「GMOインターネット(株)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「GMOインターネット(株)」の企業理念
インターネットになくてはならない企業として
日本がまだインターネットの黎明期だった1995年に、インターネット事業を開始した「GMOインターネットグループ」。
高価で難しかったインターネットへの接続やレンタルサーバー・ドメイン登録を「安価でかんたん」なサービスとして提供することで、インターネットが急速に広まるきっかけを作り出した当社。
インターネット事業開始以来、私たちは「すべての人にインターネット」のコーポレートキャッチの下、インターネットに初めてつながり、触れたときの感動を広めていくことに取り組み続けてきました。
私たちは現状に満足することなく、活動の領域をさらに広げていくとともに、新たなビジネスの可能性につなげるさらに高度な取り組みを行っていきます。
これまでの実績を新たなビジネスの可能性につなげていく、その根底にあるのが、GMOインターネットのすべての仲間の手帳に綴じられている経営理念「スピリットベンチャー宣言」です。
「GMOインターネット(株)」のスピリットベンチャー宣言
私たちには「スピリットベンチャー宣言」という、1995年以来全パートナーが共有すべきスピリットがあります。
このスピリットは「夢」・「ヴィジョン」・「フィロソフィー」の3つの考え方と「経営マインド(基本行動原理・原則)」で構成されており、インターネット事業開始時から当社の成長に応じて改訂や追記を続けてきたものです。
仲間一人ひとりが発揮する高いパフォーマンスに、このスピリットを共有することで生まれる一体感が加わることで、私たちの大いなる夢である「すべての人にインターネット」の実現が可能となるのです。
【夢】人生を何に捧げるのか
インターネットの産業の中で圧倒的”1番”になる。
幸せになろう、成功しよう、”1番”になろう。
私たちにとっての幸せとは、心の平和、満足感、目標を達成した時の喜び。
私たちにとっての成功とは、物・心ともに豊かで、「笑顔」「感動」を産みだしながら、人生を全うすること。
私たちにとっての”1番”とは、他との比較ではなく、自分に勝つこと。
すべての人にインターネット
健康・精神・教養の基礎レベル、社会生活・家庭生活の実現レベル、経済の結果レベル、すべてのエリアでバランスが取れた全人を目指そう。
その全エリアにて私たちは夢を持つ。
その社会生活=仕事の夢を共有しよう。 仕事の夢は”1番”になること。
【ヴィジョン】宝の山はどこにあるのか
デジタル情報革命が進行する中で、インターネットのインフラ・サービスインフラ、すなわちインターネットの”場”の提供に経営資源を集中し、多くのファンの「笑顔」「感動」と、その結果としての大きな利益を生む。
【フィロソフィー】何のために存在するのか
私たちの活動はインターネットを豊かに楽しくし、新たなインターネットの文化・産業とお客様の「笑顔」「感動」を創造し、社会と人々に貢献する。
「GMOインターネット(株)」の創業者・創立者・中興の祖『熊谷正寿』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
熊谷正寿(GMO創業者)
熊谷正寿。
1963年長野県東部町(現・東御市)生まれ、東京都育ち。
母方の祖母・貞子は、幕末の剣術家伊庭八郎を輩出した心形刀流宗家の伊庭家の傍系の出身で、曽祖叔父に音楽評論家の伊庭孝がいる。
祖父は、原敬(元首相)の側近で、立憲政友会の副幹事長を務めた政治家である熊谷巌。
実父は神楽坂を中心に不動産、飲食店、パチンコ、アミューズメントを営む熊谷興業の創業者(同社の現・社長は異母弟の熊谷誠)。
國學院高等学校中退。
1991年5月 – 株式会社ボイスメディア設立、ダイヤルQ2で出会い系コンテンツの配信と専用機器の販売をしていた。全国規模で展開し、各地にはパソコン通信やプロバイダーのアクセスポイントに似たアクセス拠点となるテレホンセンターを設置していた。
1995年11月 – 普及しはじめたインターネットに注目、商号をインターキュー株式会社に変更。
1999年8月 – 株式店頭公開(証券コード 9449)。JASDAQへ株式上場。独立系ネットベンチャーとして国内初。
2000年9月 – 連結子会社「まぐクリック」ナスダックジャパン(現ヘラクレス)に上場。創業364日(当時、日本史上最短上場記録)
2001年 – グローバルメディアオンライン (GMO) に商号変更。
2003年11月 – JASDAQ「J-Stock銘柄」に選定される。
2004年2月 – 東京証券取引市場第二部上場。
2005年4月 – 連結子会社「GMOペイメントゲートウェイ」が東京証券取引所マザーズ市場に上場。GMOインターネットグループとして3社目の株式上場。
2005年6月 – GMOインターネットに商号変更。東京証券取引所市場第一部へ株式上場。
2005年12月 -GMOホスティング&セキュリティ(現:GMOクラウド株式会社)が東京証券取引所マザーズ市場に上場。GMOインターネットグループとして4社目の株式上場。
2007年12月 – GMOインターネットグループ企業のGMOインターネット証券(現:GMOクリック証券)の全株を取得。
2008年9月 – GMOペイメントゲートウェイが東京証券取引所第一部に指定替え。
2008年12月 – 株式会社paperboy&co.(現:GMOペパボ株式会社)がジャスダック証券取引所に上場。GMOインターネットグループとして5社目の株式上場。
2012年6月 – 一般社団法人新経済連盟理事。
