新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■栗城史多(登山家)名言集
ネットで叩かれているのは知っています。悔しいとも思う。でも、なかには『ありがとう』って書いてくれる人もいる。だから、続けられる。
批判されるのはつらい。でも、困難に打ち勝つことこそが、冒険家という仕事の役目です。
私が登頂できずに下山して帰ってくると、周りからは「失敗した」って言われるんです。でもそれはちょっと違います。成功の反対は失敗ではなく、本当の失敗とは「何もしないこと」
彼女に振られてしまって。僕はショックのあまり家に引きこもり、ずっと寝ていたんですが、1週間がたったころ、背中がかゆくてシーツをよけると、布団に人型にカビが生えていた。「このままじゃいけない」と思っていたある日、友人の大学で「山岳部員募集」の張り紙を目にしました。そのとき、彼女が冬山に登ったりと、かなり本格的な登山をしていたことを思い出したんです。「小柄な女性が、なぜそんな危険なことをしていたのか」――その答えが知りたくて、僕は山岳部に入部しました。
一人で登ってみたいと言う気持ちを周囲に話したら、「不可能だ」「お前にできるはずはない」「死ぬぞ」と猛反対を受けた。誰も応援してくれなかった。もしあのとき反対を受け入れていたら、ずっとその先も、「反対されればやめる」自分のままだっただろう。
登頂の喜びは一瞬だ。下山、失敗、敗北のつらさの方がよっぽど長く続いていく。でも山に負けたとき、自分とどう向き合うのか?そこからの成長にこそ、山登りの本質があるような気がする。
山岳部に入ったら先輩が非常に厳しい方で、とにかく下山が許されなかったんです。その考え方は今では危険な部分もあるんですけど、その先輩と二人で色々な雪山を登っているうちに、なにか自分の中で「出来ない」とか「無理だな」って思ってた事は、自分が作り出した幻想だと気付かされたんです。やっぱり自然から生きて帰ってくるには必死になるしかないんですよね。「やる」とか「やめる」じゃなくて、本当に頑張らないと生きて帰ってこられない体験を何回かさせて頂きました。そこからですね、こんなに生きるっていうことをもの凄くダイレクトに感じられる山に魅力を感じたのは。
人は誰もが冒険し、見えない山を登っている。夢を否定しないで自分の中にあるエベレストに一歩踏み出す人を増やすこと。それが僕の冒険です。
夢を持ち、否定されても気にしない。壁がきたときこそが、チャンスなんだ。
子供の頃にNHKの『映像世紀』って番組が好きでよく観ていたんです。第二次世界大戦後の白黒映像の暗いドキュメンタリー番組なんですが、その映像を観ていて、昔の人達は夢や希望なんて持てなくて、食料も無い大変な時代があった。でも僕が大学を卒業する頃、日本で飢え死にすることはないし、インターネットなんかも出始めた頃でテクノロジーが大きく発展した時代です。そんな素晴らしい時代に生きているのだから、僕は自信を持たないといけないと感じ、大学を卒業したら会社員にならないといけないとか、正社員とか、登山家とか形にこだわることなく、生きていける素晴らしい時代だと思いました。だから僕の中でこれは自然な状態です。僕は寝袋があって山道具があればとりあえず生きていけます。
生きることは、何かに一生懸命打ち込んで、そこに向かって命を燃やしていくこと。
苦しみや不安は、本当に自分をダメにするものなのだろうか。苦しければ苦しいほど、喜びは大きく、苦しければ苦しいほど生きている実感がある。
もともと「ニートのアルピニスト、はじめてのヒマラヤ」というテレビの企画でした。そういうタイトルだったので、ニートや引きこもりの人からメッセージがきたんですが、その内容はいいものばかりではなく、「登れないと思う」とか、「死んじゃえ」とかで。初回のアタックは天気が悪くなり、山頂まであとわずかのところで引き返しました。そしたら「やっぱりダメだった」というメッセージが届いた。でも、3日後、ベースキャンプから再度挑戦して、今度は登頂できたんです。そしたら「ありがとう」って書き込んであった。「あんなお兄ちゃんだって頑張っているんだから、自分も何かやってみよう」と思ってくれたのかもしれません。
