頑張るってことは楽しいことなんだ。~衣笠祥雄(野球・広島カープ)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

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Contents

■衣笠祥雄(野球・広島カープ)名言集

現役時代、周囲からは鉄人と呼ばれていても、やはり自分の中の不安と常に闘っていました。

野球が大好きでした。こんな好きなことを一日たりとも休めますか。

カープに入った頃、「痛いと言ってくれば休ませてやる」という中で育てられた。要は代わりはいくらでもいるということです。

甲子園に出たかったから。当時は格言集がはやっていて、自分で見つけてはノートに書き写してました。練習がつらくて、自分を励ましたかったんじゃないかな。レギュラーになれるか不安だった中で、ぶれなかったのは甲子園に行きたいという気持ち。それを励みにしました。

運というのは、つかむべく努力している人のところへ訪れてくる。

僕自身、自分がつくった世界記録が本当にすごいものなんだと知ったのは、96年にカル・リプケンが僕の記録を越えてくれた時でした。現役時代はひたすら毎日のゲームで頑張ることしか考えていなかったのですが、リプケンが出てきて、その足跡を冷静に見られるようになった。本当にすごいことをやったんだなと実感できたんです。

試合のある日に、休みたいと思ったことは一度もないですよ。

自分が思っている以上に、米国のファンは僕のことを知っていてくれる。野球に対する思いの深さが違うという感じがします。

僕にとって、三振というのは野球の中の一部ですね。仕方ないですよ、仕方ないって、あきらめてないですよ。少なくとも自分としては振る瞬間は当たると信じているんです。それを時々、おまえわざと三振してるんじゃないのか、なんていう人がいますけど、そうじゃないです。少なくとも自分では信じて力いっぱい振ってるんですよ。

自分でできることを、自分なりに一生懸命やってきた。ただそれだけですよ。

人間、自分ひとりでできることには限界がある。だけど、人と力を合わせると、不思議なことに不可能も可能に、夢も現実になっていく。だから、出会う人を大切にするんだよ。

私は野球に救われたのですから。たまたま中学で野球を知り、それに打ち込むことで、世の中の落とし穴にはまることがなかった。この落とし穴は、中学でも、高校でも、大学でも、社会人でも、その段階、段階で必ずあります。私は、野球のおかげでその落とし穴を避けることができたのです。

他人に好かれなくてもいいから、他人に嫌われることだけはするな。

誰にも好きなことはあるだろう。やっていて飽きないことがあるだろう。だからお父さんは言うんだよ。何でも好きなことをしなさいって。好きなことには、きみたちの素質があるからなんだ。

人生なんて案外、「他人」の一言が決めてくれるものなのです。

このころイチバン憶えてるのが・・・小学生からハガキが来ますよね。そしたら『勝った次の日は宿題が少なくなりますから頑張ってください』って、やたら多かった(笑)。・・・ホント、この優勝というものがボク自身も大きな転換期を迎えるきっかけになりましたし、なによりチームが変わりましたね。何を目的にキャンプをやるんですかと言ったときに、『優勝です』とハッキリ言えるようになった。これがイチバン大きな差ですね。

自分がどんな人間で、何ができるか、毎晩、床に入って二、三分でいいから考えてみること。夢はそこから生まれてくる。

連続試合ってのはボクにとって周りの人にお世話になったばっかりで、自分が頑張ったとしたら15%ぐらい。要するにグランドへ体を持っていって・・・それだけはまぁ頑張りましたけど、それ以外はみんな助けていただいて。周りの人が、例えばケガしたらトレーナーが助けてくれる。打てなくなったら『ここがこうだよ』って誰かが助けてくれる。チームメイトが励ましてくれる。いろんな人が前へ行くために、いろんな人のお世話になって。そういうなかで、こう頑張れたんじゃないかなって思いますもんね。

ひとつハードルを飛び越えられれば、必ずひとつ力がつく。それが自信になって、次にはもう一段高いハードルを越えられる。

自分自身が、これ以上もううまくなれないと、今一番引退を決意した理由であります。

“忍耐”という字を書きました。だいたい三位一体で、よく話に出ると思うんですが、あと“努力”と“根性”という字がこのお友だちみたいにいるんですが。自分の性格のなかでは、やっぱりこの字を大事にしなきゃいけないかなぁと。決して“耐える”んじゃないんですよね、ボクの書いてる意味で言いますと“やり遂げる”。やり出したら、やり遂げる。最後まで諦めないでね。それがボクのこの字の意味ですね。

自分がここにいるのは、可能性があるということだ。可能性がなければ、この場所にはいない。そう思って、いつも自分を信じることだ。

野球も人生と同じで、頑張れば頑張るほど、生きる道を教えてくれて、頑張らないと見えない世界なんです。自分の人生というものが見えたら、幸せでしょうね。世の中、100の物事があるとしたら、そのうち10か15の楽しいことが見つかれば、その人は幸せであって、後の80か85は頑張るしかない。その中で、自分はこうやって生きてきたんだと思えたら、幸せじゃないですか。

どんな時でも、投げてくる球をしっかり見据えて、フルスイングしないと何も残らない。明日につながらないんです。人生だって同じかもしれませんね。

最もエネルギー源となった一冊が、鎌倉にある報国寺の住職だった菅原義道さんが書かれた『死んだつもりで』だったんです。知人に薦められたこの本の「まえがき」にはこうあります。《負けてたまるか、死んでたまるか、勝てば官軍、負けてなんの理屈がある。どうやってでも勝て、というのが私が最近若い人に与える説教である》スランプに苦しむ中で、ぼくは『明日、地球が爆発したらいいのに』と思うぐらい、追い込まれていました。しかしこの本ではむしろ、毎日を死んだつもりで生きれば道は拓けていくと説いている。そこではたと、自分は己を知らなかったんだな、と気づくのです。

