東急(東京急行電鉄)グループ創業者、五島慶太:事業成功の秘訣とは?

東急(東京急行電鉄)グループ創業者、五島慶太:事業成功の秘訣とは?

事業成功の秘訣とは?

 

 

五島慶太/東急(東京急行電鉄)グループ創業者

 

 

自分より偉い人はみんな利用しなければだめだ。

自分より偉い人を思うままに働かせることが事業成功の秘訣だ。

 

 

 

 

 

五島慶太(東急グループ創業者)とは?

 

 

五島慶太。

 

1882年(明治15年)長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の二男として生まれる。

「家は貧しい農家とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家だった」という。

 

父・菊右衛門は熱心な法華経の信者で、朝起きた時、夜寝る前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百遍から千遍ほども唱え、その両親の姿勢を受け、慶太もまた仏教に感化を受けていった。

父は製糸業などに手を出し失敗していたため、家計は楽な状況ではなかったが、慶太の志は高く、父を説得して長野県尋常中学校上田支校に入学させてもらった。

 

中学の3年を終えると、長野県尋常中学校松本本校に下宿しながら通学し、4年・5年を修了した。

慶太はさらに上級学校への進学を夢見たが、経済的理由から進学を諦め、中学卒業後は青木村の小学校の代用教員をしていた。

 

しかし、慶太の向学心は強く、1902年(明治35年)の夏に上京し東京高等商業学校(現:一橋大学)を受験するが、英語で失敗し不合格、その翌年に、学費のいらない東京高等師範学校(現・筑波大学)へ合格し、代用教員を辞し英文科へ進学した。

 

東京高師で人生の指針となったのは、校長の嘉納治五郎が日頃語っていた「なにくそッ」の教訓だった。

卒業後、英語教師として三重県の四日市市立商業学校(現:三重県立四日市商業高等学校)に赴任した。

 

さらに最高学府への進学を志し、1907年(明治40年)9月に東京帝国大学政治学科の選科に入学。

10月には、当時難関中の難関とされた旧制第一高等学校の卒業資格試験に挑戦、見事これに合格し、法学部本科に転学した。

 

しかし、再び学資に窮してしまい、東京高師の校長で在学中に世話になった嘉納治五郎の紹介により、富井政章男爵の息子の家庭教師として居候することになった。

富井の息子の第二高等学校進学が決まると、次は富井の紹介で加藤高明の息子である加藤厚太郎の家庭教師として加藤邸に居候することとなった。

 

1911年(明治44年)、東京帝国大学を卒業する時にはすでに29歳になっていたが、高等文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入省。

工場法施行に伴い、工場監督官に採用されるが、施行が3年延期になったため、鉄道院に移ることとなった。

 

鉄道院転属の前年の1912年(明治45年)2月24日、慶太が30歳の時、工学博士・久米民之助の長女・万千代と見合い結婚をした。

万千代は慶太と結婚して久米民之助の祖母の実家、五島家を再興、慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになった。

 

鉄道院では、文書課、監督局、監督局内の総務課と職場を移り、1919年(大正8年)には総務課長に就任。

課長に就任して1年半ほど経ち、官吏の生活に嫌気がさしてきた頃、武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合ったところ、次官は「面白いやつがいる」と五島を紹介した。

 

これを渡りに舟と感じた五島は1920年(大正9年)5月11日に鉄道院を退職し、武蔵電気鉄道常務に就任した。

その頃、実業家の渋沢栄一らによって理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に設立された田園都市株式会社が素人ばかりのため経営不振に陥っていた。

 

そこで、大株主の第一生命保険社長の矢野恒太に相談したところ、第一生命相談役の和田豊治が阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三を推し、小林は、名前を出さず、報酬も受け取らす、日曜日のみ、という約束で経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた。

 

しかし、小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推薦した。

1922年(大正11年)10月から五島は荏原電気鉄道の専務を兼務した。

 

1924年(大正13年)11月に目蒲線の全線開通を迎えたところ、その時期が関東大震災と重なったため、都心から移り住んできた人々が沿線に移住し、業績は一気に好転した。

