株式会社アスカネット創業者、福田幸雄:成功の秘訣『飽き性』と『凝り性』

株式会社アスカネット創業者、福田幸雄:成功の秘訣『飽き性』と『凝り性』

 

成功の秘訣『飽き性』と『凝り性』

 

 

福田幸雄/株式会社アスカネット

 

 

私自身の『飽き性』という性格に起因しているかもしれません(笑)

しかし、ファッションにせよカメラにせよ、インターネットにせよ、どれもかなりの興味関心を持ち、のめり込んだものです。

飽き性であると同時に、『凝り性』なんですね。

強い興味を持っているから、それに関するアイデアはどんどん湧いてくる。

そして次第にアイデアがカタチとなって、ビジネスに発展する。

そうして現在のアスカネットが出来上がった訳です。

 

 

 

 

 

 

 

 

福田幸雄(アスカネット創業者)とは?

 

 

福田幸雄。

1948年、広島県生まれ。

 

地元の進学高校卒業後、大阪にある文系私立大学へ進学。

退屈に耐えきれず2年で自主退学し、東京の文化服装学院ファッションデザイン科へ。

 

ファッションセンスが認められ、生地メーカーなどからスポンサードが付く。

そんな支援もあり、東京・青山に自分のショップをオープン。

 

卸販売も開始し、販路を拡大したが3年目に頓挫。

会社を解散させるはめに。

 

その後、Uターンした広島で、フリーのフォトグラファーに転身。

飛鳥写真館を立ち上げ、遺影制作サービス事業を開始。

 

デジタル通信の時代に花開き、全国から遺影制作のオーダーが届くまでに成長。

1995年、同事業を引き受けるかたちで株式会社アスカネットを設立し、代表取締役に就任。

 

新規事業としてスタートした、世界で1冊だけの高級写真集制作事業を苦労しながら軌道に乗せる。

2005 年、東証マザーズ市場に上場。

 

遺影制作サービスは国内マーケットの30%強を獲得。

また、写真集制作サービスでは、プロ、アマ含め、年間40万冊を発行している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福田幸雄(アスカネット創業者)の「コトバ」

 

 

 

 

 

戦争が終わった3年後の1948年、僕は広島で生まれました。本当にいろんなものが不足して、みんなが貧乏な時代だったと思います。父は1級建築士の資格を有する国鉄マン(現・JR)で、山陽地方につくられる新駅舎の設計に長く携わっていました。自宅でもずっと図面に向かって座っている、そんな父の仕事っぷりを覚えています。そんな父は実直な勤め人でしたが、うちは母方の女系がビジネス志向。祖母が創業した編み物専門学校には、昼間・夜間合わせて100人くらいのの生徒さんが通っていましたし、ハタチで私を生んでくれた姉のような存在の母は、その学校の教頭。また、祖母は浜松に本社がある編み機メーカーの中国地方総販売代理店や、トランジスタラジオのレンタルビジネスまで手がけていたんです。

 

 

 

 

 

 

 

もともと商売をやっている家に生まれ、何を新しいことをやろうか、と食卓で話題が出るような新し物好きの家庭に育ったので、新しいことをやるのが当たり前と考えている子供でした。先祖代々新しいことにチャレンジして失敗するのを目の当たりに見て育ったんです。
コンピューター少年ならぬラジオ少年だったので、中学生の頃には当時のテレビのチューナーを直して回ってお金を儲けたこともあります。人がやらないようなことをやってお金になった、という体験は、すでに子供時代からですね。

 

 

 

 

 

おばあちゃんっ子だった僕は、いつも祖母から「何かいい商売はないかね?」なんて話しかけられていました。また、編み機の売掛金を回収するため、瀬戸内海の島に住んでいる顧客の自宅に一緒に連れて行かれて、「ご主人が今日は帰ってこない? そうですか。じゃあ、帰ってくるまでここに泊めさせてもらいます」と居座る(笑)。ものすごい根性の持ち主、根っからの商売人ですよ。祖母は僕に商売を通して、何か大切なものを伝えたかったんでしょうね。ちなみに、小学生までの僕は、やたらと勉強ができる子どもでした。あくまでも、小学校まで、なんですが(笑)。6年間ずっと級長でしたしね。そうそう、ラジオの放送劇団の子役もやってた。台本を持って、電車に乗るじゃないですか。そうすると、「あ、あの番組の子役だ」って注目されるんですよ。それが気持ち良かった(笑)。母がタレントママで、日本舞踊も習いなさいと。ほかにもいろいろ習い事はやりました。でも、自分を表現することは、昔から好きなタイプでしたよ。

