「執着心と根気」努力を続けてチャンスを待ち、それを逃さずにつかむ~中嶋悟(F1)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

中嶋悟(F1)名言集

実家は愛知県岡崎市で300年以上続いた農家だった。米、たばこ以外に養蚕もやっていた。納屋には徳川家からいただいた刀や火縄銃なんかもあってね(岡崎は徳川家康生誕の地)。父親(昇さん)は農業を継ぐ前は海軍の軍人で、空母艦載機の整備をしていた。姉2人の下に兄(正悟さん)がいて、僕が末っ子。勉強もスポーツもよくできた兄貴には何をやってもかなわなかった。

自分は小柄で細かったけど、エンジンのついた乗り物なら何とかなるかもと思った。小学生のうちに父親のバイクにこっそり乗ったり、近所の宅地造成に来ていたダンプを作業場で運転させてもらったり。中3の時、教習所に通っていた2番目の姉(琴さん)に運転を教えたのも僕だった。バックで玄関に突っ込んで親に叱られたけど。名城大附属高を卒業間近の71年3月、普通免許をとった。教習所は行かず、いきなり試験場で。免許証の受け取りの時は兄貴が連れて行ってくれて、帰りは僕が運転したの。満面の笑みを浮かべてね。父親に日産フェアレディZを買ってもらった。小学生時代に田んぼでバイクに乗っていた僕を見た父親から「お前が公道を走ったら絶対死ぬ」と言われて、二輪の免許はとらせてもらえなかった。そのかわり自動車の免許をとったら、好きな車を買ってくれることになっていた。新車で当時108万円だった。

レース仕様のファミリア・ロータリークーペで公道は走れないから、トラックで鈴鹿サーキットに運び、練習したんだけど、オイルショックで自動車メーカーは撤退ムード。メーカーに“就職”する格好でレーサーをしていた人たちはいなくなり、自動的にライバルが減っていった。鈴鹿でもコースを独り占め。オイルショック…僕にとってはよかったねぇ。そのうちに「小柄だけど、速い奴がいるぞ」と言われるようになった。フォーミュラカー(ファミリアのような乗用車ベースではなく、F1のようにタイヤがむき出しになったレーシングカー)に乗るチャンスが巡ってきた。22歳だった75年にフォーミュラカーの「FL500」でチャンピオンになった。

子どもの頃、鈴鹿は憧れの存在でした。そして19歳になった時に、その鈴鹿でクルマに乗ってレースをし、そこが出発点になった・・・。自分のレーシングドライバーという仕事の中で、一番ぐるぐる回ったコースであることも間違いないですね。だから、その時々の思い出はいろいろとあります。最初は憧れの存在であり、次はレーシングドライバーとしての仕事場、次は思い出の場所・・・ということになります。そして、これからを見つめた場合、新たなチャレンジの場所であるわけです。チャレンジというのは、次世代の世界のトップドライバーの育成に貢献するということです。

天才たちはマシンの細かいセッティングなんて、注文しないんですよ。しなくても走れちゃうから。でも僕は乗りにくいのが嫌だから、あれこれスタッフに細かい部分まで報告したんです。そうしないと天才たちに伍して走れませんからね。それで結果的にエンジンやマシンの性能がアップして、チームメートの天才たちは、信じられないタイムで走ってくることになったんです。

気持ちの整理が出来たのは、本田宗一郎さんが、『なかなかいいランディングしたじゃねえか』と、一言伝えていてくれたからです。人間飛び立つのは簡単だけど、いい着地するのは難しいんだよ、と。いい着陸したねって伝えてくれたのよ。それですごく気持ちが楽になった。引退の発表したあとです。その年のシーズンが始まる前にお会いして『頑張って来ます』って言って、帰って来たら挨拶に伺いますということだったんだけど、帰って来たらお亡くなりになっていて、結局お会いできなかった。でも、あの言葉は本当に有り難かった。その言葉を聞いて、いい終わり方をしたんだって自分でも思えた。

