神谷美恵子の「大切な」言葉たち~神谷美恵子の名言・人生・生き方など~

神谷美恵子の「大切な」言葉たち

生きがいということばは、日本語だけにあるらしい。こういうことばがあるということは、日本人の心の生活のなかで、生きる目的や意味や価値が、問題にされて来たことを示すものであろう。たとえそれがある深い反省や、思索をこめて用いられて来たのではないにせよ、日本人がただ漫然と、生の流れに流されて来たのではないことが、うかがえる。

仕事というものは、嫌というほどこちらの弱点を、あばき出してくれる。

死に直面した人の心を、一番苦しめるものの一つは、「果たして自分の人生に意味があったか」ということ。

わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいを、うばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど、大きな愛はない。

いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見いだすのだろうか。

人が生きていく上で苦難を味わう理由は、世の中に生存競争があるから。受験、就職、仕事、配偶者の獲得、生きることは競争の連続。そのなかで、勝者がいれば必ず敗者もいる。世の中、幸運に恵まれている人の陰には必ず、不運に泣く人が存在している。そして、幸運や不運は「なぜ自分にやってくるのか?」と確実に説明できない。人生では、努力だけではどうにもならないものがある。自分は幸運でも、自分の家族や大切な人が不運を味わう可能性もある。だから「自分だけ幸せになればいい」という態度では、本当に幸せになることはできない。自分だけでなく、他の人のことも考える必要がある。

欲望はキリがない。欲しいものを手に入れても、必要なお金を手に入れても、もっともっと、欲しくなる。だから人生の価値基準をお金や名誉にすると、取り返しがつかないことになってしまう。大切なのは、本当に大切なもの、必要なものは何なのか、何が必要ないのか、自分の基準を持つこと。自分にとって本当に大切なものさえあれば、他の何かが欠乏しても生きていくことができる。あれこれ欲張らず、自分にとって大切なものだけを欲しがること。

結局どんなときも自分は自分でしかない。他人が自分をけなしても、それで自分の価値が下がるわけではない。かといって、他人からほめられても、それで自分の価値が上がるかというと、これもまた、そうでもない。そんなふうに、他人がどうこういうのとは関係なく常にあるのが自分。自分の価値は結局、自分で決めるほかない。

人生でとんでもない不運に恵まれどん底に落ちてしまった。そういうとき、生きる希望を見出すためには反発心が必要。「なぜ自分はこんな目に遭うのか。それは納得できない!」という運命に対する怒り、反発心が、生きる力を引き出し、逆境にいる自分を叱咤激励してくれる。

自由を得るための道は、今いる状況から逃げ出すことではなく、そこに踏みとどまり、考えるうる限りの知恵を出し努力をし、不自由を楽しめるように変えてしまうこと。考えて工夫をし、今いる環境で自分を納得させる道を見つけること。それこそが自由を得るということ。

人生で理想を追っていくことは大切だけれど、必要なときがやって来たら、現実と向き合い、ありのままの現実を受け入れる必要がある。「こうあるべきだ」ではなく、「今実際はどうなのか」をしっかり目を見開いて受け入れる。そして現実に即して行動していく。そうやって、理想から現実に折り合いをつけていく。

人生短気になってはいけない。新しい生きがいを見つけたいと思うなら、焦らずせかせかせず、忍耐を持つこと。自分を抑制し、忍耐を持つ。そうすれば人生、どんな運命でも受け入れていくことができる。そしてこれから生きていくための道標を見つけることができる。

苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす、ということは一つの公理ともいえる。生きがいを感じられないときは、他者へ貢献できることを探してみればいい。

ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生の流れはあまりにもなめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際、時間は未来に向かって開かれていなくてはならない。いいかえれば、ひとは自分が何かにむかって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標として、生命の発展の感じとしてうけとめるのである。

どういうひとが一ばん生きがいを感じる人種であろうか。自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと――いいかえれば使命感に生きるひとではないだろうか。

