「旭化成株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『野口遵』/沿革・歴史など~

「旭化成株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『野口遵』/沿革・歴史など~

 

「旭化成株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

 

「旭化成株式会社」のグループ理念

 

 

私たち旭化成グループは、世界の人びとの“いのち”と“くらし”に貢献します。

 

時代環境や社会の求めるものが変わっても、変わることなく、旭化成グループとして永遠に追求し続けるもの。それは世界の人びとを想い続けることに他なりません。

 

 

 

 

 

「旭化成株式会社」のグループビジョン

 

 

「健康で快適な生活」と「環境との共生」の実現を通して、社会に新たな価値を提供していきます。

 

 

 

 

「旭化成株式会社」のグループバリュー

 

 

「誠実」: 誰に対しても誠実であること。

「挑戦」: 果敢に挑戦し、自らも変化し続けること。

「創造」: 結束と融合を通じて、新たな価値を創造すること。

 

 

 

 

「旭化成株式会社」のグループスローガン

 

 

昨日まで世界になかったものを。

 

私たち旭化成グループの使命。

それは、いつの時代でも世界の人びとが“いのち”を育み、より豊かな“くらし”を実現できるよう、最善を尽くすこと。

創業以来変わらぬ人類貢献への想いを胸に、次の時代へ大胆に応えていくために―。

私たちは、“昨日まで世界になかったものを”創造し続けます。

 

 

 

 

 

 

「旭化成株式会社」の創業者・創立者『野口遵』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

野口遵(旭化成創業者)

 

 

野口遵。

1873年 7月26日 金沢の士族の家に生まれた。

 

東京師範学校附属小(現・筑波大附属小)を経て東京府中学(現・都立日比谷高校)入学。

乱暴といたずらで同校を放学され、成立学舎を経て、1888年 第一高等中学校入学。

 

1896年 帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部電気工学科)を卒業した。

郡山電灯に技師長格で赴任。

 

福島県の地方会社・郡山電燈に入社、という当時のエリートとしては異例のコースを選んでいます。

郡山電燈で沼上発電所の建設などに従事した後、1898年 シーメンス東京支社に入った。

 

長野県の安曇電気の電源開発や江之島電鉄の設立計画に関わるなど、「放浪技術者」の時代を経て電気技術の新知識を次々と吸収していきます。

野口の大学時代の後輩である藤山常一氏(宮城紡績電燈 主任技師)が三居沢(さんきょざわ)発電所の余剰電力を利用したカーバイド(炭化カルシウム)製造計画を立て、野口に技術指導を求めてきた。

 

野口は、シーメンス時代にこのカーバイドの研究を行っていました。

計画に賛同した野口は宮城紡績電燈常務らと三居沢カーバイド製造所を設立。

 

日本初のカーバイドの製造に成功しています。

1903年 仙台で日本初のカーバイド製造事業を始めた。

 

1906年 曽木電気を設立。

鹿児島県にある3つの鉱山に電力を供給する発電所の建設を依頼され、鹿児島県の大口に曽木水力発電所を開いた(後のチッソ、旭化成、積水化学、積水ハウス、信越化学)。

 

800キロワットの出力を持つ発電所を建設しました。

1907年 日本カーバイド商会を設立し、熊本県の水俣でカーバイドの製造を始めた。

 

熊本県水俣工場でカーバイド製造開始。

ちょうどこの時期、ドイツの化学者アドルフ・フランクとニコデム・カローの2人が、カーバイドに空気中の窒素を化合させて石炭窒素を製造する「フランク・カロー法」と呼ばれる製法を開発しています。

 

この特許の獲得こそ、事業の成功に不可欠だと考えた野口は1908年4月、藤山氏と共にドイツへと向かいます。

ライバルは三井財閥。

 

益田孝氏を、古河財閥は原敬氏という、後の政財界の大立者を交渉に送りこんできた。

35歳の野口は三井、古河の両財閥を相手に特許獲得競争に勝利。

 

野口は三菱などに支援を要請、石炭窒素、硫安(硫酸アンモニウム)の製造を開始することとなる。

1908年 曽木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料を設立。

 

帰国するとすぐに、両社を合併し、日本窒素肥料会社を発足させた。

1914年 広島電灯(現・中国電力)の取締役に就任。

 

