「株式会社資生堂」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『福原有信』/沿革・歴史など~

「株式会社資生堂」の始まりと原点!~経営理念・企業理念/創業者・創立者『福原有信』/沿革・歴史など~

 

「株式会社資生堂」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など

 

 

 

「株式会社資生堂」の企業理念(THE SHISEIDO PHILOSOPHY)

 

 

1. 私たちが果たすべき企業使命を定めた OUR MISSION

 

ビューティーイノベーションでよりよい世界を

 

資生堂は多様化する美の価値観、ニーズをとらえ、人々に自信と勇気を与え、喜びや幸せをもたらすイノベーションに挑戦します。
美でこの世界をよりよくするためにイノベーションをおこし続けていくことが私たちの責任であり、使命です。

 

 

2. これまでの140年を越える歴史の中で受け継いできた OUR DNA

 

PEOPLE FIRST

資生堂の事業は「人」がすべてです。お客さまはもとよりすべてのステークホルダーのおかげで今日の資生堂があることを常に忘れません。

 

DIVERSITY

多様性をただ認めるだけではなく、異なる価値観に共感しかけあわせることで、いままでにない新たな発想やイノベーションを創出していきます。

 

SCIENCE&ART

SCIENCE&ARTという2つの異なる優位性を融合し、私たちは、世の中になかったユニークな価値を創出していきます。

 

JAPANESE AESTHETICS

人の表層的な美しさだけにとどまらず、生き方やありようを含めた本質的な美しさを追求する日本独自の美意識を、私たちは常に研ぎ澄ませていきます。

 

UNCOMPROMISING QUALITY

法令はもとより独自の厳しい基準を遵守し、品質に一切の妥協をしません。最高の品質を追求した研究、開発、製造、販売を行うことを約束します。

 

OMOTENASHI

すべての資生堂社員は、相手に対し心を込めて向き合い、あらゆる場面においてOMOTENASHIの心とともにあります。

 

 

3. 資生堂全社員がともに仕事を進めるうえで持つべき心構え OUR PRINCIPLES(TRUST 8)

 

THINK BIG

広い視野から、大局を捉えて、物事を考えよう
クリエイティビティを発揮して、新しい価値を作り出そう

 

TAKE RISKS

リスクを恐れず挑戦しよう
Try & Error & Tryを実践しよう

 

HANDS ON

現場にある真実を理解し、意思決定しよう
自らが動き、汗をかき、手を動かそう

 

COLLABORATE

組織の壁を取り払おう
1人ひとりの異なる強みを活かし、協力し合おう

 

BE OPEN

本音を語ろう
“バッドニュース”も安心して共有できるチームになろう

 

ACT WITH INTEGRITY

いかなる時も、
誠実で謙虚な心構えで行動しよう

 

BE ACCOUNTABLE

目標達成にコミットしよう
最後まで責任を持ち、やりきろう

 

APPLAUD SUCCESS

仲間の成功を喜び、
皆でたたえ合うカルチャーを作ろう

 

 

 

 

 

「株式会社資生堂」の創業者・創立者『福原有信』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~

 

 

 

福原有信(資生堂創業者)

 

福原有信。

安房国松岡村(現千葉県館山市)の郷士の家に生まれる。

 

父親は平民の福原市左衛門で、その次男。

福原家は里美家の家臣だったそうで、慶長10年に里美家が改易されて後、安房松岡で帰農しています。

 

代々豪農として農事に励んできました。

有信は父有琳の四男で、有琳は漢学の素養が深く、有信は父親から、漢学と仏典に関する知識を与えられます。また祖父有斉は漢方医でした。

 

有信の薬剤への関心は祖父譲りだと言われています。

18歳で幕府医学所に入って西洋薬学を学び、現代で言う薬剤師として2年後に同所雇、明治元年(1868年)に東京大学病院雇、明治2年(1869年)に大学東校(現在の東京大学医学部)中司薬(職員)となり、明治4年(1871年)海軍病院薬局長となる。

