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元新日本製鐵会長、永野重雄:『日本経済石垣論』とは?

 

『日本経済石垣論』とは?

永野重雄/元新日本製鐵会長

 

私ほど中小企業を理解している財界人は少ないと自負している。体験的に零細・中小企業者の心がわかるからで、『日本経済石垣論』である。

 

ちょうど日本経済の縮図である。大石が大企業であり、中、小の石が無数の中小、零細企業である。

 

タテ糸とヨコ糸がしっかりからみ合って、はじめて強い組織が出来上がるように、企業組織も、タテの関係のほかに緊密なヨコの連繋が必要である。

 

宮城の石垣を見てごらんなさい。大きく立派な石ばかりではありません。小石や形の悪いものなど、いろいろなものが混じってはじめて、ああいう美しい石垣ができるのです。会社も同様で、秀才ばかり採用していたら、会社はたちまち行き詰まってしまいます。本当に会社で欲しい人材は、秀才よりも、むしろ平凡な人たちなのです。

 

 

 

永野重雄(元新日本製鐵会長)とは?

 

 

永野重雄。

永野は10人兄弟の次男として松江に生まれた。だが実際に育ったのは広島。

 

10歳年の離れた長兄・護が東京の第一高等学校で柔道部のキャプテンであったため、夏休みなどに帰郷すると小学生の永野に柔道の相手をさせた。

その結果腕力がつき、永野が表を通りかかると近所の親は子供を隠し回るほどの暴れん坊となった。

 

小学6年生のとき、父が腫瘍のため46歳で死去。

当時、長兄・護は東大法学部在学中だったが、財界の巨頭・渋沢栄一から、子息の渋沢正雄の勉強相手という名目で謝礼を受領し、郷里の兄弟の養育費にもあてられた。

 

永野は第六高等学校に合格すると柔道に専念。

福山市出身で共に「財界四天王」と呼ばれることになる桜田武を勧誘して高専柔道界の王座を築く。

 

六高から東大法学部に進み、1924年(大正13年)に卒業した。

東大卒業後、永野は貿易会社浅野物産に入社するが、気乗りせず10ヶ月で退社した。

 

翌1925年(大正14年)、渋澤正雄の依頼を請け、倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となり、再建を果たす。

これが機縁で以降の生涯を製鉄業に捧げることとなった。

 

1930年(昭和5年)からの世界恐慌では、富士製鋼も倒産寸前に陥り、1931年(昭和6年)には銀行から借金返済の催促を受け、年末に夜逃げするなど苦闘した。

1932年(昭和7年)には、銑鉄が売れなくて困っていた満州の昭和製鋼所から、大連港に据える荷物用のクレーンの納入を請け負った。

 

機械が売れなくて困っていた石川島飛行機社長・渋澤正雄に頼んで、クレーンを一緒に作って先方に納め、代わりに昭和製鋼所の在庫の銑鉄を富士製鋼がバーターでもらうという契約を結んだ。

銑鉄を非常に安く仕入れたが、その後相場が急騰し大きな利益が出て、その金で安田銀行からの借金を一掃して工場の担保も抜くことができた。

 

1934年(昭和9年)、製鉄大合同で富士製鋼が日本製鐵(日鐵)に統合されて日鐵富士製鋼所となると、永野は所長に就任。

翌1935年(昭和10年)八幡製鐵所所長・渡辺義介の勧めにより八幡製鐵所に転出し、日鐵の中枢を歩む。

 

永野は、三鬼隆とともに増産を企図し、日鐵の配炭のすべてを八幡に集中して銑鉄・鋼の傾斜生産を行い、銑鋼一貫の八幡の本格的な生産復興を目指した。

戦争拡大に伴う日本経済の戦時統制体制の進展により、1941年(昭和16年)鉄鋼統制会に理事(原料担当)として出向。

 

北海道支部長として終戦を迎える。

1946年(昭和21年)日鐵に常務取締役で復帰。

 

戦後のGHQによる公職追放で有力な経済人が会社を去ったことで、同年、諸井貫一、堀田庄三ら、若い経営者らと共に経済同友会を創立し、代表幹事に就任した。

1947年(昭和22年)、和田博雄長官の要請により片山内閣の経済安定本部筆頭副長官(次官)となる。

 

ここで傾斜生産方式を確立して産業復興を軌道に乗せる役割を担う。

この時、同じく次官であった池田勇人(大蔵省)、佐藤栄作(運輸省)と親交を結び、政界への影響力の素地を作った。

 

GHQの命令で天下りが禁止されることとなったことから、製鉄業界に戻るため1年半で官職を辞する。

公職追放で日鐵経営陣も一掃されており、永野は三鬼とともに代表権を持つ日鐵のナンバー2となった。

 

1948年(昭和23年)日本経営者団体連盟(日経連)設立に発起人として参加し、常任理事弘報委員長に就任する。

同年、日鐵が過度経済力集中排除法の指定会社となり、八幡製鐵と富士製鐵に二分割されると、1950年(昭和25年)に発足した富士製鐵社長に就任。

 

1948年(昭和23年)12月、それまで戦争賠償の対象とされ、休止していた日鐵の広畑製鉄所が日本側に返還されることになった。

永野はあらゆる人脈を駆使して広畑製鉄所の獲得に成功した。

 

このとき一番力を借りたのは吉田の指南役・宮島清次郎と、吉田と反目にあたる鳩山一郎だった。

広畑製鉄所を獲得した富士製鐵は大きく飛躍した。

 

