量産化を確立するまで、2つの大きな山を越える必要がありましたから。
一つ目の山は、少ない量ですが細胞の均一性と再現性を得ること。
二つ目の山は、そこから産業化に必要な量産化の技術と体制の確立です。
一つ目の山については、私はよく日本酒造りに例えるのですが、醸造には温度や湿度、攪拌の頻度など、実に多くのパラメーターがありますよね。
では、そのすべてを数字どおりに完璧に設定したとして美味しい日本酒ができるかというと、そうではありません。
サイエンスだけでは割り切れない何か…いわば職人的なアートの要素も絶対に欠かせない。
そうした管理を総合的に司る責任者が杜氏です。
再生細胞薬もそれに似たところがあって、特に開発初期の段階では、細胞のサイエンスとアートの両方に精通した専門家がいなければ、きちんとした製品、いわゆる、均一性や再現性のしっかりしたものに作り上げるのが難しい。
開発初期段階は、”勘”みたいなものも必要です。
2つ目の山である産業化は、少量生産したサンプルをベンチマークにしながら、大量生産に向けた細胞のハンドリング方法の検討、評価、また、原材料や製造条件などのパラメータの検討や最適化、そして、完成したプロセスを作業者が変わっても同じものが出来上がるようにドキュメント化し、製造プロセスを安定したものに作りこんでいきます。
こうして、GMP(「Good Manufacturing Practice」の略で、製造所における製造管理、品質管理の基準のこと)に準拠した安定した量産システムが出来上がりました。
開発初期段階にあった、不安定要素の”アート”の部分もドキュメント化を進めることで、職人的なカンに頼るのではなく、データできちんと管理できるようになっています。
森敬太。
バイオベンチャー「サンバイオ」社長CEO(最高経営責任者)。
北海道出身。
東京大学農学部農芸化学科卒業、同大学院農学系研究科農芸化学専攻修了、カリフォルニア大学バークレー校でMBAを取得。
1996年に麒麟麦酒株式会社に入社し、生産管理、研究開発に従事。
2000年には米国サンフランシスコ・ベイエリアのインフォマティクス関連企業であるXUMA,Inc.に入社し、新製品開発責任者を担当。
そして翌年2001年にSanbio,Inc.を設立。
2013年2月に日本法人サンバイオ株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。
2015年4月、東京証券取引所マザーズ市場へ上場。
当時、キリンビールは多角化経営を進めていて、医薬の分野にも進出していました。一方、私は何か新しいことで社会にインパクトを与えたいという思いがあった。自分も何か大きな事業ができるのではないかとキリンビールを選びました。キリンで新しい事業ができると思っていましたが、実際は世の中そうは回っていなかった。それに気づいて、じゃ自分でやろうと。退社後は、ITベンチャーを友人がサンフランシスコで経営していたので、絶好のチャンスだと参画させてもらいました。
キリンビールで新しい事業をやりたかったのですが、そのための知識がありませんでした。それで会社にMBAに行かせてほしいとお願いしてカリフォルニア大学バークレー校に留学しました。バークレーでは、アントレプレナーシップについて学びました。たとえば新しい事業のビジネスプランを書いたり、実際にベンチャー企業に入ってプロジェクトを経験したり。充実した2年間でした。
サンバイオを立ち上げた当時、米国ではゲノムが盛り上がっていました。ただ、すでに大きな会社が誕生していて、いまからベンチャーが参入するのは周回遅れで負けてしまう。もっと最先端のことをやろうと考えていろいろ精査した結果、再生医療なら自分たちにチャンスがあって、なおかつ世の中に貢献できるだろうと判断しました。
創業は2001年で、iPS細胞より約10年前です。ただ、世間の認知度は別にして、当時から再生医療の可能性は注目されていました。日本政府も国の研究予算を再生医療にかなり入れていました。そうした下地があったので、のちに山中先生をはじめさまざまな技術が生まれてきた。日本政府は先見の明があったと思います。
