より努力している者、苦しんだ者が勝つ~ファイティング原田(ボクシング)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■ファイティング原田(ボクシング)名言集

苦しい練習を積み重ねてきて、それをやっと発散できるんだ。楽しくないはずないじゃないか。

親父にずっと言われていたんですよ。「男として生まれたからには、勉強して学者になるか、銭をつかむか、努力して栄光をつかむか、そのどれかを選べ」って。学校は好きだったけど勉強は大っ嫌いでしたから。

ボクシングでは、試合でどんなに殴り合っていても最終ラウンドのゴングが鳴ると、お互いにポンポンと健闘を称え合うでしょう。あれはボクシングならではのもの。あの瞬間の「ご苦労さん」という感じに、なんともいえない“美学”がある。

天才とは努力する才能である。

私は2階級で世界王者になりました。世界で権威ある『名誉の殿堂』にも日本人としてただ一人選ばれています。それ以上にうれしいのは、田舎に行くと今でも「原田さん、次の試合いつですか」とおじいちゃんおばあちゃんに言われることです。それだけ私のボクシングが脳裏にやきついているってことでしょう。それもこれもぼくが戦っていたそのときに、願っていたものではありません。勝つために、強くなるために重ねてきた努力が、こういう結果を生んだのだと思っています。

「ちょっと多いね。おまえは水を飲むな」と命じられますから。ジム中の水道の元栓を閉められるんですよ。蛇口は針金で固定されて、ひねっても水が出てこな
い。

敵地で王者になるならKO勝ちしかない。

来日するポーンに敬意を表して、当時唯一の国際空港だった羽田まで出迎えに行ったときです。ポーンはまともにぼくのことを見ようとしない。調印式、計量のときも握手してもそっぽを向いているんです。見下されているのかと思うと、どうしても勝ちたいという気持ちになって。試合は11回でぼくがKO勝ちするんですが、フィニッシュの瞬間までパンチを何発打ったのかな。もう数えきれないくらいに打ちましたね。ちゃんと握手をしていれば、彼もあんなに痛い思いをしないですんだのにと思いました(笑)。その後はぼくも対戦相手と向き合うときは、決して笑顔を忘れませんでした。

俺は素質のある方じゃなかった。だから人の二倍三倍やらないとダメだったんだ。それに、練習が好きだったからね。

ステーキ。でも試合が近くなると、肉を蒸してその肉汁だけを飲む。塩味しかしませんけど、「いやあ旨いな、これで頑張れる」なんてね。いま思えばよくそんなもので満足できたなと思うくらい。今の若い人たちは、食えない時代を知らないからね。そこで自分に勝てないやつはやっぱりダメだな。

思い返せば苦しいこともありました。ぼくの場合は、減量でしょうね。試合をするために、とにかくそのクラスのリミットまでに体重を落とさなければならない。この減量が、とんでもなく苦しかったのも確かです。「水洗トイレを流れる水も飲みたかった」という話は、本当のことです。減量も最後の段階になると、何も食べていられないし、水も飲めない。

ボクシングを始めた時から、十年やったらやめるつもりでいた。その間、二度もタイトルを取ることができた。幸福なリング生活だった。打ち込んできたリングに別れを告げるのはさびしいが、惜しまれるうちが花。ここらが潮時と思い、決心した。

ぼくは戦うことが好きでした。リングの上にいることが好きでした。怖いと思ったことなんて一度もありません。花道を入場してくるときはいつも照れくさいし、恥ずかしい。だから、タオルですっぽり顔を隠したりしていたんですが、リングに立つと不思議に気が楽になっていくんです。とにかく、ここにいることが楽しい、これから戦うことが楽しみで、その他の気持ちは一切湧いてきませんでしたね。

後楽園ホールに来てくれるファンの方々には、そういうボクサーのがんばる姿勢を見てほしい。自分の可能性を信じ、極限まで鍛え続けることで、その限界をさらに引き上げていく姿を見てほしいと思います。

全然、相手のパンチ力が違ったね。それだけじゃなく身長から体格まで違った。背が高いからパンチが届かないんだ。でも、そんなに人間変わらないと思って闘うしかない。

俺が青木に負けたら、努力するということが意味を失う。一所懸命に練習しているボクサーが、ろくに練習しないボクサーに負けるなんてことがあったら、おかしいじゃないですか。

確かに現実に飢えてはいないでしょう。けれど、リングに立とうと思ったからには、腹をすかせるのとは別の次元で何かに飢えているはずです。ダウンしてしまったら「もうダメ」と立とうとしない。負けてしまったら、すぐ諦める。なかなかお金にならないから楽しくない。それで終わるのではなく、自分に打ち克って、もっと大きな成果を追い求めてほしい。妥協しないでほしい、そう思います。