 

その翌年の1872年、23歳の時には、官を辞して、民間初の洋風調剤薬局となる資生堂を銀座に開業。

矢野義徹、前田清則と連盟して三精社を起こし、その三精社の事業の一角が資生堂でした。

 

資生堂は本来薬局として開始され、当時の日本にはなかった医薬分業を唱えた。

1883年(明治16年)に大日本製薬会社が設立されます。

 

この会社は政府資本による国策会社で、発起人は大倉喜八郎、福原有信、久原庄三郎、松本重太郎などでした。

有信は専務取締役になります。

 

主な製品としては、ガレヌス製剤、薬局方試薬、他に香水、沸騰散、蒸留水、ラムネ、などもあります。

化学薬品としての化粧品も製造され、この経験は有信の資生堂経営に影響したことと思われます。

 

1888年(明治21年)海軍軍医頭高木兼寛からの勧めにより、設立発起人として帝国生命保険(現在の朝日生命保険)の設立に加わり、社長として生命保険の普及に貢献した。

1888年には資生堂において日本初の練り歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」を売り出します。

 

歯質の保護、口内清掃、口臭防止が目的でした。

また脚気丸という脚気防止用の薬も発売します。

 

さらに1897年には同じく資生堂で化粧水「オイデルミン」を発売。

1917年には化粧品部を独立させて、今日の資生堂の基礎を築いた。

 

1921年に緑綬褒章を受章。

1920年に箱根に完成した福原有信の大規模な山荘は、初代資生堂社長で写真家でもある息子の福原信三がフランク・ロイド・ライトに設計を依頼し、1918年に設計されたものである。

 

福原有信は、化粧品の資生堂、朝日生命、そして大日本製薬株式会社の三つの企業の創設に関わりました。

 

 

 

「資生堂」社名の由来

 

資生堂の社名は、中国の古典、四書五経のひとつ『易経』から来ています。
中国の古典『易経』の一節をもとに有信が命名しました。

「 資生」は「すべてが生まれるところ」、「堂」は「家」という意味です。
元になった一節を読みくだすと、「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか、すべてのものはここから生まれる」という内容になります。

西洋の最先端の薬学をベースに興す一方で、社名は東洋哲学から命名するという、西洋の科学と東洋の叡智を融合した先取りの気質が、資生堂の成り立ちでもあったわけです。

 

 

 

 

福原有信(資生堂創業者)の名言・考え方

 

 

見せかけの模倣は駄目だ。やるなら徹底的に根本から始める。

 

 

舶来品ばかりなのに、化粧品だけは江戸時代のままだ。日本の女性に合った新たな国産化粧品をつくりたい

 

 

どうしても国産の純度の高い医薬品を製造しなければならない。見せかけの模倣は駄目だ。やるなら徹底的に根本から始める。

 

この世の優れたものをあまねく取りいれ、新しいものを創造する。

 

 

 

 

 

 

福原信三(資生堂初代社長)

 

 

 

東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。

名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。

 

中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ。

千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学。

 

卒業後はドラッグストアや化粧品工場で2年間働き、帰国して兄・信一と二人三脚で資生堂の経営をしていくこととなる。

経営にあたっては、資生堂を本格的に化粧品事業へ移行させ、また1916年(大正5年)には他の企業に先駆けて意匠部(現在の宣伝部)を発足させた。

 

意匠部では美術学校の学生や若手画家をスタッフにしてポスター、新聞広告、パッケージデザイン、店舗設計などを行った。

「商品をしてすべてを語らしめよ」が口癖で、“商品”を伝える商品名、容器、パッケージすべてに神経を使った。

 

家業を受継ぎ実業界で活躍する一方で、芸術をこよなく愛する文化人でもあった。

現在の資生堂のシンボルマークである「花椿」をデザインしたのも福原信三である。

 

 

 

福原信三(資生堂初代社長)の名言・考え方

 

