内海桂子(漫才協会名誉会長)の「大切な」言葉たち~内海桂子の名言・人生・生き方など~

内海桂子の「大切な」言葉たち

おふくろが駆け落ちした先で生まれました。大正11年(1922)のことです。駆け落ち先が千葉県の銚子で、おふくろが二十歳のときのこと。おふくろは本所(墨田区)の床屋の跡取り娘でね。あたしの父親は、床屋のはす向かいで籐とう問屋の孫息子でした。男前で職人としての腕もよかったのに、博打が好きでねぇ。駆け落ちをしたくらい惚れ合っていたのに、遊びが元でおふくろは私を連れて東京に戻ったんです。

10歳のときに奉公に出されたの。おふくろが床屋の職人と一緒に暮らしたいからって、その家の保証金20円を借りるために「お前、奉公に行っとくれ」って頼まれたから「いいよ」ってね。20円といっても今じゃピンとこないだろうけど、お風呂が10銭、電車が7銭、家賃が8円。だから20円といえば、当時は大変な額よ。

小学3年の時に東京・神田にあるおソバ屋さんに奉公に出ました。以来80年、私は自分でお金を稼いできました。学問なし、師匠なし。世間様のこと、芸のこと、お金のこと、すべて見よう見まねで勉強してきました。人が失敗すれば、気をつける。人がうまくいけば、より良いものをと工夫する。私、怒られるのが大嫌いだったから、周りを見てきたんです。

日本中にその名が知られるほど有名なお蕎麦屋さんで、わたしの役目はそこの坊ちゃんの子守り。坊ちゃんが7歳でわたしが10歳だから、3歳しか変わらないんだけどね。坊ちゃんが学校へ行くときに草履袋を持って一緒に付いていって、勉強をしている間は、二宮金次郎の石像のところに腰掛けて、教室から聞こえる先生の教えを砂に書いて勉強してたわよ。

それが当たり前だと思っていたからね。親に奉公に出されるのは自分だけじゃなく、丁稚に出される子も芸者に出される子もいました。たとえば芸者になろうと思えば、6つか7つから踊りや三味線の芸事を仕込まなきゃならないのよ。今は学校行ってからなる人もいるけど、とても12歳でお座敷に出て、13歳で半玉(芸者見習いのこと)に上がれないはずですよ。いえば、芸の世界は小さい時から習わないと一人前にはなれないわけ。

私設だけど職業紹介所もあったくらいだから。桂庵(けいあん)っていう。親に手を引かれて出向いて行って、おふくろと帳場の人が何やら話し合って、そのまま連れて行かれたのがお蕎麦屋さんってわけよ。今は時代が違うからね。奉公って言葉もわからないでしょ。昔は「君に忠、親に孝」というのが正しい生き方だったのよ。君というのは天皇陛下。つまり国に忠節を尽くし、親のいうことをよく聞いて孝行するのが日本人の常識だったわね。

おふくろが父(桂子師匠の実父)と離婚したとき、わたしを連れて実家に戻ったのよ。その実家の祖父には後妻がいて、言えば母とわたしは赤の他人ね。で、そのおばあさんに辛く当たられて、ご飯のときも、うちのおふくろとわたしの分だけ、箱膳もお箸もないのよ。連れ子や店の人にはあるのにさ。とにかく一事が万事、扱いが酷くて、子ども心にものすごくさみしくなってとぼとぼ歩いて近くに流れる隅田川を眺めてたら、死んじゃおうかなと。でも飛び込んだらかあちゃんがかわいそうだと、それで死ななかった。

昔の10歳といえばね、親の事情も世間のこともちゃんとわかって自分で気持ちの片を付けられる、しっかりしたもんよ。しかも蕎麦屋で働いて毎日色んなお客さまの話を聞かせてもらってるから、いい社会勉強をしているわけ。その蕎麦屋にはお座敷があってね、お客さまが上がり込むとわたしはさっとゲタを揃えるの。すると「この子ずいぶん、気が利くね」っていって、ときには小遣いがもらえたんです。そういうことって、教えられたわけじゃなく、小さい頃から働いてると、誰に言われなくても勘が働く、気が利くようになるもんよ。自然とお客さまの大切さがわかる。お金の値打ち、ありがたみが身を持ってわかる、子どもでもね。

