舞台で歌うこと自体が恥ずかしくてしょうがなかったから、もう見世物にしちゃえと思って。ヴォーカルもごまかせるし。青年館のコンサートでは自転車に乗ってステージに出て来たんだけど、色気を出して客席に愛想を振りまいたものだから走るルートを間違えてギタリストが並べているエフェクターを全部踏んじゃって、つなぎ直している間の三曲くらいはギターの音が全然出なかった。
モノに託した夢ってどうにかすれば叶っちゃうからキリがないの。そんな夢はもたないのよ。
不安です。自分の中に詞を書くための情報、題材がたまっているんだろうかって。いつインプットしたのか自分でも覚えていないものが年月をかけて醸造されて出てくるんじゃないかな。
音楽なんて別に必要ないって言う人もいますよね。でもその人にとって大事なものって、誰にも邪魔することができない。特にポップスはモバイルなので、どんな瓦礫の場にいても心の中で鳴り続けていれば、楽曲がその人のものになる。楽曲って、送り手のものじゃなく受け手のもの。その人の中で思い出やストーリーが加わる。そうやって楽曲が育っていく。ライブをやるとそれが返ってくるんですよね。
私、恋愛経験が少ないから分からない、心霊体験の方が多いかも(笑)。
逃げると次のものが作れなくなる。ひとつひとつ、確実にクリアをしていく。逃げないことが次のモチベーションのもとになって、それこそが作品自体をエバーグリーンなものにしていくと思うんです。
松任谷流究極のアンチ・エイジングは、創作していることです。苦しくても曲を作っていると、自分の中から分泌される何かが、乳液になってるような気がする。
充実する時間を待ってるんじゃなくて充実を作ろうとした人に充実がくるという感じがしますよ。手をこまぬいて待っていても一生のうちに2回や3回は自然の波はくると思いますけど。充実ってことはすごくおいしい食べ物みたいなものだからそれを味わうために節制とか経験も必要。
やめると、世の中が色を失うと思うの、自分にとって、世界が。そういう脳で世界を見て、人に会ってものに触れて生きてきたから。曲を作るという回路を切っちゃったら、私自身が止まっちゃうかもしれない。だからきっとこの先も、作り続けると思います。
私自身がひとつのジャンルなんですよね。だから、追われる気分もなければ、そういう領域にないのね。自分で基礎工事して作った広いトラックを自分が走っているようなものだから、追うとか追われるとかの話じゃないのね。
心のスイッチを入れるだけなの。本当に気の持ちようひとつで、周りの風景なんてどうにでもなってしまう。たとえばジョギングしているときに、走っていることさえ忘れてしまうような一瞬がありますよね?そういうときは木々の緑がいつもと全然、違って見える。
何もいわずに、何もきかずにうけとめてくれてありがとう。
よく「おしどり夫婦」とか「二人三脚」とか言われますが、それには非常に抵抗がありますね(笑)。ハサミみたいだなと思うんですよ。刃を向け合うんだけど、お互いのことは絶対に切らない。一部がつながっているけれど、溶け合ってはいない。いつも一緒にいるけれど、0.何ミリか離れている。彼を失うと、私は会話のできる相手がいなくなる。彼も天才だからね。海王星人と冥王星人みたいなものなので、肩を寄せ合って暮らしていかなきゃならないんです。
売れてないほうが格好良いってそもそもおかしいじゃない?