 

 

それを超えて美に参与する。

 

 

 

ものごとはすべてリッチでなければならない。

 

 

 

 

 

福原義春(資生堂創業者の孫)

 

 

資生堂創業者・福原有信の孫。

有信の五男である信義の長男として東京に生まれる。

 

慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校から1953年、慶應義塾大学経済学部卒業後、資生堂入社。

1978年取締役外国部長、1987年社長、1997年会長を経て、2001年より名誉会長。

 

 

 

 

福原義春(資生堂創業者の孫)の名言・考え方

 

 

 

幸せと不幸せは必ず二人一組でやって来るから、気をつけなければならない。ただし、大きな幸せが小さな不幸せを運んでくる場合と、小さな幸せが大きな不幸せを連れてくる場合がある。どっちになるかはわからないが、必ず一緒に来るということだけは肝に銘じておこう

 

 

 

自分を磨くためには、大きな人に会うことです。若い人たちによく話すのですが、同時代に生きる大人物には、ものおじせずにお会いなさいと。対面すること、対面しようと努力することで、人間力は確実に強まるのですから。

 

 

 

会社というものは株主の投資によって資金をいただいておりますので、それに対して適切なリターンをお返ししなければいけない。これは当然のことですが、本当にそれだけで動いていていいのでしょうか?そういうことだけで動いている会社で、失敗している会社がいくつもある。そうじゃなくて昔から有名な会社で立派なお仕事もされて、経営もよくて、世の中に名前もよく知られていて、社会のためにいいことをしている。そういう会社もあるわけです。

 

 

 

ひとつの価値観しか持てない硬直した人間にならないために、A面に仕事、B面に趣味でも社会奉仕でも持って生きていって欲しい。

 

 

 

日本は経済成長の中で豊かな生活を実現してきました。どんどんお金を儲けて、どんどんいい家に住みたいと。その先に何があるかというと、もう自分は豊かになったのだけれど、なにか気持ちとして豊かではない。もっと豊かなものがあるはずじゃないかというふうに思い始めている人が出てきたというのが私の心の底にあるわけです。

 

 

 

あるところまでは生活水準の向上は絶対に必要です。だけどそこから先はお金だけじゃなくて、何ものかがないと心が豊かにならない。それは何かということをずっと考えていくと、結局は人間が作るもの、人間が考えるものであり、文化であるということに気が付く。

 

 

 

一般論では司令官は有事の時と、平時のときとでは、違った方が良いと言われる。だが、これからの経営者は有事に対応することを常に求められる。

 

 

 

もう一度会いたいなと思う魅力的な人物は、不思議と多面体な人ばかりですよ。

 

 

 

よく自分探しと言いますけど、あんまり自分探しに深くのめりこんじゃって、何が何だか分からなくなっちゃうような必要はぜんぜんない。自分は社会に対して何をしてあげられるのか。もしボランティアをしてそれが役に立てばそれでもいいじゃないですか。そのうち、さらに自分が何であるかということをもっと深く知るようになると思う。そうすると自分らしい自分を考えていく。そして人と付き合っていく。さらに社会の中で成長していく。そう考えることが大事だと思うんです。

 

 

 

人の心を打つもの、それは感動(=感動的なもの)だ。美しいものは国境を越えて美しい。

 

 

 

人間には「生きる技術」と「生きる意味」がある。生きる技術というのは英語を学ぶことやIT技術をマスターすることです。だけど、もうひとつ「生きる意味」というのがあると思うのです。生きる意味は人間にしかない。つまり自分はどういう存在であるのか、自分でできることは何なのか、自分は社会に対して何をしてあげられるのかということを考えられるのは人間だけです。それが生きる意味だと思うのです。

 

 

 

自分の目で見、自分で体験しないと、世の中のことはわからない。「社会貢献」の大切さも、自らが体験して初めて実感するのだ。

 

 

 