人生は目的地に向かって進むより、目的地を見つける方が難しいかもしれない。
楽しい=楽ではなく、つらいこと、困難なことを楽しむこと。それさえできれば、誰もが人生の成功者になれる。
僕は大きなことよりも、小さなことでも喜べる人間になりたい。人は満たされないことを知ることによって、逆に心が満たされていく。
夢を語る大人を増やしたい。自分で夢人挑んだ人は、その価値を子供に伝えられる。そうすればチャレンジする人が増えて、日本にあるっていう閉塞感だってどうにかできそうじゃないですか。
あらゆる不安を受け入れよう。それより、いま生きていることに感謝しよう。
僕は頂上に着くとよく泣く。嬉しいからではない。それだけ苦しかったから泣くことができるということだ。苦しみと喜びは振り子のようになっている。「こんなに苦しいから最悪なんだ」ではない。それほど苦しいということは、そのぶん、喜びがその先に待っているということだ。だから苦しいまま終わらせてしまうのはもったいないと思う。
生きるということは決して当たり前なことではなくとても大変なことだ。だからこそ生きていることの素晴らしさを伝え合い、当たり前のことに感謝したい。
どれほど不況と言われていても、やっぱり日本は恵まれた国です。街にはコンビニがあり、百円出せば誰でもおにぎりが買える。それだけ夢が実現しやすい環境が与えられているわけですから、様々なことにチャレンジしなくてはもったいない。
終わりがあるからこそ、「今」があることに感謝し、命を燃やして生きようと思える。
苦しみも不安もすべては自然の一部であり、僕らはその自然の一部。苦しみは自分が作ったものにすぎない。それを喜びに変えられるかどうかは、すべて自分の心次第。
最後に感謝できるような、人生を送れるか。長く生きられたかどうかは関係ない。大切なのはいま、どう生きるかだ。
僕が冒険の共有をすることで、共感してくれる人、応援してくれる人、感謝してくれる人、影響されて何かを頑張り始める人が現れたりするのは本当にうれしいことです。よく無言実行のほうが格好いいと思う人もいますが、実は有言実行することで得られるものの大きさは図りしれないものがあります。
日本には失敗や挫折が怖いという空気から、自分には出来ないと、勝手に不可能と決めつける人が多くいると思います。しかし想定を超えた世界、いわゆる「冒険」には失敗と挫折がつきものです。僕は山を登るという冒険を通して、失敗と挫折の分だけ学びと成長があると身を持って感じてきました。
「不可能」自分自身が作っていた幻想だと気がついた。
苦しみと戦っても勝てない。逃げても無駄。だから、友達になる。だって、苦しみが大きかったら、喜びも大きい。僕は登りながら、苦しみに『ありがとう』とつぶやくんです。
「何かやりたいけど、何をしたらいいのかわからない」そのためにはまず、ほんの少しの行動だ。ちょっと動いてみるだけで、未来も、自分自身も変わる。
できるか、できないかではなく、やりたいか、やりたくないか。不可能は自分が作った錯覚にすぎない。
反省はあっても、挑戦したことへの後悔はありません。
長く生きられたかどうかは関係ない。大切なのはいま、どう生きるかだ。
夢を追い、夢破れ、そしてまた夢を追う。毎日が挑戦。毎日が冒険だ。
与えてもらうのではなく、与え続けられる人間になろう。
成功する確率。それがなんの役に立ちますか?
「ありがとう」その言葉で一歩、前に進める。
ありがとう。すべてのことに感謝する。いいことにも、悪いことにも。
『がんばってください』よりも、『自分もがんばります』がうれしい。
山は厳しいが、僕の一歩踏み出す勇気が、たくさんの人の一歩になればと思う。
否定の壁をなくしたい。
■栗城史多(登山家)とは?
