三井不動産元会長、江戸英雄:部下と対峙するには。

三井不動産元会長、江戸英雄:部下と対峙するには。

部下と対峙するには。

 

江戸英雄/三井不動産元会長

 

 

経営者は人間として部下と対峙できるか。

その時、自分を支えるのは公私のけじめをはっきりさせた身辺の清潔さである

 

 

 

 

江戸英雄(三井不動産元会長)とは?

 

 

茨城県筑波郡作岡村(現・つくば市)に生まれる。

農家に生まれ、兄一人姉三人の末っ子。

 

父は江戸本家の長男に生まれますが、生来虚弱で、若いときから風流の道を志し、家業を省みなかったため、父茂八郎から親族協議の上、廃嫡されてしまいます。

 

父親は遊んで食っていけるだけの田畑を分けてもらい、それを小作に出し、自分は土いじり一つしませんでした。そして春秋には東京や京都に名士や画家を訪ね、書画帖を作ることを唯一の趣味としていました。

下妻中学、正則英語学校に入ります。

 

旧制水戸高等学校に入学するも、江戸の学費のために家のまわりの大きな杉の木をみな売り払うことにしてくれました。江戸が大学を出るまで木を切り続けてくれたのでした。

旧制水戸高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部に入学。

 

外交官を目指して1日15-16時間の猛勉強を続けていたが帰郷中に寄宿先が関東大震災の被害を受け、その後始末の苦労で体調を崩し、結核で倒れて外交官への道を断念。

 

療養中は学校の試験をパスするための最小限度の勉強だけで、まとまった勉強はほとんどできず。ファーブルの『昆虫記』全巻、ルソーの『懺悔録』、トルストイ、ドストエフスキーの翻訳ものなどを読んだり、万葉集など歌集を読んで過ごしました。

 

卒業と同時に三井財閥の本部機構である三井合名会社に入社。

江戸はいきなり不動産課にまわされます。

 

不動産についての法律を研究するというのが名目であったが実際はコンニャク版をとらされたり書類を整理したりの雑用係。

江戸は不器用で雑用を手際よく処理する才覚は全くなく女性の事務員にも笑われるようなヘマばかりをしていた。

 

さらに面白くないことに当時毎年一名位しか入社しない東大出ということで、現場からの叩き上げの連中に東大出ても雑用も出来ぬ役立たずと苛められた。

これではとてもやっていけないと2ヶ月目で辞表を書いたが先輩に厳しくいさめられる。

 

1年後にもう一度辞表を書くが今度もいさめられた。二度目の辞意を思いとどまった後、こんどは断然サラリーマンに徹することを江戸は決心する。

 

誰よりも早く出勤し雑用を進んで引き受け、会社が終わると神田の夜学の簿記学校に通い、簿記とソロバンを身に付け、英文タイプ、邦文タイプも身に付けた。法律を勉強しようと学校時代の友人と判例研究会を作り、月1~2回のペースで法律の勉強会をした。

 

入社して約10年間は雑用だったが、三井家の問題で相続の問題が起きる。

年取った弁護士が手続きを間違えて非常に大きな税金がかかるようになり、老大家もお手上げ状態であった。そこで判例研究会のメンバーでこの相続の問題を検討してみたら救済の方法があることを発見できた。

 

早速この対策を上部に進言。会社では投げていたものだから出来るのならやってみろ、ということになり、策は予定通りの結果となり見事成功。

 

この功績もあり、順調に昇進。

1955年11月、代表取締役社長に就任。

 

まだ小さなビル会社であった三井不動産が所有する営業用建物は、1955年3月末の時点で9棟にすぎなかった。

江戸は、それまでの低迷を打ち破るために積極的な経営方針を打ち出した。

 

手持ちのビル用地が少ない「土地を持たざる不動産会社」であった三井不動産は、この時期、社運を賭して新規事業の展開を図り、ビル事業に加え、浚渫埋立事業と宅地造成事業への進出を決断した。

 

この2つの新事業の背景には、1950年代なかばから始まった第1次高度成長があった。

大きく飛躍する契機となったのが、京葉臨海工業地帯埋立計画である。

 

1957年、三井不動産は、千葉県の友納武人副知事から、京葉工業地帯建設の着手となる市原地区の埋立事業への参画を要請され、1958年4月、着工。1961年7月に完工したが、これを契機に、三井不動産はその後も長期にわたって京葉工業地帯の開発に協力することとなった。

 

この間、ビル事業も本格化し、また宅地造成事業も順調に推移して、1962年には社長就任時の10倍以上も急伸。一躍業界トップとなった。

三井不動産は、超高層ビル建設に着手。

 

1965年3月、霞が関ビルを着工。日本では史上例のない高層建築となった。

三井不動産の知名度は、霞が関ビル建設を通じて一気に高まり、企業イメージも著しくアップした。

 

1974年、社長を退任し三井不動産代表取締役会長。

三井銀行の小山五郎らと共に戦後解体された三井グループの再結集にも尽力し、70年に渡り三井に奉職。

 

戦前戦後の日本の経済史と共に歩んだ。

戦後屈指のディベロッパー(都市開発者)で東京や千葉に日本を代表するランドマークを残した。東京ディズニーランド招致にも注力し、オリエンタルランド創設にも深くかかわっている。

また、筑波研究学園都市の建設にも力を注いだ。

 

元首相田中角栄が出世する前に池田勇人から田中の娘の仲人を頼まれた縁で、田中とも懇意だった。

娘が子供のための音楽教室の第1期生であり、また水戸高等学校時代の同級生柴沼直(東京教育大学学長)が桐朋学園理事長だった縁から、桐朋女子高等学校の音楽科設置に貢献。

 

桐朋音楽科の後見人として政財界や建築業者へのパイプ役を務めた。

1982年、勲一等瑞宝章受章。

 

1997年11月13日死去。叙従三位。

 

 

 

 

厳選!江戸英雄(三井不動産元会長)の珠玉名言

 

 

 

戦後ずっと不動産の事業をやってきたが、この間、私は商売を利用して私財を蓄えようと考えたことなど一度もない。私財を蓄える為に心をくだき、其の為の雑事に神経をわずらわす時間があるなら、その間に勉強しなければならないことが山ほどある。

 

 

 

運に恵まれるには、努力が必要である。

 

 

 

日本はどん底状態から立ち上がって今日の姿になりました。それは日本人特有の勤勉と努力の成果である。

 

 

 

企業は人なりというが、つまり経営者は“交際業”だよ。

 

 

 

「仕事」はまず、社会性を考える。

 

 

 

長い人生には必ず浮沈がある。しかし、努力勉強は必ず報われる。

 

 

 

企業経営の基本は、人の心を大切にすることである。肩書や財産などを基準に相手を判断するのではなく、相手の人間そのものを見極めて対応することが重要になる。

 

 

 

経営者としての肩書きを取り去ったあとの人間の中身を、部下の社員の目にさらしたとき、恥ないだけの自信があるかどうか。

 

 

 

経営者は人間として部下と対峙できるか。その時、自分を支えるのは公私のけじめをはっきりさせた身辺の清潔さである。

 

 

 

 

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