美川憲一の「大切な」言葉たち
母は子供できて嬉しいわって思ったけど、(実の父は)喜ばなかったんだって。産むのは「いいよ」って言ったんだけど、2か月ぐらい経ったころに薬を持ってきたのよ。「これを飲むと元気な赤ちゃんが生まれるよ」って言って。でも、母はなんかイヤな予感がしたらしいの。今ここで飲んでって父に言われたけど、後で飲むから心配しないでよって言って(父を)帰して。父は1回も泊まらなかったんですって、家には。それで2~3日経ってから(父が)来た時に、「飲んだ?」って聞くから、母は飲んだわよって言ったけど、実はその前に流しで薬を捨てていて……。母が薬を飲んでいたら、私は生まれなかったかもしれないの。ドラマみたいな話でしょ。
子どもの頃から、うちの母に「あんたはしぶとい子だから絶対大丈夫よ」って、言われてきたんです。私の中では、美川憲一になる前、本名・百瀬由一(ももせ よしかず)が、子どものころから“しぶとさ”を母に植え付けられていたのよ。
2人とも絶対に諦めないのよね。つらいっていう顔も見せない。義理の父親は、友達の保証人になったことから返済ばかりで……。生活費に困って、最期は私の目の前で、脳溢血で倒れて亡くなったんです。養母は風呂敷包みひとつあったら、どこでも働きに行くような人だったの。一人でご飯を食べて待っていたわ。テレビも買えない時代で。でも隣の家はテレビがあって、「坊や、見においで」って言ってくれたけど、意地でも行かなかったわね。自分の家はこういう家なんだから、それはしっかりと受け止めようと、最低限の子供のプライドだったんです。自分の部屋でお布団を敷いて、(育ての)母が帰ってくるのをポツンと待っているような子でした。やっぱり養母に心配をかけちゃいけないっていうことと、お小遣いが欲しいなと思っても言えないみたいなところがあって……我慢ですね。我慢することって、すっごく大事なことなのよ。我慢して、我慢してつらいことを乗り越えた先に喜びがあるのよね、必ず。それは大きい喜びもあれば小さい喜びもあるけど、そのときにすっごく喜ぶこと。
育ての両親には学校だけは出てって言われていたんだけど、「あなたたちのためよ」って私は思ったのよね。早く独立して、2人の母の面倒を見なきゃいけないって……背負っているものが大きかったから。芸能学校も、新橋の喫茶店でボーイをしたり、夏は郵便局の仕分けみたいなのもやったり、自分がアルバイトしたお金で通って。
死ぬほど仕事しましたよ。体も丈夫だったから出来ましたけどねっ。病気は、精神力で治せるわ。次の日にステージがあったら風邪をひいてもそれどころじゃないもの。後は、ストレスを溜めないで発散する事。誰でも歳と共に衰えを感じるけれど、良い時代の事ばかり考えてないで、現時点を見つめて生きがいを持って先に進む。元気は自分が創り上げるものよっ!