神谷美恵子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

神谷美恵子。

1914年生まれ、岡山出身。

神谷美恵子は1914年(大正3年)に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれた。

兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている。

父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居した。

1920年(大正9年)に多門は東京市助役となり、一家は大久保町などに居住した。

美恵子は翌1921年(大正10年)に聖心女子学院小学部へと編入したが、カトリックにより運営され貴族的な雰囲気を有していたこの学校での生活には違和感を覚えていた。

1923年(大正12年)になると多門はジュネーヴに新設された国際労働機関の日本政府代表に任命され、一家はスイスへと向かった。

美恵子は市内に存在するジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入学した。

1年生から6年生までの20人あまりの生徒が一つの教室に集められ、各自の能力に応じた指導を受けていたこの学校で、美恵子は「急に明るくなり、成長した」。

この頃両親は二人の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた新渡戸稲造と親密に交際しており、彼を尊敬していた両親と同様に美恵子も新渡戸から大きな影響を受けた。

小学校卒業後はジュネーヴ・インターナショナル・スクールへと進学した。

1926年(大正15年)に一家は帰国し、父は東京市制調査会専務理事として勤務した。

美恵子は一旦自由学園に編入学したが、そこでの教育が身に合わず数ヶ月の内に成城高等女学校へと転学している。

1932年(昭和7年)に成城女学校を卒業すると、津田英学塾本科へと進学し文学を専攻した。

1934年(昭和9年に美恵子は金澤からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に同行するよう求められた。

叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、ハンセン病患者の病状に強い衝撃を受けた。

後に彼女は、ある種の「召命感」と伴に、自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。

美恵子は、医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。

彼女の意志を知った両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると塾長の薦めに従い大学部へと進学した。

旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験し、これに合格している。

1938年(昭和13年)コロンビア大学大学院古典文学科で古典ギリシア文学を学び始めた。

医学部進学に対する父の許しを得た美恵子は1940年(昭和15年)2月からコロンビア大学医学進学課程に入学した。

翌年太平洋戦争の勃発を危惧した一家は、父を残して帰国し、美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学した。

1942年(昭和17年)の10月には当時ハンセン病の権威であった太田正雄(木下杢太郎)の研究室を訪問し、さらに卒業前の1943年(昭和18年)には岡山県の長島愛生園で、12日間を過ごして日本のハンセン病治療史における重要人物である、光田健輔と知己となるなど、ハンセン病治療に対する関心はこの頃になっても変わっていない。

友人が精神分裂病を病んでいたことから、精神医学にも興味を持つようになり、1944年(昭和19年)秋に女子医専を卒業すると、東京帝国大学精神科医局へ入局して、内村祐之教授のもとで、精神科医としての教育を開始した。

1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲によって、東中野の実家は全焼し、家族がみな疎開するなか、一人で精神科病棟に移り住んで患者の治療に当たった。

8月に日本がポツダム宣言を受諾、多門は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、美恵子はその仕事を手伝うために、父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに従事することになった。

文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。

5月に東京大学へと戻り、東京裁判において東條英機の頭を叩くなどして精神科に収容された大川周明の精神鑑定を手伝っている。

7月に、東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者の神谷宣郎と結婚した。

1949年(昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。

1950年(昭和25年)に宣郎はペンシルベニア大学に招かれたが美恵子は子供二人とともに大阪にとどまりアテネ・フランセやアメリカン・スクールで語学を教えた。

1954年(昭和29年)に初期のガンが発見されラジウム治療を受けた。

1957年(昭和32年)に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。

この業績をもとに1960年(昭和35年)に大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、さらに1963年(昭和38年)からは母校の津田塾大学教授に就任した。

精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けている。

1963年(昭和38年)にはアメリカで研究生活を送っていた宣郎のもとを訪れ、その帰途に同地におけるハンセン病施設および英仏の精神病施設を見学している。

1965年(昭和40年)からは、長島愛生園の精神科医長に就任し、自宅から療養所へと通って治療にあたった。

1972年(昭和47年)に心臓を悪くして以降は、心身に大きな負担を強いていた愛生園での仕事を辞め家庭と執筆を中心として生活したが、晩年の数年は十数回にわたる入退院を繰り返し、1979年(昭和54年)10月、心不全のため、65歳で死去した。

二人の妹はそれぞれソニー創業者井深大、伊藤忠商事の副社長を務めた人物と結婚した。

父、多門は野村胡堂と共にソニーの前身である東京通信工業に出資しており、名誉職で初代社長を務めた。

error: Content is protected !!