2012年9月 – JASDAQ上場企業である「FXプライム株式会社(現:株式会社FXプライム byGMO)」がGMOインターネットグループにジョイン。GMOインターネットグループとして6社目の株式上場会社
2014年10月 – 「GMOリサーチ株式会社」が東京証券取引所マザーズ市場に上場。GMOインターネットグループとして7社目の株式上場。
2014年10月 – 「GMOクラウド株式会社」が東京証券取引所第一部に指定変更。GMOインターネットグループとして3社目の東証一部上場企業に
2014年12月 – 「GMO TECH株式会社」が東京証券取引所マザーズ市場に上場。GMOインターネットグループとして8社目の株式上場。
2015年4月 – 「GMOクリックホールディングス株式会社(現:GMOフィナンシャルホールディングス株式会社)」が株式会社FXプライム byGMOを株式交換、ジャスダック証券取引所にテクニカル上場。
2015年10月 – 「GMO メディア株式会社」が東京証券取引所マザーズ市場に上場。GMOインターネットグループとして9社目の株式上場。
2016年1月 – 経済誌「財界」による財界賞・経営者賞(第58回)で、平成27年度「経営者賞」を受賞。
2016年1月 – 『シーバスリーガル18年 ゴールドシグネチャー・アワード 2016 Presented by GOETHE 』において、「コーポレートバリュー デベロップメント部門」を受賞。
2017年7月 – 経営誌「企業家倶楽部」が主催する2017年度 第19回企業家賞で、「企業家大賞」を受賞
2017年12月 – 株式会社FiNCが主催する「WELLNESS AWARD OF THE YEAR 2017」で「経営者部門」を受賞
熊谷正寿(GMO創業者)の名言・考え方
父は戦争で満州に行っていました。戦後、日本に戻ってきたときに軍からサッカリンという人工甘味料を持ち帰り、汁粉屋をはじめたそうです。その利益で映画館、喫茶店、パチンコ屋などを展開していました。子どもの頃から、レストランに一緒に行ったときには、その店の客単価や回転率の話をよく聞かされていた。夜中に「長野の店が上手くいっていなくて困っている」と、隣の部屋で両親が話していたのをたまたま聞いたのがきっかけでした。父はパチンコ屋をチェーン展開していて、長野にある母の実家の近くにお店をつくっていました。郊外型の店舗で、千何百坪の土地があり、車を100台以上停められるような規模の店だった。東京の店で1、2カ月の研修を受けた後、長野に向かったのですが、17歳の若造のうえにド素人です。誰も言うことは聞いてくれなかった。マネジメントの「マ」の字もなかった。ゼロから揉まれて勉強することになりました。
3つあります。まずは、「どのように人を動かすか」というマネジメント。次に「計数管理」。パチンコ屋というのは、確率の世界です。釘を少し動かすと出玉率が変わる。すべてのパチンコ台の数字を記録して、確率の中に経営を落とし込んでいくのがパチンコ屋です。出玉管理だけを行う、非常に原始的なコンピュータでした。パチンコ屋の経営で大切なのは、いかに席を埋めるか、なんです。暇な店というのは、利益管理ができていない。つまり、玉が出る台が限られていて、それ以外の台にお客様が座ってくれない。一方、稼働率が高いと、席が空くのを、みんなやりたくてうずうずして待っている。釘を読まれて出る台ばかりに人がつくと、パチンコ屋は赤字になってしまう。だから、出る台、出ない台でいかにお客様に等しく遊んでもらえるか、が大切になる。パチンコ屋って売上高はものすごいんですけれど、利益率は低い。たくさん利益を取っているようなところにはお客様は来ません。稼働率を高めて、数%の利益でやっている店にお客さんがつくんです。3つ目は「顧客心理」ですね。どうすればお客様が喜んでくださるか。つまり、あの店は玉が出ると印象づけることでした。朝一番から打ち止めになるほど玉が出るビックリ台というのをつくってみたり、宣伝活動で他の店よりも玉が出ると印象づけたりして、「出るから人がいる」という好循環をつくりました。
中学の時はほとんど勉強しませんでした。「やればできる」と自惚れてたんですね。中学3年の時に、担任に「国学院大学付属高校に行きたい」と言うと、「絶対無理だ。やれるもんならやってみろ」と大笑いされました。国学院大学付属高校の偏差値は65以上。確かに当時の成績では不可能に思えました。しかし担任の言葉が非常に悔しくて、必死で勉強したんです。そして、受験1ヶ月前には教科書を全て暗記してましたね。
死ぬ気で勉強した結果、国学院大学付属高校に首席で入学できたんです。入学式では新入生代表のスピーチも任され、国学院大学の学長に「国学院大学に進学しないで、東大に行ってほしい」とまで言われました。しかし2年生になると「やればできる」という慢心からまったく勉強しなくなり、600人中500番まで成績が落ちてしまった。それで学年主任の先生に目を付けられてしまい、結局2年生の夏に高校を中退したんです。
20歳で結婚して、21歳で子供が生まれました。また当時は通信制の大学にも通っていた。それに加えて、父が経営する会社で働いて学費と生活費を稼いでいました。ですから20代前半は夫、父親、学生、社会人のひとり四役をこなしていたんです。私の父は、「二世後継者」として私を雇っていました。「二世後継者」というと親の七光りで仕事はしないがお金はあるというイメージが強いですが、私の場合は全くの逆。父からは「一番安い給与で一番働いて、他の社員の手本になれ」と言われていた。また「人間は動物とは違う。書物を通じて、人の一生を数時間で疑似体験できる。だから本を読め。生涯勉強しろ」と教わりました。だから、私は少しでも時間があれば勉強しました。いくつもの勉強会にも参加し、ありとあらゆる新聞や本を読み漁った。当時の生活は肉体的にも精神的にも、そして経済的にも非常に辛かったですよ。そんなある日、夜遅くに帰宅すると家内がアルバイト情報誌を片手に泣いてるんです。訳を聞くと「お金が無い。子供を保育所に預けてアルバイトを始めるの」とひと言だけポツンと答えたんです。その時は非常に辛い思いをしましたよ。自分を信じて結婚してくれた女房を泣かせている。それまでの苦労なんか比べものにならないくらい悩みました。