試合なんて減量に比べりゃ天国だ。

とにかく「ボクシングはそんなに甘いものじゃない」と思っていました。もし、彼が練習もしないでぼくに勝ったら、一生懸命にがんばっているほかの人はどうなる、ボクシング界のためにならない、とそう思ったんです。もちろん、その時点ではそんなに大局的に物事を見ていたわけではなく、ただ自分が勝ちたいという一心だったのかもしれません。あとになって、さまざまな感情が入り混じってそう考えるようになったんでしょう。ただ、確かなのは、最後にはより努力している者、苦しんだ者が勝つということを、ぼくの手で証明したかったということです。

■ファイティング原田(ボクシング)とは?

ファイティング原田。

本名は原田政彦(はらだ まさひこ)。

1943年生まれ、東京都世田谷区出身。

世田谷区立深沢中学校在学中に友人に誘われ、米穀店に勤務しながら猛練習で知られる笹崎ボクシングジムに入門。

1960年2月21日、4回TKO勝ちでプロデビュー。

1960年12月24日、東日本新人王決勝戦。やはりKOパンチャーとして売出し中の海老原博幸(金平)と対戦。序盤は原田のラッシュに、海老原が2度のダウンを喫したが、終盤には、海老原が後に「カミソリ・パンチ」と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き6回判定勝ち。

この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。

その後も無傷の連勝を25まで伸ばした。

1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦。

当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの原田に挑戦のチャンスが回ってきた。

蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールした。

11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせ、ポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされた。

新王者誕生に無数の祝福の座布団が舞った。

しかし、3か月後の1963年1月12日、バンコクで行われた再戦で、今度はポーンが試合巧者ぶりを発揮し、際どい判定ながら王座陥落。

原田は減量苦から、この後、バンタム級に転向する。

バンタム級に転向した原田は、1963年9月26日、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。

5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開。

ところが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けした。

原田はすぐに再起し、1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。

世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。

強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。

原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。

ジョフレは妻と息子を連れて来日した。

試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

1965年5月18日に愛知県体育館で行われたエデル・ジョフレ 対 ファイティング原田戦で開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。

かなりの大博打を打ったと言えるが、原田はこの博打に勝った。

原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。

そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。

そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いたのである。

これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。

だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。

だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。

そして遂に15Rの終了ゴングを聞いた。

勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取に成功した。

日本側の関係者でさえ、どちらの勝ちかで割れた程に際どい勝負であった。

レフェリーのロスは、現役時代、原田そっくりのラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったが、後の1966年5月31日、原田は2度目の防衛戦でジョフレと再戦、前回以上の差で判定勝ちし、完全に決着をつけた。

体重が増えやすい体質の原田には、デビュー当時から常に減量苦が付きまとった。

フライ級のリミット50.8kgに対し、原田の体重は普段65kgを超えていた。

試合が近づくとジムの水道は、シャワーの栓も含め、全て針金で固定され封印された。

このため、フライ級でデビューした原田は、バンタム級、フェザー級と階級を上げていくことになった。

1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。

王者の地元シドニーでの敵地開催。原田の圧倒的不利は否めない状況だったが、原田はこの試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。

続く15Rを王者は必死の防戦で逃げ切り勝敗は判定にもつれ込まれた。

それでも3度のダウンを奪った原田の勝利は揺るぎないものと思われたが、ここでもレフェリーを務めたペップは判定の結果が出る前に両者の腕を上げた。

つまり、「引き分け」で王者の防衛ということだった。

この結果に、地元でありながら王者とペップにはブーイングの嵐が起こる。

逆に判定に不服を申し立てることも無く、潔く健闘を称えあった原田には惜しみないスタンディング・オベーションが贈られるという始末だった。

結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。

翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京にて再戦を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。

1989年、日本プロボクシング協会(当時・全日本ボクシング協会)の会長に就任した。

歴代の会長では初めてとなる元世界王者の就任となる。

2010年の任期満了を以って7期21年務めた日本プロボクシング協会会長を勇退。

以降は協会顧問に就任する。世界チャンピオン経験者により同年に発足されたプロボクシング・世界チャンピオン会では最高顧問に就任。

2016年11月、旭日小綬章を受章。

2019年11月7日、ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ(WBSS)バンタム級決勝で判定勝ちした井上尚弥に試合後リング上で「モハメド・アリ・トロフィー」を贈呈。

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