上地結衣の「大切な」言葉たち~上地結衣の名言・人生・生き方など~



上地結衣の「大切な」言葉たち

私の場合は本当に特殊だと思うんですけど、すごく環境に恵まれていたなと思います。車椅子バスケを知ったのは、インターネットで母が広島のバスケットのボランティアをされている方と知り合ったのがきっかけです。「神戸にもこういうチームがあるよ」と、紹介していただいて。そのチームが活動している体育館は、私が小さい頃にリハビリに行っていた病院の隣の体育館だったんです。でも、体育館には怖い人がいるから絶対に行けないと思っていたので、当時はリハビリにしか行ってなかったんです(笑)。

10歳の女の子が、若くても20代後半の男性選手ばかりで、強面の選手の中に入るのは、なかなか勇気がいりました。でも、初めて行った時から良くしていただいて、「どんどん入ったらいいよ」って。チームの大事な練習時間なのに自分にボールを回してくれたり、「じゃあシュートしてみようか」と声をかけてくださって、その時に「面白くないな」って感じていたら、バスケを1年間続けることもなかったと思いますし、そこからテニスにつながることもなかったと思います。

特別扱いが嫌でした。小・中学校でも「何で上地のクラスは階段を上らんでいいんよ? 楽やんなあ」とか言われるのが嫌で、1階の教室を使う話を断わりました。早めに登校し、ゆっくりと自分の足で階段を上り、2階・3階の教室に行きました。

中学校3年生からは、海外の選手と試合をするようになったり、海外に行って試合をするようになったりして、だんだんと世界を感じるようになっていったんです。『世界の壁』と考えて、上を見たらキリがありません。だから、私の場合は、そういうレベルの高い選手たちとプレーができることは、むしろ『喜び』だったのだと思います。『世界の壁』を感じるよりも、『そんなトッププレイヤーの選手と試合ができる』という嬉しい気持ちの方が大きかったですね。

結局、高校3年生で2012年のロンドン・パラリンピックに初出場したことがきっかけで、これから先はテニス一本でいくことを決めました。パラリンピックに出場したときはまだ迷っていたのですが、4年に1度の大会に人生を費やしてきて、1つの勝利のために頑張ってきた選手たちと試合をし、『これから先もテニスをやりたい』と自分の気持ちが固まりました。パラリンピックには他の大会とは違った独特の雰囲気があります。観客の期待もすごく大きかったようで、選手全員を盛り上げてくれるような暖かい応援がとても印象的でした。テニスを続けていくか迷っていた時期だったので、すごく良いタイミングでパラリンピックに出ることができたと思っています。だから、2016年のリオデジャネイロや2020年の東京のパラリンピックでは、かつての私と同じように、何かに迷っている人の気持ちを変えることができるように、選手として関わることができたら嬉しいです。

私がこうしていられるのも、理解のあるまわりの人たちに囲まれている環境があるからこそなんだと思います。私の両親は、障害があるからといって、『運動すると危ないよ』とか『無理はしちゃ駄目』とか言う親ではなかった。今のコーチも、その他のまわりの人たちも、『私の意志』というものをとても尊重してくれてきたんです。このことについては、本当に恵まれていたと思います。

(両親は)二人ともテニスの知識はなかったので、プレーについては何も言われませんでした。試合で負けて帰ってきても『どうやったん?楽しかったん?』くらいしか聞かれないんです。私が一度辞めようと思った時期も『続けていく意志があるんだったらいつまでも続けていけばいいし、もし辞めたいんだったら、辞めても何も言わへん』って言ってくれました。そんな、いつも自然体で見守ってくれていたことが一番ありがたかったですね。

同世代が勉強したり、遊んだり、恋をしたりしているときに、テニスばかりをする生活って、大変じゃないの? 遊びたいと思わないのって。私の同級生でもプライベートを楽しんでいる子もたくさんいます。でも、自分は自分で、他の人が出来ない、全く違った経験をさせてもらっているんです。15歳で海外に行って試合をする。国際大会で一流の選手と試合ができる。こういう経験は、普通は絶対に経験できないことだと思うんですね。だから自分にとっては、我慢をしているっていうことは全くないし、同世代の人たちが遊んでいる話を聞いても全然気にならないです。