その利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電鉄から(旧)東京横浜電鉄と変え、1927年(昭和2年)8月に東横線(渋谷 – 神奈川間)を開通させた。

 

しかし、昭和恐慌の煽りを受け一転業績は悪化、一時は自殺を考えるほどの苦境に陥った。

その時、五島は「予算即決算主義」というものを確立した。

 

これは後々まで五島の経営哲学として生き続けて行くこととなる。

五島は阪急の小林の手法に倣い、沿線に娯楽施設やデパートを作り東横沿線の付加価値を高めた。

 

しかしそれだけでなく、大学等の学校を誘致する。

まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学を浅草区(現・台東区)蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に移転させることに成功した。

 

1929年(昭和4年)には慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。

1931年(昭和6年)には日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(後に東京都立大学)を八雲に誘致した。

 

1936年(昭和11年)は赤坂区(現・港区)青山北町にあった東京府青山師範学校(後に東京学芸大学)に資金援助を行い、世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は学園都市として付加価値が高まっていくことになる。

それと同時に、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。

 

五島は事業拡大にも乗り出し、1933年(昭和8年)7月、競合していた池上電気鉄道の株を東京川崎財閥から譲り受け、一夜にして買収を成し遂げた。

しかし3か月後の10月、東京市長選に関連して盟友牛塚虎太郎への選挙資金を目蒲電鉄が拠出したという投書が警視庁に届き、目蒲電鉄に家宅捜索が入った。

 

池上電気鉄道買収の際に川崎財閥に渡した手付金の小切手10万円が市長選に使われたとの嫌疑がかかり、五島は市ヶ谷刑務所に送致された。

一審では有罪判決を受けるが、二審で逆転無罪となり、大審院が上告を却下したため無罪が確定し、釈放された。

 

この間半年であったが、五島は後に「私はこのときが人間として最低生活であった」と回想している。

獄中では読書に明け暮れ、『菜根譚』といった難解な書物にも挑戦した。

 

後日、この注釈書『ポケット菜根譚』を著述している。

その後の株主総会で、五島に感謝金5万円を贈呈することが決議された。

 

五島は以前に教師を務めていたことから、教育事業には関心を持っており、その資金に私財12万を投じて、東横商業女学校(後の東横学園)が設立された。

その後も、武蔵高等工科学校(武蔵工業大学→東京都市大学の前身)を有する財団法人東横学園(現・学校法人五島育英会)を設立したり、東横学園中学校や東横学園女子短期大学(のちに東京都市大学へ統合)を開校するなど、晩年まで教育活動には熱心だった。

 

1934年(昭和9年)11月、渋谷に関東初の電鉄系ターミナルデパートである東横百貨店を開業した。

ターミナルであった渋谷駅は当時でも30万人近い乗降客があり、都心に行かずして買い物ができる東横百貨店は人気を呼んだ。

 

また、東横百貨店の隣に本社ビルを所有し、渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道を内国貯金銀行(現・りそな銀行)の前山久吉から株式譲渡の形で買収、1938年(昭和13年)4月に(旧)東京横浜電鉄に吸収合併した。

1934年、五島は渋谷 – 新橋間に地下鉄を敷設するため、大倉組や東京地下鉄道(現・東京地下鉄(東京メトロ)銀座線浅草 – 新橋間を運営)と協力して東京高速鉄道を発足させ、常務に就任した。

 

1938年には渋谷 – 虎ノ門間を開通するに至るが、社長門野重九郎が東京駅への延伸を主張するのに対し、五島は新橋より東京地下鉄道へ乗り入れ、当時、東京一の繁華街であった上野・浅草に至るルートを主張し、2人は対立した。

そこで1939年、五島は大日本電力(現在の北海道電力の前身社の一つ)社長の穴水熊雄より東京地下鉄道株式45万株を譲り受け、東京地下鉄道社長の早川徳次を退陣に追い込んだ。

 

しかし、この騒動によって、地下鉄事業に全力を尽くした早川を会社から追い出した五島には世間から大きな非難が湧き上がった。

その後、1941年(昭和16年)に陸上交通事業調整法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄株式会社)が成立した。