やっぱりキレイでいなきゃいけないなと。黄昏れて見えたら、なんとなく、ああやっぱり売れない歌手だとか、可哀相ねってなるでしょ。そう思われないように、どんな苦しくても胸を張っていようって。「晒し者だから見てちょうだい!」っていうところから再スタートだったから、強いのよねえ……。
「タンスにゴン」のCMのセリフ「もっと端っこ歩きなさいよ~」から、“おネエキャラ”みたいなキャラクターが出来あがっちゃって。そういうふうに言われるのってすごく抵抗を感じるほうだったんだけど、CMが売れたときに、逆に「これを商売にしてやろう」と思ったんです。私、したたかなのよ~(笑)。
だから、私、引きこもっていても、これは自分自身の勉強の場なんだわって。これを乗り越えたらまたいいこともあるんだからって、自分に言い聞かせて。頭のそばに“もう一人の自分”がいるのよ。それが一生懸命ね、口に出して「なにやってんのよアンタ、もたもたしてんじゃないよ」って。もう一人の自分として、自分に言い聞かせるの。
この世の中、みんな寂しいし、つらいですよ。みんな不安は抱えてるんですもの。私だってこうやって強く言ってても、一人になったとき「いつまで芸能界でやっていけるのかしら」なんて思うじゃない。でもそういう時、先のことを考えるより、今の自分の状態をしっかり受け止めて、「いいえ私は大丈夫よ」ってもう一人の自分が言い聞かせる。そう、言い聞かせるってことは大事なのよねえ。言葉ってすごく大切なの。
なにか悩みを抱えたまま寝ると、全然眠れなくなるじゃない? だから、「悩んでてもどうせ解決しないんだから」って自分に言い聞かせるのよ。ちゃんとしっかり寝て、「また明日考えればいいことだし」って、自分で切り替えるように、切り替えるようにする癖をつけるとラクになるのよ。簡単に言うけど、そんなにすぐ切り替えられないわよっていう人もいるかもしれない。でも、それでも、諦めずに、少しでもいいから前向きな気持ちを忘れないでいること。そうすると、だんだん体にしみついてきて、うまく切り替えられるようになってくるのよ。
言い聞かせても楽になるわけじゃないわね。でも、努力しなけりゃ運もついてこないのよ。運っていうものは、それぞれがもともと持っている運もあるでしょうけど、待ってても来ないと思う。つらいことがあった時って、後になって思い出としてすごい蘇ってくるのは、そのつらさなのよね。でもその時に努力すれば「あのとき頑張ったから……」って、必ず思えるのよ。
私はね、スランプに陥ったとき「ここまで落ちたら這い上がるっきゃない」というところまで落ちてやろうと思って、落ちたんですよ。1984~1985年ごろのことね。私は自分が今どのくらいの位置にいるのか、肌で感じる人間なんです。でも、自分が落ちて「苦しい」と思うんじゃなくて、この寂しさをしっかりと受け止めようと思ったの。そしてその時に、これからは構えないで、シンプルに生きようと。見栄も張らないでね。そう考えたらすごくラクになるんですよ、気持ちが。外を歩くのも、人に声をかけられたら挨拶できる範囲で挨拶をして、話しかけられたら話したりしようって。すっごいラクなの、そうしたら。
「かわいい」とか「いい」とか、綺麗なものに触れて、その気持ちを言葉に出して言うっていうことはね、あとでいいエネルギーが来るのよね。ちょっとしたことなのよ。少し外へ行って、「かわいい」とか「素敵」とか、ウィンドウショッピング行ってこの色彩いいわ、とかね。心の豊かさがなきゃ、貧相だと妬みなんかも出てくるでしょ。エネルギーってね、自分が生み出さなきゃ。それは、自分の気持ちの持ちようも大事なのよ~。
友達も大事なのよね。友達が背中を押してくれたり叩いてくれたりする。たくさんの友達はいらないけれど、本当に腹を割って一緒に泣いてくれる友達は必要だと思うの。だけど今は、そういうこと(悩み)が言えない若者が多いじゃないですか。他人のことに関心がない若者も多いのよね。でも、自分一人で落ち込んでいたって先に進まないし、みんながつらいんだから「あなた一人じゃないのよ!」って、ね。
見た感じ、私は“男らしく”ないから、ひ弱で。私の時代は「男なんだから」「男は男らしく」って言われて、それにはすごい抵抗を感じていたの。でも精神は男の中の男なんだからって自分に言い聞かせてるから、強いのよ~。