1950年(昭和25年)勃発した朝鮮戦争の特需で室蘭、釜石、広畑に積極的な設備投資を実施し、特にいち早く鋼材の大量消費につながる薄板に着目し、広畑で量産された薄板製品は自動車産業や電機産業に受け入れられ、後発メーカーが相次ぎ積極的な設備投資に踏み切る誘因となった。

 

1951年(昭和26年)東京商工会議所副会頭に就任した。

1955年(昭和30年)日本生産性本部発足に伴い、副会長に就任。同年、国家公安委員会委員。

 

1959年(昭和34年)、東京商工会議所会頭と日本商工会議所会頭に就任し、死の直前までその任にあった。

現在の経済三団体(かつての経済五団体)は横の繋がりに乏しかったが、永野の日商会頭就任以降、積極的な交流を図り、「経済三団体」の新年合同賀詞交歓会は、永野の提唱で始まったものである。

 

1969年(昭和44年)富士製鉄は粗鋼年産能力1600万トン体制を達成し、粗鋼生産世界第4位の製鉄会社に成長を遂げた。

池田勇人の総理就任にも尽力した。

 

1965年(昭和40年)、日本鉄鋼連盟名誉会長。

1970年(昭和45年)、「戦後最大級」とされた富士製鐵と八幡製鐵の合併が成立、新日本製鐵が設立され、永野は会長に就任した。

 

1970年(昭和45年)、佐藤内閣の対外経済協力審議会会長、鉄道貨物協会会長に就任。

1971年(昭和46年)観光政策審議会会長。

 

1972年(昭和47年)「東京湾横断道路研究会」(初代)会長。

1977年(昭和52年)、毎日新聞社の救済に尽力。

 

1978年(昭和53年)には東洋工業(マツダ)の再建に際し、フィクサーとして話をまとめたほか、佐世保重工業の救済にあたり、坪内寿夫を社長に起用し同社を再建させた。日米欧委員会日本委員会委員に就任。

 

1980年(昭和55年)大平内閣対外経済協力審議会会長。

1982年(昭和57年)、日本商工連盟創設。関西新国際空港建設促進協議会の代表理事に就任。国際大学設立で発起人。

 

1984年(昭和59年)、死去(83歳没)。

 

 

 

厳選!永野重雄(経団連元会長)の珠玉名言

 

 

 

若いうちの苦労は年取って花開く、左遷を栄転に逆転する。

 

 

小さな租織に入って門前の小僧で何でもやったことが、どんなに役に立ったかわかりません。

 

 

 

直線的に昇進せず、停滞したり、逆行したり、左遷させられた経験が大いに役立った。

 

 

いま思い出しても身の縮む思いがする。もう破産よりないというところまで、何度いったかわからない。

 

 

(広畑製鉄所を)取れなかったら腹を切る。日本経済の将来のため、製鉄業を外国資本に任せられるか。

 

 

 

仕事をしてゆくうえで、感謝の気持ちほど貴いものはない。

 

 

 

あまり秀才ばかり新日鉄に入れると、新日鉄の組織は弱体化し、バイタリティがなくなってしまう。

 

 

 

私の悪口はすべて報告せよ、しかし、言った人の名は言うな。

 

 

 

人生にはプラス、マイナスの波がある。気持ちのスイッチでマイナスをプラスに変えなくては人生の落伍者になる。

 

 

 

私は、経営というのは簡単で一時的に相手の信頼を得たりするような便利な言葉を使っても、これは永い目で見ると押し通せるものではありません。やはり、永い時間に耐えるものは「真実」、「誠実」これにつきますね。

 

 

 

いい商品は、必ず世の中は気がつく。それまでの辛抱だ。

 

 

僕の長い人生でも、富士・八幡両製鉄の合併は、まさに心命を賭した大仕事だったな。

 

 

企業はつぶれてはなんにもならない。不況になったら対策を考えるのは当然だ。民族には千年、万年の将来があるのだから、経営者はつねに新しい技術と設備が次の経営力をつくることを念頭におかねばならない。

 

 

ロビンソン・クルーソーのように一人島で暮らす場合、せいぜい魚を何匹釣ったといった程度ですが、社会というのは人間の集団です。その人間の集団の中で仕事をしようとすれば、大勢の仲間が協力して初めて5倍、10倍の力になる。その原動力はともに心の通い合う人間の「友愛」なんですね。

 

 

 

昔はこの人間社会に特別な秘訣がありませんでしたね。自己をあるがままにさらけ出し、相互に信頼を勝ち取る。

 

 

 

人間というのはお互いを知ることから始まるんですね。企業でも人間の集団ですから同じなんです。ただ、これが千人、万人になってくると、なかなか記憶できない。ところが、300人ぐらいだと、だいたい覚えられるんですよ。この社員は甘党か辛党か、家族構成はどうかとかね。社員の方も、親近感が出てくるんですよ。

 

 

 

事業を成り立たせる秘訣は、結局、人間の信頼と企業力なんですね。

 

 

日本の産業は今、これまでの一国経済から世界経済へと移行しつつあり、日本の企業はそのために体質改善を好むと好まざるとに関わらずしなければならない。紙しかり、自動車しかり、金融またしかり。今その口を鉄(製鉄業)が切ろうとしているのである。

 

 

独りよがりになるな。しかし、いったん信じたことは反対を恐れず思い切ってやれ。

 

 

 

君は夜逃げをしたことがあるか、社員の給料が払えず夜逃げをした人生体験がバネになる。

 

 

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