悩んだ挙句に三つのアクションを起こしました。まず一つ目は、「夢のリスト」を作ったんです。これは、自分が一生涯を通してやりたいこと、欲求・欲望・夢、そういったものを心のおもむくままに書き綴ったメモ帳です。そしてそのメモ帳に数十、・数百もの夢・目標を書いていくうちに、自分の究極的な目的にたどり着いたんです。自分がこの生涯で追い求めていきたいものは、「幸せ」と「成功」だなって。そして、私はこの二つの言葉を定義付けしました。「幸せ」とは、心が穏やかであったり、満足感を得ている状態のこと。「成功」とは、物質的に余裕があること。精神的に豊かな人間になること。そして、社会に貢献するものを生み出せる人間になること、だと。次に二つ目は、「人生ピラミッド」というものを作りました。「夢のリスト」を6つのジャンル別に分けて「基礎レベル」、「実現レベル」、「結果レベル」の三つのレベルに分けた。まず20代では、「基礎レベル」の夢を達成しようと考えました。「基礎レベル」で一番の柱になったのが健康です。体調を崩しては、元も子もありませんよね。当時、私の体重は80キロもあったんです。それを70キロにしようと考えたり、様々なスポーツをしようとも考えた。心のあり方も考えました。また先ほどもお話したように、当時はひとり四役をこなしていました。自分で選んだ道にも関わらず、その状況を人のせいにしたり、他人を蔑んだりもしていた。いま思えば、辛いことを人のせいにすることで精神的に逃げていただけですよね。そんな自分を変えようと、精神面を高めるためにいろいろな心がけをしていきました。教養面では、毎日欠かさず新聞を読んだ。そうやって私は夢・目標を細分化し、達成期限とゴールを決めていったんです。そしてチェックリストを作って、毎日コツコツ努力を積み重ねていきました。最後に三つ目は、「人生年表」を作りました。自分の夢・目標を時系列に落とし込み、自分の未来を年表化したんです。完成した年表は結果として、 20歳前半から35歳までの人生の年表になりました。当時は「人生年表15年計画」と名づけて毎日持ち歩いてました。朝起きたとき、ご飯を食べるとき、夜寝る前、といつも「人生年表」を見ていました。でも、そういう風にして「人生年表」を自分の潜在意識の中に植え付けたことで、ただ考えるだけでなく、実際の行動に結び付けられるようになったんです。20歳の頃から、「人生年表」を達成することだけをひたすら考えていましたね。
MBAを取ろうが、大学でいかに素晴らしい知識を身に付けようが、社会に出てビジネスをしようと思うのであれば、まずは相手との信頼関係を築かなければなりません。それはつまり、その人自身が相手に気に入ってもらう必要があるということです。その時にまずは最低限必要なことがあります。それは、礼儀正しさです。もちろん礼儀正しいだけで、実力がなければ長続きしません。しかし仮に実力があっても、挨拶ができていなかったり、失礼な態度、偉そうな態度をとって相手に不快な思いをさせるような人では、せっかくの実力が発揮できないですよね。私は15年前、「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(キングスレイ・ウォード著)という一冊の本に出会いました。その一節に「礼儀正しさに勝る攻撃力はなし」という言葉があったんです。この言葉ほど私の人生に影響を与え、衝撃を受けた言葉はありません。私は小さい頃、祖母から教育を受けていたことがありました。私の祖母は剣道師範の家柄の出だった。武道というのは礼儀作法を非常に重視しますよね。ですから私は礼儀にとても厳しい環境で育てられたんですよ。小さい頃は礼儀作法について叱られることが嫌で嫌でしょうがなかったですね。しかし、社会に出てから礼儀作法の必要性や重要性を肌身にしみて感じた。礼儀作法のできていない人が失敗していく様を幾度も見たんです。ですから、今の自分を作ってくれた祖母には心から感謝していますね。
基本的に、僕はダメな人なんですよ。高校を中退していますし、飽きっぽいし、忘れっぽい人間なんです。それでも手帳に目標を書きコツコツ続ければこんなことができるという話なんです。
会社というのは統計的にはそう続くものではありません。一説によると5年で7割が消え、10年で98%が消えると言われています。20年後にはたったの0.3%。そのなかに入るにはどうしたらいいのか。ずっと考えながら経営をしてきました。振り返ると、その肝のひとつは『淡々とやり続けること』だった気がします。仕事でも、人生でも、誰もやりたがらないことを含め淡々と続けていくしかない。継続は力なりと言いますけど本当です。それがいまの自分につながっている気がしますね。
お金はないし、時間もない。学生の友人たちをうらやましく感じていました。手帳に夢や目標を書くようになったのはそのころです。『事業家として圧倒的No.1の会社を作る』『その会社を35歳で上場させる』、書いているうちに力が湧いてきたんですね。実現までの期限を決め、逆算して『今月やること』『今週やること』『今日やること』を決めていきました。