現在、実際の経済はどうかというと、計り知れない事態が発生してきています。分離が経済をむしろ自己破壊的な方向へ導いていると言っていいかもしれません。そこで出てくるのが「非分離」です。モノには経済性だけでは計れない多元的な価値があり、経済とは、画一的なものではなく、個々の活動それぞれが、個性を持った具体的な事象なのです。これからは、周囲の自然環境や社会環境を踏まえた「非分離」な経済の構築がされていくでしょう。

 

 

 

何もないところからは直感は出てこない。直感は、蓄積した知と体験が組み合わさった上に出てくるものだ。

 

 

 

資本主義の会社はもちろんお金が資本になっていますから、資本は再投資しなきゃいけません。再生産ということは、資本を使って商売をして利益を得て、そしてまた資本を蓄積していく。しかし本当にお金だけが会社の経営の本質なのだろうか?人間も資本だし、会社に勤めている人材の持っているノウハウとか、あるいは特許権とか、あるいは技術上の熟練とか、すべてのものが経営資源になり得るだろうと思うのです。

 

 

大きな仕事は、小さな人間からは生まれません。人間が大きくなることで、大きな仕事が生まれます。

 

 

 

早く育てようと年中肥料をやれば、根は傷む。毎日一定の時間に水をやっても、過湿で根は腐ってしまう。丹念に面倒を見ればよく育つわけでもない。蘭には蘭の生活リズムがあり、それに人間の方が合わせなければ、最良の状態にはならないのである。

 

 

 

人を教え育てないのは、殺人者と同じである。

 

 

 

会社に入ったら会社のために働くことは当たり前です。会社はそのために給料を払っているわけですから。だけど、会社という場を使って、自分を人間として大きくしていくにはどうしたらいいだろうかということを考えることが大切だと思うんです。会社に入れば会社が自分を大きくしてくれると思っているのは間違いです。あなた自身の成長が会社を大きくしていくのです。

 

 

 

理想なき現実と理想に支えられた現実には、大きな差がある。100の理想をもって、1でも2でも進んで行くのが大切だ。

 

 

 

会社というのはある意味でいうと、人間がたくさんいる工場みたいなものでして、大変苦労することがあると思うんです。だけどその中で、自分を見失わないようにしていく。あるいは自分がほかの人と一緒であればいいかなというそんな甘い考えを持たないで、自分は自分なのだ、自分はこれをする使命があるのだ、自分はこれをしたいのだ、ということをはっきりしていけばいいんです。

 

 

 

量で計れないものが尊い。これからは視・聴・嗅・味・触のような、人間の感覚を再考する時代だ。

 

 

 

学者の方々にブレーンをお願いしてディスカッションをしているんですが、そのブレーンの人たちは、すべて物事を「非分離」で考えていかないといけない時代になるのではないかというようなことを言っています。これまで我々の経済はまわりの自然であるとか、社会であるとかそういったものから分離して、その自由を推進力として、物質的展開を遂げてきたわけです。純粋な利益追求が経済発展へのよりよい手段であると多くの人が考えてきました。

 

 

 

企業の背骨とも言える価値観の体系を、どう遺伝子として組織に残していくか。経営者は自らと対話し、価値基準を見定め、それを語り部として次世代に伝えなければなりません。それが後々企業の見えざる資産となっていくのだと思います。

 

 

 

21世紀になると、人間とその他の物事、たとえば商品とか環境とか、そういうものごととの関係が変わってくる。いままで、全部人間を中心に考えていたわけですけれど、これからはそうではなくて、環境の中に人間がいるのだというふうに考えていかなければいけないと思っています。

 

 

 

“幸運と不幸は二人連れ”ということだ。

 

 

 

失敗はひとつのチャンスを逃したに過ぎず、挫折などと深刻ぶることはない。幸福と不幸は二人連れだ。

 

 

 

生きていれば春が来る

 

 

 

 

 

「株式会社資生堂」の沿革・歴史(年表・社歴など)

 

 

 

