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面白きこともなき世を面白く!~世の中を変えるDNA~


新しいことに挑戦し、チャレンジするには多くの困難が待ち構えています。

それが世の中にインパクトがあればあるほど、至難の業です。

特に世界に革命を起こすベンチャー企業であれば尚更です。

今回は歴史を紐解きながら、革命を起こすためのそのDNAについてお伝えします!

日本を創ったベンチャー魂

さて、突然ですが、歴代内閣総理大臣で、一番出身が多い県はどこかご存知でしょうか。

以下、内閣総理大臣出身県ランキングです。

内閣総理大臣出身県ランキング

1位:山口県 8人
伊藤博文・山縣有朋・桂 太郎・寺内正毅・田中義一・岸 信介・佐藤栄作・安倍晋三

2位:東京都 5人
高橋是清・近衛文麿・東条英機・鳩山一郎・管直人

3位:群馬県 4人
福田赳夫・中曽根康弘・小渕恵三・福田康夫

3位:岩手県 4人
原 敬・斎藤 実・米内光政・鈴木善幸

5位:石川県 3人
林 銃十郎、安部信行、森 喜朗

5位:京都府 3人
西園寺公望 、芦田 均、東久邇稔彦

5位:岡山県 3人
犬養 毅・平沼騏一郎・橋本龍太郎

5位:広島県 3人
加藤友三郎・池田勇人・宮沢喜一

5位:鹿児島県 3人
黒田清隆・松方正義・山本権兵衛

1位は山口県。

なぜ、山口県が多いのでしょうか。

知っている方も多いかと思います。

山口と言えば、長州藩。

明治維新という革命は、薩摩と長州の「薩長同盟」で徳川幕府を転覆させて実現しています。

政治的主導権を握った長州藩が、徳川幕府後の政治の中心となったことが背景にあります。

つまり、長州藩が、今の日本を創った源泉と言っても過言ではありません。

長州藩の源泉は誰?

では、その長州藩はだれが作ったのでしょうか。

それが「毛利家」。

毛利家は中国地方を中心とした大名でした。

ただ、戦国時代当初、毛利家は小領主でしかありませんでした。

ある毛利家当主、たった一代で中国地方No1の大大名にまで飛躍させた人物がいます。

それが、毛利元就。

ご存知の方もいらっしゃると思います。

戦国時代に活躍した中国地方の武将で「三本の矢」でも有名ですね。

多数の内閣総理大臣を生み出す背景となった長州藩。

その長州藩起源ともいえる、毛利元就とはどんな人物だったのでしょうか。

少し見ていきましょう。

不幸な生い立ち

毛利元就が生誕した1497年頃。

戦国時代当初、毛利家は中国地方「安芸」の単なる小領主でした。

毛利元就は、幼少期、恵まれない環境で育ちます。

当時毛利家の主人は地方豪族の大内家。

その大内家の騒動に巻き込まれ、不幸が次々舞い込みます。

5歳で母に別れ、10歳でアルコール中毒で父を失います。

さらに家臣であった井上元盛より、毛利元就は城を追い出されてしまいます。

生活は困窮し、荒家で寝泊まりした経験もあり、領民たちから「乞食若様」と呼ばれていたこともあるそうです。

次男として生まれ、家督相続権はありませんでした。

まったく恵まれない状況の中、長男興元が父と同様に酒が原因で亡くなります。

長男興元の嫡男幸松丸が一旦家督に継ぎますが、幸松丸も亡くなります。

その結果、元就が家督を相続することになります。

ただ、当時は戦国時代。

この交代劇による隙をついて、近隣の佐東銀山城主・武田元繁が毛利家領地に侵攻してきます。

20歳だった元就はいきなり、初陣とともに家運をかけた戦いとなります。

武田軍5,000と毛利軍1,150の圧倒的不利な戦いでした。

しかし、元就はこの初陣で大活躍し勝利。

この戦はのちに「西国の桶狭間」とも呼ばれました。

毛利家を支える「毛利の両川」とは?

毛利元就は結婚し、子どもに恵まれます。

毛利元就は子どもたちを強固な毛利軍団として育て上げます。

まず、長男隆元は毛利家本家を相続。

そして、次男元春は近隣有力武将の「吉川家」に養子として入り、家督相続させます。

さらに、三男隆景も近隣有力武将の「小早川家」に養子として入り、同じく家督相続させます。

毛利家は「吉川家」「小早川家」の両家を、毛利軍団として築き上げます。

のちに、この「吉川家」「小早川家」は毛利家を支える「毛利の両川」(もうりのりょうせん)と呼ばれます。

次男吉川元春は「鬼吉川」と呼ばれ、86戦無敗の猛将となります。

三男小早川隆景は当時最強の海賊と呼ばれた村上水軍と手を組み、最終的には豊臣秀吉の五大老にまで上り詰めます。

このように、3兄弟による最強毛利軍団を創り上げ、中国地方を制覇します。

毛利元就が参戦した合戦は公式にわかっている戦いだけで220戦

一代で中国地方8カ国を制覇する大偉業を成し遂げました。

毛利氏運命の決戦!

毛利氏が中国地域制覇を決定させた戦があります。

それが「厳島の戦い」

当時の大勢力は陶晴賢(すえはるかた)。

中国地方における天下分け目の決戦でした。

しかし、ここでも戦力は劣勢。

毛利軍約4,000vs陶軍約20,000!

約5倍!