電気と交換機の仕組みを図書館で勉強し、秋葉原で部品を買って自分で機材を作りました。掛かった費用は数万円。当時、アメリカから輸入した装置を使って同じサービスを展開していた会社がありましたが、機材だけで3000~4000万円したと聞きましたね。
その夢も当初は周囲に笑われましたからね。『何を、バカなことを』って(笑)。けれど、なかには『実現したら本を書くといい』と言ってくれた方もいた。うれしくて手帳に書き足して出版をイメージしたイラストをずっと持ち歩いていました。
上場審査の期間中は新しい事業に着手することができません。当時はホリエモンさんのフジテレビ買収が世間をにぎわせていたり、サイバーエージェントの藤田くんや楽天の三木谷さんが新事業に手を広げていた時期でもありました。対する我々は止まってしまっている感じが否めませんでした。
あの危機を乗り越えたことで自走式組織が形成され、さらに強い基盤ができたのだと思います。当時の僕は24時間対応に追われていましたから現場を見る余裕はなかった。けれど、幹部は誰ひとり辞めることなく自分の持ち場を守ってくれたんです。社内の信頼関係が強くなったのはもちろんですけど、任せたからこそ全員が共に成長したのだと思っています。
世の中に多くの笑顔を作るグループであること。利益は結果でしかありません。№1のサービスが受けられればお客さまは喜びますし、そうしたサービス、プロダクトを生み出すことでグループのパートナー(※社員)も笑顔になる。結果として利益が生まれ、株主も笑顔になる。この3つの笑顔が経営者として目指すところ。同時に、僕の寿命が尽きた後も組織として自走できるような仕組みを作っていくことです。
それは写経のように1000回でも2000回でも。気分が乗らないときだってありますよ。へこたれそうになるときもある。それが普通です。でも、だからこそ、なんです。自分は普通にはならないぞと手帳に書いて決めるんです。結局、モチベーションは他人が高めてくれるものじゃない。自分の心は自分で焚(た)きつけるしかない。やりたいことを明確にしてコツコツと努力する。余計なことには時間を割かず、手帳に書いて何度も何度も想起する。淡々と続けていけばどんな人の人生も変わると僕は思っていますよ。
21歳の時、「何かの事業分野で圧倒的ナンバーワンになる」という夢を掲げました。その時点では、まだ具体的な事業分野は決まっていなかった。だから、その後も人生を賭けるべき事業分野を模索していました。ただ、当時から自分の目指すビジネスについて、漠然としたイメージは持っていました。それは鉄道ビジネスのイメージ。鉄道ビジネスは、線路を引いて電車を走らせるだけではありません。鉄道会社は鉄道沿線に住宅地をつくります。またターミナル駅に百貨店、郊外の駅に遊園地や動物園などをつくる。そうやって自社のつくったインフラ上で様々なサービスを提供し、一大企業グループを形成できるんです。たとえば東急グループ。東急電鉄を軸に東急百貨店、東急ホテル、東急不動産など、幅広いビジネスを展開しています。鉄道というインフラを軸に、多数の関連事業を展開し、高い収益を上げているわけです。ですから、圧倒的ナンバーワンになるためには、まず鉄道のようなインフラを押さえようと考えました。そして1995年。僕はインターネットに出会い、大きな衝撃を受けました。インターネットは人々のライフスタイルを根底から変えると思ったからです。また当時、インターネットの分野は誕生したばかりの市場で、まだ僕らがインフラビジネスを手がけるチャンスがあった。そこで、僕は「インターネット産業で圧倒的ナンバーワンになる」という夢を掲げました。先ほど話した「鉄道」というインフラに相当するのが「プロバイダ」や「サーバー」。そして、これらのインフラの上に様々なネットビジネスが乗っかっていく。インターネット分野で一大企業グループをつくるイメージがわいたんです。
仲間の集め方は、ひとつしかありません。ひたすら周囲に夢を語る。ずっと語り続ける。それしかない。もちろん、経営者は心の底から夢を信じなければいけません。はたから見れば、「まるで気が狂っているんじゃないか」と思われてしまうくらい信じる。そうすれば、夢を語る言葉はやがて”信念”へと昇華します。そして、その”信念”は人の心に伝わり、人を動かすんです。僕は15年前から、ずっと同じ夢を語り続けています。「インターネットに命を賭ける。この分野で絶対にナンバーワンになる」と。この夢に共感して集まってきてくれたのが、今の幹部たちなんです。たとえば、専務の安田と西山。安田はもともと公認会計士として、大手監査法人に勤務していました。でも僕の夢に共感してくれ、監査法人から当社へと転職してくれた。西山は当社に入社する前、自分で会社を経営していました。でも、僕と一緒に夢を実現させるため、経営していた会社をたたんで、当社に参画してくれたんです。
当初、GMOインターネットはプロバイダ事業からスタートしました。プロバイダ事業に一点集中してナンバーワンになろうと。実際、プロバイダ事業は順調に成長し、当社はインターネットプロバイダとして日本初の株式上場を果たしました。でも、上場前からプロバイダ事業には限界を感じ始めていたんです。プロバイダ事業は「人数×単価」の商売。そのため、いつかは人口という壁にぶつかってしまう。ビジネスモデル上、いつか成長の限界が来てしまうんです。そこで、次のビジネスを探すため、1997年に僕はシリコンバレーに飛びました。インターネットビジネスの本場は米国。中でも最先端を走っているシリコンバレーに行けば、何かヒントが見つかるんじゃないかと。そんな淡い期待を抱いて、シリコンバレーの起業家たちを訪れました。実際、シリコンバレーにはヒントが転がっていました。そのひとつがデータセンター。今でこそデータセンターといえば、強固なセキュリティの近代的な建物を想像するでしょう。しかし、当時はまったく違いました。木のテーブルの上に数台のパソコンが置かれ、そのまわりに鉄条網が張り巡らされているだけ。それが原始的なデータセンターだったんです。そしてシリコンバレーの起業家たちから詳しく話を聞くうちに、これは大きなビジネスチャンスだと気づきました。インターネット回線の数は人口に規定されますが、Webサイトの数は人口に規定されない。だからデータを管理するレンタルサーバーには成長の限界がない。Webサイトが増えれば増えるほど、無限にビジネスが広がっていくんです。
