ヘレン・ケラーの「大切な」言葉たち~ヘレン・ケラーの名言・人生・生き方・性格など~




ヘレン・ケラーの「大切な」言葉たち

人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。

あきらめずにいれば、あなたが望む、どんなことだってできるものです。

物事を成し遂げさせるのは希望と自信です。

もしも、この世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。

盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。

私たちにとって敵とは、「ためらい」です。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。

人生で最高のもの、最も美しいものは目に見えず、触ることもできません。それは心で感じるものなのです。世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています。

私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。

言葉というものがあるのをはじめて悟った日の晩。ベットの中で、私は嬉しくて嬉しくてこの時はじめて「早く明日になればいい」と思いました。

ヘレン・ケラーとは?(人生・生き方・性格など)

ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日 – 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家。

視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)。

1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで誕生。

父のアーサー・ケラーはスイスのドイツ語圏から移住したドイツ系の地主の息子で、南北戦争当時南軍大尉でドイツ系アメリカ人。『ノース・アラバミアン』という新聞のオーナー編集長ででもありました。

アーサーの母(ヘレンの祖母)のマリー・フェアファックス・ケラーはイングランド系アメリカ人の南軍の総司令官、ロバート・E・リーとははとこの関係。

母のケイト・アダムス・ケラーもアーサーの母とおなじくイングランド系アメリカ人であり、その父のチャールズ・アダムス(ヘレンの祖父)は南軍の准将であった。

両親ともに南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹のミルドレッドを持つ。

1882年、1歳半の時に高熱(現在では猩紅熱と考えられている)に伴う髄膜炎に罹患する。

聴力、視力、言葉を失い、話すことさえできなくなった。

そのため両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。

1887年、ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。

派遣されてきたのが、当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)でした。

アン・サリヴァンも恵まれた幼少期ではありませんでした。

9歳の時に母親は死に、アルコール中毒の父親が娘を養育できなかったため、マサチューセッツ州テュークスベリーの州立孤児院に引き取られ、そこで5年間を過ごしました。

サリヴァンは5歳の時にかかったトラコーマのためほとんど目が見えず、教育を受ける機会を逸していましたが、パーキンス盲学校に入り、優秀な成績を収めました。

サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えます。

サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。

ヘレンはサリヴァンの教育の下、生き方を変え、猛勉強を始めます。

光りも音もない世界。

サリヴァンはヘレンの手に水を注ぎながら「w-a-t-e-r」と指文字(指話法)で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づかせます。

ヘレンはゼロの状態から、一つ一つ学問を学んでいきます。

ヘレンはボストンのパーキンズ盲学校に通学、ボストンのホレース・マン聾学校の校長、サラ・フラーから発声法を学び、1894年、ニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学。

そして、ついに1900年、ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。

1902年には『わたしの生涯』を出版。

1904年、ラドクリフ・カレッジを卒業、文学士の称号を得る。

1906年、政治活動を始め、マサチューセッツ州盲人委員会の委員となる。

1909年、アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。

1927年、『わたしの宗教』を出版。

1936年、サリヴァンが死去。

1937年、初訪日。昭和天皇に拝謁、東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)、同志社女子大学、近江兄弟社女学校(現:近江兄弟社高等学校)を訪問。

1948年(昭和23年)8月、2度目の訪日。これを記念して、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。

1952年、フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられる。

1955年(昭和30年)、サリヴァンの伝記『先生』を出版。

1964年9月、アメリカ政府から大統領自由勲章が贈られる。

1968年6月1日、コネチカット州イーストンの自宅で死去。日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。

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