「パナソニック株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「パナソニック株式会社」の綱領
産業人たるの本分に徹し社会生活の改善と向上を図り世界文化の進展に寄与せんことを期す
「パナソニック株式会社」の信条
向上発展は各員の和親協力を得るに非ざれば得難し各員至誠を旨とし一致団結社務に服すること
「パナソニック株式会社」の遵奉すべき精神
産業報国の精神、公明正大の精神、和親一致の精神、力闘向上の精神、礼節謙譲の精神、順応同化の精神、感謝報恩の精神
「パナソニック株式会社」のブランドスローガン
A Better Life, A Better World
私たちパナソニックは、より良いくらしを創造し、世界中の人々のしあわせと、社会の発展、そして地球の未来に貢献しつづけることをお約束します。
「パナソニック株式会社」の創業者・創立者『松下幸之助』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
松下幸之助(松下電器・Panasonic創業者)
松下幸之助。
1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。
家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。
1899年頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。
しかし父には商才がなく店を畳んだ。
幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。
後、奉公先を五代自転車に移した。
大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。
当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。
1913年に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学。
1917年、大阪電灯を依願退職した。
大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。
しかし、新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。
その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。
事業拡大に伴い、1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業。
電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925年から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。
また、事業拡大のため土地が広い門真市に本社・工場を移転した。
1935年には松下電器産業株式会社として法人化した。
第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力する。
1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。
次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作。
試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から惨憺たる失敗に終わった。
戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。
一方で1946年11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。
内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する。
続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮、人員大量整理、賃金抑制を断行し、危機を乗り切った。
1948年、趣味の株式投資の影響でナショナル証券を設立したが、この分野で大成するには至らなかった。
1951年、テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年に蘭フィリップスと技術導入提携。
1954年には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した。
1957年には自ら巡回しての自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させた。
ナショナルショップを(ピーク時に約2万7千店を誇る)国内最大の系列電器店ネットワークへと成長させる。
1960年に初の和歌山市名誉市民に選定される。
1964年には門真市で初の名誉市民に推挙される。
また、家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内功と30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発した。
1965年の第16回NHK紅白歌合戦に審査員として出場した。
1970年にはナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立する。
同年、日本万国博覧会(大阪万博)に松下電器館を出展する。
1971年、慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館が竣工された。
1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。
1974年には奈良県明日香村の名誉村民となる。
1974年から1983年まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務め、後に松下正幸も第8代会長を務めた。
1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献。
1989年4月27日午前10時6分に気管支肺炎のため、松下記念病院(守口市)において死去した。享年94。
松下幸之助(松下電器・Panasonic創業者)の名言・考え方
売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永久の客を作る。
「天は二物を与えず」と言うが、逆に「なるほど、天は二物を与えないが、しかし一物は与えてくれる」ということが言えると思う。その与えられた一つのものを、大事にして育て上げることである。
青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて、日に新たな活動を続けるかぎり、青春は永遠にその人のものである。
百人までは命令で動くかもしれないが、千人になれば頼みます、一万人にもなれば、拝まなければ人は動かない。
誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。
人生には損得を超越した一面、自分がこれと決めたものには命を賭けてでも、それに邁進するという一面があってもよいのではないだろうか。
「それは私の責任です」ということが言い切れてこそ、責任者たりうる。
ぼくが奉公している時分に一人前になるためには、小便が赤くなるくらいにならないとあかんのやそういうことを二、三べん経てこないことには、一人前の商売人になれんぞということを、親方から聞いた。どういうことかというと、商売で、心配で心配でたまらん、もう明日にでも自殺しようかという所まで追い込まれたら、小便が赤くなるという。そういうようなことをしてきて初めて一人前の商売人になる。だから尋ねるんやが、あなた、儲からん儲からん言うけど、小便赤くなったことあるか?