必ずしも順風満帆じゃなかったですね。2006年に一度死にかけましたから。金融事業で400億円もの損失を出してしまい、倒産の危機に陥ったんです。当時、当社には2つの事業の柱がありました。「Webインフラ・EC事業」と「インターネットメディア事業」。僕はより経営を安定させるために3つ目の事業の柱が必要だと考えていました。そこで新たに立ち上げたのが金融事業だったんです。ちなみに金融事業として考えていたのは、ネット証券、ベンチャーキャピタル、ローン・クレジットなど。将来的には銀行まで手がけるつもりでした。そして2005年から2006年にかけて、ベンチャーキャピタル(現:GMOベンチャーパートナーズ)と証券会社(現:クリック証券)をゼロから立ち上げました。ただ、ローン・クレジット会社だけは他社を買収しました。ローン・クレジットは金利商売なので規模が必要。貸出残高が500億円を超えないと黒字にならないんです。そこで、中堅ローン・クレジット会社のオリエント信販を約250億円で譲り受けることにしたんです。
ふたつの要因がありました。ひとつは、2006年1月の最高裁判決。「グレーゾーン金利は違法。過去にさかのぼって変換しなさい」東京都いう判決が下された。その後に過払い金の請求が急激に増え始めたんです。1ヶ月の利益4億円に対して、過払い金の請求は2億円程度。つまり、利益が半減してしまったんです。当社がオリエント信販を譲り受けてから1年も経っていない。それなのに、過去のオーナーが得た利益の分を当社が支払わなければいけない。これは受益者負担の原則からすると疑問でした。しかし、グレーゾーン金利については、すでにメディアでも報道されており、当社にとっては織り込み済みのリスクでした。ただ、もうひとつが想定外でした。それは2006年10月の会計基準の改定です。ローン・クレジット会社は、グレーゾーン金利の支払い請求に備えて、会計上、引当金を積んでおかねばなりません。ただ通常の引当金って1年分なんですね。ところが会計基準が改定され、その引当金が”10年分”に改定になったんです。この改定を知り、僕は背筋が凍りました。これはヤバイと。当社の場合、約200億円の引当金を積むことになりました。その結果、自己資本比率は急激に低下。債務超過の危険性が高まったんです。債務超過になれば、いつ金融機関から融資の返済を迫られてもおかしくありません。つまり、黒字倒産の危険性が生まれたんです。もう目の前が真っ暗になりましたね。
まず僕自身の全財産を突っ込みました。まず2006年末、個人名義で当社に76億円の増資をしました。そして2007年8月には、個人でGMOインターネット証券(現:クリック証券)を48億円で買い取りました。僕個人の財産をすべてつぎ込んで、当社の財務基盤を支えたんです。それでも、まだ危機は続きました。このまま過払い金の引当を続けていたら、債務超過に陥りかねない。そこで2007年8月、ローン・クレジット事業からの撤退を決断したんです。問題の原因を根本的に取り除こうと。そして、250億円で買収した事業をわずか500万円で売却しました。苦渋の決断でしたが、背に腹は変えられません。しかし、この時点でも当社の自己資本比率は0.5%。本当にギリギリの数字でした。ちなみに、こんな危機的な状況でしたから、当時は様々な会社から買収の提案を受けました。
外資系ファンドから「GMOインターネットを500億円で売ってくれ」という話が持ちかけられたこともありました。「今回の責任を取って僕の保有する株式を売却する」、そういう名目なら株主への説明も付いたでしょう。そうすれば、僕は売却益で得た数百億円を持って、ハワイでのんびり余生を過ごせる。数十億円もの借金を背負う必要もありません。でも、僕はこの買収話を断りました。やはりGMOインターネットは売れなかった。僕にとって本当に大事なものは、お金じゃない。やはり「夢」と「仲間」なんです。GMOインターネットグループの社員たちは、僕の掲げた「インターネット産業で圧倒的ナンバーワンになる」という夢に人生を賭けてくれている。そんな仲間を裏切れなかったんです。僕は借金を背負ってもいい。絶対に夢はあきらめないと決意しました。
将来やりたいこと、なりたい自分を思いつくままに書き連ねました。これがすごく胸がすっとして自分を楽にしてくれたのです。この作 業を習慣化していくうちに、今はこうだけど将来はこうなるんだという気概がどんどん大きくなりました。次に、たまった「やりたいことリスト」を3段の「人 生ピラミッド」に振り分けます。下の段の中心が何よりも大切な「健康」。その左右に「精神・心」「知識・教養」です。それを土台とし、「社会・仕事」「プ ライベート・家庭」を乗せて、一番上を「経済・モノ・お金」としました。そして、下の段から「基礎レベル」「実現レベル」「結果レベル」と名づけ、アク ションの優先順位をつけたのです。「どんな分野でもいい、事業家として圧倒的ナンバーワンの会社をつくる」「35歳で会社を上場させる」といった、明確な 夢も生まれました。それができたら、今度は行動のためのスケジュールが必要になります。そこで私は、「未来年表」という未来に向けた自分の人生の設計図を作成するこ とに。当時使ったのが月次の集計用紙を横にしたもので、30コマの2コマを1年として、15年分、35歳までの設計図ができ上がりました。それからは、こ の未来の設計図を人生の守るべきベースと決め、夢の実現に向けてひとつずつ、コツコツと、アクションを開始していったのです。
