堀ちえみの「大切な」言葉たち
私はもうダメなんだな──告知の瞬間にそう思いました。ところが次の瞬間、でも、人生に悔いはない、と思い直したんです。私は14歳で東京に出てきて、好きな仕事を思う存分やってきました。これ以上望むことなんて何もないじゃないか、と。
舌の裏にプチッとできた「何か」に気づいたのは、2018年のゴールデンウィークが明けた頃でした。口内炎かな? ビタミン不足かな? と思い、かかりつけの内科でビタミン剤を処方してもらいましたが、よくなりません。歯科の先生に相談して、レーザー治療もしたけれど、痛みは次第にひどくなっていきました。11月頃には、痛くてご飯が食べられなくなり、さすがに、おかしいんじゃないか、と。それで、歯科の先生に「悪性の腫瘍じゃないですよね?」と確かめたら、先生は「悪性ではありません」と即答しました。内科の先生も悪性とは考えていないようでしたし、婦人科検診でも反応は同じでした。私は関節リウマチの持病があるのですが、月1回の定期通院の時に、リウマチ科の先生にも舌を診ていただいたんです。先生は、「服用中のリウマチの薬の副作用でしょう」とおっしゃって、お薬をストップすることになりました。
娘の言葉を聞いて、初めて涙があふれました。この時、私はまだ生きなければならない、と気づかされたのです。闘いもせずあきらめて、「お母さんはかわいそうな人生だった」という記憶を子どもたちに残したくないとも思いました。夫と子どものために病気と闘おう、生きるためにがんばってみよう、と。この時、私は3つの選択肢のうち、取り除けるものはすべて手術で取ってしまう道を選ぶことを心の中で決めました。
検査からひと月後の2月22日。舌を6割以上切除し、切除した部分に太ももの皮膚を移植、あわせて首のリンパ節に転移した腫瘍を切除する郭清(かくせい)手術を受けました。口腔外科、耳鼻咽喉科、形成外科の合同チームによる12時間に及ぶ手術でした。術後は3日間ICUに。頭は固定され、口には舌に移植した肉の塊がはさまれ、体中に管が通った状態で目覚めた時、「生かされてしまった」と感じました。娘の言葉に背中を押され、自分の意志で手術室へ向かったはずなのに、それを悔やんでしまう私。激しい痛みにも襲われ、そんな自分をどうすることもできなかった。寝たきりの状態で手鏡を渡された時に、自分の顔を初めて目の当たりにしました。顔の左半分と首が腫れ上がり、肉の塊がはさまった口は半開き状態。その顔を見た時、死んでしまいたい、と思いました。命を救っていただいただけでも、ありがたいと思わなくてはいけないのはわかっているけれど、こんな状態で、私はこれからの人生をどう生きればいいのだろうという、絶望感と不安感。気管に穴を開けて呼吸をしている状態のため、声は出せなかったけれど、心はうめき声を上げていました。
一人でずっと布団の中で恐怖心と戦っていました。看護師長さんの手を握って、「私は生きられますか。このまま死ぬんですか」って聞いたら、何も言わずに手を握り返してくれたんです。そしたら、「やっぱり生きたい」と思って、涙が出て止まらなくなった。「娘のためにも、主人のためにも、命を助けてください」。そう祈りながら、手術室に入ったんです。 ところが、手術を受けた後には生き地獄。こんな状態で果たして生きている価値があるんだろうか。私はどうなっていくのだろうか――そう思ったら、生かされたことに対して、また後悔してしまったんです。そんな私に再び前を向かせてくれたのは、毎日面会に来てくれた家族や手術の担当チームの先生方、そして24時間付きっ切りで看護してくださった看護師さんたちでした。私は今生きているのではなく、みんなに「生かされている」。そう思ったら、「死んだ方がよかった」だなんて思ったことを申し訳なく、恥ずかしく感じました。
入院前に家族の前で泣いてしまった時もそうですが、私は、病気を抱えた自分の苦しみばかり見ていて、家族には家族の苦しみがあるということに思い至る余裕がなかったのです。夫や子どもたちの思いにも目を向けなくてはいけない、と気づかされました。本音では、病気になってよかったことなんて一つもないと思っています。やっぱり病気にはならないほうがいい。でも、「キャンサー・ギフト」という言葉もあるように、病気のおかげで学んだこと、与えてもらったことは山ほどあるんです。舌がんという病気のことも、以前はまったく知らなかったけれど、早期発見できれば、命を失ったり、ここまで話しづらくなったりせずに済むこともわかった。気になる症状があったら、すぐに大きな病院で診てもらうべきであるということも。これからは、私が体験してきたことをたくさんの人に伝えていきたいと思っています。
なにがあっても『君は運がいい』としか言わない夫(笑)。そう言われると、本当にそうかもと思えて力が湧いてくるんですよね。そして彼は、がんを克服するにはどうすればいいのか、なにが必要なのかを考え、調べて、打てる手はすべて打ってくれました。夫がそばにいてくれなかったら、私は今、ここにいないと思います。
苦労がある反面、話す内容を1回頭の中で考えてから話すようになったことは、よかったと思っています。人を傷つけるような言葉や、言わなくていい無駄な言葉に気づけるようになったからです。人を気持ちよくしたり、優しい気持ちにしたりするのも言葉、人に勇気や力を与えるのも言葉。でも、人を傷つけるのも、殺めるのも言葉。そう思うと、頭の中でじっくり言葉を選んで話すというのは、とても大切なことだと思うようになりました。
