「キリンホールディングス株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『磯野長蔵』/沿革・歴史など~

「キリンホールディングス株式会社」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『磯野長蔵』/沿革・歴史など~

 

「キリンホールディングス株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)

 

 

 

 

「キリンホールディングス株式会社」のグループ経営理念

 

 

キリングループは、自然と人を見つめるものづくりで、「食と健康」の新たなよろこびを広げ、こころ豊かな社会の実現に貢献します。

 

 

 

 

 

「キリンホールディングス株式会社」のコーポレートスローガン

 

 

よろこびがつなく世界へ

 

 

これは、キリングループが未来へ向かうための合い言葉です。

どんなに世界が変わったとしても、心も身体もすこやかに生き生きと暮らすよろこびが、一人ひとりにとって、身近な人達にとって、社会にとって、あらゆる幸せへとつながっていくと私たちは信じています。

よろこびは、人や社会をつなぐ根源的な力。人を励まし、良い連鎖を生みます。

創業以来、企業活動を通して新たな価値を生み、日々の暮らしを豊かにするために歩んできたキリンはこれからも、「食と健康の新たなよろこび」を広げ、人と社会の絆を深めていきます。

すこやかに生きるよろこびを。

地域と共に生きるよろこびを。

自然環境と共に生きるよろこびを。

大切な時を分かちあって生きるよろこびを。

人と人がつながって生きるよろこびを。

たくさんのよろこびの連鎖をキリンから広げていくよう、挑戦をつづけることを約束します。

 

 

 

 

「キリンホールディングス株式会社」のミッション

 

 

キリングループは、自然と人を見つめるものづくりで、「食と健康」の新たなよろこびを広げ、こころ豊かな社会の実現に貢献します

 

お客様の求めるものを見すえ、自然のもつ力を最大限に引き出し、それらを確かなかたちとして生み出していくモノづくりの技術。

私たちは、こうした技術によって、お客様の期待にお応えする高い品質を追求してきました。

これからも、「夢」と「志」をもって新しいよろこびにつながる「食と健康」のスタイルを一歩進んで提案し、世界の人々の健康・楽しさ・快適さに貢献していきます。

 

 

 

 

 

「キリンホールディングス株式会社」のバリュー

 

 

熱意・誠意・多様性〈Passion. Integrity. Diversity.〉

 

 

熱意

自由な発想で、進んで新しい価値をお客様・社会に提案することへの我々の熱い意志。会社やブランドに誇りを持ち、目標をやりきる熱い気持ち

 

誠意

ステークホルダーの皆さまのおかげでキリングループは存在しているということへの感謝の気持ち、謙虚な気持ちで確かな価値を提供し、ステークホルダーに貢献するという誠実さ

 

多様性

個々の価値観や視点の違いを認め合い、尊重する気持ち。社内外を問わない建設的な議論により、「違い」が世界を変える力、より良い方法を生み出す力に変わるという信念

 

 

 

 

 

 

「キリンホールディングス株式会社」の創業者・創立者『磯野長蔵』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

磯野長蔵(キリン創業者)

 

 

磯野長蔵。

鳥取県倉吉市河原町の呉服屋、三島久平・なをの次男として生まれる。

 

勉強がよくでき、1883年9歳のときに倉吉の戸長を務めた松本家を継ぐため松本仁平の養子となる。

鳥取県尋常中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)授業料免除優待生を経て、上京、高等商業学校予備門(現日本大学第三中学校・高等学校)で1年間の浪人生活を送り、その後高等商業学校(現一橋大学)入学。

 

1897年に7番の成績で卒業。

学資は実父の三島が出した。

 

1898年に卒業後、明治屋創業者の磯野計と米井源次郎が創立した貿易商社磯野商会入社。

1902年磯野の長女・菊と結婚。

 

松本家の養嫡子だったため、長蔵の妹が松本家を継ぎ、長蔵は隠居したうえで磯野家に婿入りするという手順を踏んだ。

磯野商会は辞め、1903年明治屋副社長に就任。

 

翌年、ビジネスの勉強ためイギリスに留学し、1906年に帰国。

1907年麒麟麦酒設立にともない、米井らとともに設立発起人の一人となる。

 