ちょっとした制約がある方がいいんですよ。本当だったらちゃんと練習をしなくちゃいけないときに、心地よい眠りが来るタイプ(笑)。余計なことを考えちゃうので、縛りがないとダメなんですね。だから何にも予定のない日なんて、まずないです。最近作った予定は、依頼を受けた番組の曲を作ること。もうすぐその納品なんですけど、私〝納品〟って言葉が好き。風圧を受けていたいんです。ポップをやっているけど、ジャズやクラシックのひとと同じようなプライドを持っていたいの。
ここをこう作れば人は感動するだろう、とかいうのは大っっ嫌いなのよね。
もう曲を作らなくても、アルバム出さなくても、興行的には十分やっていけるんです。だから曲を作り続けてるのは名声とかお金のためではなくて、レコード会社のためでもない。自分のため、ですよね。
40代後半で気が付いたの。人間て、年齢を重ねるとどんどん個性が煮詰まるんです。自分のクセが見えてきたら、ちょっと外してみるのもいいかもしれない。私はそれに気付いてからずっと自分にフェイントかけまくってきたから、そうね、いまだに自分が何者か、よくわからない。
体のほうも、それまでの疲れなのか、ちょっと胃にきたしね。今だから、今になったから、言えるけど。あの、肉体は強靭なんだけど、精神も強いと思うけど、神経が弱いのかもしれない。
体がキモノに慣れておけば、いざというとき、正々堂々と自分を主張できるはずだと思ったの。ですからそんな、すごい着物を着ていたわけじゃなくてね。銘仙とか紬とか。それを毎日、着てました。
音楽が時代に果たす役割?私にはわからない。今を生きぬくことで見えて来るもの、感じることそれを私は音楽にしてゆくだけ。14歳の時の想いを変わらず持ち続けるため、変化を恐れず、私は歌をうたってゆくだけ。
ファッションに関しては「着たがり」だし、服は経験、だと思っているので、とりあえずエッジィなものでも袖を通してみようと思いますね。たとえ失敗しても、恥をかいても、それもまた経験になるから。無駄にならないから。
40代、すごくつらかったんです。ホルモンバランスが不安定だったのか、すごく調子が悪かった。作品やパフォーマンスに影響することはなかったけどね。更年期は大人の思春期、なんですかね。竹の節のように、そこに滞らないと先に伸びないんだろうね。
それはね…。ユーミンだから。
世の中の波に乗ったからって本物かどうかは別問題ですよね。時代の追い風にのってるだけなのか。自分のエンジンでちゃんと走ってるかってこと。
ずっと夢見る部分を持っててもいいんだけど同時に実現すべき夢を抱かなきゃ。
人生のある一時期、目標のために自分を律するという経験を持てた人は素晴らしい。
人は変わり続けるからこそ、変わらずにいられる。
松任谷由実。
旧姓名および旧芸名は荒井由実(あらいゆみ)。
1954年1月、三男二女の第四子(二女)として生まれる。
生家は東京都八王子市で1912年から続く、老舗の呉服店・荒井呉服店である。
6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。
中学時代にはカツラを購入し、寝ているように家族には見せかけ内緒で当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台3丁目のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。
またフィンガーズの追っかけもしていた。
のちに同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。
また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける。
14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが、荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。
由来はムーミンである。
1971年に17歳で作曲家としてデビューした。
その作品は彼女を本格的なデビューへと誘った加橋かつみ(元ザ・タイガース)へ提供した「愛は突然に…」である。
立教女学院高等学校卒業、染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学。
はじめは作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。
しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。
1973年11月にファーストアルバム「ひこうき雲」を発売、TBSラジオの深夜放送番組「パックインミュージック」金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始する。
2012年 – 2013年の特番と「SONGS」で、「立教女学院のパイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語り、また「キーボードでのロック (音楽)ができるかもしれない」と思ったとも語っている。
1975年10月発売のシングル「あの日にかえりたい」が、初のオリコンチャート1位を獲得、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。
1975年12月にアレンジャー・松任谷正隆と婚約、1976年11月29日に横浜山手教会にて結婚。
本人は引退する考えだったが、専業主婦にはなりきれず、結婚後の戸籍名である松任谷由実として音楽活動を続行することを決意。
1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースするなど、ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などに楽曲提供をしながらもハイペースで曲を製作。
「埠頭を渡る風」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン」などはこのころ作られた。
