経団連元会長、石坂泰三:財界にいちばん欠けているものとは?

経団連元会長、石坂泰三:財界にいちばん欠けているものとは?

財界にいちばん欠けているものとは?

 

石坂泰三/経団連元会長

 

経済道義の高揚、いまの日本の財界にいちばん欠けているのはこれだと思う。

 

 

 

 

石坂泰三(経団連元会長)とは?

 

 

石坂泰三。

1886年(明治19年)6月3日東京に石坂義雄・こと夫妻の三男として生まれる。

 

父・義雄は埼玉県大里郡奈良村(現熊谷市)の地主の子として生まれ、東京に出て家庭教師や書記等の仕事をしていた。

小学校5年次に城北中学(のちの府立四中)を受けるも失敗。

 

6年まで小学校をやり、「それなら城北よりもっといい学校にはいろう」と決意し、東京府尋常中学(のちの府立一中 現・都立日比谷高校)を受験、合格した。

1904年、旧制一高独法科に入学、卒業後、1911年(明治44年)東京帝国大学法科を卒業。

 

逓信省に入省、貯金局に配属された。

1914年(大正3年)高等官に昇進し、為替貯金局事務官補となる。

 

岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社(現・第一生命保険株式会社)の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年)逓信省を退官し、第一生命に入社し、矢野社長の秘書となる。

 

1916年(大正5年)生命保険事業視察のため欧米諸国を歴訪、翌年9月に帰国する。

35歳取締役、48歳専務取締役、1938年(昭和13年)第一生命取締役社長(当時52歳)に就任する。

 

1947年(昭和22年)に辞任するまで、第一生命は中堅から大規模生命保険会社に成長した。

IBM式会計器の導入による作業能率の増進や、外交員の待遇改善、株式などの資金運用などを推進し、大きな功績を挙げた。

 

なお、GHQが本社ビルを接収した際には、社長室にある石坂の椅子にはダグラス・マッカーサーが座ることとなった。

三井銀行(現・三井住友銀行)頭取の佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。

 

東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。

あえて火中の栗を拾った形となった石坂は、真正面から組合と交渉。

 

労組の主流派を納得させ、過激派を孤立させて、再建案(6,000名解雇を含む)を労組に飲ませます。

名門東芝の大争議を終結させ、東芝再建に成功する。

 

この間、吉田茂から大蔵大臣就任を打診されたが辞退。

官僚出身の割に官僚の民間経済への介入を嫌ったが、東芝再建に官や他勢力の力を借りずに成し遂げたことで、1956年(昭和31年)に石川一郎経済団体連合会(経団連)会長辞任を受けて、後任の経団連会長、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任する。

 

1957年(昭和32年)石川島播磨重工業(現・IHI)相談役、東京芝浦電気会長に就任する。

自由主義経済の原則のもと、官僚の干渉を排除する姿勢や指導力に高い評価を受ける。

 

政治への発言、行動も躊躇せず、1956年(昭和31年)には日本商工会議所会頭の藤山愛一郎と共に鳩山一郎首相に対し退陣を求めた。

1960年(昭和35年)の60年安保闘争では、安保改定阻止国民会議を中心とする反対運動の盛り上がりによって、アイゼンハワーアメリカ大統領の訪日が中止されるという緊迫した状況を受けて、経団連など経済四団体が「時局に対する共同声明」を発している。

 

1957年(昭和32年)にアラビア石油会長に就任。1960年(昭和35年)、1964年東京オリンピック資金財団会長に就任。

1963年(昭和38年)日本工業倶楽部理事長に就任。

 

1964年(昭和39年)、日本は経済協力開発機構(OECD) に加入。

それにともない、産業経済諮問委員会(BIAC)にも加入し、石坂はBIAC日本委員長となり、積極的に資本の自由化に取り組んだ。

 

同年に、小泉信三の後を受け宮内庁参与に就任。また、ボーイスカウト日本連盟総裁となる。

1965年(昭和40年)昭和天皇の御前で講義を行う。

 

11月に三木武夫通産大臣の要請で、人選が難航していた日本万国博覧会協会会長を引き受け、1970年(昭和45年)3月の大阪万博開催に漕ぎ着けた。

1975年(昭和50年)88歳にて死去。

 

 

 

 

厳選!石坂泰三(経団連元会長)の珠玉名言

 

 

 

私だって、世捨て人や禅坊主ではない。だから金も欲しい。ぜいたくもしたい。しかし、いくら欲しくても得られない場合は、現状に満足して、働くしか道はない。不平を言ってもそれは得られるものじゃない。

 

 

 

わがままこそ老人の本領だ。老人が老人として他から期待されるところは、善意の、誠心誠意の、私利私欲を離れての、かつ深謀遠慮としてのわがままである。

 

 

 

私は東芝に来るにあたって、自分の腹心というようなものは一人もつれて来なかった。単身乗り込んだわけである。それには理由がある。一人ならば出処進退が自由にできるが、人を連れて行った場合、その人を辞めさせて自分が残るわけにはいかないからだ。

 

 

 

人にものを教えるということは、自分でも非常に勉強になるもので、学問のためにも、またその後のものの考え方の上にも大いに役立ったと思う。

 

 

 

いま売っている製品を永久に売るということでは駄目で、先を見越して新製品を作ることが必要だ。

 

 

 

経営者のあり方などよく質問を受けるが、私に言わせれば経営に秘訣なしだ。

 

 

 

有効、有意義な借金、必ず返せる借金、分相応な借金はけっして一概に排すべきでもない。

 

 

 

私は人生万事、小成に安んじろというのではない。小さな地位でも、一日一日を充実感を覚えながら働いておれば、必ず道は開けてくる。不平不満をぶちまけるだけでは、道は真っ暗だ。一時の苦を忘れ、明日を夢見ながら、コツコツ働くしかない。

 

 

 

れから幹部になろうという者は、相手の言葉だけでなく、文化、歴史、政治、経済といったものをよく勉強しなくちゃいかん。もちろん、その前に自分の国のこともよく知っていなくては。

 

 

 

経済の基本はまず豊かになること。日本経済のポテンシャリティを信じ、拡大に全力を注ぐと同時に、経済秩序、道義、企業モラルの確立を図る。

 

 

 

人生のコースには人それぞれのペースというものがある。自分のペースに合わせて、息切れず、疲れすぎをせず、ゆうゆうと歩を進めて、とにかくその行き着くところまで、立派に行き着けばよろしいのだ。

 

 

 

企業の経済性ということは、企業をして企業たらしめるものであり、経済性の追求は企業経営の不断の合理化を促進することにある。

 

 

 

誠実に、そして厳しく自分を管理することが出来ていれば、あなたの部下の管理の必要性はない。

 

 

 

経営は学問ではない。

 

 

 

伸びるためには、まず縮まることが必要だ。

 

 

 

人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。

 

 

 

満足しているものが一番の金持ちだ。

 

 

 

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