宇野千代の「大切な」言葉たち
陽気は美徳、陰気は罪悪。挫折はあなたをたくましくする。
失恋って、当の本人は苦しい苦しいと言っているけれど、本当は終わった恋をいつまでも思い出して楽しんでいるようなところがあると思う。本当に苦しいなら、一秒でも早く忘れる努力をするはずだから。
どんな人も美しくなれるし、才能を持っているのよ。自分は美しい、才能があると、そう思うことが大事です。
女のおしゃれ心は恋心に比例する。おしゃれをしなくなった娘は危険です。
幼い頃、大人たちからたくさんの愛をもらって育った子どもは、大人になった時、真に人を愛することができる。逆に愛薄く育った子どもは、生涯愛に飢えて生きる。
何もしないで、いい男が現れるのをじっと待っているよりは、何回失敗してもいいから結婚なさい。やらない人よりは、やった人のほうが偉いんです。
愛とは人の心を喜ばせたいと乞い願う、純粋な善意の現れである。
この恋は実ると暗示を与えてごらんなさい。あなたの恋は必ず成就します。
ヤキモチやきのコツは、それがどこまでも大ゲサで、陽気で、可愛いこと。
恋をしなさい。好きと言えないなんてケチな根性よ。
男は、男らしいことをしている間は、決して堕落しないものです。
男は仕事をするときに、はじめて人間性を取り戻します。
忘れること、それが最上の治療法であり、恋人との愛をつなぐエチケットです。
やさしいと言われた男が、よし、多少はやさしくない心を持っていたとしても、その言葉によって、なんとかやさしく思われるような行為をしようと、無意識にでも思わないものだろうか。美しいと言われた女が、よし、多少は美しくないとしても、その言葉によって、なんとか美しく思われるような表情になりたいと、無意識にでも思わないものだろうか。
うまくいっている夫婦というのは、お互い言いたいことを言っているように見えても、言うべきことと、言ってはいけないことをちゃんとわきまえている。
二人の生活の休養所であるはずの家庭が、絶えず良人(おっと)の非を鳴らす警察署になってはいけない。
最も身近な人を幸せにすることは最も難しいことであり、それ故に最も価値のあることである。
愛とは関心をもつこと。手入れが必要である。手をかけない愛は枯れる。
わたしの失恋は、いつでもとても派手なんです。最大限に表現するということです。自分ひとりきりで、それはそれは眼も当てられないほど、わァわァ騒いで泣くのです。
恋愛は男と女と二人の人が一緒になって奏でる音楽です。ちっとも相手の気持ちを考えようとしないで、自分だけで夢中になっているのは、ほんとうの愛ではないのですね。若かった頃の私には、たったそれだけのことが分からなかったのでした。恋人の臆病な気持ちをそっとしておきましょう。ムリヤリに相手の気持ちを自分の思う通りにネジ向けようとするのは止めましょう。恋人の臆病な気持ちを突然驚かすのは止めましょう。嫌いになった相手を、追いかけないのが恋愛の武士道です。
仕事は楽しんで続けるのが鉄則である。どんな仕事も天職になる。
今、あなたのうえに現れている能力は氷山の一角。真の能力は、水中深く隠されている。
自然な気持ちで生きるということ、それは健康に生きるということと同じ意味です。「自然流に生きる」ということが実行できるようになれば、長生きの免許を手に入れたようなものなのです。
おしゃれをしない人間は、泥棒より醜いと思います。
小説家はパン屋や八百屋と同じ商売なのよ。あなたは小説家が特別なものと思っているところが作家として未熟なのよ。
欠点は隠すものではなく利用するものです。
芽は手当次第でどんどん伸びる。伸びない、などとは夢にも思ってはならない。伸びる、伸びる、どんどん伸びる。
人間とは動く動物である。生きるとは動くことである。生きている限り毎日、体を動かさなければならない。心を動かさなければならない。
頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じである。
言葉は言葉をひき出す。前の言葉があとの言葉もひき出す。その自分の言葉でもっと興奮したり、腹を立てたり、もっと深くなったりする。言葉が先に立って感情を支配する。
一歩を踏み出した人間には、すでに過去は消え目の前には、洋々たる道がひらけてくるのです。
あなたの倖せは、ほんのすぐ、あなたの身近にあるのです。人間の欲望を遂げたい気持ちは、限りもないものだと思いますが、あなたはその欲望を、どのくらいの高さまで、遂げたいと思っているのですか。あなたは、あなたの思っているよりも、ほんの一桁、ほんのちょっと格下げをしただけで、あなたは倖せになれるのだと思いませんか。
幸福のかけらは幾つでもある。ただ、それを見つけだすことが上手な人と、下手な人とがある。
お洒落をする、或いは気持ちよく身じまいをすることは、生きて行く上の、生き甲斐でもある。ちょっと大袈裟に言うと、人としての義務である。お洒落は自分のためにだけするのではなく、半分以上は、自分に接する人たちの眼に、気持ちよく映るように、と思ってするのだから。
人間は二つのことを、同時に考えることはできません。
どうしたら一番好いかと言うことを、貪婪に考える。決して、好い加減には考えない。
病気になったら、私が一番最初に気をつけることは何かというとそれは、どこの病院に行こうか、ということではなく、なんの薬を飲もうかということでもなく、1日中、病気のことで頭をいっぱいにしないこと。
健康法というのは、体操をするとか、歩くとか、あれを食べるとか、これを食べたいとかいうことではない。いつでも、何か追いかけて行く目的があって、張り切っている状態のことだと、この頃、そう思うのである。
人間は考え方、心の持ち方で幸せになったり不幸になったりするのです。絶対の幸福も不幸もありません。悩みや心配事から解放されるコツはこだわらないこと、これ一つです。
不幸だとか幸福だとかという言葉くらい、本人の気の持ち方次第のものはない。不幸が好きな人は不幸だし、幸福が好きな人は幸福だ。おかしな言い方であるが、不幸になるのも幸福になるのも、本人の望み次第で、私の好き勝手になれるのだという気がしている。
よく生きることは、よく死ぬことでもある。一生懸命に生きたものは、納得して死を受け容れることが出来る、という意味です。
よく世間には「自分には運がない」と言う人がありますが、私には、自分の事を運がないと言う人は、何だか、卑怯な事を言っているように思われて、好きになれません。あなたも自分の事を、運の好い人間だと思うようになってください。きっと自分の思った通りになりますから、運というものは自分で拓くものです。
毎日の、この一瞬、一瞬が生きる事なのである。私は、この一瞬、一瞬、意識を明瞭にして生きなければならない。
