いわさきちひろの「大切な」言葉たち~いわさきちひろの名言・人生・生き方など~

いわさきちひろの「大切な」言葉たち

大人というものは、どんなに苦労が多くても、自分の方から、人を愛していける人間に、なることなんだと思います

わたしは無意識だったけれど、制約のないイラストをたのまれると、その中にいつも自分の子どもを描いていました。はじめは小さな赤ちゃんを、そして幼児、いつのまにかランドセルを背負った子を描いたんだと思います。私の子どものことを知らない友だちでも、ああ幼稚園にいきだしたな、ハモニカが吹けるようになったな、自転車にのってるな、とみんなわかってしまったそうです。でもひとつ、きっと男の子なんだか女の子なんだかわからなかったと思います。私は自分の子の形はかりましたけれど、かってに女の子に姿を変えたりして描きましたから。「あなたはきっとかわいい女のお子さんをおもちなのでしょう」という手紙までもらいました。その息子も十七歳になりました。もう、童画の材料にはならないけれど、私はふしぎなことに、若い人のためのおとなの絵本を描きはじめています。

どんどん経済が成長してきたその代償に、人間は心の豊かさをだんだん失ってしまうんじゃないかと思います。それに気がついていない若者は多いのでしょうけれど、私はそのことに早く気づいて、豊かさについて深く考えてほしいと思います。私は私の絵本のなかで、いまの日本から失われたいろいろなやさしさや、美しさを描こうと思っています。それをこどもたちに送るのが私の生きがいです。

人間はあさはかなもので、身にふりかかってこなければ、なかなかその悲しみはわからない。若い、苦しみに満ちた人たちよ。若いうちに苦しいことがたくさんあったということは同じような苦しみに堪えている人々にどんなにか胸せまる愛情がもてることだろう。

わたしも長い生命をもった、童画家でありたいと思う。さざなみのような画風の流行に左右されず、何年も読みつづけられる絵本を、せつにかきたいと思う。もっとも個性的であることが、もっとも本当のものであるといわれるように、わたしは、すべて自分で考えたような絵本をつくりたいと思う。そして、この童画の世界からは、さし絵ということばをなくしてしまいたい。童画は、けしてただの文の説明であってはならないと思う。その絵は、文で表現されたのと、まったくちがった面からの、独立したひとつのたいせつな芸術だと思うからです。

一日のうちのたいてい二回、私のこころにちょっとした温いしあわせな気持がよぎる。コツコツと、小さな足音と、大きな足音が、それぞれ私の仕事場の前をとおって玄関にむかうときだ。机にむかっている私は、いそいそと立ちあがり玄関のドアーをあける。第一回目はおひる少し過ぎ、小さい足音の小学一年生、一人息子のおかえりだ。そのひとえのつぶらな瞳が、やっとわが家に安着だ。第二回目の大きな足音は主人だが、それは時間がきまっていない。夕食をすませ、子供を寝かせ、まずは机にむかって待っている。仕事をしているような、していないような、不安定な不思議な気持。そして一日のおわりに近く、そのなつかしい大きなコツコツが、私の耳にきこえてくる。

私が力がなくて無力なとき(いつもそうなのだろうけれど) 人の心のあたたかさに本当に涙ぐみたくなる。この全く勇ましくも雄々しくもない私のもって生まれた仕事は絵を描くことなのだ。たくましい、人をふるいたたせるような油絵ではなくて、ささやかな絵本の絵描きなのである。そのやさしい絵本を見たこどもが大きくなってもわすれずに心のどこかにとどめておいてくれて、何か人生のかなしいときや、絶望的になったときにその絵本のやさしい世界をちょっとでも思いだして心をなごませてくれたらと思う。それが私のいろんな方々へのお礼であり、生きがいだと思っている。

私なんか、独身だったら気楽で、絵もバンバン描けるだろうと考えられるけど、とんでもないですよ。夫がいて子どもがいて、私と主人の両方の母がいて、ごちゃごちゃのなかで私が胃の具合が悪くなって仕事をしていても、人間の感覚のバランスがとれているんです。そのなかで絵が生まれる。大事な人間関係を切っていくなかでは、特に子どもの絵は描けないんじゃないかと思います。

私もさわりたくてしょうがないんです。その辺に赤ちゃんなんかいると自分のひざの上に置いておきたい。親はどうしてもさわらずにはいられないものじゃないかしら。私はさわって育てた。小さい子どもがきゅっとさわるでしょ。あの握力の強さはとてもうれしいですね。あんなぽちゃぽちゃの手からあの強さが出てくるんですから。そういう動きは、ただ観察してスケッチだけしていても描けない。ターッと走ってきてパタッと飛びついてくるでしょ。あの感じなんてすてきです。

ドロンコになって遊んでる子供の姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかも知れない。その点、私の描く子どもは、いつも、夢のようなあまさが、ただようのです。実際、私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです。