当時、日本は再生医療の研究が盛んでしたが、患者さんに投与する臨床試験ができる環境が整っていませんでした。薬の試験は副作用などの安全の問題があり、さまざまなことを調べて当局を納得させたうえでないと行えません。日本は当局が安全サイドに振っているので簡単に治験を行えませんが、アメリカは歴史的に見て、わりと簡単にOKを出してくれる。ですから、日本のすばらしい技術をアメリカで試験して製品化すれば、新しい治療をいち早く世界に届けられると考えました。
当社も過去ピンチを何度か経験しています。2008年頃でしたが、FDA (米国食品医薬品局)から治験実施の許可が下りる目途が立ったと思った頃、他社が行っていた治験で安全性に関する問題が浮上したことがきっかけで、急にFDAの審査のハードルが上がってしまったことがありましたが、その時は焦りましたね。間の悪いことにそのタイミングとリーマンショックが重なり、とことんコストを切り詰めたものでした。ベンチャーキャピタルからの資金調達にも行き詰まり、大手企業との提携に活路を見いだすことで何とか危機を乗り越えることができましたが。
自分たちが投資すべき技術については、3つの条件がありました。1つ目は先ほど言ったように、最先端であること。2つ目は、研究を進めている先生がアメリカでの製品化に賛同してくれること。そして3つ目が特許を取得していること。これらの条件を満たす研究者を探して、片っ端から会いに行きました。
今回の臨床試験の承認は世界的にみて安全性などで厳しい基準を持つ日本で臨床試験開始の許可を得ることができたこと、また方針を示してから約半年という業界的には異例のスピードであることの2つで、大きな意味がある。他の製薬会社の例では、海外では承認が得られても日本では得られないケースもあった。新しい分野で、このスピードで承認を得られたことは、当社と『SB623』の将来にとって非常に大きく、高いハードルを越えたことを意味する。
脳を再生することは不可能だと言われてきたが、その常識を覆すデータが出た。今は残念ながら薬も治療法も全くない外傷性脳損傷の患者さんはとって非常に光になっていると思う。
業界で信用されている方と組めたことが大きかった。元NIH(米国国立衛生研究所)所長のジョージ・R・マーティンさんは大恩人の一人です。彼は「俺の名前を言えばわかるように話をつけておくよ」と、様々な人を紹介してくれました。
臨床試験の承認を得たことで、日本でも試験を開始することができるようになった。これまではマーケットの大きな米国に軸足を置いて開発を行ってきたが、日本の早期承認制度の導入に伴って開発環境が変わることを見越して、日本でのIPO(新規上場)に踏み切った。当社は『SB623』について、日本での承認取得を生かして世界に展開していく方針だ。
私自身、脳梗塞などで半身不随になってしまった人が自分の足で歩けるようになったらどんなに素晴らしいだろうという想いが、起業の原点にありました。そのきっかけとなったのが、「脳は再生できない」という当時の常識を覆した、創業科学者の岡野栄之教授との出会いでした。先日、米国CBS放送で当社の脳梗塞の臨床開発がニュースとして取り上げられましたが、試験に参加された脳梗塞の患者様が車椅子なしで歩けるまでに回復したばかりか、結婚して妊娠したことを知りました。これは本当に驚きでした。”人生を取り戻す”というのはまさにこういうことだと実感しました。
日本の薬事法が改正されて、早期承認制度ができた。従来は承認までフェーズ1・2・3で約10年かかっていました。新制度ではフェーズ1あるいは2の前半での承認も可能で、うまくいけば2~3年で承認までこぎつけられます。これは50年、いや100年に一度の画期的な改正です。再生医療に関しては、いまや日本が一番早く承認を取れる国になったといってもいい。これで日本は再生医療のシリコンバレーになると思います。すでに世界中から様々な研究者や技術が集まり始めています。日本から新しい再生医療が誕生して、世界に発信していく日は遠くないはず。
車椅子の方が立ち上がったという事例を見聞きすると、やりがいを感じる。手や腕、肩が動かせるようになったり、喋れなかった方がもう喋れるようになったりという効果が出てきていて、すでに多くの患者さんから問い合わせを頂いている。先生方とも色々と話しているが、ものすごい熱を感じている。外傷性脳損傷の他に、脳梗塞、脳出血、加齢黄斑変性、脊髄損傷など色々な病気に対してやっていきたいと思っている。