阪急東宝グループ創業者、小林一三:「中小企業に就職する目的」とは?

阪急東宝グループ創業者、小林一三:「中小企業に就職する目的」とは?

「中小企業に就職する目的」とは?

小林一三/阪急東宝グループ創業者

 

今日の若い人々は学校を出て就職する時、名の通った大会社に入りたがるが大会社に入れば一生楽に暮らせるわけではない。
どこでも激しい生存競争はあるし、偉そうに振舞えても単なる機構の一部の上で踊っているかかしに過ぎぬ。
中小企業に進んで就職する方がよほど身のためになる。
中小企業で仕事をするということは、その目的がサラリーマンになることではない。
将来独立自営の主になるのが目的なので、仕事はその見習いが主になる。
したがってサラリーマン希望で入ったら大いに当てが外れるだろう。
むしろ月給はいらない、手に職を与えてもらう、その道の専門家に生き方を教わる心構えで入らなければならない。

 

 

阪急東宝グループ創業者、小林一三とは?

 

 

山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)の商家に生まれた。

生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られた。

 

高等小学校から東八代郡南八代村(笛吹市八代町南)の加賀美平八郎が経営する私塾・成器舎を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月に福澤諭吉が塾長の慶應義塾に入る。

その日から塾の構内にある、塾監・益田英次の家に寄宿。

 

在学中には山梨日日新聞において小説「練絲痕(れんしこん)」を連載している。

そして、明治25年(1892年)慶應義塾正科(現在の慶應義塾大学)卒業後の1892年(明治25年)には三井銀行(三井住友銀行の前身)に勤務。

 

34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。

日露戦争終結後、三井物産の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行(三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任。

 

しかし、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。

その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。

 

1907年(明治40年)6月に「箕面有馬電気軌道」と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった。

しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。

 

そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の宝塚本線・箕面線に相当する区間にとどまっている。

これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。

 

小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い成功を収めた。

同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」、そして1914年(大正3年)4月には宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていく。

 

沿線開発は、そのまま乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改め、神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。

これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなった。

 

1927年(昭和2年)に小林は社長に就任。

また1920年(大正9年)には、日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめる。

 

路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。

次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。

 

この百貨店事業の成功は、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の第一ホテルの開設とさらなる弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。

 

その一方で、日本で3番目のプロ野球球団である宝塚運動協会(1929年解散)のように、先進が過ぎて失敗した事業もある。

しかし小林の野球への情熱は深く、1934年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が、翌1935年(昭和10年)に大阪タイガースが、1936年(昭和11年)に名古屋軍が結成されるなど企業による球団設立が相次ぐと、小林は同じ年に「大阪阪急野球協会」を設立した。

 

これが阪急職業野球団、のちの阪急ブレーブスである。

これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、その中でも目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の総帥五島慶太、駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)・多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)・近江鉄道の堤康次郎は、小林の影響を強く受けている。

 

1934年(昭和9年)阪急社長を辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年辞任)、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任。

電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、財団法人東電電気実験所、昭和肥料(現在の昭和電工)の設立にも関わった。また一時期、大谷竹次郎が東宝の社外取締役になったのと引き替えに松竹の社外取締役に就任していた。

 

小林は近衛文麿に接近し、第2次近衛内閣で商工大臣となった。

終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことで公職追放となった。

 

1951年(昭和26年)に追放解除となった後は東宝の社長になるが、1957年(昭和32年)1月25日、大阪府池田市の自邸にて急性心臓性喘息で死去。84歳没。

尚、小林一三の次男辰郎氏は、後に東宝代表取締役社長となる。松岡家に養子入りし、義理の父が松岡汽船創業者で呉羽紡績役員発起人の松岡潤吉。辰郎の子が東宝会長・松岡功で、その息子が元プロテニスプレイヤーの松岡修造氏。

 

 

 

厳選!小林一三の珠玉名言

 

 

どうでもよいことは頑張らずに譲る。しかし年中譲っていては人間の心の底を見られるから、九つ譲っても一つがんばれ、これは私がよいと思っていることであります。

 

 

