「浜松ホトニクス(株)」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「浜松ホトニクス(株)」のスピリッツ
先人たちから受け継ぐ、未知未踏を追い求める精神
当社は「日本のテレビの父」と尊称される高柳健次郎博士に学んだ堀内平八郎が1953年に設立しました。
以来、高柳博士が開発した光を電気に変える「光電変換技術」と、世界で初めてテレビのブラウン管に「イ」の字を映した「人類未知未踏の領域を追求する精神」を継承し、一貫して光電変換素子とその応用製品の開発に携わり、光技術の進歩とともに歩んできました。
20世紀に電子が人類に豊かさをもたらしたように、21世紀は光子(フォトン)の時代といわれ、光の限りない可能性を背景に、幅広い分野で光技術の応用が進んでいます。
しかしながら、光と物質の相互作用は、ほとんど分かっていないのが現状です。
当社は、光の本質に近づくために光電変換技術の極限を追求することで、人類未知未踏に挑戦し、新しい知識の獲得によって光による産業創成を目指しています。
「浜松ホトニクス(株)」の創業者・創立者・中興の祖『堀内平八郎』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
堀内平八郎(浜松ホトニクス創業者)
堀内平八郎。
1915年長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)出身。
小学校の時から光の不思議さに魅了され、高柳博士へのあこがれから浜松高等工業電気科へと進んだ堀内平八郎は、高柳イズムに大いに感化されました。
旧制中校卒業後、浜松高等工業学校に入学し、高柳健次郎に師事する。
1937年に卒業後、テレビジョン研究の実用化のためNHK技術研究所に入所し、太平洋戦争中はテレビジョン技術を軍事に応用した暗視管の研究に従事し、1943年日本電子工業嘱託となり、1945年疎開先の天童で終戦を迎えた。
1947年浜松に戻り、東海電子研究所を設立。
「日本のテレビの父」と尊称される高柳健次郎博士に学んだ。
1949年東海真空工業を創業して誘蛾灯の点灯管の製造を開始したが、農薬の普及に押されて廃業した。
その間、光を電気信号に変える光電変換素子の研究を進め、1953年に浜松テレビを創業し社長に就任、1978年に会長、1980年取締役相談役となり、光電変換素子の世界的メーカーに育て上げた。
1969年に全国発明表彰朝日新聞発明賞、紫綬褒章受章。
(参考)高柳健次郎
1899年静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市東区安新町)に生まれた。
静岡師範学校を経て1921年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。
同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭、1924年(大正13年)に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始する。
1926年12月25日、浜松高工にてブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。
送像側に機械式のニプコー円板と受像側にブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。
走査線の数は40本だった。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。
1937年、NHKに出向し東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始。
しかし1938年に日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研究も中断させられレーダーや奮龍の誘導装置などの研究をすることになる。
終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するがGHQの指令によりテレビの研究を禁止させられた。
その後、1946年に日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となりNHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。
1946年産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織されたテレビジョン同好会(1950年テレビジョン学会に改称)の委員長に就任。
同学会はその後文部省認可の社団法人テレビジョン学会(1996年に社団法人映像情報メディア学会と改称)に改組された。
同学会は初代会長・丹羽保次郎とともに健次郎の功績を記念して、優れた研究・業績に対する丹羽高柳賞を設定している。
