和田アキ子の「大切な」言葉たち
大阪でやんちゃしてた私が上京して、芸能界の縦社会のなかでいっぱいいじめに遭って、『(体が)大きいからそばに寄るな』とか言われながらね。地元の仲間に、『アッコ、頑張れよ』『世界に飛び立てよ!』と背中を押されて出てきた手前、なにがあっても5年はやってやろうと思ってた。
誰にでもチャンスがあるってことはそれだけ人より努力していかなきゃいけない
当時は“体の大きな女は売れない”というジンクスがあったんです。音楽番組で出演者全員がステージに並ぶとき、男性の先輩歌手に『俺が小さく見えるからとなりにいるな』って足を踏まれることもありました。楽屋が同じ女性歌手からは、『男がいると着替えられないから出て行け』って言われて、トイレでどんだけ泣いたことか
これまで、引退は何度も考えました。芸能界は人気商売で、人の “気” ほど、いい加減なものはない。同じことやっていたら、『違うことやれ』。違うことやると、『前のほうがよかった』と言われる。正解がわからないわけです。だから、自分で軸がブレないようにするしかない。見るも勉強、聴くも勉強、やるも勉強。自分に都合のいい言い方をすれば、お酒を飲んでいろんな人に会って話を聞く。
努力したことを、自分からアピールしてどうする。
デビュー当時はデカいし声も太いし、キワモノ扱いでした(笑)。それがこうやってこの世界に生きていられるのは、なにくそ!という思いがあったことと、何より、誰かに生かされているからなんですよ。自分のことを「ナンボのもんじゃい」って思えば、自然と感謝の気持ちが生まれて1歩引ける。所詮、ナンボのものでもないんですから、和田アキ子は。
自分自身を一歩引いたところから見ればいいんです。自分を客観視出来ないから、人に何も言えないし、関わりたいとも思えない。
それに今は何でも人と比較し過ぎですね。私についていうと、比較しようにも、第二の和田アキ子なんて出てこないでしょ。でも、自分がこうなりいたいと思ってなったわけではなくて、今、ここにいる和田アキ子は周りのみんなが作ってくれたものなんです。それを大事にしたいし謙虚でいたい。
歌手の命と言われているポリープも2回手術して、満身創痍になるぐらいいろんなことがあったんですけど……でも今がいちばん勉強してるし、いちばん摂生もしてるし、今がいちばん真摯に音楽と向き合っていますね。今までこんなに勉強したことなかったんですよ。
女性に好かれない女は、異性にも興味を持たれない。この世界に長く生き残っている人は気配り、気遣いのできている人。相談されていいアドバイスができた時、これが一番意気に感じるね!
「歳を取ってからの不良は手がつけられない」というのを誰かに聞いてから、その言葉が好きでね。今もそうだし、歳を取ってからも手がつけられない、でもやってることには納得させられるおばあちゃんになりたいですね。喧嘩はしても清く正しい、そんな不良でい続けたいんです。シワやシミができても、お尻が垂れても関係ない。
日本だと「大御所」とかって括るんだけど、私、音楽には国境がないように年齢もないと思っているんです。
子宮ガンで子供が産めないってわかったときは、病院で「死にたい」とダンナにこぼしました。でも、ウチのダンナって本当にいいことを言うんですよ。「死にたいくらいの気持ちで生きていけばいいじゃないか」って。
昨日より今日が好き 新しいから
和田アキ子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
和田アキ子。
天王寺区にある大阪市立真田山小学校を卒業後、私立城星学園中学校へ入学。
そのまま私立城星学園高校に進学するも父親が勝手に退学届けを出したため、在学期間はわずか3日間で中途退学となった。
小学5年生の頃に洋楽に憧れ、15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始める。
174cmの長身から発せられるパワフルな歌声は評判を呼び、ホリプロ社長・堀威夫直々にスカウトされる。
当時はグランプリズというバンドを組み、大阪と神戸三宮で活動していたが実際にデビューできたのはボーカルの和田とオルガンの夏のみであった。
デビュー当時のキャッチ・コピーは「和製リズム・アンド・ブルースの女王」。
1968年(昭和43年)10月25日、「星空の孤独」でレコードデビュー。
1969年4月25日(昭和44年)、2枚目のレコード「どしゃぶりの雨の中で」が17万枚のスマッシュヒットを記録し、人気歌手の仲間入り。
1970年(昭和45年)、20歳になり、『女番長・野良猫ロック』(日活)で映画初主演を果たす。
また、「笑って許して」でNHK『第21回NHK紅白歌合戦』に出場し、『NHK紅白歌合戦』初出場を果たす。
以後、1978年(昭和53年)まで連続出場。
1972年(昭和47年)、「あの鐘を鳴らすのはあなた」で第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。
1973年(昭和48年)から日本テレビ『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に出演。
番組内で「ゴッド姉ちゃん」と呼ばれ、せんだみつお、湯原昌幸、ザ・デストロイヤーらとドタバタギャグを繰り広げたことで、デカくて・コワい・強いというイメージが全国的に広まった。
1985年(昭和60年)からTBS『アッコにおまかせ!』の司会を担当。
1986年(昭和61年)、紅白に1978年(昭和53年)以来8年ぶりに出場。以後、2015年まで連続出場。
1987年、1991年、1995年、1998年、1999年、2001年、2008年には紅組トリを務めた。
1987年、1988年、1997年と合計3回紅組司会も担当、1987年の『第38回NHK紅白歌合戦』では「抱擁」で紅組トリを務めており、組司会とトリの兼任となった。
なお、1970年代より幾度も紅組司会の候補に挙がっていた。
1987年度(昭和62年度)の日本女性放送者懇談会賞を受賞。
1998年(平成10年)、『第49回NHK紅白歌合戦』で「今あなたにうたいたい」を歌い、自身初の紅白の大トリを務める。
2005年(平成17年)7月13日付のオリコンチャートでm-floとのコラボレーション作品「Hey!」が初登場9位を記録し、自身33年ぶりとなるTOP10入りを果たす。同年、自身初となる白組での紅白出場。
2008年9月にはデビュー40周年記念として、ニューヨークのアポロ・シアターで、日本人・東洋人のソロ歌手としては初となる単独公演「40th Anniversary Concert “Power&Soul”」を行った。
2012年(平成24年)、『第63回NHK紅白歌合戦』に出場し、女性歌手として島倉千代子を抜いて単独で歴代最多出場歌手(36回)となる。
その後も2015年(平成27年)『第66回NHK紅白歌合戦』まで30年連続出場(通算39回)を果たした。