無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。
自分の仕事は、人の助けなくして、一日も進み得ないのである。
商売であがった利益は、法律上は個人のものであるけれど、しかし実質的には社会の共有財産である。したがってその一部は自分の良識で使うことが許されるけれども、大部分は社会から預かった金である。財産があることは、それでさらに事業をしなければならん。
十のサービスを受けたら十一を返す。その余分の一のプラスがなければ、社会は繁栄していかない。
素直な心とは、何物にもとらわれることなく物事の真実を見る心。だから素直な心になれば、物事の実相に従って、何が正しいか、何をなすべきかということを、正しく把握できるようになる。つまり素直な心は、人を強く正しく聡明にしてくれるのである。
礼儀作法は人間関係を滑らかにする。社会生活の潤滑油である。
企業は存在することが社会にとって有益なのかどうかを世間大衆から問われていますが、それに答えるものが経営理念です。つまり、経営者は他から問われると問われざるとにかかわらず、この会社は何のために存在しているのかそしてこの会社をどういう方向に進め、どのような姿にしていくのかという企業のあり方について、みずからに問い、みずから答えるものを持たなくてはならない。言い換えれば、確固たる経営理念を持たなくてはならないということです。
商売とは、感動を与えることである。
産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価値有る物であるが、乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事。それによって、人生に幸福を齎し、この世に極楽浄土を建設出来るのである。松下電器の真使命も亦その点にある。
失敗すればやり直せばいい。やり直してダメなら、もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい。
この電球はどこで光っているか知っているか?子供たちが絵本を読んでいる。すると、外が暗くなる。家の中はもっと暗くなる。そうなれば、どんな物語も途中で閉じなあかん。でもな、あんたがみがいている電球一個あるだけで、子供たちのドラマは続行や。あんたは電球をみがいているんやないで。子供たちの夢をみがいてるんや。子供たちの笑い声が聞こえてこんか?物作りはな、物を作ってはあかん。物の先にある笑顔を想像できんかったら、物を作ったらあかんのやで。子供たちの夢のために、日本中、世界中にこの電球を灯そうや。
楽観よし悲観よし。悲観の中にも道があり、楽観の中にも道がある。
私には3つの財産がある。それは学校へ行かなかったこと。健康に優れなかったこと。そして、決断に弱かったことだ。だから、人が教えてくれたり、助けてくれたりして成功した。
逆境もよし、順境もよし。要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである。
対立大いに結構。正反対大いに結構。これも一つの自然の理ではないか。対立あればこその深みである。妙味である。だから、排することに心を労するよりも、これをいかに受け入れ、これといかに調和するかに、心を労したい。
松下電器は人を作る会社です。あわせて電気製品を作っています。
感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく。
こけたら、立ちなはれ。
「パナソニック株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)
大正7年3月 松下幸之助により大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を設立創業、配線器具の製造を開始
大正11年 大阪市北区西野田大開町(現・大阪市福島区大開二丁目)に新工場(第一次本店・工場)を建設して移転
大正12年3月 砲弾型電池式ランプを考案発売
昭和2年4月 「ナショナル」の商標を制定
昭和6年 ラジオの生産を開始
昭和7年 ラジオの重要部の特許を買収し、同業メーカーに無償で公開。戦前のエレクトロニクス業界の発展に寄与
昭和8年5月 門真に本店を移転、事業部制を採用
昭和10年8月 松下電器貿易(株)を設立
昭和10年12月 改組し、松下電器産業株式会社となる(昭和10年12月15日設立、資本金1,000万円)