 

鉄道省総務課長・佐藤栄作(後の内閣総理大臣)は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」と主張。

両社の株式は営団債に振り替えられた。

 

こうして五島は、乗っ取り王として「五島」ならぬ「強盗慶太」の異名をとり、本人も「白昼札片を切って堂々と強盗を働く」と豪語していた。

1942年(昭和17年)には、陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、既に五島の経営下にあった京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄を発足させ、さらに1944年には京王電気軌道を合併。

 

また、相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収め、俗に言う「大東急」となった。

その後、内閣顧問に任ぜられ、木造船の行政査察使として青森から関西の造船所を回った。

 

1944年(昭和19年)、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献する。

終戦後の1947年(昭和22年)、東條内閣の閣僚だったということで連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受けた。

 

追放解除後は再び東京急行電鉄会長に就任し、まずは各系列会社の運営実態を確認。

倒産寸前にまで陥っていた東映は、借金が11億円(現在価値の数百億円)にも膨らんでいたが、見事に3年で立ち直らせた。

 

東映再建が失敗していたら五島家は破産していたといわれる。

1953年(昭和28年)には城西南地区開発を発表し、神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に着手する。

 

また、定山渓鉄道など北海道各地の乗合バス会社を次々と買収し、北海道開発を推進した。

伊豆の観光開発にも力を注ぎ、伊東 – 下田間の鉄道敷設(現在の伊豆急行線に相当する)を計画し「伊豆戦争」を繰り広げる傍ら、箱根の観光事業では小田急側について「箱根山戦争」を繰り広げ、西武鉄道の堤康次郎とも覇権争いを繰り広げた。

 

1959年(昭和34年)病没。

 

 

 

 

厳選!五島慶太(東急グループ創業者)の珠玉名言

 

 

 

私は沿線の人たちに「良品を廉価に」提供する目的で東横百貨店を渋谷に作った。

 

 

 

三昧ということが必要である。女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になる、すなわち「空」になるということが必要である。

 

 

 

私は「予算即決算主義」というものを確立して、これをキップ切りにまで徹底させた。私は今でもこれを事業経営の哲学としているが、東横電鉄などもこの間を苦心惨胆して持ちこたえて来たればこそ、今日の盛大をみることができたのである。

 

 

 

人の成功と失敗のわかれめは、第一に健康である。次には熱と誠である。体力があって熱と誠があればかならず成功する。

 

 

 

若いころから自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった。

 

 

 

大臣になったお陰で戦後五年間ほど追放になってしまったが、その間は好きなお茶や古写経を見て暮して来た。追放中会社のことに口を出したというので、追放令違反として告訴されたがこれも追放解除とともに自然消滅し、再び東京急行へ復帰して采配をふるっている次第である。

 

 

 

若い女と馬鹿話をしていると、仕事の話や世間の苦労からまぬかれて頭の中が「空」になってくる。そうすると夜熟睡できるので、また明日への活力が出てくるのである。これが私の健康法である。

 

 

 

一日の労苦を忘れるには、坊主とか芸者の浮世離れしたバカ話を聞き、ぐっすり寝て仕事を忘れるに限る。翌朝は頭が爽快で、また新しい構想が浮かぶのだ。

 

 

 

最近よく人から、あなたにも昔はご婦人とのロマンスぐらいはあったでしょう、と聞かれるのだが、正真正銘私にはロマンスなどというものはない。もし私にロマンスがあったとしたら、女に惚れていたとしたら、今日の私はあり得なかったろうと思う。事業に対する野心がロマンスを征服してしまったというか、惚れたのはれたのということを考える余裕もなかったのである。

 

 

 

私はとにかく、「強盗慶太」の異名を頂戴するくらいであったから、事業のための私であり、事業あってこその生涯だった。

 

 

 

