選手の中ではブンデスリーガ1位)、ブンデスリーガ公式サイトにて最優秀選手並みの活躍をしたと報じられ、キッカー誌が選定するリーグ前半戦の攻撃的MF部門では最優秀選手に選出された。

2011年1月には国際サッカー連盟(FIFA)が発表した「2011年期待の若手13人」の1人に選ばれた。

しかし、2011年1月のアジアカップでの負傷により、ドルトムントの9シーズンぶりのリーグ優勝の瞬間をピッチで迎えることはできなかった。

それでも、5月14日のブンデスリーガ最終節・アイントラハト・フランクフルト戦の後半43分にサポーターの「カガワコール」に迎えられ、約4カ月ぶりの実戦復帰を果たした。

シーズン後半はこの1試合の出場に留まったものの、シーズン終了後にキッカー誌が選定したブンデスリーガの年間ベストイレブンに名を連ねた。

2011年1月、アジアカップ・カタール大会の代表メンバーに選ばれ、中村俊輔が代表引退してから空き番となっていた背番号10を着用した。グループステージのサウジアラビア戦では岡崎慎司の得点をアシストし、準々決勝の開催国カタール戦ではともに1点リードされている状況から2得点を挙げ、伊野波雅彦の決勝点もアシストする活躍で日本代表の準決勝進出に貢献した。し2011年8月に行われたキリンチャレンジカップ2011の韓国戦で代表復帰し、2得点を挙げる活躍を見せた。

2011-12シーズンの初戦となったシャルケ04とのDFLスーパーカップではフルタイムで出場したが、チームはPK戦の末敗れタイトルを逃した。

ブンデスリーガ第6節・ハノーファー96戦で怪我から復帰後初のリーグ戦で得点を記録した。

10月に入ると不振が続き2試合連続で出場機会を失ったが、徐々に調子を取り戻し、11月5日の第12節・ヴォルフスブルク戦では1ゴール2アシストを記録し、第13節・バイエルン・ミュンヘン戦ではマリオ・ゲッツェの決勝点をアシストした。

一方、自身初出場となったUEFAチャンピオンズリーグでは11月23日のグループリーグのアーセナル戦で同大会初得点を挙げたが、チームはグループリーグ最下位で敗退した。

その後、2012年1月28日の第19節・ホッフェンハイム戦では2得点を決めた他、1月はこの試合を含めて2試合で2ゴール1アシストを記録した。

この活躍が評価されキッカー誌の欧州月間ベストイレブンに選ばれた。

その後も好調を維持し、ESM(European Sports Magazines、欧州スポーツ雑誌協会)により2月度以降3ヶ月連続で欧州月間ベストイレブンに選出された。

第27節・1.FCケルン戦では2ゴール1アシストの活躍で自身のリーグ得点記録を2桁台にのせ、リーグ優勝に王手をかけた第32節・ボルシア・メンヒェングラートバッハ戦では決勝ゴールを決めてチームのリーグ連覇に貢献した。

更に、5月12日に行われたバイエルン・ミュンヘンとのDFBポカール決勝で香川は1ゴール1アシストを記録し、チームは5-2で快勝した。

この勝利によりドルトムントはクラブ史上初となる国内2冠を達成し2011-12シーズンを締めくくることとなった。

この時期の香川の活躍を高く評価したビルト誌は香川をブンデスリーガの年間ベストイレブンに選出し、ヨーロピアン・スポーツ・メディア(ESM)も欧州年間ベストイレブンに香川の名を挙げた。

2012年6月5日、イングランド・プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッドFCへの香川の完全移籍に関してドルトムント及びマンチェスター・ユナイテッドの双方が合意したことが両クラブから発表された。

香川は同月22日にメディカルチェックをパスし、マンチェスター・ユナイテッドと正式に契約を結んだ。

契約期間は2012年7月1日からの4年間、背番号はC大阪在籍時にも着用していた26番に決まった。

2012年から2013年にかけて行われたブラジルW杯最終予選では、5試合に出場し2得点を記録し日本代表のW杯出場に貢献した。2013年6月中旬に行われたコンフェデレーションズカップではグループリーグ第2戦のイタリア戦で得点を決めたが、チームは3-4で敗戦した。最終的にチームはグループリーグ3戦全敗で敗退した。