適材を適所に置くということは、口では簡単に言うが、そんなに適材がゴロゴロ転がっているものではない。責任を持たせて、どしどし仕事をさせるのが一番だ。ときどき、「馬鹿者!」と頭から小言を言ったり、尻をひっぱたいたりしているうちに、若い人はなんでもできるように育っていく。私はその主義を実行している。

 

 

 

運命は作るもの ー いずれの事業においても、会社組織でも、個人の仕事でも、大きくなる人、どこまでも発展する人、行き止まる人、縮こまる人、その運命は断じて偶然ではない。

 

 

誰にも夢がある。それはたとえ小さくともその夢がふくらみ花を咲かせ、立派に実るのを見るのは楽しい。

 

 

 

世の中は変わる。非常な勢いで変わってゆくのであるから、どう変わるかを早く見通して、それに適応して行った人間が勝ちである。

 

 

成功の道は信用を得ることである。どんなに才能や手腕があっても、平凡なことを忠実に実行できないような若者は将来の見込みはない。

 

 

 

「真物」か「偽物」かは見る人が見れば分かる。人の行いには、その人の全人格、全履歴が裏づけされている。その裏づけのない行いは、何処かに変なところがある。何といっても、人は平素が大切だ。

 

 

 

革新時代というのは、古いものがただ単に伝統の力によって、その古さの持つ権威だけで存在しようとするのは無理だ。

 

 

必ず偉くなる秘訣は「縁の下の力持ち」をするに限る。それは己を捨てて人の為にはかることだ。

 

 

 

しくじっても咎めない。しくじった人にもどしどし仕事をさせる。しくじったからといって、その人に仕事をやらせないのは、そのしくじっただけの経験を捨てることで損な話である。

 

 

 

「賢そうな馬鹿」は他人の偉さを知らないのである。他人の美点長所を見ようという気持ちが全くない。自分の説がよいと早呑込みをしている人である。お互いに戒心したいものである。

 

 

 

サラリーマンに限らず、社会生活において成功するには、その道でエキスパートになる事だ。ある一つの事について、どうしてもその人でなければならないという人間になることだ。

 

 

素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる。

 

 

 

はじめて会社に勤めると、誰しもいちばん最初に交際するのは感じのよい人です。しかし、私はこれには反対で、まず感じの悪い人に勇敢にぶつかっていくことです。こういう人は打ち解けると、感じのいい人よりむしろ親切で、本当の味方になってくれるものです。

 

 

いちばん忙しい人間が、いちばんたくさんの時間を持つ。

 

 

 

己を捨てて人の夢に働くのが却って向上、昇進の近道である。

 

 

 

出世の道は信用を得ることである。第一の条件は正直でなければならぬ。あの人には気を許すことができないと言われるようでは信用は得られぬ。第二の条件は礼儀を知っていることである。粗暴な言辞、荒っぽい動作では、これまた信用は得られない。第三の条件は物事を迅速、正確に処理する能力があるかどうかである。頼まれた仕事を催促されるようでは、やはり信用が得られない。

 

 

 

50銭均一にしたのは、大衆によき映画をよき席で安く提供せんがためである。均一料金だから入場券売場も一ヶ所ですむし、案内係も少人数ですむ。また場内も等級による客の区別や整理をしなくてすむから人手が従来の映画館の半分ですむ。人件費が少なくてすむので、それだけ安い入場料でもソロバンは合っていく。

 

 

乗客は電車が創造する。

 

 

百歩先の見えるものは、狂人あつかいにされる。五十歩先の見えるものは、多くは犠牲者となる。十歩先の見えるものが、成功者である。現在が見えぬのは、落伍者である。

 

 

自分の長所を磨くことを忘れて、無理からに常識にのみよる行動をとる若い平凡人が多すぎて困る。

 

 

 

下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。

 

 

 

青年よ、独立せよ。大会社にあこがれるな。商売はいくらでもある。仕事はどこにでもある。

 

 

 

自分の持つ長所を確信することである。

 

 

 

金がないから何もできなという人間は、金があっても何もできない人間である。

 

 

清く 正しく 美しく。

 

 

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