私は上場した前年に、21歳の頃に作成した35歳までの「人生目標」の先をつくらなければいけないと思い立ち、その作成に取り掛かりました。そして まず、どこまでの未来を描くことにするかを検討します。90歳までは精一杯仕事をしたいと考えており、それまでが約55年。また、旧ソ連の有名な経済学 者、N・D・コンドラチェフ氏の唱えた説では、技術革新に起因して、ほぼ50年周期で大きな景気循環が見られるそうです。そして、太陽の活動サイクルが 11年周期と言われていますから、この自然のサイクルを5倍にすれば55年になる。そうやって、「55年計画」ができ上がりました。現在も私の行動は、す べてこの「55年計画」がベースとなっているのです。
人の平均寿命は70~80歳。誰もが死へのカウントダウンの中で生きています。今ここで皆さんとお話ししている間も、そのカウントダウンは進んでいる。まさに”命を削って”仕事をしているわけです。だからこそ、時間の使い方は非常に大事です。自分の時間、つまり自分の人生をいったい何に捧げるのか。それを「夢」として明確に定めるべきなんです。
3つあります。①会社の「夢」を明確にすること、②その夢を信じる「仲間」を集めること、③ひとつの分野に経営資源を集中させて「一点突破」を図ること。この3つが成長の秘訣だと思います。
一番重要なのは、夢を持つこと。そしてその夢を明文化することです。そもそも夢を語れない人や夢を語ったとしても無理だと決めつけている人、夢を持っていてもアクションに移せない人、そんな人に起業は無理です。夢を持つことで自分自身をモチベートしひた走れる人。そういう人こそ起業家に向いていると思いますね。また商売というものは気長に辛抱し、継続していくものです。私が父から教わった言葉の中に「商いは飽きない」という言葉があります。人間は誰しも飽きっぽいです。私が他の人よりも「継続する力」があると言えば嘘になる。ではどうして、今の事業に「飽きない」のか。それは「飽きない事業」を選んだからです。儲かりそうな話があると、人に先を越されまいと焦りがちですが、それは間違いだと思います。「儲かるか」ではなく、この商売は一生やっても「飽きないか」という基準で考えてほしいですね。
世の中になくてはならない事業を手がけること」です。極論すれば、事業というものは、「世の中になくてはならないもの」と、「あってもなくてもいいもの」の2つに分けることができます。長く存続する企業体に共通しているのは、前者の事業を手がけていること。私も、基本的に「思いつきの事業」はしないようにしています。本気で手がける事業は、あくまで仕組みとしてなければ世の中が困る事業。たとえば、ドメインがそうです。これがなくては、インターネットは動かない。なくてはならないものだから、提供させていただいているんです。ただし、そうした事業はなにも当社が提供しなくても、必ず代わりにほかの事業者が提供するもの。だから、その市場で選ばれ、生き残るには、No.1になるしかありません。ネット銀行だって同じです。なくてはならない事業だが、私がやらなくても誰も困らない。だから、GMOにしかできないサービスを提供しないと生き残れないし、やる意味がない。
会社を50年、100年存続させるために、今なにをすべきか」。それに尽きます。統計学的に見ても、会社というものは元来長くは続かないもの。起業してから、10年後も存続しているのは、100社中わずか2~3社というのが統計的に見た現実です。そのなかで会社を長く発展させるにはどうしたらいいのか。それだけが私の追い求める経営テーマと言っていいですね。
起業家や事業家を目指す人ならば、真剣になりたいと思い、それに打ち込んで努力してください。人は、自分の思った通りの人になれます。何事も深く考え、ゴールを決め、覚悟をもってのぞめば、できないことなんてありません。誰もが「空なんて飛べるはずがない」と思っていた時代に、「必ず飛べる」と信じたライト兄弟が飛行機を生み出しました。高校中退の私が上場企業9社をつくり、1,200万人を超えるお客さまをもつサービスを生み出すこともできました。大事なのは、限られた時間をいかに有効に使うか。1日は誰にでも平等に24時間しかありません。自分を強く律し、その時間をいかに使うかで人生は大きく変わってくる。「できない」のではなく、自分が「やらない」だけ。クチで言うほど簡単なことではないですが、結局は自分次第。想像できることは、すべてかなうのですから。
考えるよりも、まずは行動することが大事だと思います。私もそうですが、ソフトバンクの孫さん、楽天の三木谷さん、サイバーエージェントの藤田さ ん、ネット業界で成功しているといわれている経営者は、一様にスピード経営を重視しています。チャンスの女神は前髪しかないっていいますが、本当だと思い ますね。あと、ひとつだけ断言できるとすれば、事業は思ったとおりにはならないということ。これだけは経験者として、保証できます(笑)。今やコンシュー マーは驚くほど多くの情報を持っていますから、会社はお客様にとってよかれと思うことを100%考えて、100%のパワーをもってやり続けるしかないので す。だからこそ、走りながら考えることが成功への一番の近道なのですよ。あくまでもこれはビジネス の話であって、自分の人生はおおざっぱでもいいから、方向性を決めておくべきです。自分は何をしているとき、目指しているときが一番ハッピーなのか、そん な人生の価値基準はきちんと定めておいたほうがいい。例えば、最後にお墓に入ったとき、人からどんな風に思われていたいか、どんな価値を残した人間だと 言ってほしいか、とか。そこから始めてもいいかもしれません。「人生ピラミッド」と「人生年表」を、ぜひつくって実行してほしいと思います。