敢えて言うなら、自分が行ったことで、『あいつが出来るなら俺でも出来るだろう』って思った人が沢山いたんじゃないかな。現実に(片山)右京は直ぐに行ったしね。自分が行けたことで多くの人がF1を目指したということはよかったんじゃないかな。そういう意味では役に立ったんじゃないかな。

チームメイトだった時のセナは、F1参戦1年目の僕によくアドバイスをくれました。例えば、「あのコーナーのバンプは危ないので避けたほうがいい」とか、自分の経験をもとにコースの危険なところを指摘してくれました。また当時のF1はオートマチックじゃないので、シフトチェンジの多いモナコでは、手のひらの皮がむけてしまう。だから手が痛くならないように、テーピングの仕方を教えてくれたりもしました。「これやったら絶対にいいよ!」と、僕の手に薬をぬって、テープを巻いてくれましたよ。

結局、F1ドライバーというのはみんな下のカテゴリーでチャンピオンになり、勝ちあがってきた者ばかりです。みんなが「俺が一番だ、俺が世界一だ」と思っています。そういう世界なんです。でも1位はひとつしかないのですから、そこに実力が拮抗したふたりがいたら、セナとプロストのような接触という結末になっても不思議じゃない。目指すところが一緒で、本当に同じレベルにいる者同士が戦っている中では、ああいう接触事故はあり得ることです。お互いに「俺が先だ! 俺が先だ!」と意地の張り合いになって、結果的に重なり合うようにぶつかってしまった。周囲の人たちが故意だとか故意じゃないとか、いろんな意見を述べていますが、同じフィールドで戦ったドライバーとして言わせてもらえば、セナとプロストのアクシデントの真実はそういうことだと思います。

当時のドライバーたちは、レース中に接触することも厭(いと)わない、命がけで走っていたなんて、そんなバカなことはあり得ません。そんなことは冗談でも言えないですよ。もちろんF1は身体をはって限界に挑むスポーツだと身を持ってわかっていますし、時には相手のことを「この野郎!」と思いながら走ることもあります。だからといって捨て身になって、命をかけてやるものではない。命をかけないように、自分の技と経験を駆使して戦うんです。それがレースです。アイツは臆病者だと言われてもいいですが、僕はそう信じています。

セナは運転がうまかったですが、何か特別なドライビングをしているのかといえば、決してそうではありません。僕の運転の仕方とも変わりありません。ただ、僕が1秒間で5つしかマシンの操作をできないとしたら、彼は同じ時間で8つぐらいの操作ができる。言い換えると、僕にとっての1秒はセナにとって2秒ぐらいに感じているんじゃないか、ということです。きっと彼の目には、物事の動きが現実よりもすごくゆったりと見えていたと思います。そうじゃないと、ガードレールに囲まれた狭いモナコの市街地コースをあんなに速いタイムで走ることなどできるわけがありません。理屈が合わないんです。実際にモナコを走ると、次から次へとブラインドコーナーが迫ってきて、それに対応するだけで精いっぱいです。でも、きっとセナは周りがよく見えていて、僕が想像もつかないところまでちゃんと絵を描けているんです。だから、見えない壁の向こうにものすごいスピードで突っ込んでいくことができるのだと思います。

普通の自動車の運転と、レーシングカーを走らせることは大きく異なります。レーシングカーを運転する時には”時間を削ること”が求められるのです。そのためには、前もって行動するしかないのです。よく「レーサーは反射神経がよいので速く走れるんじゃないですか」と言われますが、そうじゃないんです。反射神経は僕もセナもそんなに変わりませんし、F1のレースではパッと目の前の状況を見て、それに反応するのではとても間に合いません。