1872
福原有信が東京・銀座にわが国初の民間洋風調剤薬局として創業

日本初の洋風調剤薬局として、資生堂が東京・銀座に誕生しました。創業者の福原有信は西洋薬学を学んだのち、それまで日本にはなかったビジネスモデル、医薬分業システムを確立させました。

 

1902
店舗内にソーダファウンテン設置。日本初のソーダ水、アイスクリームの製造販売開始

 

1915
商標「花椿」の原型考案
(1919年商標登録)

 

1916年、薬局から化粧品部門が独立し、化粧品部が開店しました。

煉瓦造りで三階建てのビルには、一階の店舗のほかに、あらゆるデザインワークを担う意匠部と、商品の品質や安全性を担い、製品の開発と改良を行う試験室が開設されました。

ここから高い品質を誇り、モダンで洗練された資生堂化粧品が生まれていきました。

資生堂の本格的な化粧品事業の始まりです。

 

1888
日本初の練り歯磨「福原衛生歯磨石鹸」発売

 

1897
化粧品業界へ進出(「オイデルミン」発売)

 

1916
竹川町11番地(現・銀座7丁目)に化粧品部開店。意匠部、試験室開設

 

1917
日本人により制作された最初の本格的香水「花椿」発売

 

1918
「資生堂コールドクリーム」発売

 

1921
「資生堂五大主義」制定

 

1922
三科「美容科」「美髪科」「子供服科」開設、美髪科主任として米国よりヘレン・グロスマンを招く

 

1924
愛用者向け文化情報誌「資生堂月報」創刊(~1931)

 

1927
株式会社資生堂となる。取締役社長に福原信三就任

 

1928
資生堂化粧品部、資生堂アイスクリームパーラー開店

 

1932
「ドリュウ(ドルックス)化粧品」発売

 

1937
花椿会発足、最初の花椿会記念品制作(~2003)

 

1937
「資生堂グラフ」に代わって「花椿」創刊
美容法「資生堂式新美顔術」を完成し、専用化粧品発売。カラーフィルムを使用した同名の美容映画制作

 

1939
資生堂化学研究所完成

 

1949
東京証券取引所に株式を上場

 

1956
東京・渋谷に資生堂美容室開店

 

1957
台湾で販売開始

 

1959
資生堂美容学校開校

 

1959
大船工場 完成(後に鎌倉工場に改称、2015年まで)

 

1961
初のメーキャップキャンペーン「キャンディトーン」実施

 

1962
資生堂会館(のちに資生堂パーラービル)完成

資生堂が出資した、初の海外の販売会社資生堂オブハワイ設立

 

1963
イタリア・ミラノで販売開始、初のヨーロッパ向け化粧品輸出

 

1965
資生堂コスメティックス(アメリカ)設立

 

1966
サマー・キャンペーン「太陽に愛されよう」撮影のため、日本の広告で初めて海外ロケをハワイで実施

 

1968
資生堂コスメティチ(イタリア)設立

横浜に資生堂研究所(2000年に資生堂リサーチセンターに改称)完成

 

1970
資生堂シンガポール設立

 

1971
資生堂ニュージーランド設立

 

1972
創業100年、「資生堂社会福祉事業団」設立、第1回資生堂国際会議「光と皮膚のセミナー」開催

資生堂タイランド設立

 

1973
レストラン「ロオジエ」開店

 

1975
掛川工場完成

「資生堂ザ・ギンザ」開店

 

1977
ファッションショー「6人のパリ」開催

 

1978
掛川に資生堂アートハウス完成

 

1980
資生堂フランス設立

資生堂ドイチュラントGmbH設立

セルジュ・ルタンスをイメージ・クリエイターに起用

 

1981
中国・北京で販売開始

 

1982
資生堂オーストラリア設立

 

1983
「現代詩花椿賞」制定

北京市と技術協力協定締結

久喜工場完成

 

1984
バイオヒアルロン酸の量産化に成功

 