私は海外に行くのがすごく好きで、海外の生活が全然苦にならないので、どこの大会に行くのもすごく楽しみなんです。毎回周りの皆さんは、競技やツアーの連戦が続くと、『家に帰って白いご飯が食べたい』とか、『自分のベッドで寝たい』とかっておっしゃっているんですけど、私ひとりだけ大会終盤になって残り滞在期間が3日とかになると『ああ、帰りたくない。ああ、帰りたくない』って毎日言って、『分かったから』ってよく言われていまして(笑)。15歳16歳ぐらいの時はよく言っていましたね。今は口に出さないですけど、やっぱり楽しい。海外の選手と一緒にいて、普段なかなか会えない日本の選手とかとも一緒にツアーをまわれるというのがすごく楽しくて好きです。

私は、どんなことでも事細かに書き出してノートを作って相手の研修をして……というリサーチするタイプではなく、どちらかと言うと、こうしたら試合中にいいんじゃないかな、あの選手はここを攻めていったら有利になるかな、等を思いつきで書き留めていく感じですね。そういう点では、ルーティンや決め事をするのもあまり得意ではないんだと思います。試合前もの準備も、特に順番やすることなどは決めずに、そのときどきで違っていると思います。

自分の場合は、『1位になりたい』『ランキングをあげたい』という気持ちよりも、『今、目の前で戦っている選手に勝ちたい』という気持ちで試合をしてきました。それをずっと続けていたら、いつのまにか1位になっていた。対戦選手との試合を1マッチ1マッチ楽しんできたら、結果、日本一、世界一になることができたんです。もちろん、積み重ねてきたものはあるんですけどね。

自分の中では1位であって1位じゃないというか……。ランキング的には1位なんですけど、ひとつひとつの技術で言えば、自分よりも丁寧だったり、技の種類が豊富だったり、上の選手はたくさんいると思うので。やっぱりそういう選手のいい所をすべて集めたのが自分でありたい。それが1位であるべきだと思っているので。そのあたりは、まだ自分がイメージしていた1位とはかけ離れていますね。

1ゲームも取れずに1回戦負けでした。でも、すごく楽しかったんです。私が所属していたのは男子の多いクラブだったので、女子と対戦することも、実戦でプレーすることも新鮮でした。もともと負けず嫌いだったので、大会に出るからには『こんな子がおるんや!』とみんなを驚かせたかったのですが、全く思うようにプレーさせてもらえませんでした。そんな時に、初めてテニスの“相手のいる競技”としての楽しさを知りましたね。テニスは個人競技だからこそ、良くも悪くもすべての責任が自分にかかってきます。でも、逆に“すべてのことを自分でどうにでもできる”ところも面白くて、その後、テニスにのめり込んでいきました。

取れない範囲のボールっていうのは、明らかに健常者のテニスより多いんですが、いかにそれをカバーする力があるかっていうのと、いかにそこに打つかですよね。”予測力”っていうものがすごく大事なので、「次はここに打たせたいから、そのためにこっちに行かせて」とか、「こういう球を打たせるために、自分がこういう球を打つ」っていう。そういう、パッと見では分からない頭脳戦というところは、自分がもっと伸ばしたいところでもありますし、見てほしいところでもありますね。

最初の英国遠征がプロや海外を意識するきっかけになった。そのころ、親に『あんたが1人で行くんなら、試合数は私がついて行く場合の2倍になるけど、どうする』と言われて、迷わず『1人で行く』と。

日本だと、車いすの人用にアトラクションの詳細な説明があり、体調などの確認、非常時の避難方法など、乗る直前に10分ほどかけて、細かくいろんなことをすり合わせます。安全のためにはとても大事なことですが、はじめて乗るアトラクションなのに、「ここでこういう展開が来るので注意してください」と先に聞いてしまうのは、少し残念な気持ちになります(笑)。また、車いすの人だけ別ルートでアトラクションまで案内してもらえることも多いのですが、アメリカでは一般の方と同じ列に並べたので、待ち時間のワクワク感がとても新鮮でした。

試合中に、体の状態や、戦術を声に出して自分に言い聞かせるんです。例えば、良い状態のときは、調子に乗らないように「今のはもうちょっとこうできたやん」とか。逆にミスをしたときは「でも、ここが良かった」とか。兵庫県出身なので関西弁が出ちゃうんですけど(笑)。試合中に一番大切なのは平常心でいること。そのために、自分の言葉でぺースを保つようにしています。

本当に自分のやるべきことを一生懸命やって、やらないといけないことがより正確に分かって。これを良くすれば勝てるとか、良くなっていくということを想像して、それが本当にその通りになったんですよね。ただそれは、追いかける立場だったからできたことであって、今追いかけられる立場になって、より難しくなりました。どういうふうにしたら”勝てるか”ではなくて、”勝ち続けられるか”なので、難しいところではありますね。