2012年8月20日のリーグ開幕戦・エヴァートンFC戦でプレミアリーグへのデビューを果たすと、第2節・フラムFC戦でプレミアリーグ初得点を決めた。

10月23日、チャピオンズリーグ・グループリーグ第3節・SCブラガ戦で左膝を負傷して2カ月の間戦列から離れたが、12月29日のウェストブロム戦で復帰を果たした。

2013年2月13日、チャピオンズリーグ・決勝トーナメント1回戦1stレグのレアル・マドリード戦で先発出場。チームのアウェイゴール獲得に貢献した。

この試合で香川は同大会の決勝トーナメント出場を果たした5人目の日本人選手となった。

その後2ndレグでは出場機会を与えられず、チームも敗退した。3月2日のノリッジ・シティFC戦では自身のヨーロッパ移籍後初、プレミアリーグにおいては、ウェイン・ルーニーによるアシストでアジア人出身選手初のハットトリックを達成。

このシーズン、マンチェスター・ユナイテッドは2シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、香川自身にとってもドルトムント時代から3シーズン連続でのリーグタイトル獲得となった。

2013-14シーズン、マンチェスター・ユナイテッドはアレックス・ファーガソンに代わり監督に就任したデイヴィッド・モイーズによる新体制へと移行したが、香川は自身がシーズン前に出場したコンフェデレーションズカップの影響でファーストチームへの合流が遅れ、プレミアリーグ開幕から4試合連続で出場機会なしとなった。

リーグ戦やカップ戦、チャピオンズリーグなどスタメンに起用されることもあったが、12月4日に呼吸困難を訴え救急車を自宅に呼び、胃の洗浄を行う処置をされた。

前半戦は英国記者が選んだ上半期の「期待外れ」メンバーの8選手の一人に選出されている。

シーズンの後半には先発での出場機会こそ増えたものの、最終的にはカップ戦も含め、プロ選手としてデビューした2007年以降では初めて公式戦で無得点の成績で終わったシーズンとなった。

また、このシーズンは自身だけでなくチームも一年を通して不振に陥り、優勝争いに全く絡めず翌シーズンのチャピオンズリーグの出場権も逃す結果に終わった。

2014年5月12日にW杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された。

2014-15シーズン、ルイ・ファン・ハールがマンチェスター・ユナイテッドの新たな監督に就任したが、プレシーズンマッチにおいてアシスト1回を記録するにとどまった香川は同監督から「私はアメリカでのプレシーズン遠征で彼を守備的MFの位置で試したが、彼は私の望みと哲学を満たさなかった」と評され、リーグ戦の開幕後も出場機会が得られない状況に陥いった。

香川は、マンチェスター・ユナイテッドからの移籍を模索する。

完全移籍可能期間終了直前での、2014年8月31日に古巣ボルシア・ドルトムントへの復帰が発表された。

契約期間は4年間。

復帰後のドルトムントでの背番号は7番を割り当てられることとなり、復帰戦となったブンデスリーガ第3節・SCフライブルクではトップ下で先発出場して移籍後初得点を記録した。

しかしその後チームはリーグ戦で勝利に恵まれず、一時は暫定順位でブンデスリーガ最下位を記録し、シーズン終了後の2部リーグへの降格も噂されるようになるなど低迷を極めた。

それに伴い香川自身もシュートを一本も打てない試合が続くなど調子を落とし、リーグ戦で先発から外され数試合連続で出場機会を与えられない状況に陥り、監督のクロップとの信頼関係の変化も取り沙汰された。

チャンピオンズリーグではグループリーグで5試合に出場し、合計でアシスト2回を記録したものの、決勝トーナメント1回戦のユヴェントスFC戦では2試合とも出場機会を与えられず、チームも敗退した。

シーズンの後半戦は香川は調子を上げ始め、5月23日のブンデスリーガ最終節・ヴェルダー・ブレーメン戦では1得点2アシストを記録する活躍を見せ、ドルトムントの翌シーズンのUEFAヨーロッパリーグ出場権の獲得に貢献した。

2015-16シーズン、背番号を「7」から元々付けていたへ変更。

ドルトムントはクロップの後任監督にトーマス・トゥヘルを迎え、前シーズンに行き詰まりを見せたゲーゲンプレスとショートカウンターを中心とする戦術からボールポゼッションを重視した戦術へとチーム戦術を転換した。