借金には悪い借金と良い借金の2種類あると思うんです。良い借金というのは、借金して何かに投資してモノを買っても、利益が増えたり、笑顔が増えたりするもの。企業ならば伸びる領域に投資する。個人ですと、借金して学費を払って大学に行くとか、自分に投資するわけですね。悪い借金は、個人だと例えば自分の収入を超えて消費したり浪費したり、見栄でお金を使ったりすること。
資本提携した会社とは上下関係を作りません、対等です。「買収」という言葉は使いません。「仲間作り」です。子会社ではなくグループ会社です。
「いつか」と「お化け」は現実になった試しがないのです。
業務提携を申し込む時は、きちっとドアをノックして頭を下げる世代。人間というのは、やはり気持ちで動きますから。
自分がどんな究極的な夢、目標を持っているかを確認するには「もし明日死ぬとしたら……」と想定してみることです。私自身は「健康」「教養・知識」「会社・仕事」「経済・モノ・お金」という6つの分野についてそれぞれ人生目標を定めています。それらをすべて包含する究極の目標を言い表すと「幸せ」と「成功」です。私の関わる全ての方みんなが幸せになり、成功してほしい。その結果として、自分もそうなる。それが私の夢です。
自分さえよければそれでいい、という夢は、絶対に実現しません。
礼儀正しさに優る、攻撃力はない。
「GMOインターネット(株)」の沿革・歴史(年表・社歴など)
前身の株式会社ボイスメディアは1991年5月に熊谷正寿が設立した。
本社は東京都世田谷区下馬にあったが、後に港区南青山へ移転した。
業務内容は公式には双方向通信事業の企画・開発及び同機器の開発・販売とダイヤルQ2を利用した音声情報の提供サービスである。
1996年InterQ(インターキュー)と商号変更し、ダイヤルQ2によりインターネット接続するプロバイダへ業態変更するとともに渋谷区桜丘町へ移転した。
1991年
5月24日 – 株式会社ボイスメディア設立、マルチメディア事業を目的として、各地にはパソコン通信やプロバイダーのアクセスポイントに似たアクセス拠点となるテレホンセンターを設置し、全国展開。
1995年
11月 – インターキュー株式会社に商号変更、普及し始めたインターネットに注目し、インターネットのインフラ、サービスインフラの提供に集中するため、インターネットプロバイダ関連事業へ参入。
12月 – 世界初の非会員制インターネット接続およびサービス事業「interQORIGINAL」開始。
1998年
1月1日 – 株式会社アルティマックスと(旧)インターキュー株式会社が合併(株式の額面変更のため、形式上は休眠状態にあった株式会社アルティマックスを存続会社としてインターキュー株式会社に商号変更)。
1999年
4月 – ICANNより商用ドメイン名登録機関(レジストラ)に選出。
8月 – 株式を店頭(現:ジャスダック)公開。
9月 – 子会社として、株式会社まぐクリック(現:GMOアドパートナーズ株式会社)を設立。
2000年
9月 – 株式会社まぐクリックがNASDAQジャパン(現:ジャスダック)に上場。
12月 – ドメイン登録サービス「お名前.com」にて、登録数10万件突破。
2001年
4月 – グローバルメディアオンライン株式会社に商号変更。
5月 – 株式会社アイルと株式会社ラピッドサイトを買収。
5月 – ドメイン登録サービス「お名前.com」にて、登録数20万件突破。
2002年
11月 – JWordによる日本語キーワードサービス開始。
2004年
2月27日 – 東京証券取引所市場第2部に上場。
4月 – 株式会社ベッコアメ・インターネットのインターネット接続サービスおよびホスティングサービスの営業権を取得。
11月 – スカイマークエアラインズ(現・スカイマーク)に吸収合併されたゼロ株式会社のインターネット関連事業を取得。
2005年
4月4日 – GMOペイメントゲートウェイ株式会社、東証マザーズに上場。
6月1日 – GMOインターネット株式会社に商号変更、東京証券取引所市場1部に指定変更。
9月 – オリエント信販株式会社(現:ネットカード株式会社)を買収。
12月 – GMOホスティング&セキュリティ株式会社(現:GMOクラウド株式会社)、東証マザーズに上場。
GMOインターネット証券(現:GMOクリック証券)営業開始。
2006年
3月 – GMOネットカード株式会社・イーバンク銀行とインターネット金融事業における関係強化を目的とした資本・業務提携合意を発表。
12月 – 76億円の第三者割当増資実施。熊谷社長が全額引き受け。
2007年
12月 – 14億円の第三者割当増資実施。引受先は熊谷社長とヤフー株式会社。また、ヤフー株式会社との資本提携・業務提携を発表。
2008年
3月27日 – 欠損補填のため、資本金及び資本準備金の取り崩しを実施(資本金126億3197万7千円→12億7683万4千円、資本準備金142億7045万8千円→0円)。
12月 – 株式会社paperboy&co.(現:GMOペパボ株式会社)、JASDAQに上場。
2009年
7月 – 新会社「GMOドメインレジストリ株式会社」設立、国内初となる新gTLDのレジストリ事業を開始。
12月 – GMOホスティング&セキュリティ株式会社が、「コミュニケーションテレコム株式会社」を子会社化。
2010年