好きとか嫌いの問題じゃないのよ。コンビっていうのは、いっぺん息が合ったら舞台以外のことは目をつぶって、多少のことには鼻をつまんで、離れないものなのよ。やめたらそれでお終いでしょ。巡業中は自分のだけでなく相方の洗濯物もしてあげましたよ。生活が四六時中いっしょになるわけだから、わがまま言って離れたら、芸が変わる。違っちゃうのよ、看板が。相方のおかげで、自分も仕事ができるわけだものね。

「笑い」はね、本当のことを言えばいいだけなのよ。でも、何が本当のことなのか、そこをサッとつかみ取れなきゃ本当の笑いはもらえない。たとえばね、漫才で好江さんに向かって「悔しかったらお前、子どもつくってみろ。嫁して3年、子なきは去るっていうんだよ」みたいなことを言うわけ。実際に好江さんは子どもができなくて、お参りしたり、薬飲んだりしてたんだけどね。すると好江さんも本気で返してくるわけ。「子ども、子どもって、あなたの子どもは3人とも名字が違うじゃないか。安藤、立川、佐々木ってどういうわけなんだ」ってね。そこでまた斬り返すの。「わたしは人様のところに行くのに手ぶらじゃ行かないのよ」。お客さんは最初はドキンとするけど、あとは大ウケよ。

自分の気持ちの中で、絶えず格闘し続けるってことよ。相手はこう思うだろう、相手の性格はこうだからと、わかったつもりになって落ち着いちゃダメなのよ。だから「なんでお前はそう思うんだ!」って、相手の中に飛び込んでガチャガチャやってりゃ、ひょっとした拍子に考えられない本音が出てくるのよ。そこに笑いが生まれるの。

学校も行ってないのに漫才師として勲章までもらえて、こうして家も建てて暮らせているのも、全部、彼女がいたからできたこと。彼女がいなかったら、今の自分はありません。「ねえさんの死に水は私がとるわよ」って言ってたのに、向こうは先に逝っちゃっうんだから、悔しいわよね・・・。ほんと人生はあてにならないものですよ。ほんとに、好江さんという人は、わたしの一生の宝ですよ。

われわれは芸があれば食っていける世界だから。仕事って、自分がいくら探し回ってもないときはないわけで、だから、会社を探すんじゃなくて、自分の手で仕事を生み出す、仕事をつくり出すことが肝心だと思います。これまでは自分で何かどうしてもやりたいと思えば、あごで使ってもらえるところに頼みこんでも行けばよかった。ただ、今は全部機械がやってくれるから人手がいらないわよね。切羽詰まってえいっと飛び込める仕事場がほとんどないから、自殺者が多いんですよ。それでもね、ほんとにやる気があれば、身を落として、腹くくって、イチから出直せばいいのよ。

人って、自分が置かれた境遇を嘆いたり、泣きごとを言ったり、ふてくされたりするけど、そんな暇ないのよ。生きていくためには仕事して稼がないといけないし、仕事は人に教えられるものでもない。まわりの人の様子を見ながら憶えて、頭を働かせる。(一緒に働く)彼らを見てれば、次に何をしなきゃいけないかはわかるもの。

どんなところでも、自分の意志であろうがなかろうが、そこに雇われたからには、役に立たないと居づらくなる。

泣きごとを言う暇があったら、まず動いてみる。そうすると、何か新しいことが起こるものよ。

かっこいいか悪いかは、人が判断する。自分でかっこいいなんて思っちゃいけないよ。100まで200までも生きたとしても、生きてきた年数だけ、ものを知っているかといえばそんなことはない。

今も浅草で都々逸などを披露しています。ゲストの方と漫才をやることもあります。同じネタでも全く違う雰囲気になるし、相手を思う心ひとつで、最高にも、最悪にもなる。それが芸も人生も、面白いところね。