産みの母と育ての母、2人の母が亡くなった時、あんたのおかげでほんと幸せだったわ、思い残すことなかったわって。ありがとうね、感謝よって言われたときに、ああよかったわ親孝行してきてって。また生まれ変わったら美川憲一、そういう生き方したいなって思ってるわ。
雨はね一人にだけ降るのではないのよね。誰にでも平等に降るわけ。自分だけ不幸だと思わない、あなたが苦しんでいる数だけみんなも苦しんでんのよ。逃げないで向き合う。試練だと思えば楽しくなるかもよ。
私ね、絶対諦めないの。欲しいなと思うものは絶対手に入るの。それには努力しなきゃだめよ。
美川憲一とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
美川憲一。
本名は百瀬由一(ももせ よしかず)。
1944年5月生まれ、長野県諏訪市出身。
生い立ちは複雑で、母が妻子ある交際相手との間に出産した子供が美川だった。
一人で育てていた母が肺結核を患い、2歳の時に母の姉夫婦に引き取られた。
実の親ではないことを知ったのは中学1年生の時だった。
「2人の母親」を食べさせるために芸能界を目指し、高校を1年で中退し東宝芸能学校に入学。
1964年、第17期「大映ニューフェイス」に合格。
なお、1996年に育ての母が死去。
2006年に生みの母が死去している。
古賀政男の指導を受け、1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。
デビューは青春歌謡路線であり、当時は男装・美少年キャラクターであった。
芸名の「美川」は愛知県・三重県・岐阜県を流れる木曽川・揖斐川・長良川の3つの美しい川にちなむ。
美川自身は長野県出身で2歳から東京に居住し、岐阜とは何の縁もなかった。
デビュー当時のプロダクションの担当者が岐阜出身であり、岐阜に由来する芸名を付けられた。
「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込められている。
1966年、北海道出身で、柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が作詞・作曲した「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げる大ヒット。
青春歌謡路線で売出し中の美川にとって演歌である「柳ヶ瀬ブルース」を歌う事にかなりの抵抗があった。
レコーディングの話が来た際、レコード会社に「歌いたくない」と断ったところ「歌えないのならお前はクビだ」と言われてしまう。
「クビになるのならやるだけやってみよう」「この曲が売れなければ辞めよう」と詞の内容も理解しないまま嫌々歌ったという。
この曲のヒットにより美川はムード歌謡・演歌路線へと路線変更していく。
また「柳ヶ瀬ブルース」は映画化され、美川の映画初出演の作品となった。
1967年、「新潟ブルース」発売。売上枚数は多くなかったがカラオケで広く歌われ、リクエストランキング1位を獲得した。
1968年、「釧路の夜」がヒットし45万枚を売り上げた。「釧路の夜」もヒットにより映画化され、美川も出演をした。『第19回NHK紅白歌合戦』に「釧路の夜」で初出場。
1970年、「みれん町」「大阪の夜」「おんなの朝」と立て続けにヒット曲を出す。
「柳ヶ瀬ブルース」「新潟ブルース」「釧路の夜」とご当地ソングのヒットが続くが、「みれん町」のヒットにより盛り場をテーマにした曲なども発売されるようになり、この頃から曲調が変わっていく。「柳ヶ瀬ブルース」で第3回日本有線放送大賞特別賞を受賞。
1971年、「おんなの朝」で第4回日本有線放送大賞スター賞・第4回日本作詩大賞大賞を受賞。
1972年、「さそり座の女」が発売される。9.7万枚を売り上げるヒット曲となり当時の星占いブームのきっかけとなった。
1975年NHKホールでデビュー10周年記念リサイタルが開催された。
1977年に「駅」が発売された。ドラマのエンディングに使用されたこともあり発売後は有線リクエストでも上位にランキングされた。
美川にとって久々のヒット曲になるかと言われたが、この年の10月に大麻取締法違反で逮捕されて起訴猶予となり、ヒットに結びつくことはなかった。
1980年デビュー15周年記念リサイタルが主要都市6ケ所で開催された。