 

 

 

 

 

 

小学校の高学年になると、機械いじりが好きになってきた。最初にはまったのは、カメラです。当時はまだジャバラ式のカメラでしたが、いろんなものを撮影して、みんなにあげたり、学級新聞をつくったり。そのうち、機械の構造自体に興味を持つようになって、自宅にあったラジオをバラバラ分解した後に組み立てようとして、壊してしまったことも。それから、無線やオーディオにも凝り始めました。もちろん“ハム”と呼ばれるアマチュア無線の活動や、音楽を聴くことも大事でしたけど、僕にとっては“ものづくり”の楽しみのほうが勝っていましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

中学に上がると、さらに“ものづくり”熱が高まっていくんです。勉強して、配線図を書いて、1.2GHz、2.3GHzの無線機を自作。受信感度を高めるために、庭にパラボラアンテナを立てたり。それで部屋にこもって、「CQ、CQ、こちら~」なんてやっている。今思えば、かなりのオタク少年でしたね(笑)。あと、双方向のアマチュアテレビという仕組みも自分でつくった。カメラで撮った映像が、そのままテレビ受信機に送信されて、見ることができるという。当時はこれが地元ですごく話題になって、新聞社から取材されたこともあるんです。ひとりで引きこもって、ものづくりばかりかというと、そうでもなく。バンド活動にもけっこうのめりこみました。僕のパートはボーカルとベース。これも楽しかった。だから、退屈することなんてまったくなかったですよ。

 

 

 

 

 

 

高校は、県立広島観音高校へ。この頃も、毎日がほとんど無線関係かバンド活動。学校の勉強はまったくしなかったですね。ものづくりが大好きだから、本当は理系の大学に進みたかったんですけど、勉強してないでしょう。いくつか行きたい大学をピックアップして受けてはみましたが、すべて蹴られてしまった(苦笑)。それで、大阪にある私立大学の経営学部に仕方なく進んだんですよ。でもね、退屈で、退屈で……。さてこの先どうしようと、世の中を見渡してみたら、高田賢三やコシノジュンコなど、ファッションデザイナーの台頭が始まっていました。「これだ!」と直感して、大学は2年でリタイヤ。大阪から東京へ移住し、文化服装学院のファッションデザイン科に通うことにしたんです。

 

 

 

 

 

 

 

アパレルファッションの世界が、肌に合っていたんでしょう。学校ではかなりの評価をいただきました。そして卒業と同時に、生地メーカーや縫製工場からのスポンサードを受け、東京の青山7丁目に自分の店を構えていました。少し前に、IT業界でビッドバレーって現象が盛り上がっていましたよね。1970年頃のファッション業界もあれと同じで、若手デザイナーや、ひと儲けしたい若者たちが、どんどんブランドを立ち上げていたんです。戦後初めて女の子たちがミニスカートをはき始めた時期ですよ。そんな中、僕は人気テレビ番組のコメンテーターとして登場し、新聞コラムの執筆などもこなし、マスコミからかなりの頻度で取り上げられるように。立ち上げたブランドの商品も、予想を超えて売れに売れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、我が世の春はそれほど長くは続かなかった……。ファッション業界で起業して、3年がたった頃のことです。それまで、事業は拡大、拡大の一辺倒で、販路を増やし、大量生産路線を突き進んでいました。オイルショックの影響もあったのだと思います。返品が少しずつ増えてきたのです。こうなると、小さなアパレルメーカーは悲惨な状況に陥ります。新しいものが売れず、返品が増えるわけですから、キャッシュフローがすぐに回らなくなった。何をしても好転せず、もう倒産を待つしかない……。顧問弁護士の先生に相談したら、「ここで踏ん張っても再起は難しい。あきらめたほうが良い」と。僕は、彼の提案に従い、会社を解散することを決めました。結局、負債総額は当時の金額で4000万円、現在価値に換算すると4億円くらいですよ。そして債権者会議を開催し、債権者の皆様に経営状況のすべてを正直にお話しました。顧問弁護士の尽力もあって、何とか無事に解散を了承いただくことができたんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ファッションは流行あってのもの。旬を過ぎてしまった商品は、まったく売れなくなる。結局、在庫のすべてをバッタ屋に二束三文で引き取らせ、微々たる売り上げをすべて債権者の皆様に分配。私個人は、自己破産することもなく、負債を抱えるでもなく、経営から退くことができたのです。顧問弁護士の先生には、今でも感謝しています。その後ですが、実はいろんなメーカーや百貨店から、バイヤーとして契約したいという話をいただきました。それも、かなりの高額報酬で。でもね、もう在庫が発生する商売はやりたくなかった。特に、誘われた多くの会社は、富裕層がターゲット。高級なファッションは生鮮食品と同じ。サイクルがスピーディすぎるんです。在庫商売は怖い……。すべてのお誘いをお断りして、僕はいったん地元・広島に戻ることにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

