心が変われば人生は変わるで。~野村克也名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■野村克也名言集

長い目で見れば、不器用な人間のほうが最後は勝つ。天才は深く考えないから、思想や哲学が生まれない。

「どうするか」を考えない人に、「どうなるか」は見えない。

失敗した選手でも、こいつは我慢したら働く、伸びてくると思えば辛抱します。三振して帰ってくる選手の顔をじっと見てみると、悔しい顔をして帰ってくる若い子は見込みがあります。あっけらかんとしているのはダメですね。なぜダメだったのかを考えられる人間には、次のチャンスを与えたいと思います。

好かれなくても良いから、信頼はされなければならない。嫌われることを恐れている人に、真のリーダーシップは取れない。

相手の気配を感じることは大事。鼻が利く……というのかな。ただぼーっと状況を見るのでなく、見えない何かまでつかみとり、洞察力を働かせる。そして相手の気持ちや考えを推し測るのは、勝利のセオリーだから。

うまくいっているときは、周りに人がたくさん集まる。だが、一番大切なのは、どん底のとき、誰がそばにいてくれたかや。

プロ5年目から突如打てなくなってしまいました。なぜ打てないかを考えてみたところ、どうやら自分はプロでやるには不器用すぎるという結論に行き当たりました。ストレートを待っているところにカーブが来ると、とっさに反応できないのです。いくら練習でバットを振っても打てるようにならないはずです。こうなったら、読みの精度を上げるしかない。そう思った私は、データを集め、他チームのバッテリーの配球を徹底的に分析しました。

楽を求めたら、苦しみしか待っていない。

一方的に口にするだけでは意味がない。そこで使ったのが「問いかけ」だ。「おい、人間とは、何や?」「生きる、意味を答えてみい」すぐさま答えが出る選手などいない。考えてないからだ。しかし、こうして問いかければ考えざるを得ない。ひとりに問いかければ、自然と周りも考え始める。それが狙いや。

「恥ずかしい」と感じることから進歩は始まる。

監督は広報担当も兼任しなきゃいかんと思っています。なぜかというと、プロ野球は人気商売だからです。いまのファンは試合を見るだけでは満足しません。新聞を読んだり、テレビを観たりして、球団の裏側を覗きたがるわけだから、そういうものをファンに提供する義務が監督としてあると思います。マスコミとうまく付き合わなければ、プロ野球は成り立ちません。最近、マスコミ嫌いで通している監督がいますが、あれはプロ意識が足りないと思います。

1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう。

「個人の成績がチームに対する貢献になる」と考える選手がいる。逆だよ。「チームの勝利を目指してそれぞれが取り組んだ結果が、個人の成績になる」。だから、監督になってからも、俺は選手たちに「チームのために戦え」「他人への感謝の気持ちを忘れるな」と常に言った。自分のことだけを考えて仕事をするヤツは、長く続かんよ。

経験を活かすには、3つの心構えが不可欠。ひとつは「問題意識を持つこと」、2つ目は「他人の痛みを知ること」、そして3つ目は「節度を持つこと」。

優勝というのは強いか、弱いかで決まるんじゃない。優勝するにふさわしいかどうかで決まる。

「部下がダメ」「上司がバカ」と誰かのせいにして逃げているチームは決して勝てない。あなたが変われば、部下や上司やチームも腹を決めるかもしれない。

「野村の野球」とは、結果ではなくプロセスを大事にすること。目標を掲げ、そのために何を考え、何をするかが大事なんだ。すべてそうでしょ。

人を判断するときは決して結論を急がないこと。

不器用でも一流になれる人がいる。そこには必ず哲学があります。不器用な人は、器用な人ならしないですむ苦労をしなければいけませんから、自ずと独自の工夫、哲学が生まれてくる。これは持って生まれたものではありませんから、一度身につくと強いんです。器用な人は、もう一工夫、もう少しの地道な努力が足りないことが多いので、短い勝負で一時的に勝つことはあっても、長期戦になれば、最後は必ず不器用が勝つんです。

人間の才能なんて、どこに隠されているか分からない。相手の話を聴いてみる。それが第一歩。そこから組織の活性化が始まる。

「選手が最も活きる場所、光る場所はどこだろう?」を念頭にしっかりと人を見る、適性を見抜く。野球の監督のみならず、チームを率いる時、これが外せない第一歩になる。実はこうして見抜いて適材適所に配置すること。それこそが、人を再生させるコツ。野村再生工場のカギだったんだよ。