家族で一緒にすごせること、おいしくご飯が食べられること、歌が歌えること──。以前は当たり前だったそんなささやかな幸せも、失いかけて初めてそのありがたさに気がつきました。すべてに感謝して生きていきたい、いまはそう思っています。体調が良くなくて、つい後ろ向きになりそうな時もあります。でも、家族や友人、医療スタッフ、ブログを読んで励ましのメッセージをくださる方々……いつも誰かがそっと支えてくれている。だから私は、前を向いて歩くことができます。私は一人じゃない、そう思う毎日です。
うまくしゃべれなくてもいいのかもしれない、そんなふうに思える自分もいて──。人生が再生したみたいで、清々しい気持ちなんです。たくさん泣いたからね。これからはそのぶん、笑って生きていきたいな。
五感が研ぎ澄まされたのでしょうか。朝いちばんに吸う空気のおいしさ、お日まの暖かさ、空を流れる雲の形…。これまで気づけなかった自然の美しさやはかなさに感動している自分がいて。私は新しく生まれ変わったんだ、とさえ思えてくるんです。
今まさに、がんをはじめ苦しい病気と闘っている方、そしてそのご家族は『病気になってよかった』『がんからギフトをもらった』なんて到底、思えないでしょう。私もそう思っていました。でも、だからこそ、病気を通じて得られるものもあるということ、新たに生まれ変わった先にはすばらしい世界が広がっていることを伝えたいと思っています。
今までの経験でムダなことは一つもありません。私の体験談が誰かの命をつなぐきっかけになれば、あのまま死ななくてよかったと思える。言語障害は残ったけれど、それ以上に得たものもたくさんあります。空の色、太陽の光、鳥の声……。この世のすべてが以前とはまったく違って感じられます。残された人生は神様が与えてくれたギフト。絶望の淵に立たされたステージ4から、希望に満ちた新しいステージを歩いていくために、これからもリハビリに励んで前を向いて生きようと思っています。
堀ちえみとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
堀ちえみ。
本名、尼子 智栄美(あまこ ちえみ)旧姓、堀。
1967年生まれ、大阪府堺市東区出身。
1981年に開かれた第6回ホリプロタレントスカウトキャラバンの優勝をきっかけとして芸能界入り。
1982年3月に『潮風の少女/メルシ・ボク』で、アイドル歌手としてデビューする。
なお、デビュー当時のキャッチフレーズは「GOOD FRIEND」。
堀の代表曲としては、1983年『さよならの物語』、1984年『クレイジーラブ/愛のランナー』、1985年『リ・ボ・ン』など。
また同期生のデビューでは、小泉今日子、三田寛子、松本伊代、早見優、中森明菜、石川秀美、シブがき隊らが居り、「花の82年組」とも言われた。
さらに、1984年末の『第35回NHK紅白歌合戦』には『東京Sugar Town』で初出場を果たしている。
1983年にTBS系列で放送されたドラマ『スチュワーデス物語』(原作:深田祐介)で大映ドラマ初主演。
劇中での「教官!」「ドジでノロマな亀」の台詞は流行語になり、翌1984年に新語・流行語大賞に指名され、大衆賞を受賞した。
この『スチュワーデス物語』以外にも、『スタア誕生』や『花嫁衣裳は誰が着る』でも主演し、「少女がいじめや冷酷な仕打ちに耐えながら、終いに幸運を手に入れる」という、1980年代の大映ドラマを象徴するキャラクターを演じた。
1987年3月、20歳の誕生日を迎えた直後、堀自ら電撃的に歌手活動を含め、芸能界を引退する事を表明。
1989年、松竹芸能に所属し芸能活動を再開する。
大阪の外科医の男性と結婚、1990年に長男、1992年に次男、1993年に三男と3児をもうけたが、1999年に離婚。
2000年5月、雑誌社勤務の男性と再婚、2000年に四男、2002年に長女と2児をもうけた。
2001年、14年ぶりのシングル『ピンクのアオザイの裾を夜風にあそばせ -サウスウインド-』をリリース。
2005年から歌手活動を本格的に再開。
2010年6月、2度目の離婚。
2011年12月11日、一般男性と3度目の結婚、東京・明治神宮にて挙式。
相手の連れ子が2人(当時中学生の長女と小学6年生の長男、自分の子は、21歳、19歳、18歳、11歳、9歳)いるので、7人の母となった。
2019年2月19日、自身のオフィシャルブログにて、口腔癌(舌癌)に罹りステージ4と診断され、左首のリンパ節にも転移していることを公表し、同日に入院、当面は芸能活動を休業して療養に専念するとした。
前年の6月頃に、舌の裏側の小さな口内炎に気付き、通院治療を続けていたが、当初は2016年から患っているリウマチの治療薬の副作用からでは、と判断されていた。
7月にいったん症状は治まったが、10月に入ると大きな口内炎が再発。
それ以降は痛みが酷くなる一方で、年明けからは更にしこりが増加し会話や食事も辛くなり、激痛で不眠にも悩まされていたという。
2019年2月22日に受けた11時間に及ぶ手術では、頸部リンパ節や舌の6割を切除し、太ももの組織を移植する舌の再建手術が行われた。
25日、ICU(集中治療室)から一般病棟へ戻り、26日には術後初めて本人が自身のブログを更新した。
3月16日、外泊許可を得て一時帰宅。3月26日に退院。
4月15日、検査によって新たにステージ1の食道がんが発見されたことを公表。
16日、内視鏡による切除手術を行った。
24日、退院。
病理検査の結果、食道がんはステージ0の初期がんと判明。
2020年1月3日、芸能活動復帰を報告。