広島で、大好きなアマチュア無線のショップでも開こうかと思ったんです。でも、妻から「ひとつ2円や3円の部品を扱うショップのお店番なんて、まっぴらごめん」と断られ、断念(笑)。ならば趣味だったカメラで商売をしようと、フリーのフォトグラファーとして独立することにしました。元々好きだったのと、ファッション業界でビジネスをしたことにより、プロフォトグラファーに負けず劣らずカメラの勉強をしましたし、彼ら以上の撮影テクニックとノウハウを身につけているという自負もあった。現像液くらいなら、自分でつくれていましたから。あとはほら、撮影ビジネスは受注生産でしょう。在庫がないことも決断できた理由のひとつ。思ったとおり、仕事は最初から順調に推移。結婚式場、スーパー、自動車メーカーなど、依頼された仕事は後学のためと考え、すべてお受けしていきました。

 

 

 

 

 

 

通常の撮影仕事を続けながら、何かほかのフォトグラファーと違うことができないかということを、いつも考えていたんです。きっかけは、遺影作成の仕事でした。昔の遺影写真は、スナップ写真に写っている小さな顔写真を拡大して、それに服などを切り貼りしてつくっていたので、ガタガタしていてクオリティが良くなかった。僕は現像など、暗室仕事も大得意でしたから、遺影を美しくする訓練を自らに課したんですね。誰ひとりとして、本気で取り組む人なんていませんでしたし、自分自身もうまくいかないと腹立たしい(笑)。そうしているうちに、私が手がけた遺影がきれいという評判が立ち始め、気づいた頃には、広島中の葬儀社から遺影作成の注文が入るようになっていたんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

その後、写真はデジタルの世界に移行し始めます。僕自身、パソコンが好きで、高価な機器を買ってデジタル化の研究を続けていました。1990年頃、コボルでプログラムが組めるフォトグラファーなんて世の中に僕ひとりだけだったんじゃないでしょうか。誰もインターネットという言葉なんて知らない時代ですよ。そんな中で、新聞社が使っていた画像通信の技術に着目。それを活用して、デジタル加工した遺影を日本中に送り届けるシステムの構築を考えたわけです。葬儀社は僕とメーカーがタイアップして開発した昇華型プリンタを購入し、その機器の上に写真を置いてボタンを押すだけ。30分後には、美しくデジタル加工された遺影が届く。これが大当たり! そのプリンタは1台250万円ほどの価格でしたが、売れに売れました。年間100万人の方々がお亡くなりになられますが、いまでは、その内の30%が当社の遺影をご利用されています。

 

 

 

 

 

 

できない理由をひとつずつ潰しながら、結婚式場やプロのフォトグラファーへ、「世界で1冊だけの写真集作成」の提案を続けていきました。この思いが生まれたのは、結婚式の1日を美しい1冊の写真集にして届けたかったから。こんな1冊ができれば売れるはずとわかっていましたが、なかなか納得いくクオリティが出せないことにジレンマを感じていました。営業社員もすごく頑張ってくれた。客先に行っても「こんなんじゃ使えない。二度と来るな!」なんて追い返されるわけです。僕も心配になり、「クオリティが上がるまで、訪問を自粛しようか?」と提案したら、彼・彼女たちは「うまくいくまで徹底的にやるべきです」と、逆に諭された(笑)。「苦労をお客さまと共有し、一緒になって育てたサービスにしていきたい。ダメを徹底的に見せて、仲間にしてしまいましょう」と。そう言ってくれた時、涙が出るくらい嬉しかった。結果、売れ始めたのは、私がこれならイケるというクオリティが出せるよう安定してから。振り返ってみれば、ビジネスアイデアが生まれたシーズと、みんながこれなら欲しいと思えるニーズが一致したタイミングがここだった。結婚式などのプロ用がどんどん売れ始めてから、一般コンシューマー用もいっきにブレイク。開発に着手してから5年かかりましたが、それができたのも遺影作成事業の利益があったからこそ。毎年1億円ほどを写真集事業に投下してきましたからね。5000円で販売するものを、最初は5万円くらいかけてつくっていましたし。スピードをもってシェアを獲得し、安定路線にもっていくのは、遺影作成事業と同じやり方ですね。2005年には、東証マザーズへの上場を果たし、現在、年間の写真集オーダー数は、プロ用、コンシューマー用を含め40万冊を超えています。