1984年に大麻取締法違反で2度目の逮捕。判決は懲役1年6か月、執行猶予3年。大麻事件以降はテレビの出演回数も減り、スナックでの営業や地方の温泉などでの公演が続いた。
1980年代終盤、ものまねブームのさなか、ものまねタレントの第一人者であるコロッケによる美川のマネがうけ、1989年正月に放送された『オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!』でコロッケと初共演。男性タレントとしては曲の途中でサプライズで登場する「ご本人登場」の第1号であった。
この時の出演が大反響を呼び、人気が復活する契機となった。
1990年にちあきなおみと共演した金鳥のCMが話題となり、その後の美川ブームへと続いた。
1991年の『第42回NHK紅白歌合戦』にも、17年ぶりの再出場を果たし、コロッケとのデュエットで「さそり座の女 」を披露。
当時は『奇跡のカムバック』と話題になった。
更にこの年の第28回ゴールデン・アロー賞で特別賞を受賞し、「てんで話にならないわ」を歌唱した。
1990年、メルパルクホールにてデビュー25周年記念リサイタルが開催された。
1990年に新潟の万代橋の袂に「新潟ブルース」、1991年には柳ケ瀬商店街に「柳ケ瀬ブルース」、1993年には釧路市に「釧路の夜」の歌碑がそれぞれ建立された。
再ブレイク以降は「オネエキャラ」あるいは「セレブキャラ」として活躍。
ちあきなおみと共演した金鳥のCMでの「もっと端っこ歩きなさいよ」や、美川がバラエティ番組でたびたび発する「おだまり」が流行語になる。
またNHK紅白歌合戦には、復帰出演の1991年から2009年まで19年連続出場(通算では26回出場)し、小林幸子との派手な衣装対決で毎年話題を集めていた。
1994年にNHKホールにてデビュー30周年記念リサイタル、1999年にNHKホールにてデビュー35周年記念リサイタルが開催された。
2004年にはデビュー40周年記念として「納沙布みれん」を発表。同曲はオリコン演歌チャートで6週連続トップ10入り、発売1か月で公称5万枚を売り上げ、当時の演歌としてはヒットとなった。
2006年11月に長崎市の観光名誉大使に選出され、シングル『長崎みれん』を発売。
2012年8月10日には25年間所属した芸能事務所エービープロモーションを社員6人とともに独立して、新事務所を設立することになった。
同年9月6日、新曲「金の月」の発売日に会見を開き、エービープロモーションの社長と和解したことを報告するとともに、個人事務所「ABプロ」を同年10月からスタートさせることを明らかにした。
2013年、第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞。
2014年には歌手生活50周年を迎えた。
2015年には同じクラウン所属のJ−POP三人グループ「クリフエッジ」が7月に発売したアルバム『Oh! ENKA』に収録されている「さそり座の女 feat.美川憲一」にてコラボ。美川が原曲の歌詞を歌いクリフエッジがラップを披露する異色の作品となった。
2016年4月18日、東京・秋葉原の仮面女子常設劇場P.A.R.M.Sにて行われた地下アイドル仮面女子のライブに参戦。新ユニット『ミカワ仮面』として「さそり座の女 feat.仮面女子」でコラボしハイタッチ会にも参加。
2017年1月22日、美川は自身初のロサンゼルスでのコンサートをトーレンスのアームストロング劇場で開催、成功させた。
2018年5月13日、ブラジルサンパウロの文協大講堂にてWILL株式会社が主催する「第2回チャリティーコンサート」にメインゲストとして出演。帰国する14日までに日系福祉施設にて慰問。
2019年6月1日、「だけどだけどだけど」でデビューしてから歌手生活55周年を迎える。同月4日には中野サンプラザで「歌手生活55周年記念コンサート〜歌いつづけて〜」を開催。主要都市7ケ所でも開催する。
2020年5月20日には期間限定で公式YouTubeチャンネル「オフィスミカワ」を開設。2018年と2019年に開催されたドラマチックシャンソンコンサートの映像などを公開している。
現在もコロッケとのジョイントコンサートや新曲のキャンペーンライブなどで各地を飛び回るなど精力的に活動中。