相方の好江ちゃんとギクシャクしていたとき、マセキ芸能社の社長とリーガル万吉師匠が「時の氏神様」になってくれ、仲を取り持ってくれたんです。そこで「コンビ永続法」を教えてもらいました。その中に「相手の立場でまず動く」という言葉がありました。相手のことを見て配慮して、先回りして動いてあげる……。確かに、それぐらいでちょうどいいのよ。舞台ではお客様の様子を見て、相方を考える。あたしと相方とお客様。三角形で話すのが漫才。最近の子はお客様を無視して2人で話しているのは困るわね。

好江ちゃんとコンビを組んだとき最初は相当きつく当たりました。そのとき彼女は何もできなかったので、「ばか」とか「間抜け」とか言いました。でも、あたしゃ江戸っ子だから、そう言っても「こうだからダメなんだよ」とちゃんと理由も説明しましたよ。

これまで10人以上と漫才をしてきたけど、一番長かったのが好江ちゃん。彼女とコンビを組んだのは、終戦から5年たった1950年。私が28歳の時です。本当は別の相手と姉妹漫才をするつもりだったんだけど、それがダメになり、仲介してくれた人が連れてきたのが、当時14歳のあの子。三味線は弾けない。踊りもダメ。着物も自分では着られなかった。私には夫も子供もいた。こんな若い子と一緒にやって家族を養っていけるかしら…。さすがに一度断ったんだけど、彼女がどうしても「頑張る」と言うから始めることにしたんです。気持ちがなければ、続きませんからね。

ケンカすればいいのよ。言葉が通じてないんです。昔はね、子ども同士も大人同士もみんなそこら中でケンカしてたわよ。言葉でケンカするから、いつかわかるわけよ、腹の中が。夫婦もそうですよ。ケンカするなら、とことんすればいいんです。うちだって、向こう三軒両隣に聞こえるように大声でやる。でも、ここが肝心でね。本気でケンカするときは、逆に片目つぶっとくの。その余裕は絶対に必要。

こないだもナイツに言ってやったのよ。「芸人は芸が変わらなきゃダメだ」って。ワンパターンだけじゃ、それは芸じゃないのよ。色の違う物をどんどん出していかないと、お客さまは「芸」として見てくれないの。お笑い芸人が集まってご飯食べてどうだこうだとか、そんなテレビ番組ばかり出てちゃダメなのよ。それは芸じゃない。漫才師は漫才やらなきゃ。

戦争で痛い目にあったもんだから、日本人の腰が抜けちゃったのよ。昔はじいさん、ばあさんになっても、死ぬまで役に立ったものよ。それが近頃の年寄りは自分たちの楽しみや遊ぶことしか考えない。

テレビの漫才台本を打ち合わせ通りにしゃべるなんて、漫才じゃないわよ。漫才師はね、言葉を知らなきゃ。引き出しをたくさん持っていなくちゃダメなのよ。だから常に読んで、見て、勉強しないと。今の若い芸人たちは、みんな同じ言葉でしゃべって工夫が足りない。だからすぐ飽きられるのよね。

不甲斐ない総理が出てくるのも、みんな女からなの。時が時代を、時代が人を、つくり損ねた2000年ってね。

そうそう。いきなり山に登って、ヘリコプターで探させたりね。だいたい山に何があるんだって。迷惑だってたくさんあるのよ。そういうことに気がつかない年寄りはおかしいっていうの。

国をあてにした子育てなんて冗談じゃない。男の人もね、自分の女房子どもの食い扶持は何をしてでも自分が稼ぐっていう、そういう気概がほしいわね。でも大人になるまでは、女が育てるんだから。どっかで育て方が間違ったんだねぇ。いざという時ほど、女房がしっかりしなきゃ。寄っかかれない亭主に寄っかかってもしょうがないじゃない。喝を入れればいいのよ。何してんのよ、しっかりしなさいってね。