自分の持っているイメージと違うとすぐ矯正しようとする。こんな上司のもとにいる部下は不幸。

野球なら「走る」「打つ」「守る」。ビジネスなら「売る」「つくる」などだろうか。しかし、そんな王道の戦力だけが組織に必要なのではない。たとえば口が抜群に上手い人間、ユーモアを持つ人材だって、一芸に秀でるほどならば、必ず組織にとって替えが利かない戦力となる。主役だけじゃなく名脇役がいてこそ、物語は光るんだよ。

相手の気配を感じる力は「勘ピューター」のように天から降ってくるものじゃない。普段から相手を観察し、データをとって分析する地道な努力。面倒をいとわず情報と知識を詰め込んだ者だけが手にできる境地だから。要するに相手を読む執念が大事なんだ。「気配を感じ取る」「洞察力を働かせる」力は、観察して分析し、考え抜いた上ではじめて成り立つもの。またそこまで考え抜くから勝てるんだよ。

王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草。

ナポレオンは「人間を動かす二つのテコがある。それは恐怖と利益である」と言った。私はこの二つに「尊敬」を加えたい。リーダーは「利益と尊敬と、少しの恐怖」で組織を動かしていくべきで、その潤滑油が「笑い(ユーモア)」だ。

先入観は悪である。

人を見抜き、適材を見出すコツはゼロベース、白紙の状態で人を見るということ。「彼はずっとあの仕事をしていたから」「あいつはこういう役割だから」。そんなのは前の監督、会社だったら上司が、間違って押しつけたことかもしれない。人を見抜きたいなら、心がけたい言葉はこれや。「先入観は罪、固定観念は悪」だ。

心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。

一瞬のやる気なら誰でも持てる。けれども、持続性のあるやる気は、深く認識したものだけに宿るのである。

勝つときにはいろんな勝ち方があって、相手が勝手にずっこけたり、勝手にミスしてくれたりして「ああラッキー」という勝ち方もあります。しかし、負けるときというのは、負けるべくして負けるものです。勝負の世界にいると、勝って反省というのはできないが、負けたときには反省する。敗戦の中にいい教訓があると思います。

指導とは、つねに個別、具体的でなくてはいけない。

監督時代、俺がミーティングでことあるごとに話したのは、煎じ詰めれば「無形の力を養え」ということだった。ヤクルト、阪神、楽天……と、俺が請け負ったのは才能と力に溢れたチームというよりも、他より劣った弱いチームだ。打力や走力、球の速さなど「目に見える力」では勝ち目がないし、伸びしろも少ない。しかし、配球や駆け引き、相手チームのデータ分析、さらには敵の心理を読んだ上での戦術といった「形のないもの」を感じとる力は、後からでも養える。努力でいくらでも磨けるからだ。裏を返せば、こうした無形の力は自ら学び、磨くことが欠かせないということだ。

人生の最大の敵、それは鈍感である。

結果オーライの野球は私は一番嫌いなんですよ。

なんといっても己を知ること。いまの自分には何が足りないのか、どこが弱いのか。こうしたことを正しく認識することが極めて重要です。それには、自分の課題について感じたり、考えたりする癖をつけて、感知するセンスを日々磨くしかありません。そうして自分の課題がわかったら、次にそれを補い、克服するための方法論を必死に考えるのです。

若いときに流さなかった汗は、年をとったときの涙となる。

一流になる人と一流近くまでいきながら二流で終わる人の差はどこにあるのか。私は「俺は俺」という強烈な自我の有無だと思う。

感じて、考えて、調べて備えて、そして省みることで判断力を磨いていきました。そして、勇気を出して「えいや」で決断し実行に移す。選手としても監督としてもこのあり方をずっと実践してきた。

見抜くというのは、言い換えれば「観察して、洞察して、分析すること」。宮本武蔵の「五輪書」に「観見二眼」という言葉がある。相手の動きを実際に「見る」のはもちろん、相手の心の動きまでも「観る」ことが大事だという意味。そんな意識を持つことが、人を見抜くコツだよ。

困難を「我慢する力を育てる機会」と捉えよ。

事前のシミュレーションが大切です。野村野球というのは、ひと言でいえば「準備野球」ですから。

綿密な下調べという意味では、監督は頭の中で、最低一試合につき三試合はやります。想像野球、実戦野球、反省野球。想像野球はいつも完全勝利です(笑)。そして、実戦野球のあとで、想像と実戦の間に差が出た理由を考えるのが反省野球です。