自分が幸せだと思う人は、肯定的な人。反対に、不幸だと思う人は、否定的な人。同様に、未来に希望を持っている人は、肯定的な人。そして、若者が好きだ。否定からは希望は生まれない。肯定的な人は、冒険心や、挑戦心、好奇心、そして、バイタリティにあふれている。幸福という現象も、不幸という現象もない。あるのは、「幸福」あるいは「不幸」、と感じる自分がいるだけだ。幸福の法則を身につけたい。
幸福は、遠くにあるものでも、人が運んでくるものでもない、自分の心の中にある。
人間というものは考え方で自分の境地さえ変えられるというのが私の説なのです。人が聞いたら、吹き出して笑ってしまうようなことでも、その中に、一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行きたい。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っているのである。
幸福のかけらは幾つでもある。ただ、それを見つけだすことが上手な人と、下手な人とがある。
人間の考えることは、ものごとを否定することと肯定することの、この二つしかありません。人に対してあの人はいい人だ、素敵な人だ、と思うことは肯定することです。どんな時にでも、ものごとをすべて肯定して決める習慣くらい、人間にとって幸福なものはありません。
人間と人間はこちらが信じた分だけ、相手もまた、こちらを信じるというのが私の持論である。
おかしいことであるが、私はいつでも、自分の都合の好いことがあると、これは何かのお蔭ではないかと思う。そう思うことが好きである。そして、そういうことが続くと、了いには、自分には都合の好いことが続くものだ、と思い込むである。不思議なことであるが、何でもそうだと思い込んだことは、その通りになるものである。
「私は生きている」という発想から「私は生かされている」という発想に転換するとき、周囲をとりまく自然の不思議さ、ありがたさに気づくのである。
人間は、心の存在が、凡てである。心が、体を動かす。心が幸福を生む。幸福は幸福を呼ぶ。
人間の顔つきも習慣である。笑顔が習慣になればしめたものである。
夢中で生きることが、生きていく目的。
挫折はあなたを、たくましくする。
人生は、行動である。
最も身近な人を幸せにすることは、最も難しいことであり、それ故に、最も価値のあること。
欠点はかくすものではない。利用するもの。
自分の幸福も人の幸福も、同じように念願することの出来る境地まで、探し当てて歩いていく道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないだろうか。
私は幸福を撒き散らす、花咲かばあさんになりたい。
宇野千代とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
宇野千代。
1897年生まれ、山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)出身。
実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。
千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。
千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。
この継母が「おはん」のモデルとされる。
岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒。
14歳で義母の姉の子(従兄)藤村亮一と結婚するが10日ほどで実家へ帰る。
小学校の代用教員となるが退職。
その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。
京都に住んだあと上京。
本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトを18日間している間に久米正雄や芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ。
その後北海道へ行くが、1921年(大正10年)『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等で当選し作家としてデビュー。
文章がこんなに金になるのかと驚き、執筆活動に専念。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、いっこうに返事がないので上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。
あまりの大金であったため、その足で岩国の実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。
北海道に戻る途中、今後の打ち合わせとお礼を兼ねて中央公論に立ち寄った際に尾崎士郎を紹介され、ひと目惚れし、そのまま東京で暮らし始める。
1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊。
表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。
戦時中にいったん廃刊するものの、1946年に再び刊行し、成功を収めた。
着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。
作家としては寡作で、戦後10年近く沈黙していた。
1960年代からまた書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。
小説は10年かけて書かれた『おはん』、『色ざんげ』(東郷青児との関係を描いたもの)、『或る一人の女の話』などがある。
1970年(昭和45年)に『幸福』で女流文学賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞受賞、同年日本芸術院会員。
1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表、1982年(昭和57年)に菊池寛賞受賞。
その翌年発表された『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。
1990年(平成2年)文化功労者。
1996年6月10日、急性肺炎のため東京都港区の虎の門病院において98歳の生涯を閉じた。