振れよ!振れば何かが起こるんだ!~落合博満名言集と軌跡~




新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■落合博満名言集

信じて投げて打たれるのはいい。信じて投げて打たれたのなら、それは結果。一番いけないのは、やる前から打たれたらどうしようと考えること。

自分は頭を下げないと生活できないと思っているから、媚も売るし、喧嘩もできないんだ。人間、自分に自信があれば喧嘩もするのよ。

良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられんだ、そういう人と一生つきあっていきたい。

最終的にこうなってくれればいいという形を示し、その人にあったやりやすい方法を探す。方法論は何も一つだけではない。

40本塁打してくれる大砲が貴重な戦力なら、送りバントを100パーセント決めてくれる選手も大切な戦力だ。

隠すところは隠す。うそを言わなきゃいけないところはうそを言う。相手と戦うのはそういうこと。全部さらけ出せるのは、よほど力があって相手がよほど弱い場合だけ。

「こいつは何度言えばできるようになるんだ」内心でいら立つくらい飲み込みの悪い選手ほど、一度身につけた技術を安定して発揮し続ける傾向が強い。彼らの取り組みを見ていると、自分で掴みかけたり、アドバイスされた技術を忘れてはいけないと何度も何度も反復練習している。

はじめにマイナス思考で最悪の結果を想定し、そうならないような計画を立ててから組織や集団を動かす。そして、全体の流れが軌道に乗ってきたと見るや、プラス思考に転じて攻めて行く。

うちで芽が出なくても、ほかへ行って可能性があるなら喜んで出す。そして花咲けばいい。

マスコミ向けの練習をするつもりは、さらさらない。

野球というのはヒットゼロでも勝てるんだよ。

俺は野球に対して頑固なんだろう。これが一番の策だと思ったらそれに則った野球をする。もう少し大人の考え方ができれば、どうせ選手のやる事なんだからという判断もできるし楽なんだろうができない。逆に言えばその強さがある。最も強い部分は、人に何を言おうが左右されない事。

当てられたのに何でやり返さない、と言われることもある。やり返すことは簡単なことだが、野球は勝ち負けを競うスポーツ。当たり所が悪ければ死の恐怖がつきまとう。うちの選手を痛みを与える側にはさせたくない。狙ってぶつけにいく野球をやっている人がいるなんて信じたくない。

ダメだったら、ユニフォームを脱がなきゃいけないっていうハッキリした部分あるでしょ。自分の一番長所をどうやって最大限に出してこの世界で生きていくか。「こういう事をやらせたら俺の右に出る者はいないだろ」、そういう存在になったら、ユニフォームなんか脱がせられません。

一番ブーイングを受ける場所、一番嫌な役割っていうのは、監督がしなきゃいけない。

欠点を直すこと、それはよい部分が失われることでもある。

最近のメディアは、監督の名前を頭に付けますが、私は「落合・中日」ではなく「中日の落合監督」だと思っています。あくまで主役は選手達です。

私は、人生や仕事というものは誰かを頼るのではなく、自分で切り開いていかなければつまらないと思っている。

代打で始まった俺の野球人生。最後も代打で終わりたい。

野球は9人対9人で戦うチームスポーツだが、実際は投手と打者による1対1の勝負である。

泣き言言うヤツいらないもん。泣き言言って能書き垂れるんだったら練習しろって。そいつを追い越していくだけのものをつかみとれって。

選手に「気を遣う」のは指導者として最低。「配慮」はします。プライドも考慮します。でも「気を遣う」ことはしない。

「まあ、しょうがない」と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう。

悪いとわかっていても、人間がどうしても捨てられないものに先入観がある。

本当にその選手を育てたいと思ったら、「負けるなら負けてもいい。この試合はおまえに任せた」と言ってやるのが大切。

オレは何もしていない。選手の邪魔をしないようにするだけだ。

志の低い人間は、それよりさらに低い実績しか挙げられない。

オレは負けたら悔しくて眠れない。毎晩、睡眠薬を飲んでも眠れないほど悩んでいる。お前たちはどうなんだ。

もっともがき苦しめばいい。その方が勝ったときの喜びが大きい。

素振りを1本でも多くやったヤツが、勝つ世界。

泥臭い、かっこわるい。そういう野球ができて初めて上位にいける。

オレじゃない。選手たちを見てくれ。こんなすごいやつらを。

ユニフォームを汚してナンボの選手だよ。泥んこになってやらねぇで、勝てるかっ!

何を恐れているのだろうか。一つ二つ失敗したっていいじゃないか。

振れよ!振れば何かが起こるんだよ。

■落合博満とは?