1916年に軽井沢三笠ホテルを買収した明治屋は鎌倉海浜ホテルの経営も始め、長蔵が取締役社長に就任し、同年ビール市場視察のため外遊。

1919年、米井の死去にともない、明治屋三代目社長に就任。

 

明治屋社長を務めながら、1920年に麒麟麦酒取締役、1927年に専務となり、翌年ビール業界視察のため外遊。

1942年に同社社長、1951年に同会長に就任し、1962年まで務め、麒麟麦酒をビール業界トップとした。

 

1958年には明治屋の会長に就任。

明治屋及び麒麟麦酒の経営で財を成し、1954年に故郷倉吉の苦学生を支援する三松奨学育英会を設立、1962年には母校一橋大学に磯野研究館を寄贈。

 

1964年に勲三等瑞宝章を受章し、1967年に没した。

1978年初代倉吉市名誉市民。

 

 

 

 

【参考】磯野計(明治屋創業者)

 

 

安政5年8月(1858年9月)、美作国津山(現在の岡山県津山市)で、父の津山藩士・磯野湊と母・常の次男として生まれる。

磯野家と母の実家の太田家は、ともに藩内で最上格の御譜代(明治維新時は35家)に含まれていた。

 

幼少期は四書五経を学び、明治元年(1868年)に10歳で神戸に出て、箕作麟祥の塾で英学を学んだ。

翌明治2年(1869年)3月に麟祥が上京したため、計は津山に戻っている。

 

津山で数ヶ月間過ごした後、藩の留学生として上京すると箕作秋坪の三汊学舎に入塾して英語を学び、秋坪の助手的な役割を務めるようになった。

なお、久原躬弦や宇田川榕之助ら5名も同時に藩から留学している。

 

さらに神保町にあった箕作麟祥の塾にも通い、久原・宇田川らと共に法律学を学んだ。

同年10月には津山藩で政変が起き、父の湊は藩政改革を密かに企んだとして家名断絶を宣告されている。

 

計はこれに悩み、2回ほど両国橋で自殺を考えた。

英語の能力などを高く評価された事から、明治3年8月(1870年9月)に貢進生に選ばれて大学南校に入学した。

 

1879年(明治12年)に東京大学法学部を卒業し、増島らと共に東京攻法館で代言人(現在の弁護士)事業を始めた。

事業への理解と支援を求めて1879年に共存同衆に入会し、ここで会員の豊川良平と面識を得た。

 

豊川からは高い評価を受け、増島らと共に郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)の給費留学生に選ばれて1880年(明治13年)からイギリスに留学した。

計は回船仲立業者のノリス&ジョイナー商会で実務に就き、複式簿記などの知識を身につけている。

 

1884年(明治17年)に留学を終えて三菱の新造した横浜丸の事務長となり、同船に乗って帰国した。

帰国後は代言人を辞めて郵便汽船三菱会社に入り、神戸港で荷受所の現場監督に就いている。

 

神戸港で勤務していた頃、同社の船舶の食料品・雑貨類はイギリスやデンマークの商社が独占的に納入していた。これを見て計は船舶納入業を始めることを決意し、1885年(明治18年)9月に日本郵船が設立されると同社への雑貨納入権を獲得し、10月に三菱を退職して横浜で明治屋を創業した。

 

明治屋は、船舶納入業の他に食料品の卸売・小売、酒や煙草の輸入業務も行なった。

明治屋は外国の一般船やアメリカ、イギリスの軍艦などとも取引を行なうようになり、業務を拡大していった。

 

この頃、ジャパン・ブルワリー(現・麒麟麦酒)が日本全国でのビール販売開始を検討しており、日本郵船で面識のあったブルワリー社書記のタルボットに計は代理店契約の締結を申し込んでいる。

結果、トーマス・ブレーク・グラバーの推薦もあって1888年(明治21年)5月7日に国内総代理店として契約を締結した。

 

ビール販売に際しては、販売網の整備とともに広告・宣伝業務に力を入れた。

計は様々なアイディアを出し、大阪では音楽隊、横浜ではキリンビールのマークを大書した幌馬車を用い、後者は横浜名物ともされた。

 

1894年(明治24年)には造船用資材などの輸入販売を目的とした明治屋輸出入店を設立し、グラスゴーにも拠点を置いた。

1897年(明治27年)にはこれを磯野商会と改称している。

 

