全国の人事担当者会議の席上に店舗開発部長から提案説明があった時のことである。
開発部長が「現在店舗のコスト削減の一環として、後方部門の面積を削減したいと考えています。その中で現在社員食堂にかかるコストのウエイトが高く、面積も広く、厨房設備が高いので、この際に社員食堂をなくそうという案が開発部で検討されています。人事のみなさんのご意見をいただきたいのでこの場をお借りして説明に参りました」
やや得意げに説明した開発部長に対して、小嶋は烈火のごとく怒り出した。
「何をあほなことを開発は考えとるんや。社員食堂や休憩室を何と考えとる。コストの問題ではなく、一日中立ち仕事をしている従業員にとって、温かい食事と足を伸ばせる休憩室がどれほど大切か分かっておらん。余計なことを考えないで他の要素を研究せなあかんやろ。たとえば、売り場の良く目につく場所にサービスカウンターを作り、お客様のお尋ね事やご苦情など一括して受けるなどして、レジでのチェッカーの負担をなくすことなどを考えたらどうや。何をアメリカに視察に行っとるや。あんたとこの本部長に小嶋がこういうとったと言っとき」
小嶋千鶴子。
出生時の戸籍名は岡田千鶴子。
三重県四日市市で四日市岡田家が起業したイオングループの元経営者で、イオンのビジネス精神を築いた。
父は四日市岡田家6代目当主の岡田惣一郎。
弟はイオン創業者の岡田卓也。
甥にイオン社長の岡田元也と衆議院議員の岡田克也がいる。
1916年(大正5年)3月3日に三重県四日市市に生まれる。
父は岡田惣一郎で母は岡田(旧姓・美濃部)田鶴。
夫妻の第二子で、5人きょうだい(一男四女)の二女。
岡田惣一郎夫妻は呉服店から株式会社化して企業組織を創設した。
1927年に父の惣一郎は死去し、経営を引き継いた母の田鶴は惣一郎の理念を踏襲して、従来の座売り方式から立ち売り陳列方式に変更する革新的な経営方針をとった。
千鶴子は1933年に四日市高等女学校(現在の三重県立四日市高等学校)を卒業。
1935年に母の田鶴が死去し、千鶴子や岡田家の姉弟に株式会社の岡田屋呉服店が残された。
家業的商店経営から株式会社化した岡田屋の従業員の生活を千鶴子が支える形となる。
1939年(昭和14年)に株式会社岡田屋呉服店の代表取締役に23歳で就任。
料理・生け花教師の弟で、8歳年上の画家の小嶋三郎と婚約したが、民法をはじめとした当時の日本の法律では有夫の婦人は夫の承諾がないと契約できないことや、夫や弟が戦死する可能性から、結婚を先延ばしした。
その後、弟の卓也が早稲田大学を卒業して四日市岡田家の当主となったため、30歳で千鶴子は結婚した。
1954年に岡田屋の監査役に就任。
30歳代の頃にアメリカ合衆国のショッピングセンターを見たいという思いを抱き、45歳となった1961年に若手経済学者とともに1か月間のアメリカ小売業の視察旅行を実現させる。
1969年(昭和44年)に本格的なスーパーマーケットのジャスコを設立すると、その取締役に就任。
1971年には、ヨーロッパの新しい労働時間制度を研究するためのツアーで、ドイツにおけるフレックスタイム制の母と呼ばれるケメラーと会い、労働組合の反対を押し切って、女性が勤務時間を選べるパートタイム制度を導入。
また、業界初となる企業内大学のジャスコ大学を創設して、労働法・賃金論・国際情勢の権威を学長・教授として迎え、高等学校卒業の社員に対して心理学から文学までの幅広いビジネス教育を実施。
1976年(昭和51年)に60歳の定年制度を実践し、ジャスコ株式会社の経営から離れた。
退任後、2001年(平成13年)にイオン株式会社の名誉顧問に就任。
地域活動では「四日市婦人ロータリー」「くぬぎの会」や「フォーラム四日市」など、四日市市内の女性経営者の勉強会や読書会を実施。
岡田卓也。
ジャスコ元社長・会長。イオングループ名誉会長。
三重県の老舗呉服商岡田屋呉服店7代目。
早稲田大学卒業後、家業の岡田屋呉服店に入社。
多くの小売店を吸収合併しジャスコを創立。
イオングループの基礎を固め、日本の小売業を代表する企業に育て上げた。
小嶋千鶴子の弟にあたる。
店長としての君の役割は業績を挙げることはもちろんであるが、若いうちに能力のある者を発見して適切な指導や教育をすることも大きな店長としての役割や
店舗は人材育成のための錬成の場
自分のことばかり考えて部下のことを考えないのは店長失格、そんなことでは大事な従業員を預けられへんな
見えざる資産の蓄積をせよ
個人の意思をベースにした仕事には感激がある
『仕事』が人を創る
情報の共有、目的の共有、結果の共有
不満の本質を見極めよ
店の仕事は単調で日々同じことの繰り返しである
まず自分自身を変えることだ
あんた世の中をもっと勉強せなあかん。私が女性だからといってなんにも関係あらへん
なんか問題あらへんか?
小嶋千鶴子
お客様に来ていただける魅力がなければ始まりません。手を尽くして改装しても、お客様に来ていただけないようであれば、思い切って店舗を閉鎖する。15年間のジャスコ社長時代、実に約180店舗を閉鎖しました。
「上げに儲けるな、下げに儲けよ」という岡田屋の家訓があったおかげで、大きな負債を抱えずに済みました。流通の本分は、お客様が求める商品やサービスを提供することです。それを忘れたら大変なことになるのです。
過去にとらわれず変わっていくには、お客様が求めるものを提供できるように、常に鋭いアンテナを張り巡らす必要があります。逆にお客様が求めるもの以外はやってはいけないのです。
(岡田屋をジャスコに改名したとき)岡田屋の良き伝統は残しました。「大黒柱に車をつけろ(いつでも変化できるように予め準備しろという意味)」という家訓はその一つであり、まさに世の中の変化に対応するためには自らが変わらなければならないことを明確にしています。
日本企業は終戦直後に匹敵するような、とても大きな転換期を迎えています。本格的なグローバル化と情報化の到来で世の中がガラリと変わるときは、それに合わせて企業も大きく変わらなければ、飛躍するどころか、逆に退場を余儀なくされてしまう。
いくら経営者が変革を訴えても、社員が「変わらなければ生き残れない」という強い危機感をなかなか持てないからです。社員の意識を変えるには、経営者は思い切って過去を捨てる勇気を持つ必要がある。私自身いろいろな過去を捨ててきました。
全国チェーンに生まれ変わるために、200年続いた岡田屋の名前を捨てる決断をしました。200年の歴史と決別したのは、ゼロから出発してまったく新しい会社になるという強い決意を社員一人ひとりに持ってもらう狙いがあったのです。
成功体験を捨てろというのはたやすいが、実行は難しい。「新しく創る」ことよりも、大事なことは「捨てる」ことだ。
岡田卓也