中国山地・太田川水系の電源開発を計画。また東洋コルク工業(マツダの前身)などの支援や福屋デパート創業にも参画した。

また、1914年7月第一次世界大戦が勃発。

 

硫安工業、ソーダ工業、染料工業など最先端を走る産業が好調となった。

1919年 広島市に移住。出雲電気、広島電灯設立。

 

1920年 日本鉱山、五ヶ瀬電力、阿武川水力設立

1921年 イタリアのカザレー(Luigi Casale)博士よりアンモニアの新しい製造方法(カザレー法)の特許を購入した。

 

1922年 旭絹職を設立、専務取締役に就任。

1923年 宮崎県の延岡で、カザレー法によるアンモニア製造を開始した。カザレー法の実用化として世界初。

 

カザレー式アンモニア合成法の導入は、これまでの変成法からの大きな技術転換であり、日窒は国内総生産高の多くを占めるほどに成長。

1924年 日本窒素肥料の朝鮮半島への進出を決定した。

 

化学工業の生命を握るのは電力で、朝鮮半島とくに北側には、豊富な水資源があることがわかっていた。

1926年 朝鮮水電を設立、取締役社長に就任。信越窒素肥料を設立。

 

1926年 朝鮮窒素肥料を設立、取締役社長に就任。

朝鮮窒素は、後に日窒コンツェルン・野口財閥の中心事業になるのであり、野口には一世一代の大仕事となった。

 

1929年 日本ベンベルグ絹糸(現・旭化成)を設立した。

1930年 朝鮮窒素・朝鮮水電が合併,赴戦江系水力発電所の工事完成,新興鉄道、日窒火薬を設立

 

1932年 京城府本町(現・ソウル特別市中区明洞)に半島ホテル(現・ロッテホテル)を開いた。

1932年 旭絹織・日本ベンベルグ・延岡アンモニア工業が合併し旭ベンベルグを設立、取締役社長に就任、日本窒素肥料社長に就任、長津江水電設立、社長に就任

 

1933年、資本金2000万円で長津水力発電を設立。ここで日窒は14万kwの電力を確保し、硫安生産を始める。

1934年 朝鮮送電を設立

 

1936年、長津水力発電を一気に7000万円増資、第二発電所以下の全発電所を完工せしめ、世界一を誇るソヴィエト連邦・ドニエプル発電所(31万kw)を凌駕する32万kwの長津江系発電所を完工させた。

1937年、朝鮮並びに満州鴨緑江水電を設立し、社長および理事長に就任

 

同年、100万kwの発電を目指す朝満合併の鴨緑江水力発電を計画。

7つのダムが建設され、鴨緑江をそれに連結させて流すという大工事が完工された。

 

1937年日中戦争が勃発。

1940年 京城で脳溢血に倒れ、実業界から引退した。

 

1941年 科学振興・朝鮮教育振興のため私財3000万円を投じて、2,500万円で野口研究所を設立、500万円を朝鮮奨学会に寄付した。

1942年 勲一等瑞宝章を受けた。

 

1943年 朝鮮水力、朝鮮送電その他を合併して、朝鮮電業を設立。

1944年1月15日 第二次世界大戦中に他界。

 

2019年のノーベル化学賞は、リチウムイオン電池の開発に大きな貢献をした、旭化成名誉フェロー吉野彰氏に授与されました。

 

日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。

「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。

 

チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。

 

 

 

 

野口遵の理念

 

 

「人類文化の向上と吾社の使命」

 

吾々工業家は飽までも大衆文化の向上を念として、最善の生活資料を最低廉価に然も豊富に給することを以って究局の目的としなければならぬ。

(昭和8年7月)

 

 

 

 

 

野口遵(旭化成創業者)の名言・考え方

 

 

 

俺の名は一向に他人に従わない遵(したがう)と呼ぶんだ。

 

 

 

営利を主とせず国家的見地で取り組む。

 

 

 

電力を使って化学工業を。

 

 

 

三井は日本一の富豪だ。俺は貧乏だ。しかし、カーバイドを扱ってきた経験がある。明日からでもこの特許を実用化できる。三井がやるとすれば、まず発電所からつくらねばならぬ。特許だけ買ってもそれは死物だ。金が欲しいなら三井へ売れ。仕事本位なら俺にやらせろ。

 

 

 

古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。

 

 

 

月を思うものは花を作り、年を思うものは木を植え、代を思うものは人を育てる。

 

 

 

 

 