栗城史多。
1982年生まれ、北海道瀬棚郡今金町出身。
2001年、高校卒業後にお笑いタレントを目指してよしもとNSC東京校に入学するが中退し、2002年に札幌国際大学に入学。
2002年年末 – 中山峠から小樽市の銭函まで、1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の年越し縦走を行った。
2004年5月21日 – マッキンリー(現・デナリ)登頂に向けて日本から出発。初の海外旅行。
6月12日17時10分 – マッキンリー(北米最高峰 標高6,194m)登頂。
2005年1月 – アコンカグア(南米最高峰 6,959m)登頂。
6月 – エルブルース(ヨーロッパ最高峰 5,642m)登頂。
10月 – キリマンジャロ(アフリカ最高峰 5,895m)登頂。
2006年10月 – カルステンツ・ピラミッド(オセアニア最高峰 4,884m)登頂。
2007年5月 – チョ・オユー(世界第6位高峰 8,201m)登頂。7,700m地点からスキー滑降した。登頂の様子は第2日本テレビにて「ニートのアルピニスト、はじめてのヒマラヤ」の題で動画配信された。
12月 – ビンソンマシフ(南極大陸最高峰 4,892m)登頂。
2008年10月 – マナスル(世界第8位高峰 8,163m)に「無酸素」「単独」登頂したと主張するが、ヒマラヤン・データベース、日本山岳会の双方から登頂を認定されていない。
2009年5月 – ダウラギリ(世界第7位高峰 8,167m)登頂。インターネット生中継を行う。
9月 – チョモランマ・北稜北壁メスナールート(世界最高峰 8,848m)登頂を目指したが、グレートクーロワールに達せず、体力の限界により7,950mで敗退。
2010年5月 – アンナプルナ(世界第10位高峰 8,091m)登頂を目指したが、7700mで敗退。
8月末から – 2度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが、C4サウスコル7,900mに達することができず7,750mで敗退。この挑戦では栗城隊のシェルパが1人死亡している。
12月 -登山とインターネットを結んだ功績が評価され、ファウスト大賞を受賞。
2011年5月 – シシャパンマ(世界第14位高峰 8,013m)の登頂を目指したが体調不良により敗退。南西壁から7600m地点まで。
8月末から – 3度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが敗退。
7800m地点で食料などを埋め、一度ベースキャンプに戻り体調を整えて頂上アタックを目指したが、埋めておいた食料をキバシガラスに荒らされたため登頂を断念したと発表した。
このアタック開始の際には事前に予定していたC3でのキャンプ設営、馴化のための宿泊をしておらず、大きくルートを外れた雪の斜面に荷物をデポしていた。
この挑戦では同行スタッフであるフリーカメラマンの木野広明が死亡している。
死亡原因はくも膜下出血であった。
2012年5月 – シシャパンマ登頂を目指したが、7000m地点到達前に進行が不可能になり敗退。
下山中に滑落して負傷し、救助に向かったシェルパと共に下山したと発表した。
スケジュールが逼迫する中で6000m以上の高度で宿泊する高地順応作業も行わず、当初予定していたC1(6700m地点)、C2(7500m地点)などの中間キャンプの設営も行わないまま深夜の最終アタックに出ていた。
8月末から – 4度目の挑戦となるエベレスト・西稜ルートで登頂を目指したが7700mで敗退。
C2(6400m)地点で人差し指が凍傷に罹患していたにも拘らず登山を続行。
当初予定していた地点より500m低い7500m地点のC4から最終アタックに出たものの強風のため撤退。
凍傷が悪化しC4からの下山が不可能になったため救助を要請し、シェルパによりC2まで下ろされた後、ヘリコプターでカトマンズの病院に搬送された。
2013年11月から2014年1月にかけて、2012年に受傷した凍傷のため右手親指以外の両手指9本を第二関節から切断。
2014年7月24日 – ブロード・ピーク(世界第12位高峰 8,047m)登頂。
2015年8月末から – 5度目のエベレスト登山に挑み、南東稜ノーマルルートからの登頂を目指したが、サウスコル付近で敗退。
2016年5月 – アンナプルナ、6300mで敗退。
9月より6度目のエベレスト登山。9月2日にベースキャンプに入り、「北側(中国)のグレート・クーロワールをアドバンス・ベースキャンプ(通称ABC)から氷河を登りつめ、傾斜の緩い壁に入り、そこからダイレクトに山頂を目指す」としていたが7400mで敗退。
2017年春 – 中国側からエベレスト北壁に挑むとしていたが、遠征後半にネパール側に移動するなどルートを二転三転し、最終的に5月29日にネパール側ノーマルルートの6800m付近まで登った直後に断念した。
2018年5月21日 – 8度目のエベレスト登山中に体調を崩し標高7400m付近より下山。
キャンプ2付近にいたシェルパがルートを登って捜索したところ、栗城の遺体を発見した。
35歳没。