私は、真剣な試合中でも、笑顔でいることを心がけています。それは、そうすることでより自分を客観視することができ、プレーも前向きになるからという思いがあるからです。自分なりの楽しみ方で試合を楽しめるように頑張ろうと思います。

テニスをずっと続けてこられたのも、一番には『楽しい』という想いがあるからです。『楽しい』からこそ、努力もするし、挑戦もできる。努力をして技を身につけていくのも楽しいですし、プレーをするのも楽しい、それから練習の後、パートナーの選手とおしゃべりするのも楽しいです。私が『努力』『挑戦』をしていくことにおいて、『楽しい』という気持ちはとても大切なものだと思っています。

自分の武器は、ここぞという時の負けん気の強さと、要所要所での思い切った判断力かな。プレッシャーのかかった場面でも、「こうしよう」と迷わず判断できるところ。ただ、実生活は結構迷うタイプで、レストランでメニューを見ても直ぐには注文を決められない(笑)。

勝つことも大事ですし、反対に負けることも大事です。負けたときの悔しい気持ちがあるから、勝ったときの嬉しい気持ちがわかる。負けたときには、やはり悔しい気持ちをバネにして、勝つ気持ちに向かっていけます。

「自分はこれまでに色んなことに挑戦してきました。障害を持って生まれてきたということに関しても、たくさんの悔しい想いもしてきました。でも、そうしたことを乗り越える根本には『楽しい』という気持ちがあったと思います。それは、シンプルに『テニスが楽しい』『友達と遊ぶことが楽しい』という気持ちです。

同じことを何時間でも何百回でも繰り返し続けられることが、私の長所です。コート上での練習は1日だいたい4時間で、その間700〜800球ぐらい打つんですけれど、その1球1球のわずかな違いを意識しながら、少しずつ自分の理想に近づけていくことが楽しいんです。

勝つことも大事ですし、反対に負けることも大事です。負けたときの悔しい気持ちがあるから、勝ったときの嬉しい気持ちがわかる。負けたときには、やはり悔しい気持ちをバネにして、勝つ気持ちに向かっていけます。でも何よりもテニスを楽しむことが、自分の成長には必要不可欠なことだと思っています。

「世界の壁」と考えて、上を見たらキリがありません。

なにか挑戦することを見つけるのは、とても素敵なことだと思います。

上地結衣とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

上地結衣。

1994年4月生まれ。

車いすテニス選手。

エイベックス・グループ・ホールディングス所属。

兵庫県明石市出身。

明石市立明石商業高等学校卒業。

先天性の潜在性二分脊椎症で、元々は装具をつけて歩くことはできていたが、成長とともに歩行困難になった。

小学校4年の終わり頃から車いすバスケットボールを始め、そのメンバーの紹介により、11歳から車いすテニスを始める。

14歳の時、史上最年少で日本ランキング1位となった。

2008年、NEC全日本選抜車いすテニス選手権大会で初優勝。

また、ピースカップでもシングルスで初優勝し、2011年から2014年までは3連覇した。

2012年、高校3年でロンドンパラリンピックに日本代表として参加し、シングルス・ダブルス(パートナーは堂森佳南子)ともにベスト8入賞した。

2013年、NEC車いすテニスマスターズシングルスで、オランダ人選手以外では初となる優勝。

男子シングルスの国枝慎吾と史上初の日本人男女優勝であった。

2014年全豪オープンダブルスでグランドスラム初優勝。

全仏オープンではシングルス・ダブルス優勝。

ウィンブルドン(ダブルスのみ開催)でダブルス優勝。

グランドスラム3大会連続優勝を果たした。

全米オープンでもシングルス・ダブルスで優勝し、ダブルスで年間グランドスラムを達成。

2016年全豪オープンダブルスで3連覇。

全仏オープンダブルスでは2年ぶりの優勝。

ウィンブルドンダブルスで3連覇。

リオデジャネイロパラリンピックでは、シングルスで同種目日本人初の銅メダルを獲得した。

2017年全豪オープンシングルスに第2シードで出場。

決勝まで進み、第1シードのイスケ・フリフィウンにフルセットで下し、初優勝を果たした。

2018年全豪オープンダブルスで2年ぶり4回目の優勝。

2018年10月国際総合大会、アジアパラ大会シングルスで優勝、2020年東京パラリンピックの出場権を得た。

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