「株式会社三井物産」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「株式会社三井物産」の三井物産の企業使命
大切な地球と、そこに住む人びとの夢溢れる未来作りに貢献します。
「株式会社三井物産」の三井物産の目指す姿
世界中のお客様のニーズに応える「グローバル総合力企業」を目指します。
「株式会社三井物産」の三井物産の価値観・行動指針
「Fairであること」、「謙虚であること」を常として、社会の信頼に誠実に、真摯に応えます。
志を高く、目線を正しく、世の中の役に立つ仕事を追求します。
常に新しい分野に挑戦し、時代のさきがけとなる事業をダイナミックに創造します。
「自由闊達」の風土を活かし、会社と個人の能力を最大限に発揮します。
自己研鑽と自己実現を通じて、創造力とバランス感覚溢れる人材を育成します。
「株式会社三井物産」の創業者・創立者『益田孝』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
益田孝(三井物産創業者の一人)
益田孝。
1848年11月生まれ。
佐渡金山を管轄する佐渡奉行所の勘定方役人であった益田鷹之助の長男として佐渡に生まれる。
幼名は徳之進。
江戸に出て、日本語の英語式転写法(ローマ字)を開発したジェームス・カーティス・ヘボンによるヘボン塾で英語を学んだ。
14歳で幕府の外国方通弁御用として出仕した。
麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。
文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。
ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。
騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。
明治維新後は明治2年(1869年)から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務して多くの商取引を見聞したのち、自ら中屋徳兵衛と名乗って輸出商を手掛けた。
この時期仕事仲間から紹介された大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治5年(1872年)に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった。
翌明治6年(1873年)に尾去沢銅山汚職事件で井上が下野すると益田も続いて職を辞した。
翌明治7年(1874年)には、英語に堪能だったこともあって井上が設立した先収会社の東京本店頭取(副社長)に就任。
明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊。
同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。
三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げた。
1914年に第一線から引退し、1918年に男爵を授けられた。
益田は現在の「日本経済新聞」の前身である「中外物価新報」を創刊した人物としても知られ、また鈍翁の号を持ち、「千利休以来の大茶人」と称されるなど、茶人・美術収集家としても名高い。
益田孝(三井物産創業者の一人)の名言・考え方
日本人は真似が上手だが発明力はないと云う。併(しか)しそんな馬鹿な事はない。真似する力があるものなら、発明する力もなければならぬ。
三井には人間が養成してある。これが三井の宝である。
今度の地震はずい分えらかったが、しかし精神的の打撃という点からいうと、私はもっと難儀な目にあっている。 地震のように突然パッとくるものよりは、だんだん形勢がせまってきて、これはいよいよ死ななければならぬわいと決心しなければならぬような事件の方が無論えらい。
これからの仕事はコミッションビジネスであるべきだ。売り買いどちらもできる貿易でなければならない。自分が危険を負担するようなものは行わない。思惑をしてはならない。
貿易というものは、自国の物を外国に売り、外国の物を自国に買うのではまだまだである。外国の物を買って外国に売るのでなければ、本当の外国貿易とは言えない。
老いの身に余る重荷をおろしては、また、若返る心地こそすれ。
三井物産会社を設立したのは、大いに貿易をやりたいというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ。
眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれることを望む
楽しんでこそ上手なれ。
利益よりも発展をみつめよ。
「株式会社三井物産」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1874年(明治7年)3月井上馨、益田孝らとともに先収会社を設立。
1876年(明治9年)7月井上馨の政界復帰に伴い先収会社は解散し、三井組は先収会社の人員・事業を引き継いで三井物産会社を設立。初代社長は益田孝 創立時の社員数は18名(益田を含む)。
1876年(明治9年)11月三井組内の商事組織である三井組国産方および三越滞貸取立方と合併。
1889年(明治22年)6月三池炭鉱社(後の三井鉱山)と三池炭の一手販売契約締結。
1915年(大正4年) フランク・ヴァンダーリップ(Frank A. Vanderlip)やジョン・モルガンらのアメリカン・インターナショナル・コーポレーション(American International Corporation)と京杭大運河プロジェクトに合意。
1920年(大正9年)4月綿花部を分離し、東洋棉花(後のトーメン、現豊田通商)設立。
1937年(昭和12年)7月造船部を分離し、玉造船所(現・三井造船)設立。
1942年(昭和17年)12月船舶部を分離し、三井船舶(現・商船三井)設立。
1947年(昭和22年)7月財閥解体によりGHQより解散命令。第一物産、旧三井物産系の新会社の一つとして設立。
1947年(昭和22年)11月旧・三井物産解散。
1949年(昭和24年)5月第一物産、東証上場。
1958年(昭和33年)3月第一物産、日本レミントン・ユニバック(現・日本ユニシス)設立。
1959年(昭和34年)2月第一物産を中心に旧三井物産系新会社結集、大合同成る。
1963年(昭和38年)6月アメリカ・モービル石油と合弁で極東石油設立。
1965年(昭和40年)6月木下産商の営業譲受け。
1966年(昭和41年)8月ブリヂストン液化ガス(現・ENEOSグローブ)に資本参加。
1967年(昭和42年)11月情報システム部門を分離しコンピューターシステムズサービス(現・三井情報)設立。
1969年(昭和44年)4月オーストラリア・マウントニューマンからの鉄鉱石出荷開始。
1969年(昭和44年)7月三井グループ17社により三井石油開発設立。
1971年(昭和46年)2月アメリカNASDAQ上場。
1971年(昭和46年)3月リース事業部を分離し三井リース事業(現・JA三井リース)設立。
1976年(昭和51年)10月東京都千代田区大手町一丁目2番1号に本店移転。
1977年(昭和52年)5月アブダビ・ダス島のアブダビLNG生産開始。
1989年(平成元年)3月日本通信衛星(現・スカパーJSAT)が、日本初の民間商用通信衛星 JC・SAT1号の打ち上げ成功。
1989年(平成元年)10月イラン・ジャパン石油化学(IJPC)より正式撤退。
1995年(平成7年)6月オーストラリア・ワンドゥー油田取得。
1999年(平成11年)4月8日英 ロスチャイルドグループと提携、6月に長期ファンドを設立して日本未公開株に投資。
2009年(平成21年)2月ロシア・サハリン2LNG生産開始。
2013年(平成25年)8月本店ビルの建て替え計画を発表。
2014年 (平成27年) 11月東京都千代田区丸の内一丁目1番3号にある日本生命丸の内ガーデンタワーに本店移転。一部は同区大手町一丁目3番1号にあるJAビルへ入居させ、本店事務所が2か所となる。
2016年 (平成28年) 1月オマーン国営電力・水公社から受注した天然ガス火力発電の建設・操業事業に参画することを発表。
2017年 (平成29年) 4月ロシアで最大手の製薬会社R-ファームへの出資、海外で初の大型太陽光発電事業となるヨルダンの太陽光発電所建設に参画することを発表。
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