長いスランプを脱するのが一番の苦労でした。心技体の中でやはり心の問題が一番大切と痛感してきた。

野球が好きなんですよね。僕をここまで育ててくれたのは野球です。野球に真剣に取り組んでなかったら、『鉄人・衣笠』はありません。今、素直にそう野球に感謝できるのは、人との出会いがあったからです。うわついていた若い時に、良い人に出会って根っこを作ってもらった。やればやるほど欲が出てきて面白くなる。それからです、野球の本質が見えてきたのは。僕を変えてくれた野球を、次は子どもたちに伝えたい。頑張れば、できるんだよって。

なぜ、もう少し頑張れないのかとも思う。自分にご苦労さんとは言わない。

スポーツの選手は、いつも子供の手本でなきゃダメなんです。将来、大きくなって、あんな人のようになりたい、だから頑張るんだと。そう思ってもらえるようなプレーヤーでなきゃいけないんですよ。子供達が見て、正しいと思ってくれる道しか、スポーツの選手は歩いちゃダメなんです。

一番の根本は、自分を信じ切れたかどうか。

ここまで野球、野球で来た人間ですから。やっぱり子どもさんにね、野球の面白さと、もうひとつは“頑張る楽しさ”・・・頑張るってことは楽しいことなんだというものを、どう伝えられるかなーと思いますね。小学生の3年生・4年生ぐらいまでの子どもにね、トスバッティングでボールを上げるでしょ。で、こうやって打つんだよってボールを上げるわけですよ。上手くいくでしょ。ニターっと笑う。『オレが上手いんだ』いう顔してね。で、失敗するでしょ。『アンタが悪い』ってニラむんですよ(笑)。これがそうなんですよね。上手くいくと楽しいということを覚えてほしい。でも頑張らないと上手くいかないよと。これは野球に限らない。何やっててもそうなんです。一生懸命頑張って、自分が楽しいものを次にどう見つけるかによって、自分が生きてることが楽しくなるんですよね。

「現在(いま)」を大事にして精一杯やるから、「未来(さき)」があるんじゃないでしょうか。

■衣笠祥雄(野球・広島カープ)とは?

衣笠祥雄。

1947年生まれ、京都府京都市東山区馬町出身。

進駐軍の兵士として日本に駐留中だったアフリカ系アメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれた。

京都市立洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した。

平安高校では、捕手として同期のエース植木一智とバッテリーを組み1964年の春夏の甲子園に出場。

春の選抜は準々決勝に進むが、エース島村聖を擁する土佐高に惜敗。

夏の選手権は同じく準々決勝で、この大会に優勝した高知高の光内数喜に抑えられ敗退。

翌1965年、広島カープに入団。

同年は捕手として6試合に先発マスクを被るが、白石勝巳監督の方針で一塁手に転向。

1967年は10月から先発に名を連ね、4試合で三番打者として起用される。

1968年は開幕から五番打者に抜擢され一軍に定着。

同年は初の規定打席(14位、打率.276)に達し、21本塁打を放った。

1970年は外野手も兼ね、24試合で四番打者に座る。

そして、10月19日対巨人戦から連続試合出場の記録が始まる。

1971年は打率.285ながら長嶋茂雄(打率.320)に次ぐベストテン2位に喰い込み、1972年は打率.295(4位)、29本塁打(3位)、99打点(王貞治に次ぐ2位)とリーグを代表する打者に成長。

1974年までの背番号28から「鉄人(横山光輝の漫画『鉄人28号』より)」の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら飛び抜けて体が頑丈でもあった。

負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで大相撲の幕内力士青葉城と並び称されたこともある。

1975年、五番打者として四番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。

特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている。

同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、6試合通算26打数3安打1打点と不振を極めたが、第5戦では2回に山田久志から先制本塁打を放っている。

また同年は初のベストナイン(三塁手)に選出された。

1976年は盗塁王のタイトルを獲得。

1979年はシーズン序盤から打撃不振に陥り、代打、代走、守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。

5月27日の時点で打率が1割9分8厘と低迷。

監督の古葉竹識は5月28日の対中日戦で先発メンバーから外す決断に踏み切った。

74年4月17日以来連続フルイニング出場の記録を続けていたが、元阪神の三宅秀史の持つプロ野球記録の700まであと22試合と目前に迫りながら、678試合で記録が途絶えることになった。

ただし、6回裏に代打で出場したため、70年10月19日以来続いている連続試合出場の記録は継続することになった。

8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。

全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた。

江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。

衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。

続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた。

1980年8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された。

1982年も12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った。

1983年4月9日の開幕戦の対中日戦では堂上照から満塁本塁打を放ち、同年は3本の満塁打を放った。

8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成。

日本プロ野球名球会会員となる。

1984年には37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打(自己2位タイ)・102打点の成績を残した。

打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。

メジャーリーグベースボールのルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、1987年の開幕を迎えることとなった。

開幕戦は4打数3安打の猛打賞、2戦目は勝利打点を叩き出すなど好調な滑り出しとなった。

6月11日の対大洋戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。

6月13日の対中日戦で2131試合に到達。

この試合で小松辰雄から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、広島市民球場を満員にした地元ファンの祝福に応えた。

6月22日に王貞治に次いでプロ野球選手として2人目の国民栄誉賞を授与された。

9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。

最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たした。

功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっている。

安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録している。

また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打・200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。

山本・衣笠のYK砲は球史に残る強力なコンビであった。

2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・長嶋茂雄(ON砲)の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。

1996年、野球殿堂入り。

2018年4月23日、上行結腸がんのため東京都内で死去。71歳没。

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