選手がどういう場所で生きてくるかを気づかせるのが監督の役目でもあるんです。監督業というのは「気づかせ業」だと思っています。気づかせることが「再生」なんです。

言葉の力が強いだけに、禁句というのもある。「妥協、限界、満足」や。「この程度でいいや」「そろそろ限界だ」「もう十分だな」。そんな風に自分の器を小さく見積もるようなことばかり言っている奴は、本当に小さな器になる。自分の言葉で、自分の成長を止めているようなものなんだよ。

「根拠は何や?」とね。どんな組み合わせを選び、捕手に投げさせるかは監督ではなく捕手のサインにかかっている。野球はドラマだ、なんていわれるが、それなら捕手は「脚本家」といっていい。だから、俺は捕手の配球に、必ず根拠を問う。

「どうせ俺は……」と諦め、くさるタイプのコンプレックス人間は、こう考えたらいい。「諦めた、ということは変わるチャンスだ!」と。諦めた、ということは、今のままではうまくいかない、ことに気づけたということ。それは幸運だよ。

「もうダメ」ではなく、「まだダメ」なのだ。

心が変われば人生は変わるで。

「失敗」と書いて「成長」と読む。

■野村克也とは?

野村克也。

1935年生まれ、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身。

実家の家業は食料品店。

野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。

看護師だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度もガンを患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。

家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄とともに新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。

貧乏な生活から脱却したいとの思いから、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘への憧れや、出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた大友工投手の影響もあり、次第に野球選手を志すようになる。

中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。

京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。

中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより、野村は京都府立峰山高等学校に進学した。

その後に内緒で野球部に入部したことが母にばれ、退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。

貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。

野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村が在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、甲子園など夢のまた夢だった。

当時は廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。

卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人だけが返事をくれた。

実際に見に来た鶴岡監督の見守る中、野村はランニングホームランを放つ。

1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。

野村は巨人の大ファンであったが、巨人は藤尾茂捕手が活躍していたため断念。

捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えた。

当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。

シーズン当初は出場機会が無く、代打での初打席は三振、結局、一年目は9試合で11打数無安打だった。

シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが、秋季キャンプ中に正捕手の松井淳が交通事故、2番手捕手の筒井敬三が高橋ユニオンズにトレード、3番手捕手の蓜島久美が頭部に死球を受けてケガをしたことで捕手不足となり残留。

しかし肩が弱かったため、秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。

当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。

このような努力が実り、2年目は1軍出場や日本シリーズの出場こそなかったものの、2軍で打率2位の成績を残し、シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。

3年目の1956年、ハワイ春季キャンプで一軍に抜擢され、以降正捕手に定着した。

野村の弱点はカーブ(変化球)に点で弱いことをしられてからかなりの打撃不振に陥た頃、ファンの送ってくれたテッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に真剣に向き合い、これをきっかけに投手のクセを研究するようになりスランプを克服した。

それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。

このことが後に野村本人が確立するID野球の基礎となった。

1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。

以降毎年のようにタイトルを獲得し、杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。

南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

1962年、本塁打44本を記録。

1963年には本塁打52本を残した。

捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。

さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。

その後、8年連続本塁打王、1965年には戦後初の三冠王に輝く。

しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向だった。

1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成したときの観客はわずか7,000人ほどであった。

1965年オフ以降、恩師であった鶴岡一人との確執が表面化しはじめ、同年11月に自身の理解者であった蔭山が急逝する。

1968年からはコーチ兼任となった。

戦後初の最下位に終わり飯田徳治監督が辞任。

1969年11月、34歳の若さで選手兼任監督に就任した。

監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。

監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。

監督就任1年目は新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となったが、2年目は勝率が5割を切って4位で終わる。

ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした。

トレードで東映から江本孟紀、巨人から山内新一、松原明夫を獲得した。

弱体化していたチームを立て直し、1973年にリーグ優勝を果たした。

当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった。

監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。

しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。

1976年に江本らとのトレードで阪神から獲得した江夏豊が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。
「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は1977年6月からリリーフに転向。

この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。

江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。

1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任される。

当時はまだ愛人関係にあった沙知代の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、このことが野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った。