 

 

 

 

 

 

 

自分の思い込みを過信するな。マーケティングをしっかりせよ。やると決めたならあきらめるな。リスクを考え抜き、そのための事前準備を怠らず、最後は不退転の覚悟をもって臨んでほしいということです。また、最初からうまくいくと楽観的に考えていたら、何事もうまくいかなくなります。特に、ものづくりの世界で勝負しようと思うなら、どこまでも自分が信じた価値をぶらさず、妥協せず継続していかねばなりません。甘いもんじゃないのです。私が個人向け写真集に挑戦し始めた時もそうでした。一所懸命努力は続けていましたが、まったく売れない。それが売れ始めたのは、自分で「これなら!」と、納得できる商品ができてから。あきらめた瞬間に、遺影サービスで手にした成功もすべてがなくなる。これをやるしかないという、背水の陣で臨んだことも良かったですね。そういった意味で、経営者は“ワガママ”じゃないといけない。社長が妥協しているようではダメ。社員からのできない理由は聞かない。こうして欲しいと言い続ける。そうやって経営をしていくべき。会社が大きくなるにつれて、トップダウンが徐々に合議制になって、波風の立たない、つまらない集団になっていくことが多いでしょう。“ワガママ”な個性があって、優秀な経営者が誰かと考えてみると、ユニクロの柳井正さん。海外では、アップルのスティーブ・ジョブスさん。ふたりとも社長から退いたら、会社の業績が低迷し、再び社長に復帰したら、業績が飛躍的に伸びた。社長になる以上「こうでなければダメ」という一貫した意志を持って、社員からは「社長が言うなら仕方ない」と思わせるくらいのポジションニングをつくって欲しいと思うのです。でも、裸の王様になってはいけません。あらゆるリスクを示してくれたり、うっとうしいことを言ってくれる人を、周りにつくっておくべき。そしてリスクを提示されたら、そのヘッジ策を瞬時に答える。うっとうしいことを言ってきたら、聞き流すのか、解決するのか即座に考える。経営者の仕事は、そんな決断の連続なのです。正しい決断を次々に行っていく力を養うには、自ら努力して勉強し続けるしかありません。私も仕事中は時間を見つけて、自宅に帰っても深夜まで、ネットを使ってマーケットの状況、最新のプログラミングなど、会社経営に必要な情報収集を続けています。自分がかかわる分野に存在する、知らないことをひとつずつ潰していく。その繰り返しの先に、成功が待っているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

新しいことをやっている人はいるけれど、それをもっと一般の人たちが知って、「すごいな、ああいう風に自分もなるにはどうしたらいいだろう?」と思うようになると、裾野が広がっていきますよね。日本人の謙虚な性格もあるかもしれませんが、うまくいった人がうまくいったことを広報していないのは、問題だと思います。 「俺はこんな風にしてうまくいったんだ」と言ってもらい、あいつにできるなら俺にもできるかもしれない、と思ってもらえるような、刺激あるビジネス界を作ってもいいかなとも思いますね。

 

 

 

 

 

 

 

新しい事業は最初から売り上げが上がるわけではない。新しい“文化”を創らなきゃいけない。ただ文化を創れさえすれば圧倒的な首位に立てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分の限界はここではない」と思って欲しいですよね。「私はこんなもんだ」と思うと楽だけれど、「自分はこんなもんじゃない。何してるんだ!」と自分にチャレンジをしていけば、人はもっともっと、伸びるもの。究極、人に何を言われようと、ですね。

 

 

 

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