たとえば、F1ドライバーはモナコGPが開催される市街地コースのトンネルを280キロ以上のスピードで駆け抜けていきます。トンネルを抜けてパッと視界が明るくなり、次のコーナーの入り口が見えます。でもコーナーが見えたあとに反応しても遅いんです。コンマ数秒で壁にゴンッとぶつかって終わりです。見えてから反応するのではなく、レーシングカーの運転では自分で時間をつくっていくんです。モナコのような市街地コースでは、コーナーの先がまったく見えません。見えないけれども、次に起こることを予想して仕掛けていくのです。「コーナーの先は見えないけれども、クルマがこういう動きをしているので、このままで走って行けばカーブをうまくクリアして、壁の10センチ横を通ることができる」とかね。そうやって実際に目に見える前に反応して時間をつくっていくことで、タイムを削り取ることができるのです。とはいえ、モナコはでひとつのコーナーをクリアしても、次から次へとコーナーが連続していきます。僕からすれば四六時中綱渡りしているようなものでした(笑)。だから何度も言いますが、セナの目にはよっぽど周りがのんびり見えていたんじゃないかと思うのです。

きっと他のスポーツでも、セナのようにスーパースターと言われる人たちは、同じような感覚を持ち合わせているのだと想像します。視野が広く、他の選手には見えないものが見えている。さらに言えば、目だけじゃなく、頭の回転や記憶力などもうまくリンクさせながら機能しているのだと思います。たとえばサッカーでゴール前にセンタリングを上げる時に、自分のところに来たボールのどの部分を、どれぐらいの量のスピンをかけて蹴れば、味方にとって理想的なパスになるのか。おそらくスーパースターと言われる人たちは、ディフェンダーと味方の動きを全部見ながら、そのベストの答えを瞬時に判断して、プレーすることができるんだと思います。下手な人は周りがよく見えていないのでディフェンダーの近くにパスを出してしまったり、あるいはキックのスピンの量が多すぎたり、逆にうまくスピンがからなかったりしてボールがゴールラインを割ってしまう。野球でも同じだと思います。超一流のバッターはピッチャーが投げるボールと野手の動きを見て、「このボールの軌道だと、こういうふうにバットを振れば、二遊間があいているので、そこに飛ばせばヒットになる」と瞬間的に判断し、行動に移すことができる。それぐらいグラウンドでの一瞬の出来事がスローに見えていると思います。でも頭の中は普通の選手の何倍ものスピードで回っている。きっとセナも同じような感覚でマシンを運転していたと思います。

自分というものを失わないことですね。いろいろと言われるとは思うけど、最後には自分の信念というものをしっかり持って、立ち向かうべきでしょうね。全てのことに。僕たちの若い頃は、とにかく「これがしたいんだ!」というのが先で、「職業になるか、ならないか」なんて考えずに突き進む時代でした。世の中の情報があまりなく、自分の思い込みだけの時代でした。「自分が一番得意なこと、自分に嘘をつけないこと、自分が誇れることをやるんだ」と思っていました。「人と比べて自信がある」とかそういうことではなく、自分の中で「俺は自動車の運転では誰にも負けない自信があるから、それをやりたいんだ」という気持ちです。それでサーキットに乗り込んで人と闘う。結論として勝ち負けはあるけれど、「自分の全てをぶつけて闘っている」という自信とか信念はありましたね。だから「日本人初のF1ドライバーとしての苦労」をよく聞かれますが、自分の好きなことをやっているのだから、「苦労」と思ったことはないんです。今の若い人はいろんな情報がたくさん入って来ちゃうから、なかなか僕の時代のようにはいかないと思いますが、自分というものを、そしてチャレンジする気持ちを熱く持って欲しいなと思いますね。

もちろんプレッシャーがないわけじゃないけど、スポーツ選手はいつもそれがないと、闘っている感じがしないわけで、プレッシャーはもう体にしみついた当たり前の感覚なんです。それよりも、自分をこれほど応援してくれる人がいるんだという感動の方が大きかった。ただ、「いいとこ見せたいな」と思いながら、なかなか見せられない辛さはありましたね。

最後の年は僕がF1を引退することが皆さんにわかっていたこともあり、ウェーブができるくらい応援してくれたことが印象に残っています。あれほど「日の丸」を感じたことは生涯なかったですね。

あの頃は、スポーツも含めてあらゆるジャンルで、日本という国が世界を目指していた時期でした。そういう時代風景の中で、日本人である私が世界にチャレンジしている姿に、応援してくれている皆が、自らの想いを重ね合わせてくれていたんだと、今では思いますね。

世の中には、現実的な夢と、非現実的な夢というのがあるからね。

努力を続けてチャンスを待ち、それを逃さずにつかむ。最後まであきらめない『根気』が、結局ものを言うのです。

もし、並みのレーサーとトップクラスのレーサーに差があるとすれば、それは、執着心と根気の差。

中嶋悟(F1)とは?

