浅田真央の「大切な」言葉たち
真央、本当はそんなに強くないよ。みんなが思っているようにはね。
自分の弱いところを出すと、自分の気持ちも弱くなると思いますし、自分の気持ちを強く持たないといけないと思うから言わないようにしている。
喜んでもらいたい人が見つかると、人は強くなれる。
遠征や大会で世界を周って、日本は恵まれている国だと感じています。人も親切で温かいです。海外では道を歩けば、ホームレスや子どもの物乞いに会いますし、低賃金や労務環境に反発した職員がストライキを起こして、電車やバスが動かなくなることは珍しくはありません。もちろん、日本でも事件はありますが、外国と比べてみると平和で恵まれています。
努力しないで天才になれたらいいな。
ママやパパには、毎日ありがとうって思ってる。それが当然だと思う。生まれてからずっと大切にしてもらっているし、可愛がってもらってきたからね。
やっぱり、もっともっと上のレベルを目指して練習するのは楽しいですから。また、それを試合で決められたら、もっとサイコーなので。できるな、という自信はあります。
『ああ、こんなに色々やってきたんだな』ってことです。色々なことがあって、それらを乗り越えてきたから、今があるんだなって。
その時々で目標に向かってひたすら頑張ろうという思いで、焦らずに毎日自分がやれることをやって壁を乗り越えてきました。
でも、そんなふうになったのは、全部自分の責任だから。それに、上手く行かなかったのは体調のせいじやない。心が弱かった。失敗したスケートアメリカのときみたいだった。自分では『やろう!』って思っているんだけど、どうしても足が動かなくて。
誰かに勝ちたいという気持ちはなかった。フィギュアスケートは、リンクに出たら自分一人。だから自分との闘いなんです。
これまでスケートの練習にほとんどの時間をかけてきたので、同世代とのつながりがあまりないのです。ですから、社会貢献活動を通じて、より多くの同世代とつながれたらうれしいです。
発言するって、とても大事だと思う。それで自分の頭に、やるべきことをインプットできる。
昔からそうだった。練習では完璧なのに試合で失敗してしまうとかね。だから、そうならないためにうんと練習する。絶対大丈夫、って思えるまでやる。自信はそこまでやらないとつかないから。真央、人からよく『天才』って言ってもらうけど、少しもそうじゃないのになって思うよ、自分のこと。
毎日少しずつでもいいから進んでいきたい。
悩んで決める必要はないし、無ければ無いで、毎日やるべきことを全力でやっていけば、必ず自分に合った道が自然と見えてくると信じています。恐れずに、何事にもチャレンジしていくことが大切だと思います。
自分も痛くないと思えば痛くない。心を強く持つために言わない。
トイレで泣いたのは、何て言えばいいんだろ。あのね、気持ちが『かくん』って、なったの。終わった直後は、うっすらだけど、『金メダルが取れるかも』っていう期待があった。で、二位だったから、『かくん』。でも、少しの間だけだよ。真央、だいじょうぶだった。表彰式の頃には、感謝でいっぱいになってた。あんなにいっぱい応援してもらったのに、落ち込んだ顔をしていたら、観客の人に悪いでしょ。真央が暗いと、みんなも暗くなっちゃう。
ひとつのことに打ち込んだ努力は報われると感じています。
やるしかない、練習するしかないんです。“浅田真央” から逃げることはできないので。
昨日の自分は、決して今日の自分を裏切らない。
難しい技だからこそ、挑戦したい。
辛いこともあるかもしれませんが、笑顔でいることはとても大切だと思っています。
悔しいから、もっとがんばれる。
大丈夫、きっと明日はできる。
浅田真央とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
浅田真央。
愛知県名古屋市生まれ。
名古屋市立高針台中学校、中京大学附属中京高等学校(84回生)、中京大学体育学部体育学科卒業。
尊敬しているフィギュアスケート選手は伊藤みどりさん。
5歳の時、姉の舞と共にスケートリンクに遊びに行き、スケートに出会う。
姉の舞と共に門奈裕子コーチが教える名東フィギュアスケートクラブに入会。
当時、同クラブには安藤美姫も所属していた。
3歳から12歳までは越智久美子によるバレエのレッスンを受けていた。
スケートを始めたのは、バレエでも使う足首を鍛えるためであった。
競技歴のない母は浅田を強くするために一人で学んだ。
2000-2001シーズンからグランプリ東海クラブに所属し、山田満知子・樋口美穂子両コーチに師事。
小学6年生の時に特例で出場した全日本選手権で不完全ながら3回転-3回転-3回転のコンビネーションジャンプを跳び、「天才少女」と呼ばれた。