昭和13年 分社化が加速。同年6月ナショナル蓄電池、10月に松下電動器を設立、1944年までに合計32社が設立された。この年、分社の松下電器が直接兵器類の部品受注を受けるなど、軍需品中心の生産体制に移行開始。9月、満州松下電器設立
昭和18年 分社の松下電器が松下航空工業に改組、軍需産業に本格参入。軍部命令による2分社、松下造船と松下飛行機を設立
昭和20年 日本敗戦により、在外資産(敗戦前に失っていた満州松下電器、朝鮮松下電器の諸工場と営業所、台湾松下電器、ジャワの電池工場、マニラの真空管工場を含め、上海の松下電業本社及び工場など計20ヶ所の海外事業所)のほとんどすべてを失う
昭和21年 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により制限会社の指定を受けた。しかし、軍需産業とみなされたことと大資本のため統廃合の制限がされた松下電工(当時 松下航空工業)以外の分社を再統合(合併)して事業部制に戻し、洗濯機などの製造を開始
昭和22年 制限会社の指定を受けたことに伴い、専務取締役の井植歳男が公職追放。井植は兵庫県加西市(旧・加西郡北条町)の松下航空工業北条工場と自転車用発電ランプの製造権、職員の一部を引き継ぎ、三洋電機として独立
昭和24年5月 東京証券取引所及び大阪証券取引所に株式を上場
昭和26年9月 名古屋証券取引所に株式を上場
昭和27年1月 中川機械(株)(その後松下冷機(株)に社名変更)と資本提携。また、新日本放送(現在の毎日放送)のラジオ番組『歌のない歌謡曲』を番組提供開始
昭和27年12月 オランダのフィリップス社との技術提携により、松下電子工業(株)を設立し、管球製造所の4工場を当社から分離
昭和28年5月 中央研究所を設立
昭和29年2月 日本ビクター(株)と資本提携
昭和30年12月 九州松下電器(株)(その後パナソニック コミュニケーションズ(株)に社名変更)を設立
昭和31年5月 大阪電気精器(株)(その後松下精工(株)に社名変更)を設立
昭和32年 全国の“街の電器屋さん”が加盟する日本で最初の系列店ネットワーク「ナショナル店会(後のナショナルショップ制度)」が発足
昭和33年1月 子会社松下通信工業(株)(その後パナソニック モバイルコミュニケーションズ(株)に社名変更)を設立し、通信機器製造部門を当社から分離
昭和34年9月 アメリカ松下電器(株)(現在のパナソニック ノースアメリカ(株))を設立(以後海外各地に製造販売の拠点を設ける)
昭和36年1月 取締役社長に松下正治が就任
昭和37年8月 東方電機(株)(その後松下電送システム(株)に社名変更)と資本提携
昭和39年 ダイエー・松下戦争始まる。松下電器はダイエーに対しての商品出荷を全面的に停止
昭和44年11月 松下寿電子工業(株)(その後パナソニック ヘルスケア(株)に社名変更)を設立。東京電気化学工業(現・TDK)と提携
昭和45年 世界初のダイレクトドライブ式ターンテーブルSP-10を発売。日本万国博覧会に松下館を出展。当時の文化の資料を収め5000年後の開封を目指したタイムカプセルを展示
昭和46年12月 ニューヨーク証券取引所に株式を上場
昭和50年12月 米貨建転換社債額面総額1億ドルを発行
昭和51年1月 子会社松下電子部品(株)(その後パナソニック エレクトロニックデバイス(株)に社名変更)を設立し、電子部品製造部門を当社から分離
昭和52年1月 子会社松下住設機器(株)及び松下産業機器(株)を設立し、住宅設備機器製造部門及び産業機器製造部門を当社から分離
昭和52年2月 取締役社長に山下俊彦が就任
昭和54年1月 子会社松下電池工業(株)を設立し、電池製造部門を当社から分離
昭和60年7月 米国に金融子会社を設立(昭和61年5月には欧州にも2社設立)
昭和60年10月 半導体基礎研究所を設立
昭和61年2月 取締役社長に谷井昭雄が就任
昭和62年3月 決算期を11月20日から3月31日に変更
昭和63年4月 松下電器貿易(株)を合併
平成元年4月 創業者 松下幸之助 逝去
平成2年12月 米国の大手エンターテインメント企業MCA社を買収
平成5年2月 取締役社長に森下洋一が就任
平成5年5月 オランダのフィリップス社と松下電子工業(株)に関する合弁契約を解消し、フィリップス社保有の松下電子工業(株)株式の全数を買取
平成7年4月 松下住設機器(株)を合併
平成7年6月 米国子会社が保有するMCA社に対する持分の80%をカナダのシーグラム社へ譲渡
平成11年2月 第91回定時株主総会の決議に基づいて、50百万株(988億円)の利益による自己株式の消却を実施