また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。
1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。
その年のアルバム「昨晩お会いしましょう』」以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得。
特に1987年のアルバム「ダイアモンドダストが消えぬまに」が78万枚の大ヒットを皮切りに、翌1988年「Delight Slight Light KISS」は159万枚とセールスが倍増。
1990年発売の「天国のドア」では史上初のアルバム200万枚出荷を記録。
以降、1995年の「KATHMANDU」までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得。
当時人気の高かったスキーを題材にした映画「私をスキーに連れてって」(1987年)の主題歌と挿入曲を一手に担当し、「若者のカリスマ」「恋愛の教祖」などと呼ばれた。
しかし、1990年代に入ると精神世界や民族的な音楽にも着目。
「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「春よ、来い」「輪舞曲」などを生み出す。
1993年、TBS系列ドラマ「誰にも言えない」主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングル初のミリオンセラーとなり、翌1994年発売の「Hello, my friend」「春よ、来い」もミリオンセラー、同年末発売のアルバム「THE DANCING SUN」はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を記録。
第三次ブームと呼べる年となった。
1996年、旧姓・荒井由実の名で活動を行う。
セルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。
1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート理由「シャングリラ」を開催。
同コンサートは2003年に「シャングリラII」、2007年にはシリーズ最後を飾る「シャングリラIII」として開催された。
「シャングリラ」3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。
2005年、これまでたびたび出演の打診を受けては辞退し続けていたNHK紅白歌合戦(第56回)に松任谷由実 with Friends Of Love The Earth名義で初出演。
2011年春、NHK「SONGS」と組み、「春よ、来いプロジェクト」を展開。
新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。
収益のすべてが被災地へ寄付された。
2012年、歌手デビュー40周年として発売された「日本の恋と、ユーミンと。」がオリコン1位を記録し、CDアルバム売り上げ枚数は、ソロアーティストならびに女性アーティスト史上初の3,000万枚を突破。
のちに100万枚(ミリオン)の売り上げを達成した。
2012年、2014年、2017年には帝国劇場にて「ユーミン×帝劇」を開催。
2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンがユニバーサルミュージックに吸収合併されて消滅。
その煽りを受け、自身も含めた全EMI所属アーティストが一斉にユニバーサルへ移籍する。
2013年春の叙勲で紫綬褒章受章。
2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。
2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。
世田谷区名誉区民。
2016年、オリジナルアルバム38枚目として発売された「宇宙図書館」がオリコン週間アルバムチャートで、初登場1位を記録。
1位を記録したことによってアルバム首位獲得数が通算23作目となり、自身が持つ、女性およびソロアーティストの最多アルバム首位「通算22作」を「通算23作」に更新した。
また、62歳10か月での首位獲得により、女性アーティストの歴代最年長記録を更新した。
2018年4月11日にはデビュー45周年を記念して、実売100万枚突破を記録し、ロングセラーとなっている40周年記念ベスト「日本の恋と、ユーミンと。」の続編となる、初めて自ら45曲を選曲した45周年記念ベスト「ユーミンからの、恋のうた。」をリリース。
発売初週に10.8万枚を売り上げ、初登場1位を記録し、2016年に自身が前作「宇宙図書館」で記録した女性アーティスト最年長記録を64歳3か月に更新した。
同時にアルバム首位獲得数は通算24作となり、自身が持つ女性アーティストならびに男女通じてソロアーティスト歴代最多記録も更新した。
また、このアルバムとともに前ベストアルバム「日本の恋と、ユーミンと。」が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインの記録も打ち立てた。
また、2枚のベスト盤を引っ下げ、全40公演にも及ぶ「TIME MACHINE TOUR Traveling through 45years」と題し、数々の伝説の名場面が蘇る、まるでタイムマシーンに乗ったようなアリーナツアーを開催した。
2018年9月24日には、「ひこうき雲」から「ユーミンからの、恋のうた。」までのほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された。
2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された。
2020年12月1日には、4年ぶりニューアルバム「深海の街」をリリース。