10月 – クリック証券株式会社の株式を取得し子会社化。
2011年
4月 – クリック証券株式会社、「GMOクリック証券株式会社」へ社名変更。
株式会社NIKKO、「GMO NIKKO 株式会社」へ社名変更。
GMOホスティング & セキュリティ株式会社、「GMOクラウド株式会社」へ社名変更。
6月 – ベトナム企業「RunSystem Corporation」を子会社化。
7月 – 株式会社デジロックを子会社化。
2012年
9月 – FXプライム株式会社を連結子会社化。
12月 – ドメイン登録サービス「お名前.com」、累積登録ドメイン件数が500万件を突破。
2013年
2月 – 連結子会社JWord株式会社(現:GMOインサイト株式会社)をGMOアドパートナーズ株式会社へ譲渡。
6月 – スマホでサッカーゲームやるなら!「スマサカbyGMO」 イメージキャラクターに川平慈英氏を起用、iOS版・Android版提供開始。
7月 – GMOドメインレジストリがICANNによる地域名トップレベルドメイン「.tokyo」「.osaka」「.nagoya」の運営事業者審査を通過。
10月 – FXプライム株式会社、「株式会社FXプライムbyGMO」へ社名変更。
11月 – PC向けオンラインゲーム事業を展開する「株式会社ゲームポット」を子会社化。
12月 – 厚生労働省東京労働局より、「次世代育成支援対策推進法」に基づく「子育てサポート企業」に認定され、認定マーク「くるみん」を取得。
2014年
1月 – 株式会社ゲームポット、「GMOゲームポット株式会社」へ社名変更。
3月 – 「お名前.com」が国内初の新ドメイン「.nagoya」のプロモーションとして、アイドルグループ・SKE48を起用したテレビコマーシャルを中京エリアで放送開始。
4月 – 株式会社paperboy&co.、「GMOペパボ株式会社」へ社名変更。
10月 – ミャンマーにて現地法人ACE社と合併し「GMO ACE Company Limited.」を設立。インターネットインフラ事業を展開。
11月 – グローバルブランド用のドメインとして「z.com」を8億円で取得。このドメインは日産自動車が2002年に開設したフェアレディZの情報サイトに使用していたものである。
2015年
1月 – GMOクリック証券が、2014年 FXの年間取引高で3年連続世界第1位を達成。
2月 – GMOペパボが提供するCtoCハンドメイドマーケット「minne」が、スマートフォンアプリ100万ダウンロード突破。
2月 – IaaS型クラウドサービス「GMOアプリクラウド」が、「GameBusiness.jp ゲームクラウドアワード2015」で最優秀賞を受賞。
4月 – GMOクリックホールディングス株式会社(現:GMOフィナンシャルホールディングス株式会社)が東京証券取引所JASDAQ市場へ上場。
4月 – ドメイン登録サービス「お名前.com」、累積登録ドメイン数が1,000万件を突破。
5月 – GMOペパボ株式会社による株式取得で、ハンドメイドマーケット「tetote」を運営するOCアイランド株式会社がGMOインターネットグループにジョイン。
6月 – GMOペイメントゲートウェイ、株式会社三井住友フィナンシャルグループ、三井住友銀行の4社間での資本・業務提携契約を締結。
6月 – 株式会社あおぞら銀行とインターネット銀行の共同運営について検討を開始。
10月 – 株式会社大和証券グループ本社、大和証券株式会社、GMOクリックホールディングス株式会社、GMOクリック証券株式会社の4社が、各社の特長を活かした先進的かつ魅力的な金融サービスの提供に向けた業務提携の検討を開始。また、これに伴いGMOクリックホールディングス株式会社の株式の一部を大和証券グループ本社に譲渡。
10月 – GMOメディア株式会社が東京証券取引所マザーズ市場に新規上場。また、コーポレートサイトのドメインを「gmo-media.jp」から「gmo.media」に変更。
2016年
1月 – GMOドメインレジストリ株式会社、新ドメイン「.shop」運営権利を落札時点の世界最高額となる約49.2億円で落札。
3月 – GMOインターネットグループの世界展開ブランド「Z.com」を通じて、サッカーベトナム代表のトップスターパートナーに就任。さらにベトナム代表選手の一人、グエン コン フォン選手とスポンサー契約を締結。
4月 – No.1を目指すアスリートを支援する「GMO ATHLETES」を創設し、男子陸上長距離選手の支援を開始。
6月 – タイでドメイン、ホスティング事業を展開するNetDesignグループの株式を取得。
6月 – 株式会社あおぞら銀行及びあおぞら信託銀行株式会社(現:GMOあおぞらネット銀行株式会社)とインターネット銀行の共同運営に関し資本業務提携。あおぞら信託銀行の株式の14.9%(議決権割合)を取得。
7月 – あおぞら信託銀行の株式の7.45%(議決権割合)をGMOクリックホールディングス株式会社へ譲渡。
7月 – プロサッカー選手の香川真司選手がグローバルブランド「Z.com」のブランドアンバサダーに就任。
2017年
1月 – GMO Wallet株式会社を準備会社として仮想通貨の交換および取引事業に参入。
8月 – GMO Wallet株式会社は、社名をGMO-Z.comコイン株式会社を経て、現 GMOコイン株式会社と社名変更
10月 – GMOクリックホールディングス株式会社、「GMOフィナンシャルホールディングス株式会社」へ社名変更。
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