1895年(明治25年)には日本製糖(現・大日本明治製糖)の設立に携わるなど精力的に活動した。

1897年(明治30年)12月14日)、ハイキン症(肺炎)のため39歳で逝去。

 

またいとこの米井源次郎が娘・菊子の後見人および明治屋の2代目社長に就いている。

 

 

 

 

 

「キリンホールディングス株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

前史:ジャパン・ブルワリー・カンパニー

 

 

ジャパン・ブルワリー・カンパニーは、1885(明治18)年7月、スプリングバレー・ブルワリーの跡地に資本金5万香港ドルで設立されました。

その中心となったのは、タルボット(W. H. Talbot)やアボット(E. Abbott)といった、ビール事業が将来有望であると見込んだ横浜山手の在留外国人たちでした。

 

さらに、後にジャパン・ブルワリーの重役になる貿易商人トーマス・ブレーク・グラバー(T. B. Glover)の尽力で、岩崎彌之助(三菱社社長)をはじめ日本人9人が株主として参加しました。

ジャパン・ブルワリーは、最新の醸造機械と蒸気設備を備えることと、醸造技師には熟練したドイツ人技師を招聘することを徹底して、本格的なドイツ風ビール醸造を志しました。

 

第1回目の仕込みが行われたのは1888(明治21)年2月23日でした。

また外国法人であるジャパン・ブルワリーは国内の販売には日本人経営の代理店が必要だったので、明治屋の創業者磯野計と国内一手販売契約を結びました。

 

そして三菱の荘田平五郎の発案で東洋の霊獣“麒麟”をラベルに採用して、1888(明治21)年5月に「キリンビール」を発売しました。

なおラベルのデザインは翌年6月にグラバーの提案で変更され、現在のデザインの原型となりました。

 

ビール業界では1880年代後半から中小規模の醸造所だけでなく、札幌麦酒会社(前身は官営開拓使麦酒醸造所)、丸三麦酒醸造所、日本麦酒醸造会社、大阪麦酒会社など資本力を有する会社も相次いで設立されました。

さらに日清戦争後の好景気にビールの需要が高まると、各社は生産量を増やすとともに販売活動にも力を注いでいきました。

 

ジャパン・ブルワリーの国内総代理店である明治屋も、斬新な広告手法を取り入れて「キリンビール」の拡販に努めたのでした。

1900年代に入ると、ビール業界の様相は大きく変化していきました。

 

まず1901(明治34)年に麦酒税法が施行されると、中小の醸造業者の多くはその負担に耐え切れず、次々と市場から姿を消していきました。

さらに1903(明治36)年の札幌麦酒会社の関東市場進出に端を発し、大手各社は互いの主力市場に進出し合う激しい競争を繰り広げるようになりました。

 

そうした中、競争を回避するため、札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同による大日本麦酒株式会社が設立されました。

市場シェア70%をこえる大会社の誕生でした。

 

このときジャパン・ブルワリーは大日本麦酒から合同の提案を受けました。

そこで当時チェアマン兼専務取締役であったフランク・スコット・ジェームズは、明治屋社長の米井源治郎に相談しました。

 

その結果、米井はジャパン・ブルワリーを操業状態のまま引き継いで新会社を設立することを決意しました。

米井は、三菱合資社長の岩崎久彌に支援を懇請して、三菱から人材と資金援助を得るなど準備を進めていきました。

 

そして1907(明治40)年2月23日、岩崎家、三菱合資、明治屋関係者らによって麒麟麦酒株式会社が創立されたのです。

新会社は、ジャパン・ブルワリー同様、ドイツ人醸造技師によるドイツ産原料を用いたビール醸造を行うことにしました。

 

また、輸出を含めた一手販売契約を引き続き明治屋と締結しました。

「キリンビール」は本格的なドイツ風ビールとして市場から高い評価を受けたのでした。

 

 

 

設立後の沿革

 

 

1885年7月 麒麟麦酒株式会社の前身、ジャパン・ブルワリー・カンパニー設立
ジャパン・ブルワリーの最初の重役会を前に配布された仮設立趣意書と議事録

 

1888年5月 ジャパン・ブルワリー・カンパニー、ドイツ風ラガービールを「キリンビール」の商品名で発売

 