落合博満。

1953年、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)にて7人兄弟の末っ子として生まれる。

長嶋茂雄に憧れて野球を始め、小学生の頃は雑誌などに載っている長嶋のバッティングフォームをよく真似していた。

1969年、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学。

体罰をもよしとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。

ところが予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、それに耐えかねて野球部を退部。

野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。

しかし、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。

落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。

高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。

1972年、東洋大学に進学。

しかし、ここでも先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。

秋田に帰った。

その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになるが、これも挫折した。

1974年、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。

同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。

ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。

1976年には中心打者として、東芝府中を創部23年目で初の都市対抗出場に導く。

1回戦でデュプロを降し初勝利をあげるが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退。

翌年以降も、都市対抗に日本通運、電電東京の補強選手として3年連続出場。

1978年には第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出。

この頃の落合は、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた。

1978年のドラフト会議でパシフィック・リーグのロッテに3位指名されて入団。

1980年、5試合連続本塁打のイースタン・リーグ記録を作って後期に一軍に戻ると、57試合で15本塁打を放った。

西武ライオンズ球場でのジュニアオールスターゲームにもオールイースタン選抜で出場し、オールウエスタンの高卒新人バッテリー牛島和彦・香川伸行からタイムリー記録。

同年の近鉄バファローズとのパシフィック・リーグプレーオフに出場し、自身初のポストシーズンを体験した。

翌1981年にはオールスターゲームに初出場を果たし、監督の西本幸雄にスタメンの4番打者で起用される。

同年に初めて規定打席に到達すると、首位打者のタイトルを獲得。

1982年、史上最年少で三冠王に輝く。

1983年は打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得した。

チームは球団初の最下位に終わった。

1985年、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。

打率.367は当時の右打者歴代最高打率記録、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。

またこの年は日本記録となる得点圏打率.492を記録した。

1986年、2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。

2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治、ランディ・バース、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。

また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。

同年シーズン終了後、自身の理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言。その後、牛島・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4の交換トレードでセントラル・リーグの中日に移籍。

日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。

1987年は篠塚利夫や正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、首位と2厘差のリーグ3位の打率.331を記録する。

1988年は32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。

1989年は打率.321・40本塁打・116打点の成績を残して打点王を獲得。

両リーグ打点王は史上初だった。

1990年シーズンは、34本塁打・102打点で本塁打王と打点王を獲得。

両リーグ本塁打王は史上初だった。

また、最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。

1991年2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。

同年シーズンは打率.340・37本塁打・91打点で本塁打王を獲得。

1992年、プロ野球選手会を脱退。

22本塁打71打点の成績を残し、1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり、自身2度目の最下位に終わった。

1993年5月7日の対横浜戦で史上初の両リーグ200本塁打を達成。

同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント(FA)制度を行使してFAを宣言し、巨人に移籍。

落合が在籍した1994年 – 1996年の3年間、長嶋茂雄が率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献した。

1994年が現役時代での唯一の日本一。

1995年のシーズンは首位打者争いを繰り広げ8月31日時点では打率.332、最終的にシーズン打率.311(リーグ4位)を残し、17本塁打、65打点をマークした。

同年4月に2000本安打も達成したが、名球会入りを辞退。

1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。

同年オフに清原和博が自身と同じ一塁手として巨人に入団してきたため、球団に自由契約を申し出る。退団会見は監督の長嶋が同席のもとで行われた。

1996年オフ、同じ在京球団であるヤクルトスワローズと日本ハムファイターズから獲得オファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍。

日本ハム移籍を決断した理由は、両球団とそれぞれ交渉の場を持った中で、その場での年俸金額提示が日本ハムからはあったが、ヤクルトからは全くなかったためである。

プロ野球史上二人目の両リーグ1000本安打を達成し、打率.262、本塁打3、打点43という成績を残した。

同年のオールスターゲームにも出場したが、結果的に落合にとって現役最後のオールスターゲーム出場となった。

引退後、2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)。

2004年、シーズン前に「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。

2005年、タイロン・ウッズの藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。

2006年、恐竜打線と呼ばれる強力な打線を形成し、監督として2度目のリーグ優勝を達成。

北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。

同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場し、前年に続き日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取。

53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。

これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。

2008年、3位に終わる。

監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、監督として最悪のシーズンとなった。

ただし、本拠地・ナゴヤドームへの観客動員数は自身が監督を務めた8年間で最高であった。

福留孝介のメジャー移籍や北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。

2009年、2位に終わる。

川上憲伸、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。

2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。

2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。

9月22日に球団から同年シーズン限りでの監督退任を発表されるが、142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、球団史上初のリーグ連覇を達成した。

ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージも4勝2敗で制し、2年連続の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。

なお、同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。

11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れたその日をもって、監督退任となった。

2013年10月9日、中日のGMの就任が発表された。自らGM職を志願したことによる就任となった。

当初は顧問役を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8000万円で就任。

2016年は最下位に低迷し、12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで退任すると発表。

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