毛利元就は、この圧倒的不利な状態は、当然理解しています。

陸路での決戦は間違いなく敗北すると読んだ毛利元就は、様々な情報戦で「厳島」という海戦での決戦を実現させます。

さらに、当時世界最強の海賊とまで言われていた「村上水軍」とも事前に関係性を構築し、この最終決戦への協力を実現させます。

結果、戦力差5倍の戦いを勝利に導きました。

中国地方制覇が確実となった瞬間でした。

周りの協力を実現させる能力

毛利元就と言えば、「三本の矢の教え」

これは元就が3人の子供に1本の矢は簡単に折れるが、3本纏めれば折れる事は無いと兄弟の結束を訴えた話です。

しかし、実際は創作話と言われています。

とはいえ、実際に毛利家を支える次男吉川元春、三男小早川隆景は最後まで本家毛利家支える形を造ったことは間違いないでしょう。

創作話「三本の矢の教え」は、体制上、実現している、そう思います。

そして、毛利家最大の決戦「厳島の戦い」。

この勝利には、当時世界最強と言われた海賊「村上水軍」との協力関係がありました。

迫ってくるであろう決戦に向けて毛利家は「村上水軍」と少しづつ血縁関係を結ぶなど、事前に関係性を深める戦略も着々と進めていたようです。

兄弟血縁による協力関係、そして村上水軍との関係。

中国地方制覇した毛利元就には、周りの協力を得るという能力が備わっていたのかもしれません。

悔しさをバネに。

幼少期、身寄りもなく「乞食若様」とまで言われた毛利元就。

小領主でしかなかった毛利家を一代で中国地方の大大名にまで飛躍させました。

恵まれなかった幼少期の悔しさをバネに、新しい時代を切り開いた人物だったのかもしれません。

毛利元就は、1571年(元亀2年)享年75歳で生涯を閉じます。

毛利家最大の試練

毛利元就亡き後、その子孫たちは当時の天下人豊臣秀吉とも友好関係を維持し、中国地方の確固たる地位を築きます。

しかし、ここで大きな転機が訪れます。

豊臣秀吉の死去に伴い、徳川家康が台頭してきます。

そして、1600年、天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いとなります。

当時の毛利家当主は、毛利元就の孫にあたる毛利輝元

東軍徳川家康と対峙する、西軍大将として担ぎ出されます。

結果、西軍の惨敗。

西軍総大将となっていた毛利家は絶体絶命。

小早川家や吉川家が徳川家康に毛利家存続を懇願し存続自体は免れましたが、毛利家は長門・周防の2カ国に削減されます。

120万石から36万石!

まさに、1/4!

毛利家は再び地方の弱小大名となってしまいました。

毛利家は当然、徳川家に対して恨みを持ちます。

そして、毛利家が当主となった長州藩は、江戸時代約260年間、徳川幕府への反抗心を持ち続けることとなります。

まさに歴史的怨念、それが長きに続きました。

明治維新という革命

260年続いた徳川幕府。

しかし、ついに黒船が到来し、徳川幕府の危機が訪れます。

明治維新です。

明治維新は日本における革命の一つ。

この明治維新においても、毛利家は影響力を及ぼします。

人を見通す力

当時、幕末の長州藩の藩主は毛利家13代目、毛利敬親。

毛利敬親には非常に優秀なところがありました。

それが人を見通す力。

毛利敬親は、家柄や身分、年齢にこだわらず、優秀な人材を輩出した事で有名でした。

その中で最も有名なのが吉田松陰

敬親は藩主でありながら、11歳も年下のしかも下級武士の息子である吉田松陰に師事したことでも知られています。

つまり、藩主毛利敬親は11歳年下の下級武士の息子から授業を受けていたのです。

毛利敬親が吉田松陰と初めて合ったのは彼が22歳、吉田松陰に至っては11歳という年齢のときでした。

吉田松陰は下級武士の家柄でありながら非常に貧しく、自給自足の農業で食物を確保するという、半士半農の生活環境の中で育っています。

毛利敬親は、吉田松陰のような貧しい下級武士にも優れた人材は重用する、そういう素質が備わっていたようです。

毛利家は、有能な人物を活用することをDNAとして持っていたのかもしれません。

毛利家のDNAを背負った長州藩士たち

吉田松陰と言えば、松下村塾。

天才吉田松陰の塾には90人を超える多くの門下生がいました。

その門下生はまさに明治維新を代表する人物ばかり。

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義など、明治維新を実現し、その後の明治を創り上げた中心人物ばかりです。

桂小五郎(木戸孝允)は門下生ではありませんでしたが、吉田松陰に兵学を学び、関係性も密接でした。

これだけの人材を輩出した松下村塾創始者、吉田松陰。

過激思想の持ち主として江戸幕府から捕らえられます。

江戸の伝馬町の牢獄。

松陰が処刑前に残した「留魂録」にはこのように門下生に言葉を遺してこの世を去ります。

「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

松陰30歳の若さでした。

その後はご存知の通り。

高杉晋作は長州藩を突き動かし、討幕へとつながっていきます。

吉田松陰の想いは明治維新につながっています。

その吉田松陰を見出し、その能力をしっかりと見極めた、毛利敬親の眼力。

毛利敬親こそ明治維新の成功を影で支えた功労者といえるのかもしれません。

悔しさをバネに、パワーに。

戦国時代の毛利元就から始まった、毛利家のDNA

悔しさをバネに、新しい時代を切り開く。

その熱いベンチャーパワー。

初代毛利元就の熱いDNAは、毛利家、長州藩に受け継がれている、そう言えるのかもしれません。

最後に

新しいことに挑戦する人へ。

勇気をもらえる名言を贈ります。

百万一心(一日一力一心)
(心を同じくし、一致協力して事にあたれば何事でも成し遂げられる)
毛利元就

志を立ててもって万事の源となす
吉田松陰

おもしろきこともなき世をおもしろく
高杉晋作




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