1978年(昭和53年)、前妻との離婚が成立した野村は沙知代と再婚した。

解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。

南海退団直後の1977年11月17日、金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。

1978年12月1日、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。

オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。選手として22回のオールスター選出は歴代最多。

このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。

同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。

同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。

1989年に野球殿堂入りする。

1989年の秋、ヤクルトから監督就任の要請を受ける。

1990年、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。

主砲の池山隆寛や広沢克己らには、三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。

結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し(1993年)、池山もその90年にキャリアハイの打率.303、97打点(本塁打は31)を記録した。

また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司を外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。

しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、結局5位に終わり、前年の4位を下回った。

1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振などもあってAクラスの3位に躍進。

野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たした。

二塁手から中堅手へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。

高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、潮崎哲也のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。

1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。

胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン伊東昭光だった。

この年は前述の選手に加え、投手では西村龍次、岡林洋一、内藤尚行、高野光、野手では荒井幸雄、橋上秀樹、笘篠賢治、ジャック・ハウエルらが活躍。

ベテラン選手の渋い活躍もあったほか、9月には故障から4年越しで復帰した荒木大輔の起用もあった。

他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。

日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激闘を演じたが、西武に敗れた。

1993年は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田、広沢、レックス・ハドラー、ハウエル、池山、荒井、飯田、秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。

投手では、新人の伊藤智仁が前半戦で大活躍。

チームはそのままリーグ優勝。

前年に続いて西武との対戦となった日本シリーズを、再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、遂に日本一に輝いた。

1994年は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、5月中旬を境に低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは免れた。

1995年は、投手の石井一久、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、新人の稲葉篤紀、新外国人テリー・ブロス、さらに阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー、前ロッテのヘンスリー・ミューレン、近鉄との間で西村とのトレードで獲得した吉井理人など移籍してきた選手が活躍。

セ・リーグを制した。

また、オリックスと対戦した日本シリーズはイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、4勝1敗で日本一になった。

1996年は4強の一角に食い込むも投手陣の総崩れから早々に脱落、終盤にはイニング連続無得点のリーグ記録も更新して4位に終わる。

1997年の開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。

日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一となる。

1998年は4位に終わり、同年9月21日に退団した。

最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。

ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532。

1998年10月25日に三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。

ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。

1985年の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きかったが、オールスター戦を挟んで9連敗、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった。

2000年は、球団史上初の3年連続最下位に終わった。

F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地である阪神甲子園球場が広いということ、ホームランバッターが皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。

メンバー
(1号車)赤星憲広
(2号車)藤本敦士
(3号車)沖原佳典
(4号車)上坂太一郎
(5号車)平下晃司
(6号車)松田匡司
(7号車)高波文一

その後、赤星と藤本は2003年、2005年の阪神優勝の原動力となり、沖原も2003年の優勝に大きく貢献するなど、メンバーは活躍を見せた。

また、後任として中日の監督だった星野を久万に推薦したのも野村であるという。

その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。

2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。

2002年11月6日社会人野球チームのシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。

就任当時のシダックスは低迷していたが、野村は持ち前の理論を元にチームを再建。

またオレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコの元キューバ代表選手を獲得、2003年の第74回都市対抗野球大会では準優勝を果たした。

2005年10月3日、楽天監督就任要請を受けたため同年限りでシダックス監督を退任することを発表。

日本野球連盟は同年の社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。

2005年9月、楽天は「チームの再構築が必要」という理由から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。

シダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に受諾。

5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。

2006年は昨年続き最下位に終わった。

2007年シーズンは新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。

投手陣では一場靖弘、岩隈久志らがシーズン序盤で離脱した影響もあり、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。

捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。

またシーズン中盤には渡辺直人、草野大輔らが台頭した。

後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場と岩隈が一軍に復帰したこともあり先発ローテーションを再編、それまで主に先発だった山村宏樹、有銘兼久、永井らをリリーフに転向させた。

シーズンの最終成績は4位で創設3年目で初めて最下位を脱出した。

2007年10月4日、3年契約最後の年である2008年も予定通り監督を続けることを表明。

この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。

2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。

同年シーズンを以って3年契約が終了。

去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。

チーム初のCS進出が決まった。

9日のオリックス戦で2位が確定しCS第1ステージの地元開催権を獲得する。

楽天球団として創設後初のAクラス入りとなり、野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した1997年以来8シーズンぶりであった。

しかし、そ球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。

2017年12月、妻の沙知代が急逝。

2020年2月10日、本人も静かに息を引き取った。84歳没。

RSS
Follow by Email