中嶋悟。

1953年生まれ、愛知県岡崎市出身。

4人兄姉の末っ子として生まれる。

生家は約300年続く農家。

父親は、航空母艦「雲鷹(うんよう)」で艦載機の整備兵をしていた軍人で、兄たちが戦死したので農業を継いだという。

岡崎市立梅園小学校、岡崎市立葵中学校を経て名城大学附属高等学校に進学。

高校在学中にレーシングカートを始め、数戦のレースに参加し優勝も経験。

高校卒業後に自動車運転免許を取得し、アルバイト先だったガソリンスタンドに就職。

後に実兄が開業したガソリンスタンドに移り、そこで資金を稼ぎながら本格的なレース活動を開始する。

1973年の鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。

1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。

ただこの頃は慢性的な資金不足にあえいでおり、1976年にはレース活動を辞めようかとも考えていたという。

ところが同年夏、鈴鹿サーキットで行われたGCレースに参戦するためのドライバーを探していた松浦賢の目に偶然留まったことが契機となり、当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングへの加入が実現する。

1977年にはヒーローズレーシングより全日本F2000/鈴鹿F2000とFJ1300に参戦。

特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。

1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3にスポット参戦。

鈴鹿サーキット限定で争われる鈴鹿F2選手権でチャンピオンを獲得した。

なお1978年はイギリスF3に参戦する関係で、シーズン途中にモータースポーツライセンスを日本自動車連盟(JAF)発行のものからイギリスの王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えている。

当時の全日本F2選手権では「外国ライセンスのドライバーはポイント対象外」との規定が設けられており、このため中嶋の後半2戦(第5戦・第7戦)の結果はポイント対象外となってしまった。

この2戦で中嶋は共に2位に入っており、通常通りのポイントを獲得していたとすると同年の全日本F2でもチャンピオンを獲得していた計算になるため、一部メディアでは「幻のチャンピオン」と評されることがある。

1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍。

ただしヒーローズレーシングから半ば強引に引き抜かれる形でチームを移籍したため、ヒーローズ側の圧力により当時の全日本F2で最強エンジンと呼ばれたケン・マツウラレーシングサービス チューンのBMWエンジンの供給を受けられず、同年と1980年の全日本F2では成績が低迷する。

一方で1979年には富士GCシリーズでチャンピオンを獲得した。

1981年からは生沢の伝で、前年よりF2に復帰したホンダのワークスエンジンの供給を受けられるようになり、同年と1982年には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。

1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、資金不足に悩まされ成績は下降した。

生沢と関係が悪化し1983年にi&iレーシングから離脱。

自らの会社中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍する。

i&iでの中嶋のドライビングを高く評価したホンダからは引き続きワークスエンジンの供給を受けていたが、チーム体制がまだ成熟しておらず同年はチャンピオンを逃した。

1984年にヒーローズレーシングに復帰。

そのときに「車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなう」という当時としては前例のない契約形態をとった。

この時点でBMW勢より優位となっていたホンダエンジン、中嶋のテクニック、ブリヂストンタイヤのパッケージは当時の全日本F2選手権シリーズを席巻し、以後1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する。

ただしホンダがエンジン供給しない富士GCシリーズでは依然としてケン・マツウラレーシングサービスチューンのBMWエンジンの供給を受けられず、劣勢であった。

F1マシンのドライブは、1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝した副賞として、当時JPSがメインスポンサーだったロータスのテストを行ったのが最初の機会だった。

その後、前述のホンダとの良好な関係により1984年からはホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、当時ホンダがターボエンジンを供給していたウィリアムズのマシンをドライブするようになった。

のちのF1デビュー後にはこの際の経験が生かされることとなった。

1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦。

特に1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス・86C/トヨタを駆り予選トップタイムをマークしたが、「Tカーで記録されたタイムのためにタイムは無効」とされ、ポールポジションを獲得することはできなかった。決勝は9位。