それに伴い、香川も4-3-3のインサイドハーフとして起用される機会が増え、ブンデスリーガ第2節・FCインゴルシュタット04戦では初得点を記録した。

またUEFAヨーロッパリーグにも参加し、ドルトムントは同大会の予選を突破して決勝トーナメントへの進出を決めた。

4月2日に行われたブンデスリーガ第28節・ヴェルダー・ブレーメン戦で、ブンデスリーガ通算100試合出場を達成し、その試合で得点も挙げた。

このシーズン29試合9得点9アシストを記録し、ブンデスリーガ公式サイトがTwitterを使って実施したベストイレブンに選出され、トップ下部門1位に輝いた。

このシーズン活躍した前線の4人(ムヒタリヤン、オーバメヤン、香川、ロイス)はファンタスティック・フォーと呼ばれその攻撃力を評価された。

2016年11月22日の欧州CL第5節・レギア・ワルシャワ戦で前半17分と18分の76秒間で立て続けにゴールを奪い、UEFAチャンピオンズリーグ史上1試合2得点の最速記録を樹立した。

この試合で2得点1アシストを記録し、UEFA公式のMOM、第5節のベストイレブンに選出された。

2017年4月3日のハンブルガーSV戦では2016-17年シーズンのリーグ戦自身初得点を記録した。

2017年7月14日、ドルトムントとの契約を2020年まで延長した。

このシーズンにピーター・ボスが監督に就任した。

代表で負った怪我の影響もあり、プレシーズンマッチの浦和レッズ戦こそ出られなかったものの、開幕戦には間に合った。

9月20日、第5節・ハンブルガーSV戦で今季初得点を決めた。

9月30日、第7節・FCアウクスブルクで得点を決め、ブンデスリーガにおいて日本人最多得点記録となるブンデス通算38得点目を記録した。

ボス政権下では途中交代が主だったが、12月10日にボスが解任され、ペーター・シュテーガーが新たに監督になると先発の機会を増やした。

2018年1月19日の第19節・ヘルタ・ベルリン戦では、ブンデスリーガのアウェーゴール通算2万ゴール目となるメモリアル弾を決めた。

しかし第22節・ハンブルガー戦で負傷交代となり、そこから2カ月もの間、ピッチに立つことはできなかった。

最終節・ホッフェンハイム戦で途中出場から約3ヶ月ぶりに復帰。

2018年6月、2018 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出され、中村俊輔と並ぶ2大会連続での背番号10番となった。大会前は、怪我の影響でドルトムントで直近3カ月で出場1試合、16分間のみ出場で、試合勘が問題視されていたが直前の強化試合でのパラグアイ戦でスタメン出場するとセレッソ大阪時代にもみせていた乾貴士との好連携など1ゴール2アシストの活躍をみせチームのエースへと再び返り咲いた。そしてグループリーグ初戦の対コロンビア戦で、前半6分に自身で得たPKを決め、ワールドカップでの初得点を決め、その後も特徴である相手ディフェンスのギャップでパスを受けたり的確なパスでゲームを作り司令塔としてチームの勝利に貢献する活躍を見せた。前半6分での得点はW杯での日本代表最速得点であった。イギリスBBCの選ぶ第一節ベストイレブンに名を連ねた。グループリーグでは2試合に出場し、GL突破に貢献。決勝トーナメント1回戦の対ベルギー戦では、乾貴士の得点をアシストするもチームは敗れ、ベスト16止まりとなった。

2018-19シーズンは新監督のリュシアン・ファーヴルの構想から外れ、出場は4試合のみと戦力外扱いとなっていた。

2019年1月31日、スュペル・リグ・ベシクタシュJKへ半年間の期限付き移籍が発表された。

移籍に関して買取オプションが有るという報道が出ていたがベシクタシュ幹部ユルクメズギルや、ベシクタシュ内の担当者であるサファク・マームチャジショグルはそれを否定している。

新天地でのデビュー戦となった、2月3日のアンタルヤスポル戦で、後半81分から途中出場して16秒後に初ゴールを決めると、さらに84分にFKで2点目を決めた。

ベシクタシュでは3ヶ月のシーズンの548分で4得点2アシストに終わった。

2019年3月26日、キリンチャレンジカップの対ボリビア戦にて、国際Aマッチ97試合目にして自身初の日本代表キャプテンを務めた。

2019年8月9日、スペイン・セグンダ・ディビシオンのレアル・サラゴサと2年契約を締結したことが発表された。

8月18日、開幕戦のCDテネリフェ戦で先発し、スペインデビューを果たした。

8月26日、第2節のSDポンフェラディーナ戦で移籍後初ゴールを決めた。

チームは2019-20シーズン、2部リーグで3位で終了し、昇格プレーオフ出場権を獲得。

2020年10月2日をもってレアル・サラゴサとの双方合意の上で、契約解除。

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