堀内平八郎(浜松ホトニクス創業者)の名言・考え方
池の中の魚に水は見えないだろうし、空中の酸素の溶け込みで生きていることは知らないで泳いでいる。未知の中に生活する我々の「最大未知」は光である。
「光と共に」(創業40周年にあたり綴ったことば)
光産業という言葉があるはずもない当時、光電変換素子を生活の糧にしようと創業を思い立った私に対し、それは芸術品みたいなものだから、市場性と良品率のいずれからみても事業の対象にすることは止めなさいと、心配してくださった先輩もありました。
しかし、小学生の時に、北極星からの光は800光年の道程を走って地球に到達するのだ、という話を聞いてから、私はすっかり「光」に魅せられており、更に、高柳健次郎先生のテレビジョンの研究に引きつけられ高柳イズムに共鳴し、光と共に生きることが我が道であると決心していましたから、たとえ衣食住に追い詰められていようとも、心の苦しみはありませんでした。
光は我々の生命の源であり、精神活動にも大きく関わっています。
それにもかかわらず、未知の部分が余りにも多い。
そこで私はこの光を解明し、人類が光を活用できる手だてを社会に供給することを経営理念の根底におくことにしました。
「浜松ホトニクス(株)」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1948
堀内平八郎 東海電子研究所を設立
戦後の廃墟の中、光電への夢を胸に船出
1951
街路灯自動点滅器に採用された光電管PV26
1953
浜松テレビ株式会社設立
光技術と産業を結び付けることを理念として設立
模写電送用光電管G5Eの製造開始
テレビカメラ製品『水中カメラ』を開発
科学・産業分野への応用スタート
1956
セレン光電面ビジコン発売
1958
初めての半導体製品CdSセルの開発
初めての大量生産スタート
1959
現在にも続く主力製品
光電子増倍管の開発に成功
1963
赤外線用テレビカメラ発売
1964
市野工場開設
1966
ホローカソードランプ、重水素ランプ試作開始
ニューヨーク事務所開設
1967
ロケット自動追尾装置(X-Yトラッカー)の開発に成功
宇宙開発事業への参画始まる
1969
メディカル分野への進出
テレビカメラを用いた瞳孔面積計測装置の開発
アメリカに現地法人設立
1972
電子管の開発、製造で蓄積したノウハウをもとに
シリコンフォトダイオードの開発
1973
豊岡製作所開設
西ドイツに合弁会社設立
1977
ストリークカメラシステム発売
コンピュータとの接続で新境地を拓く
コンピュータ用ビジコンカメラの開発
1978
打ち上げられた宇宙の目
宇宙からのオーロラ撮像に世界で初めて成功
創立25周年 晝馬輝夫社長就任
1980
光技術の総合力をPRした
プライベート展示会 第1回『フォトンフェア』開催
1982
時代の変化に伴う柔軟な企業活動を行うために
事業部制導入を決定
極微弱光計測、シングルフォトン検出への挑戦
単一フォトンによるヤングの干渉実験に成功
1983
浜松ホトニクス株式会社に社名変更
ホトニックマイクロスコープ(顕微鏡用カメラシステム)発売
1984
光子・粒子計数型画像計測装置PIAS発売
株式店頭公開登録
キセノンランプ発売
1985
浜松市砂山町に本社事務所開設
フランスに現地法人設立
高出力パルスレーザダイオード発売
1988
皇太子殿下(現・上皇陛下)豊岡製作所に行啓
イギリス、スウェーデンに現地法人、中国に合弁会社(製造子会社)設立
1990
中央研究所開設
1991
イタリアに現地法人設立
1994
都田製作所開設
マイクロフォーカスX線源発売
1996
東京証券取引所市場第二部上場
1998
東京証券取引所市場第一部上場
半導体レーザによるイネの人工室内栽培に世界で初めて成功
2002
光電子増倍管が設置されたカミオカンデでの研究により
小柴昌俊東京大学名誉教授がノーベル物理学賞受賞
2003
がんや認知症の早期発見の実証を目的とする一般財団法人 浜松光医学財団:浜松PET診断センター竣工
2005
光技術を使って新しい産業創成を目指す
「光産業創成大学院大学」を開学
バーチャルスライドスキャナNanoZoomer発売
2009
晝馬明社長就任
2010
欧州販売子会社間の業務効率化のため、欧州統括会社を設立
2011
中国に現地法人(販売子会社)を設立
2013
「浜松を光の尖端都市に~浜松光宣言2013」を地元3大学と調印
SSD、APD、PMTがヒッグス粒子の検出に貢献
フランソワ・アングレール名誉教授、ピーター・ヒッグス名誉教授がノーベル物理学賞受賞
2014
ニュートリノの観測に貢献した「20インチ光電子増倍管」がIEEEマイルストーンに認定
2014
台湾に現地法人を設立
2015
光電子増倍管が設置されたスーパーカミオカンデでの研究により
梶田隆章東京大学教授がノーベル物理学賞受賞
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