1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にもフルシーズン参戦した。

国内選手権との同時参戦という過密スケジュールでの参戦である上、初めてのコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、オーストリアGPでの最高位4位(1回)を含む数回の入賞を上げ、新人ながらシリーズランキング10位という結果を残し、F1へのステップアップへの道を開いた。

34歳にしてタイのプリンス・ビラに次ぐアジア人として2人目、日本人初のフルタイムF1ドライバーになる。

1987年の開幕戦(ブラジルGP)で名門チームのロータス・ホンダよりデビューを果たし、1991年で引退するまでの5年間、ホンダと、F1初年度のチームメイトであったアイルトン・セナと共に、当時バブル景気で沸いていた日本にF1ブームを巻き起こした。

F1での生涯成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP・1988年日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP・1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。

1987年

1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。

この年は慣れないコースの上、99Tに搭載されていた新技術であったが、構造が複雑かつ信頼性が低いアクティブサスペンションの熟成不足に苦しめられ予選で6-7列目の中団に埋もれる場面が多く見られたほか、細かなマシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバー(Graded Driver / 年間で複数回入賞したドライバーに与えられる名誉)の仲間入りを果たした。

なおこの年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。

F1では若いカーナンバーがチームのエース・ドライバーに与えられることが多いが、新人の中嶋がカーナンバー11、すでにF1での実績のあるセナがカーナンバー12であった。

4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車による1-4位独占の一角を占めたほか、地元の日本GPでも、ベネトンのブーツェンやファビ、ブラバムのパトレーゼらと終始争い「中嶋返し」や「大外刈り」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。

マシンに関しては、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りでアクティブサスペンションの実戦使用を中止した。

だが長い期間アクティブサスペンション開発に注力してきたこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が立ち遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。中嶋のマシンにのみ、シーズンを通じて車載カメラがテスト的に搭載されたが、このことがマシンのバランスを崩す結果となり、セナが2勝のトータル57ポイントに対して中嶋は7ポイントと差はかなり大きかった。

1988年

初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンでウィリアムズから移籍してきたネルソン・ピケに変わった。

この年はコースに慣れたこともあり、予選でピケに並ぶタイムを度々たたき出したほか、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや、コースを熟知していた日本GPにおける予選6位など、たびたび予選トップ10に食い込む活躍を見せた。

市街地コースで開催されたモナコGPとアメリカGPでは初の予選落ちを喫したが、決勝レースでもトップ10内フィニッシュを繰り返し、雨のイギリスGPでマクラーレン・ホンダのアラン・プロストを従えて走ったほか、性能で上回るフェラーリを従えてのレースや、予選で前後に着くことが多かったウィリアムズやベネトンと好バトルを繰り広げることが度々あった。

しかしマシントラブルが原因のリタイアも多く、開幕戦のブラジルGPで6位に入賞した以降は入賞することなくシーズンを終えた。

このシーズンもチームメイトとのポイント差が大きかったが、上記のように主にマシントラブルによるものであった。

当時のロータスは中嶋をセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていたが、レース中にピケを上回ることもあった。

なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、自らのシフトミスの結果であったと中嶋はドライビング・ミスを認めている。

日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位を獲得。

しかしポールポジションのセナとともにスタートでエンスト、大きく出遅れたものの鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた。

シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。

実際、アロウズと交渉を重ね契約寸前まで行っていたが、それぞれのスポンサーの問題で最終合意には至らなかった。

そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなくチームスタッフとの関係も良好な上、EPSONやPIAAといった良好なスポンサーを持つ中嶋との1年間の契約延長を行った。

契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。

1988年

初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンでウィリアムズから移籍してきたネルソン・ピケに変わった。

この年はコースに慣れたこともあり、予選でピケに並ぶタイムを度々たたき出したほか、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや、コースを熟知していた日本GPにおける予選6位など、たびたび予選トップ10に食い込む活躍を見せた。