使ってもらってこその、生き甲斐よ。だからね、年寄りはそういう気持ちの持ち方を次の世代に伝えなきゃダメなのよ。それが長く生きてきた年寄りの義務なんです。自分の幸せなんかにかまってるヒマはないの。

いくら時代は変わっても、人間の中身は千年の昔から何も変わっちゃないわけで、ホームレスだろうと総理大臣だろうと、人間の原料はみな同じ、ひと滴なんだから。

人として生まれた幸せは、一生何かの役に立つこと。自分の幸せなんか考えたって、誰の役にも立たないんです。

自分の幸せなんか、考えたことなかったわね。今の人たちはまず自分でしょ。違うんですよ。まず国のために働くの。で、親のため。自分のことは最後。

我 人に辛ければ 人 又 我に辛らし

内海桂子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

内海桂子。

1922年 両親の駆け落ち先の千葉県銚子市にて出生、東京市浅草(現:東京都台東区浅草)で育つ。

1923年 当時の深川区森下にて関東大震災に遭遇。

両親と共に着の身着のままで千葉県印旛郡木下町(現・印西市)の父方の親戚を頼って木下までずっと歩いて避難。

しかし、母親は働かない父親に愛想を尽かし、桂子を連れて木下の親戚宅を出て東京に戻る。

そのため、父の顔を知らないままで育つ。

父はそのまま行方不明。

1930年 尋常小学校3年時に、神田錦町の蕎麦屋「更科」に子守り奉公に出される。

1935年 坂東小三寿らの手ほどきで三味線や日本舞踊を学んでいたところ、舞台からお呼びが掛り始める。

1938年 高砂家と志松・雀屋〆子の〆子の産休中の代役で、と志松(山形一郎)と組み、浅草橘館で漫才初舞台。

1941年 と志松との間に長男誕生(20歳、事実婚)。

1942年 と志松とコンビ解消。

三枡家好子の芸名で遊芸稼業鑑札取得。

女子勤労挺身隊北支慰問班に加わり、奥満州まで巡業。

1945年〜 吉原で団子の売り歩きや田原町のキャバレーの女給をしつつ、時折舞台にも上がる。

1946年 林家染団治一門の林家染芳(後の林正二郎)とコンビを組み、長女をもうけたため婚姻届を提出したが、戦後の混乱で染芳の本籍地・広島県呉市に届かず、未婚。

1950年 林家染団治の紹介で、夫婦漫才荒川小芳・林家染寿の娘で、当時14歳の内海好江を弟子に取り、コンビ結成。

1956年 猛稽古を重ねて臨んだ第1回NHK新人漫才コンクールで優勝ならず、ショックを受けた好江が睡眠薬自殺を図るが助かる。

1958年 第4回NHK新人漫才コンクールで漸く優勝。

1961年 芸術祭奨励賞受賞。

1980年 日本芸能実演家団体協議会功労賞表彰。

1982年 芸術選奨文部大臣賞受賞(漫才で初)。

1987年 第15回日本放送演芸大賞功労賞受賞。

1988年 花王名人劇場功労賞受賞。

1989年 紫綬褒章受章。

1990年 第7回浅草芸能大賞受賞。実娘と同い年で24歳年下である成田常也と事実婚生活を開始。

1994年 第45回放送文化賞受賞。

1995年 勲四等宝冠章受章。

1997年 好江が病死。ピン芸人に戻る。

1998年 リーガル天才より後継指名され、漫才協団第5代会長に就任。

1999年 24歳年下のマネージャー成田常也と出雲大社で結婚式を挙げ、正式に夫婦となる(77歳、戸籍上は初婚)。

2001年 第1回笑芸人大賞受賞。

2007年 漫才協会会長職を青空球児に禅譲し名誉会長に退く。

東京駅の階段で転倒、落下して手首を骨折。入院中に乳癌が発見され手術し、本復。

2010年 あした順子・ひろしの順子とコンビとして活動開始。

コンビ名はAKB48(A – あした順子、K – 内海桂子、B – ババア、48 – シワだらけ)。

2020年(令和2年)8月22日、多臓器不全のため、東京都内の病院で死去。97歳没。

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