山口百恵の「大切な」言葉たち
今、暮らしの中に手仕事の時間があることをとても幸せに思っています
私たちも機嫌の悪い時もある、そんな時は私たちにはひとつの決まりがある。・・・順番に天使になる、つまりトラブルが起きた後、どちらが間違っていようとも、いつも一方が引いて間違いを認めれば、お互い幸せでいられる。
収入10万円なら10万円の生活、1000円なら1000円の生活をするだけ
母親としては悪戦苦闘していて、せいぜい五十点です。
一円を笑うものは一円で泣く。
どうもありがとうございます。みなさん、本当にどうもありがとう。あたしが選んだ結論 とてもわがままな生き方だと思いながら 押し通してしまいます。8年間 一緒に歩いてきたみなさんが「幸せに」ってそう言ってくれる言葉が一番うれしくて、みなさんの心を裏切らないように 背いっぱい さりげなく 生きていきたいと思います。今、今みなさんに ありがとうって言葉どれだけ重ねても私の気持ちには追いつけないと思います。本当に、あたしのわがまま許してくれてありがとう。幸せになります。
結婚したら仕事を辞める、それが私という女の生き方です。
家の事しかしてませんから。・・・今まで通り、普通にやっていきます。ああしたい、こうしたいというのはなくて、何かあれば、主人に相談しながら、大事に家を作っていきたいと思っています。
“結婚”っていうんじゃなくてね、やっぱり、歌手であるとか女優であるとかっていうことをひとつ終えて、そうじゃない何かが始まっていくわけですよね。ただ単に“結婚”っていう……それはひとつの窓口だと思うんですけれども……そこを通して、もちろん夫と妻という関係ができてくるわけだから、そこから色んなふうに広がっていくと思うんですけどね。それはやっぱり、今、ひとつのスタートだと思うから……。逆に、スタートを前にして、たとえば、すごい大きな期待感っていうのももちろん、スタートを前にした人間の心情っていう中にはあると思うんですけどね。期待感もあれば、不安感もあれば、そうだな……ちょっとした危機感みたいなものもあるだろうし。そういう色んなものがひとつになっている気持ち……
たとえば何かプレゼントをしてくださった方が喜んでくれるような喜び方ができない。だから、人から物をもらうのがいやだし、どっかへ一緒に連れていってもらうのがいやだった。
色んなことを……たとえば、歌を歌い始める前とか、女優として仕事を始める前っていうのは、こんなことがあったらどうしよう、あんなことがあったらどうしよう、こんなハプニングがあったらどうしよう、自分が、たとえば声が出なくなったら、お芝居できなくなったら、ってことをまず考えましたけど……最終的には、実際、スタート切らなきゃいけないってことになったら、“なるようにしかなんないや”っていう感覚でしかないわけですよね(笑)。
自己主張ということを言うなら、自己というものは集団ではあり得ないと思うんですよね。大事なのは本人でしょ。個人の意識であったりね。
歌を歌ったりとか、お芝居をしたりとか、まあ、芸能界って言われるところで生活してきてね、で、その中で色んな方たちが、結局、あたしっていうものに対して“泣かない女”だとか……色んな言葉を言いましたよね。で、そういうものがあるからきっと……半分ぐらいそういう部分が先入観として皆さんの中に入り込んでて、多分、小さい頃はああだったろう、こうだったろう、って。小さい頃から別に動じたりしない子だったんじゃないかっていう部分も、そういうものが先入観としてあるから、きっとそういう想像をしちゃうんでしょうけども……小さい頃って、別にそんなにね……普通の子供たちと変わりない女の子だったんじゃないかな、っていう気がしますけどもね。人間って絶対ひとつの顔じゃないと思うんですよね。うん。ひとつの顔じゃないと思う。たとえば、色んな状況とか、自分の置かれた立場とか、対する相手の立場とか、状況とかによっても、色んなふうに変わっていくし。だから、ひとりの人間がひとつの顔しか持っていないっていうのは大きな間違いで……。まあ、あたしはこういう仕事をしてるから、ひとつの顔じゃなくて色んな顔を持ってるって色んな方から言われますけども、そう言ってるその人も、やっぱり色んな顔を持ってるんだと思うんですよね
私は私だからしょうがないでしょって、はっきり言っちゃえばそういう感じですよね。
実際、賞をもらわなくても、私がやってきた仕事の中では全く支障をきたしていないですよね。新人賞でも,全部次点ばかりなんです。グランプリというのはひとつもない。それなのにちゃんとやってこれているんだから、賞なんて実は関係ないんじゃないかというのがすごくあって。
仕事でも家庭でも恋人でもいい。生きている中で、何が大切なのかをよく知っている女性こそが自立した女性なの。
最終的に、うんと年をとったときに、「ああ幸せだったわ」って思えればいい。だから、別に今から幸せを追っていくということじゃなくていいように思うんですよね。
山口百恵とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
山口百恵。
本名:三浦百惠(旧姓:山口)。
東京都渋谷区に生まれる。
幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、小学2年生から中学生でデビューするまで横須賀市で過ごした。
横須賀市立鶴久保小学校卒業。
横須賀市立不入斗中学校時代に、スター誕生!に出場した。
日出女子学園高等学校卒業。
1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。
同番組への出演応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て「自分も森昌子さんのようになりたい」と思ったこと。
1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。
森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。
デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。
デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。
1974年「ひと夏の経験」が大ヒット。
同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。
この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。
百恵の映画初出演はレコードデビュー前、ホリプロ制作の「としごろ」で、新人の顔見せとしての出演だったが、『伊豆の踊子』以降、映画13作で主演。
テレビドラマでの初レギュラー出演は1973年10月スタート、大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。
この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕い、後の実際の結婚の際に仲人をお願いしている。
1974年10月からはTBSのテレビドラマ赤いシリーズに出演、1作目「赤い迷路」続く「赤い疑惑」「赤い運命」でもやはり宇津井健との親子役。
「赤い疑惑」「赤い衝撃」では三浦友和と共演。
高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は「赤い絆」引退記念作品の「赤い死線」まで6作品にもなった人気ドラマとなる。
1977年に日本武道館で行われた第6回東京音楽祭で外国人アーティストが多数出演、受賞する中、日本人歌手として楽曲「夢先案内人」で銅賞を受賞した。
1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』では紅組トリを務めた。白組の沢田研二と共にポップスでのトリは初。また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初。
1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。
その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。
そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。
1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。
歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。
引退時は21歳で、芸能人としての活動はわずか7年半程だった。
引退までにシングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚を売り上げ、1970年代最もレコードを売り上げた歌手だった。