私が力がなくて無気力なとき人の心のあたたかさに本当に涙ぐみたくなる。この全く勇ましくも雄々しくもない私のもって生まれた仕事は絵を描くことなのだ。たくましい、人をふるいたたせるような油絵ではなくてささやかな絵本の絵描きなのである。そのやさしい絵本を見た子どもが大きくなっても忘れずに心のどこかにとどめおいてくれて何か人生のかなしいときや、絶望的になったときにその絵本のやさしい世界をちょっとでも思い出して心をなごませてくれたらと思う。それが私のいろんな方々へのお礼であり生きがいだと思っている。

失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔にもどれましょう。少年老いやすく学成りがたしとか。老いても学は成らないのかもしれません。でも自分のやりかけた仕事を一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、不思議なことだけれどこの世の中の生き甲斐なのです。若かったころ、たのしく遊んでいながら、ふと空しさが風のように心をよぎっていくことがありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。

人間はあさはかなもので、身にふりかかってこなければ、なかなかその悲しみはわからない。若い、苦しみに満ちた人たちよ。若いうちに苦しいことがたくさんあったということは同じような苦しみに堪えている人々にどんなにか胸せまる愛情がもてることだろう。本当に強いやさしい心の人間になる条件はその人が、経験した苦しみの数が多いほどふえていく。

いわさきちひろとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

いわさきちひろ。

1918年、福井県武生(現在の越前市)生まれ。

三姉妹の長女として武生町橘で生まれた。

ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。

ちひろの入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。

ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。

その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などをこなした。

女学校教師だった母・文江は1926年(大正15年、昭和元年)、ちひろ7歳の時に第六高等女学校に勤務している。

女学校2年(14歳)の3学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。

ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。

ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。

18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めた。

ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。

1939年(20歳)4月、3人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れず、婿養子を迎えることになった。

相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方ではどうしても好きになれず、形だけの結婚であった。

6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、翌年に夫の自殺により帰国することになった。

ちひろは二度と結婚するまいと心に決める。

帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。

再度習い始めた書の師、小田周洋は絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家をめざした。

1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。

翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。

両親は戦後、同県北安曇郡松川村に開拓農民として移住した。

ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。

終戦翌日から約1か月間にここで書かれた日記『草穂』が残されており、「国破れて山河有り」(杜甫の詩より)の題でスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。

1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。

5月には党宣伝部の芸術学校で学ぶため、両親に相談することなく上京した。

東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。

この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をした。

画家としての多忙な日々を送っていたちひろだったが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。

2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。

翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。

ちひろは31歳、善明は23歳であった。

結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。

そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。

1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。

1951年4月、ちひろは長男・松本猛を出産するが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難であった。

6月、2人はやむを得ず信州松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。

ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通った。

猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る。

初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子どもが生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらったという。

ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。

善明は、1951年に司法試験に合格し、1952年4月に司法修習生となる。

ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。

善明は1954年4月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などにかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。

1963年、善明は日本共産党から衆議院議員(東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選した。

ちひろは画家、1児の母、老親の世話、大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる。

1940年代から1950年代にかけてのちひろは油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主だった。

1952年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずちひろに自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、1954年には朝日広告準グランプリを受賞した。

ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからもおよそ20年間つづいた。

1956年、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作、これが初めての絵本となった。

『こどものとも』では同じく小林の文で『みんなでしようよ』も。

この頃、ちひろの絵には少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき、などの批判があり、ちひろ自身もそのことに悩んでいた。

1963年(44歳)、雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当することになったことが、その後の作品に大きく影響を与える。

「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはそれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をした。

1962年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。

1964年、日本共産党の内紛で、ちひろ夫婦と交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始める。

「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている。

当初は2色もしくは3色刷りだったが、1969年にカラー印刷になると、ちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになった。

この仕事は1974年に55歳で亡くなるまで続けられ、ちひろのライフワークともいえるものであった。

ちひろはハンス・クリスチャン・アンデルセンに深い思い入れをもっており、画家として自立するきっかけとなった紙芝居『お母さんの話』をはじめ、当初から多くの作品を手がけていた。

1963年(44歳)6月に世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦では異国の風景を数多くスケッチし、アンデルセンへの思いを新たにした。

さらに1966年(47歳)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたちひろは、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母・文江とともに参加し、その念願を果たした。

この時、ちひろはアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残した。

2度の海外旅行で得た経験は、同年に出版された『絵のない絵本』に生かされた。

1966年、赤羽末吉の誘いで、まだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入して山荘を建て、毎年訪れてはここのアトリエで絵本の制作を行うようになる。

当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていた。

至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけた。

2人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組んだ。

そして1968年『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作した。

中でも1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。

また当時、挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代であった。

挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般であったが、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開した。

1972年、童画ぐるーぷ車の展覧会に「こども」と題した3枚のタブローを出品した。

これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973年の『戦火のなかの子どもたち』がちひろ最後の絵本となった。

1973年秋、肝臓ガンが見つかる。

1974年8月8日、肝臓ガンのため他界。

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