「旭化成株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

1922年 旭絹織株式会社を設立

 

1931年 延岡アンモニア絹絲株式会社設立(1931年5月21日資本金1,000万円)

アンモニア、硝酸等化成品を製造販売

 

1933年 延岡アンモニア絹絲株式会社は、日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ糸「ベンベルグ」を製造・販売)および旭絹織株式会社(ビスコース・レーヨン糸を製造・販売)を合併し、社名を旭ベンベルグ絹絲株式会社と改称(資本金4,600万円)

 

1943年 旭ベンベルグ絹絲株式会社は、日本窒素火薬株式会社(ダイナマイト等を製造・販売)を合併し、社名を日窒化学工業株式会社と改称(資本金5,440万円)

 

1946年 日窒化学工業株式会社は、社名を旭化成工業株式会社と改称(資本金5,440万円)

 

1949年 東京、大阪および名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式を上場

 

1952年 米国ダウ・ケミカル社と合弁で旭ダウ株式会社設立、川崎地区へ進出

 

1957年 旭ダウ株式会社、ポリスチレン製造開始、合成樹脂事業へ進出

 

1959年 富士でアクリル繊維「カシミロン」の本格製造開始、合成繊維事業へ本格展開

 

1960年 「サランラップ」販売開始、樹脂製品事業へ進出

 

1962年 川崎でアクリロニトリルを製造開始

 

1967年 松戸で軽量気泡コンクリート「ヘーベル」の製造開始、建材事業へ本格進出

 

1968年 山陽石油化学株式会社設立、水島地区で石油化学事業へ本格進出

 

1971年 旭シュエーベル株式会社設立、ガラス繊維織物事業へ進出

 

1972年 水島で山陽エチレン株式会社(現、旭化成株式会社)による年産35万トンのエチレンセンター完成
「ヘーベルハウス」本格展開、住宅事業への本格進出
旭化成ホームズ株式会社設立

 

1974年 旭メディカル株式会社(現、旭化成メディカル株式会社)設立、人工腎臓の生産開始、医療機器事業へ進出

 

1976年 株式会社旭化成テキスタイル設立、テキスタイル事業の強化
旭化成建材株式会社設立

 

1980年 宮崎電子株式会社(現、旭化成電子株式会社)設立、ホール素子事業へ進出

 

1982年 旭ダウ株式会社を合併、合成樹脂事業を強化

 

1983年 旭マイクロシステム株式会社(現、旭化成エレクトロニクス株式会社)設立、LSI事業へ本格展開

 

1992年 東洋醸造株式会社と合併、医薬・医療事業を強化、酒類事業へ進出

 

1994年 株式会社旭化成テキスタイルを合併、繊維事業を強化

 

2000年 新日鐵化学株式会社より欧米コンパウンド樹脂生産子会社を譲受し、欧米における生産拠点を確保

 

2001年 旭化成工業株式会社から、旭化成株式会社へ社名変更

 

2002年 焼酎および低アルコール飲料事業をアサヒビール株式会社およびニッカウヰスキー株式会社へ譲渡

 

2003年 清酒・合成酒関連事業をオエノンホールディングス株式会社へ譲渡
分社・持株会社制へ移行
持株会社と7事業会社(旭化成ケミカルズ株式会社、旭化成ホームズ株式会社、旭化成ファーマ株式会社、旭化成せんい株式会社、旭化成エレクトロニクス株式会社、旭化成建材株式会社、旭化成ライフ&リビング株式会社)からなるグループ経営体制へ移行

 

2007年 旭化成ケミカルズ株式会社が旭化成ライフ&リビング株式会社を吸収合併

 

2008年 旭化成クラレメディカル、旭化成メディカルが事業会社としてスタート

 

2009年 旭化成イーマテリアルズ株式会社設立

 

 

2012年 旭化成クラレメディカル株式会社、旭化成メディカル株式会社を統合 (存続会社名は旭化成メディカル株式会社)
米国ゾール・メディカル社を買収および連結子会社化

 

2015年 米国ポリポア・インターナショナル社を買収および連結子会社化

 

2016年 三菱ケミカル旭化成エチレン株式会社において、エチレンセンターの共同運営を開始
旭化成ケミカルズ株式会社、旭化成せんい株式会社、および旭化成イーマテリアルズ株式会社を、旭化成株式会社に吸収合併し、事業持株会社に移行

 

 

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