平成12年4月 松下冷機(株)を株式交換により完全子会社化
平成12年6月 取締役社長に中村邦夫が就任
平成13年4月 松下電子工業(株)を合併
平成14年4月 (株)東芝と液晶事業の合弁会社東芝松下ディスプレイテクノロジー(株)を設立
平成14年10月 松下通信工業(株)、九州松下電器(株)、松下精工(株)(現在のパナソニック エコシステムズ(株))、松下寿電子工業(株)及び松下電送システム(株)を、株式交換により完全子会社化
平成15年1月 事業再編により、事業ドメイン別経営管理に移行。九州松下電器(株)が松下電送システム(株)を合併
平成15年4月 (株)東芝とブラウン管事業の合弁会社松下東芝映像ディスプレイ(株)(現在のMT映像ディスプレイ(株))を設立。松下電子部品(株)、松下電池工業(株)を、株式交換により完全子会社化。
グローバルブランドを「Panasonic」に統一
平成16年4月 松下電工(株)(その後パナソニック電工(株)に社名変更)株式の追加取得により、同社、パナホーム(株)及び傘下の子会社を連結子会社化
平成17年4月 松下産業情報機器(株)を合併
平成18年2月 米国子会社が保有するユニバーサルスタジオ関連会社(旧MCA社)株式の全てをビベンディーユニバーサル社に譲渡
平成18年6月 取締役社長に大坪文雄が就任
平成19年3月 松下東芝映像ディスプレイ(株)を完全子会社化
平成19年8月 日本ビクター(株)の第三者割当増資実施により、日本ビクター(株)及び傘下の子会社を連結子会社から持分法適用関連会社に変更
平成20年4月 松下冷機(株)を合併
平成20年10月 会社名を松下電器産業株式会社からパナソニック株式会社に変更、松下電池工業(株)を合併
平成21年4月 保有する東芝松下ディスプレイテクノロジー(株)株式の全てを(株)東芝に譲渡
平成21年12月 三洋電機(株)の議決権の過半数を取得し、同社及び傘下の子会社を連結子会社化
平成22年1月 当社の社内分社であるシステムソリューションズ社の事業をパナソニック コミュニケーションズ(株)に承継させる吸収分割を実施し、パナソニックコミュニケーションズ(株)はパナソニック システムネットワークス(株)に社名変更
平成23年4月 パナソニック電工(株)及び三洋電機(株)を、株式交換により完全子会社化
平成24年1月 パナソニック電工(株)を合併
事業再編により、9ドメイン及び1マーケティング部門で構成される新事業体制へ移行
平成24年4月 パナソニック エレクトロニックデバイス(株)他を合併
平成24年6月 取締役社長に津賀一宏が就任
平成24年10月 コーポレート戦略本社を設置
平成25年3月 パナソニック システムソリューションズ ジャパン(株)がパナソニック システムネットワークス(株)他を合併し、パナソニック システムネットワークス(株)に社名変更
平成25年4月 ドメインを解消し、事業部制を軸とした新たなグループ基本構造に移行。パナソニック モバイルコミュニケーションズ(株)を、携帯電話端末事業を新設分割し、携帯電話基地局事業をパナソニック システムネットワークス(株)に分割承継したうえで、合併。ニューヨーク証券取引所の上場を廃止
平成26年3月 パナソニック ヘルスケア(株)の全株式と関連資産を譲渡(同時に譲渡先のパナソニック ヘルスケア ホールディングス(株)株式の20%を取得)
平成26年6月 半導体事業を、パナソニック セミコンダクターソリューションズ(株)に承継させる吸収分割を実施
平成27年8月 パナソニック インフォメーションシステムズ株式会社を、株式交換により完全子会社化
平成28年4月 アメリカの業務用冷蔵庫トップのハスマンを買収。10月にはシーメンスと業務提携により「iLNB」を開発、受注開始。1台のPCで実装ライン全体の稼働状況をリアルタイムで収集、一括制御が可能
平成29年3月 パナソニック デバイスSUNXを株式交換で完全子会社化。10月にパナホーム(現・パナソニック ホームズ)を株式併合により完全子会社化
平成30年3月 創業100周年を迎える。これを記念しての特別コマーシャルがTV、動画サイト、YouTubeのパナソニック公式チャンネルで放映
令和元年5月 トヨタ自動車株式会社と合弁会社「プライム ライフ テクノロジーズ株式会社」を設立し、両社の一部子会社を合弁会社に移管する街づくり事業の統合に合意
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