私は、新橋駅での東京高速鉄道と東京地下鉄の相互乗り入れが必要と考えたが、東京地下鉄の創立者で社長であった早川徳次はガンとして自説を曲げないのみならず、かえってあらゆる手を使って阻止運動を激化してくるのであった。そこで東京地下鉄の経営権を掌握して、早川を追出すより方法はないと考え、昭和十四年の夏、当時大日本電力と北電興業の二つの会社をやっていた穴水熊雄氏のところへ日参したあげく、ようやく同氏の持っていた東京地下鉄株を四十五万株譲り受け、ついに早川を追出して現在のような地下鉄をつくり上げたのである。早川は早稲田出身だから慶応閥の銀行は早川を擁護しなかった。この時は、苦心惨憺して日本ではじめて地下鉄を作り上げた早川を容赦もなくたたき出して、粒々辛苦して作り上げた早川の事業を奪い取ったというわけで、世間は早川に同情するし、私はずいぶんたたかれたものである。

 

 

 

予算を軽視して、どうして満足すべき決算が得られようか

 

 

 

ときにはやむを得ず、株買い占めという強硬手段をとらざるを得ないこともあったが、これは世間でいうように単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活まで考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである。

 

 

 

事業で成功するにしても、利殖するにしても、不可欠なものは信念である。

 

 

 

官吏生活を送ること九年間、その間課長を一年半ばかりやって、後に述べるように武蔵電気鉄道の常務に就任するため、大正九年五月十一日鉄道院を辞めたのであるが、そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが十年近い官吏生活を経験した私の結論であった。

 

 

 

人間は知と行だけではダメである。そこには必ずだれにも負けないという信念が必要だ。それには進行で人間の意志というものを絶えず鍛錬していく必要がある。事業で成功するにしても、利殖するにしても、不可欠なものは信念である。

 

 

 

6か月間の獄中生活の苦悩は、おそらく経験者でなければその心境を推察することは不可能であろう。私はこのときが人間として最低生活であった。だが、こういうときにこそ人間の日ごろの訓練とか修養とかがハッキリ出てくるものである。

 

 

 

東横電鉄では、私のために慰謝金として株主総会の決議により五万円を贈呈してくれたのであるが私としてはこの金をもらうわけにはいかず、ひとつこれを教育事業に使って見ようと思い、この五万円に私財十二万円を加えて十七万円の金で東横女子商業学校を設立した。前述のように私は元来教育事業というものには情熱をもっていたのであるがこの女子商業学校が、後に財団法人東横学園となり、現在の学校法人五島育英会として幼稚園から大学までの総合教育機関にまで発展して来たことを思うと、何かの因縁があるような気がして感慨ひとしおである。

 

 

 

俺はその日のことはその日のうちに忘れる主義だ。その日に決断のつかない事を思い悩んで明日まで持ち越すようだと、明日の戦争は負けだ。一日の苦労を忘れるには、坊主とか芸者とバカ話をして、ぐっすり寝るに限る。翌朝に頭が爽快で、また新しい構想が浮かんでくる。

 

 

 

昭和初頭の財界不況に遭遇し、私はしばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。ときには社員の給与にも困難し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、皆断られて小雨の降る日比谷公園をションボリ歩いたこともあった。松の枝がみな首吊り用に見えて仕方がなかった。しかし、いまにして思えば、すべて信念と忍耐力の問題であった。

 

 

 

一週間に一回、嘉納治五郎先生から倫理の講義を聞いたが、先生は柔道の格好で太い腕節を出して「なあに」という精神が一番必要だ、どんなことにぶつかっても「なあに、このくらいのこと」というように終始考えろということを言われた。先生の「なあに」精神はいまでもはっきり頭に残っている。

 

 

 

勝っても「なあにッ」、負けても「なあにっ」、どっちへ転んでも「なあにッ」、どんなことにぶつかっても、これさえ忘れなければ、必ずやっていける。

 

 

 

事業場から墓地に直行したくない、とは考えているが、事業こそわたしの生命であるとも思っている。

 

 

 

知と行だけではダメである。誰にも負けないという信念が必要だ。

 

 

 

ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない。

 

 

 

孤独な者は、もっとも強い

 

 

 

人は息絶えても、夢は残る。

 

 

 

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