全日本ノービス選手権では、2000-2001シーズンから2001-2002シーズンまでBクラスで、2002-2003シーズンから2003-2004シーズンまでAクラスで、それぞれ2連覇を達成した。
2004-2005シーズン、ジュニアグランプリ (JGP)で出場した3戦全てで優勝し、ジュニアデビューを飾る。
JGPファイナルでは女子ジュニア史上初の3回転アクセルに成功。
国内では全日本ジュニア選手権で初優勝し、シニアクラスの全日本選手権でも3回転アクセルを跳んで2位となった。
世界ジュニア選手権でも初出場初優勝を果たした。
2005-2006シーズン、初のシニア国際大会となるGPシリーズ中国杯で2位、エリック・ボンパール杯では優勝した。
GPファイナルでは世界女王のイリーナ・スルツカヤを破り、日本代表選手として村主章枝以来2人目の優勝を果たした。
全日本選手権では女子シングル史上初となる2度の3回転アクセルに成功したが、他のジャンプにミスがあり2位となった。
GPシリーズの実績からトリノオリンピック出場を期待する声もあったが、ISUの定めた「五輪前年の6月30日までに15歳」という年齢制限に87日足りず、代表資格を得られなかった。
連覇が期待された世界ジュニア選手権でもジャンプのミスが響き2位に終わった。
2006年夏、コーチをラファエル・アルトゥニアンに変更し、米国カリフォルニア州レイクアローヘッドに拠点を移す。
2006-2007シーズンが開幕すると、NHK杯で総合得点199.52点のISU歴代最高得点を叩き出して優勝。
GPファイナルは、フリーのジャンプで2度転倒して2位に終わった。
地元名古屋開催の全日本選手権では右手小指を骨折しながらも初優勝。
東京開催の2007年世界選手権はSPで出遅れたが、フリーで当時のISU歴代最高得点を出して銀メダルを獲得した。
2007年夏はロシアに渡り、タチアナ・タラソワのもとでバレエなどに取り組んで表現力や芸術性の強化をはかった。
2007-2008シーズンのGPシリーズは2戦とも優勝し、3季連続出場のGPファイナルではSP6位から巻き返して2位となった。
全日本選手権のSPで、同シーズンにミスが続いていた3回転フリップ-3回転ループを成功させる。
フリーでは冒頭の3回転アクセルが1回転半になったが、2連覇を達成した。
同年12月、慣れない海外生活での心労や、5月に中京大学のフィギュア専用リンクが完成し、国内で練習に専念できる環境が整ったことを理由に、練習拠点を米国から愛知に戻す。
2008年四大陸選手権で初出場初優勝。
コーチ不在のうえ足首の怪我が完治していない状況下で臨んだ2008年世界選手権では、フリー冒頭の3回転アクセルに入ろうとした所で大きく転倒したものの、その後は落ち着いて演技をまとめて逆転優勝。
日本人選手5人目の世界女王となった。
2008-2009シーズンからはタチアナ・タラソワに師事。
苦手なルッツやサルコウをプログラムに入れること、フリーで2度の3回転アクセルを跳ぶこと、フリーの『仮面舞踏会』でこれまでとは違う傾向のプログラムを滑ること、と多くの課題に挑戦した。
シーズン2戦目、NHK杯のフリーで2度の3回転アクセルに挑戦し、2度目が回転不足判定となったものの、他の出場選手に大差をつけて優勝した。
そして、金妍兒の地元韓国という「完全アウェー」で開催されたGPファイナルで、国際大会では女子史上初となる2度の3回転アクセルに成功し、3季ぶり2度目の優勝を果たした。
全日本選手権では3連覇を達成。
2009年国別対抗戦はSPで3回転アクセルのコンビネーションに成功、フリーでは2度の3回転アクセルに挑戦し、自身初めて200点を越える総合得点を出して女子シングル1位となった。
このシーズンはジャンプの回転不足が厳しく判定される傾向にあったため、3回転-3回転が成功と見なされないことが多く苦心した。
2009-2010シーズンはルッツ、サルコウ、3回転-3回転のコンビネーションジャンプをプログラムに入れず、SP・フリーで計3度の3回転アクセルを決めることに集中する構成を組んだが、GPシリーズでは、3回転アクセルが6回中1回しか成功せず、エリック・ボンパール杯は2位、ロステレコム杯は5位に終わった。
全日本選手権では復調を見せ、4連覇を達成してオリンピック代表に決定。
韓国で開催された四大陸選手権ではフリーで2度の3回転アクセルを成功させ優勝。
バンクーバーオリンピックでは、ショートで1度、フリーで2度の3回転アクセルに成功したものの、フリーではこれまでの試合同様プログラムに3回転ルッツと3回転サルコウを取り入れなかったことに加え、3回転フリップが回転不足となり、3回転トウループが1回転となったため技術基礎点は全体の6位となったが、成功した要素のGOEと演技構成点では高評価を得て自己ベストを更新し、銀メダルを獲得した。