市街地コースで開催されたモナコGPとアメリカGPでは初の予選落ちを喫したが、決勝レースでもトップ10内フィニッシュを繰り返し、雨のイギリスGPでマクラーレン・ホンダのアラン・プロストを従えて走ったほか、性能で上回るフェラーリを従えてのレースや、予選で前後に着くことが多かったウィリアムズやベネトンと好バトルを繰り広げることが度々あった。

しかしマシントラブルが原因のリタイアも多く、開幕戦のブラジルGPで6位に入賞した以降は入賞することなくシーズンを終えた。このシーズンもチームメイトとのポイント差が大きかったが、上記のように主にマシントラブルによるものであった。

当時のロータスは中嶋をセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていたが、レース中にピケを上回ることもあった。

なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、自らのシフトミスの結果であったと中嶋はドライビング・ミスを認めている。

日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位を獲得。

しかしポールポジションのセナとともにスタートでエンスト、大きく出遅れたものの鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた。

シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。

実際、アロウズと交渉を重ね契約寸前まで行っていたが、それぞれのスポンサーの問題で最終合意には至らなかった。

そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなくチームスタッフとの関係も良好な上、EPSONやPIAAといった良好なスポンサーを持つ中嶋との1年間の契約延長を行った。

契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。

1989年

この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったため、非力なカスタマー仕様のジャッドにエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。

また、シーズン中にティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦ではフランスGPで投入されただけに留まるなど、チームの混乱が続いた。

シーズン全般的に、ピケ・中嶋ともに予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かったが、チームメイトのピケはシーズン中盤に新型エンジンが投入されたことで、連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあった。

なお、昨年予選、決勝ともに中嶋が上位争いをしたシーズン中盤のベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。

エントリーしたマシンが全て予選不通過となったのは、長い歴史を誇るロータスのチーム史上初の屈辱であった。

なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。

この年の中嶋とロータスにとって最大の見せ場となったのが最終戦のオーストラリアGPであった。

中嶋は激しい雨が降る中、後方23位からスタートし、1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、スピンやクラッシュで自滅するマシンも多い中で序盤から次々順位を上げ、レース中盤以降には、ワークスのルノーエンジンを搭載し、性能に勝るマシンで3位を走行するリカルド・パトレーゼのウィリアムズ・ルノーを追い回した。

スリップストリームに入るとエンジンが水煙を吸い込みミスファイアを起こすという症状が何度も起きたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかった上に、時間制限により規定周回数前にレースが終わってしまったが、自身にとって初であり、同シーズンでロータスにとっても初のファステストラップを記録し、自己最高位タイの4位に入賞した。

ファステストラップは2012年中国GPで小林可夢偉が記録するまでの長い間、F1において唯一アジア人ドライバーが記録したファステストラップだった。

1990年

監督のピーター・ウォーがチームから去るなど、さらに体制が悪化することが予想されるロータスに見切りをつけ、前年の夏よりアロウズやティレル、オニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった。

ティレルもカスタマー仕様のV8エンジンを搭載するかつての強豪チームだったが、現在はチームオーナーであり監督のケン・ティレル以下、中堅チームとして堅実に運営されているチームだった。

開幕前のヘレステストでは走行中にリアウィングが脱落するアクシデントでひやりとさせたが、1990年序盤に使用したティレル・018はバランスが優れたマシンであり、開幕戦アメリカGPでウィリアムズのパトレーセやブラバムのステファノ・モデナとのバトルを経て6位入賞を果たした。新車019がデビューしたサンマリノGPはスタート直後にイヴァン・カペリと接触し、マシンが2つに折れる大クラッシュに会うが無傷で生還した。

その後、シーズン中盤では6連続リタイアを喫するなど、たび重なるマシントラブルに見舞われ、完走5回という完走率の低いシーズンとなった。ポルトガルGPでは発熱のため、初めて決勝レースを欠場した。

それでも、イタリアGPと日本GPで6位入賞し、3回の入賞で3ポイントを獲得した。

019はF1に初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋は前年型である018のハンドリング特性をより好んでいた。