1907年2月 麒麟麦酒株式会社創立

 

1928年3月 炭酸飲料「キリンレモン」発売

 

1941年8月 原酉自動車運輸株式会社(現・キリングループロジスティクス株式会社)設立

 

1941年10月 有限会社麟鳳商会(現・キリンエコー株式会社)設立

 

1963年4月 自動販売機で清涼飲料を販売する会社・自動販売サービス株式会社(現・キリンビバレッジ株式会社)設立

 

1971年12月 北海道キリンレモン・サービス株式会社(現・北海道キリンビバレッジ株式会社)設立

 

1972年8月 キリン・シーグラム株式会社(現・キリンディスティラリー株式会社)設立

 

1974年2月 キリン・シーグラムが初の国産ウイスキー「ロバートブラウン」を発売

 

1975年4月 東山農産加工株式会社(現・東麒麟 飲料食品製造販売有限会社)に資本参加

 

1976年6月 小岩井乳業株式会社設立

 

1977年5月 KW Inc.(現・コカ・コーラボトリングカンパニーオブノーザンニューイングランド社)設立

 

1978年 ジャパンカップサッカー(後のキリンカップ)のスポンサーを開始

 

1983年5月 株式会社キリンシティ(現・キリンシティ株式会社)設立

 

1983年8月 ハイネケン ジャパン株式会社(現・ハイネケン・キリン株式会社)設立

 

1986年9月 「ハートランドビール」発売

 

1986年10月 「キリン 午後の紅茶」発売

 

1986年11月 株式会社横浜アリーナ設立

 

1988年2月 キリンアンドコミュニーションズ株式会社設立

 

1988年3月 キリンエンジニアリング株式会社設立

 

1988年5月 台湾麒麟工程股份有限公司(現・台湾麒麟啤酒股份有限公司)設立

 

1988年5月 株式会社キリンビジネスシステム(現・キリンビジネスシステム株式会社)設立

 

1990年1月 株式会社キリンテクノシステム(現・キリンテクノシステム株式会社)設立

 

1990年4月 腎性貧血治療剤「エスポー®」(EPO製剤)発売

 

1991年1月 キリンレモン株式会社がキリンビール株式会社清涼飲料事業部門の営業譲渡を受け、キリンビバレッジ株式会社に商号変更

 

1991年1月 台湾麒麟企画(現・台灣協和醱酵麒麟股份有限公司)設立

 

1991年5月 第一・キリン薬品株式会社(現・韓国協和発酵キリン株式会社)設立

 

1991年10月 キリンヨーロッパ社(ドイツ)設立

 

1991年12月 好中球減少症治療剤「グラン®」(G-CSF製剤)発売

 

1993年8月 麒麟(中国)医薬有限公司(現・協和醱酵麒麟(香港)有限公司)設立

 

1996年7月 アンハイザーブッシュ社と合弁でキリンブルワリーオブアメリカ社設立

 

1996年12月 珠海麒麟統一啤酒有限公司(現・麒麟啤酒(珠海)有限公司)設立

 

1997年5月 完全ヒト抗体産生マウス開発

 

1997年6月 麒麟鯤鵬(中国)生物薬業有限公司(現・協和発酵麒麟(中国)製薬有限公司)設立

 

1998年4月 ライオンネイサン社(ニュージーランド)に資本参加

 

1999年8月 キリンビバレッジが「キリン ファイア」を発売

 

2000年3月 キリンビバレッジが「キリン 生茶」を発売

 

2001年7月 キリンビールが「キリンチューハイ 氷結」を発売

 

2002年2月 フォアローゼズディスティラリー社(アメリカ)設立

 

2002年3月 サンミゲル社(フィリピン)に資本参加

 

2002年4月 株式会社永昌源を連結子会社とする

 

2004年12月 麒麟(中国)投資有限公司を上海に設立

 

2005年3月 キリン医薬シンガポール社(現・Kyowa Kirin Asia Pacific Pte. Ltd.)設立

 

2005年5月 キリンブランド初の国産ウイスキー「キリンウイスキー 富士山麓」を発売

 

2006年10月 キリンビバレッジ株式会社を完全子会社化

 

2006年12月 杭州千島湖啤酒有限公司(中国)に資本参加

 