世界選手権では、オリンピック金メダリストの金妍兒を破って2年ぶりに金メダルを獲得。
2010-2011シーズンは6月から9月頃まで長久保裕をジャンプ専門のコーチにつけ6種類全てのジャンプの矯正に取り組む。
1か月後の全日本選手権では復調し、SP1位、フリー2位の総合2位となる。
四大陸選手権ではSPで冒頭の3回転アクセルが着氷に乱れたもののフリーでは成功させ、シーズンベストを大幅に更新し、安藤に次いで2位となった。
2011-2012シーズンはGPシリーズ初戦のNHK杯で2位、ロステレコム杯では日本選手最多となるGPシリーズ8度目の優勝を果たし、3季ぶりにGPファイナル進出を決めた。
カナダでのGPファイナル開幕直前、以前から体調不良だった母親の健康状態が悪化したとの日本からの連絡を受けて帰国、ファイナルを欠場した。
その後母は肝硬変のため死去、48歳没。
母親の葬儀翌日の12月13日から練習を再開し短期間の調整で臨んだ全日本選手権では、2年ぶり5度目の優勝を果たした。
シーズン終了後にはスケートへの意欲を失い、辞めることも考えたという。
その後、ハンガリーでバレエの指導を受けるなど心身のリフレッシュを図り、8月に入ってから本格的に練習を再開した。
2012-2013シーズンは中国杯、NHK杯とGPシリーズで連勝、だがNHK杯後に疲労から発症した腰痛が悪化してしまう。
腰痛が完治していない状況下で臨んだGPファイナルでは4年ぶり3度目の優勝を果たした。
全日本選手権でも2度目の2連覇と6度目の優勝を果たし、世界選手権と四大陸選手権の代表に選出された。
四大陸選手権では、SPで冒頭の3回転アクセルを成功させ、バンクーバーオリンピックでマークした自己ベストに迫る総合205.45点で3年ぶり3度目の優勝を飾った。
世界選手権はSPで6位と出遅れたが、フリーでは自己ベストを6年ぶりに更新し2位となる。
総合3位で3年ぶりの表彰台に立った。
このシーズンは出場した国際大会と全日本選手権を合わせた6戦中5勝を挙げ、復活を印象づけた。
2013年4月、ソチ冬季オリンピックのシーズンを限りに引退する意向を表明した。
2013-2014シーズン、スケートアメリカで優勝。
シングルの選手でファイナルを含むグランプリシリーズ全7大会を全て制したのは史上初で、全体を通じても申雪/趙宏博組に続き2組目である。
続くNHK杯も2連覇、ファイナルでは歴代最多タイ記録となる4度目の優勝を果たした。
ソチオリンピックでは、団体戦のSPで冒頭のトリプルアクセルを失敗し3位。
女子シングルのSPでも転倒が相次いで16位と大きく崩れ、演技後のインタビューでは「何もわからない」と放心状態となった。
しかし、翌日のFSでは冒頭のトリプルアクセルをクリーンに着氷し、また、女子史上初となる全6種類、計8度の3回転ジャンプを着氷し142.71点と自己ベストを更新し3位となる。
またトリプルアクセルは前回のバンクーバーオリンピックでは計3回成功しており、2大会連続の成功は女子で初めての快挙となった。
演技を終えると感無量の表情で涙を浮かべ、歓声に笑顔で答えてリンクを去った。
結果成績はSPの点差が響きメダル獲得にはならず、最終順位は6位入賞となった。
さいたま市で開催の世界選手権ではSPで完璧な演技を披露して78.66点をマーク、歴代最高得点を更新する演技で首位に立った。
FSでも首位を守り総合では自己ベストを大きく更新し216.69点で4年ぶり3度目の優勝を果たした。
世界選手権の3回制覇は、日本男女シングル通じて最多となった。
2014年5月19日に2014-2015シーズンの全試合出場を見送り、1年間競技生活の休養を発表した。
2015年5月18日、公式ブログにおいて、現役続行の意思を明らかにした。
2015-2016シーズン、2015年ジャパンオープンで競技復帰し、141.70点という高得点をマークして女子1位となる。
ISUグランプリシリーズ復帰戦となる中国杯を優勝で飾り、NHK杯では3位となりグランプリファイナルに進出するもグランプリファイナルでの出来はSPで3位、FSで6位と芳しくなく総合では最下位の6位に留まった。
全日本選手権では3位となり伊藤みどりに並ぶ、11個目のメダルを獲得した。
四大陸選手権と世界選手権の代表に選出されたが、世界選手権に集中するために、四大陸選手権は辞退した。
2季ぶりの出場となった世界選手権では、シーズンベストを記録し、7位に入った。
2016-2017シーズン、グランプリシリーズのスケートアメリカで6位、フランス杯では9位と不振続きで、トリプルアクセルの解禁も全日本選手権まで遅れた。
全日本選手権も12位となり世界選手権代表を逃した。
2017年4月10日夜、競技選手としての現役引退をブログで表明し、同12日に東京プリンスホテルで引退会見を開いた。