なお、デビューした去年からティレルで走るチームメイトのジャン・アレジは、アメリカGP・モナコGPと2度の2位表彰台を含む3回の入賞を果たすなどセンセーショナルな活躍を見せ、1991年はフェラーリへ移籍することになった。

ケン・ティレルは中嶋にアレジのような一発の速さはないものの、レースを通じての安定した走りや、ロングランでのタイヤテスト・決勝用タイヤの皮剥きのための走行など、チームに不可欠かつ地味な作業を黙々とこなす点、そして何よりもマシン開発能力やセッティング能力などに高評価を与えており。翌1991年もティレルに残留することが早くから決まった。

1991年

昨年に続きティレルでの参戦となった。

マクラーレンに2年連続ダブルタイトルをもたらしたホンダV10エンジンがティレルに供給されることが決まり、前年以上の好成績を収めることが期待された。

シーズンが開けると、開幕戦アメリカGPで5位入賞と幸先よくポイントを獲得し、第3戦サンマリノGPでは予選トップ10からスタートし、エンジントラブルでリタイヤするまで4位を走行するなど好調な出だしと思わせた。

しかし、シーズンが進むにつれてティレル・020の相対的な戦闘力は低下し、結局入賞はアメリカGPのみに終わった。

低迷の原因としては、フォード・コスワースDFR V8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、それを補うために導入された軽量トランスミッションが信頼性不足となり、トラブルが頻発した。

また、V8のフォード・コスワース・HBエンジンを搭載するベネトンがピレリタイヤの開発を主導したため、重いホンダV10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかった。

さらに、シーズン序盤にデザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトがチームを離脱したため、マシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。

また、5シーズン目の中嶋自身も体力と視力の衰えに悩んでおり、第9戦のドイツGPにて、このシーズンを最後に引退することを発表した。前年のモナコGPでアレジが重いステアリングをねじ伏せながら縁石を乗り越えて走るのを見て、もう自分の出番ではないと思ったという。

本当は1990年一杯で止めようと思っていたが、ホンダV10の供給が決まるなど、周りが止めさせてくれない雰囲気があったので、もう1年頑張ろうと思ったという。

なお、引退発表直後に行われたドイツGP予選では、このシーズンで唯一チームメイトのステファノ・モデナより速い予選通過タイムを記録している。

その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットは「中嶋の母国ラストラン」を見届けようとする観衆で中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」などの横断幕がサーキットを埋めた。予選では中位に終わったものの最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたが、スタート失敗から7位まで追い上げたところで、フロントサスペンションのトラブルによりS字を直進しクラッシュしてリタイアという結果に終わった。

マシンを降りた中嶋は20万人を超すファンに手を振りながらピットへ戻った。

引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、くしくも4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ、雨のアデレード市街地サーキットとなり期待をさせたが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンがコンクリートウォールにヒット。

26台中最初のリタイヤとなり、ここで静かにレース活動を終えた。なおF1からの引退とともにレース活動も引退した。

F1からの引退とともにレーシングドライバーとしての活動も引退したが、全日本F3000選手権→フォーミュラ・ニッポン→スーパーフォーミュラや全日本GT選手権→SUPER GTなどに参戦する自身のチーム「ナカジマレーシング」の監督として現場を率いている。

同チームは、野田英樹、中野信治、高木虎之介、桧井保孝、松田次生、小暮卓史、トム・コロネル、アンドレ・ロッテラー、ロイック・デュバル、武藤英紀、松浦孝亮、牧野任祐、アレックス・パロウといったドライバーを輩出するなど、若手ドライバーの登用に積極的である。

また鈴鹿サーキットレーシングスクール(「SRS-K」、「SRS-F」)の校長を開校(1993年)から2018年まで務め、これまで佐藤琢磨、松田次生、松浦孝亮、武藤英紀などを同スクールより送り出した。

2004年に日本レースプロモーション(JRP)の会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポン(現 スーパーフォーミュラ)の建て直しにも本格的に乗り出している。

ホンダや鈴鹿サーキットのファン感謝デー、JAFグランプリ併催の「レジェンドカップ」などでたびたびデモランやエキシビションレースに参加し往年の腕前の一端を見せている。

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