2006年12月 メルシャン株式会社を連結子会社とする

 

2007年7月 純粋持株会社制導入に伴いキリンホールディングス株式会社に商号変更

 

2007年7月 キリンビール株式会社(酒類製造・販売会社)発足

 

2007年7月 キリンファーマ株式会社発足

 

2007年7月 キリンビジネスエキスパート株式会社発足

 

2007年7月 キリンファーマが持続型赤血球造血刺激因子製剤「ネスプ®」を発売

 

2007年12月 協和発酵工業株式会社に資本参加

 

2007年12月 ナショナルフーズ社を完全子会社化

 

2008年5月 エースコック株式会社と合弁でキリン・エースコック飲料有限責任会社(現・ベトナムキリンビバレッジ有限責任会社)設立

 

2008年10月 協和発酵工業株式会社とキリンファーマ株式会社が合併し、協和発酵キリン株式会社(現・協和キリン株式会社)発足

 

2009年4月 キリンビールがノンアルコール・ビールテイスト飲料「キリンフリー」を発売

 

2009年4月 サンミゲルビール社に資本参加

 

2009年10月 ライオンネイサン ナショナルフーズ社(現・ライオン社)がライオンネイサン社を完全子会社化し、オセアニア事業(ライオンネイサン社およびナショナルフーズ社)を統括

 

2010年10月 キリンホールディングス・シンガポール(シンガポール)設立

 

2010年12月 メルシャンを完全子会社化

 

2011年1月 キリンビジネスエキスパート株式会社を分割再編し、キリンビジネスエキスパート株式会社、キリングループオフィス株式会社(現・キリン株式会社)発足

 

2011年3月 インターフード社(ベトナム)を連結子会社化

 

2011年5月 ライオンネイサン ナショナルフーズ社、ライオン社に商号変更

 

2011年5月 キリン・エースコック飲料有限責任会社、ベトナムキリンビバレッジ有限責任会に商号変更

 

2011年8月 華潤創業有限公司と合弁で華潤麒麟飲料(大中華)有限公司設立

 

2011年10月 スキンカリオール・グループ(現・ブラジルキリン社)を連結子会社化

 

2011年11月 スキンカリオール・グループ(現・ブラジルキリン社)を完全子会社化

 

2012年4月 キリンビバレッジが「キリン メッツコーラ」を発売

 

2012年11月 スキンカリオール、ブラジルキリンに社名変更

 

2013年1月 国内綜合飲料の新会社、キリン株式会社発足

 

2014年4月 キリン物流が日本綜合飲料事業の物流機能を集約し、キリングループロジスティクス株式会社に社名変更

 

2014年9月 ヤッホーブルーイング社とキリンビール社の業務提携契約および資本提携契約締結

 

2015年1月 キリンビールがクラフトビール事業を展開するスプリングバレーブルワリー株式会社を設立

 

2015年7月 キリンビバレッジバリューベンダー株式会社設立

 

2015年8月 ミャンマー・ブルワリーに資本参加

 

2016年2月 コーポレートガバナンス・ポリシーを制定

 

2016年7月 東山農産加工社が、東麒麟 飲料食品製造販売有限会社に社名を変更

 

2016年10月 キリンホールディングスおよびキリンビールがブルックリン・ブルワリーと資本業務提携

 

2017年2月 「キリングループCSVコミットメント」策定

 

2017年9月 キリンの独自素材“プラズマ乳酸菌”を配合した新ブランド「iMUSE」開始

 

2018年4月 協和発酵キリン(現・協和キリン)が「Crysvita」を欧米で上市

 

2018年7月 三井物産とThrone Research社に共同出資

 

2018年9月 メルシャンが「シャトー・メルシャン 桔梗ヶ原ワイナリー」をオープン

 

2019年2月 長期非財務目標「キリングループCSVパーパス」を策定

 

2019年4月 協和発酵バイオの株式を95%取得

 

2019年7月 協和発酵キリン、協和キリンに社名変更

 

2019年9月 ファンケルと資本業務提携

 

2019年9月 メルシャンが「シャトー・メルシャン 椀子ワイナリー」をオープン

 

2019年10月 The Coca-Cola Bottling Company of Northern New England, Inc.がCoca-Cola Beverages Northeast, Inc.に社名変更

 

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