1985
「The Art of Beauty」(資生堂広告美術113の歩み)展開催(ニューヨーク、ファッション工科大学内ギャラリー)

 

1986
「資生堂の美と広告1872~1986」展開催(パリ広告美術館)

(株)イプサ設立

ピエールファーブル社と合弁会社「ピエール ファーブル ジャポン」を設立

資生堂ユナイテッドキングダム設立

点字による美容テキスト(メーキャップ)制作、提供

カリタ社買収(2014年4月に売却)

SABFA開校

 

1987
資生堂薬品(株)設立

 

1988
米国ゾートス社買収(2017年12月に売却)

 

1989
「企業理念」制定(2011 資生堂グループ企業理念「Our Mission, Values and Way」として再定義)

エアゾール製品のフロンガス使用全面廃止決定

ボストンにハーバード大学と共同で世界初の皮膚科学研究所開設

資生堂国際フォーラム’89「サクセスフル エイジング」開催(以後2年ごと~2005)

米国ダブリン社買収

 

1990
フロンガス全廃完了

フランスに「ボーテ・プレステージ・インターナショナルS.A.(B.P.I)」設立

ボーテ・プレステージ・インターナショナルS.A.

資生堂アメリカインコーポレーテッド設立

 

1991
(株)ディシラ設立

欧州に初めて生産拠点を開設

北京に合弁会社「資生堂麗源化粧品有限公司」設立

(株)エテュセ設立

 

1992
掛川に資生堂企業資料館完成

資生堂アメニティグッズ(株)設立

「資生堂エコポリシー(環境に関する経営方針)」制定

パリに香水専門店「レ・サロン・デュ・パレロワイヤル・シセイドー」開店

 

1993
資生堂カナダ設立

 

1994
(株)アユーララボラトリーズ設立(2015年8月に売却)

 

1995
(株)資生堂インターナショナル設立

 

1997
オイデルミン発売100周年

「PARIS-TOKYOーPARIS SHISEIDO 1897-1997 LA BEAUTE」展開催(パリ装飾美術館)

資生堂ヨーロッパ株式会社設立

タイに合弁会社「サハ・アジア・パシフィック」設立

資生堂企業行動宣言「THE SHISEIDO WAY」、資生堂企業倫理・行動基準「THE SHISEIDO CODE」制定(2011 資生堂グループ企業理念「Our Mission, Values and Way」として再定義)

韓国に合弁会社「韓国資生堂」設立

ヘレンカーチスジャパン(株)買収

 

1998
香港に合弁会社「資生堂大昌行化駐品有限公司」設立

米国ラモア社サロン事業部門を買収

「美と知のミーム、資生堂―創ってきたもの、伝えていくもの」展開催(東京、オリベホール)

上海に合作会社「上海卓多姿中信化粧品有限公司」設立

 

1999
ブリストル・マイヤーズスクイブ社の日本におけるサロン向ブランドを買収

 

2000
国内外の全工場でISO14001の認証取得

「Face to Face:SHISEIDO and the Manufacture of Beauty.1900-2000」展開催(ニューヨーク大学、グレイ・アート・ギャラリー)

仏国ラボラトワール・デクレオール社を資本傘下に(2014年4月に売却)

韓国に合弁会社「S&D Cosmetics Co., Ltd.」設立

新研究所「資生堂リサーチセンター」開設

資生堂リサーチセンター

ヨーロッパ物流センター設立

米国「NARS(ナーズ)」ブランド買収

(株)エフティ資生堂設立

 

2001
(株)キナリ設立(2017年7月に売却)

資生堂ブラジル設立

資生堂(中国)研究開発有限公司設立

資生堂(中国)研究開発中心有限公司

東京銀座資生堂ビル完成

 

2003
上海に持株会社「資生堂(中国)投資有限公司」設立

汐留オフィスに本社機能を移転

 

2004
資生堂プロフェッショナル(株)設立

タイでプロフェッショナル事業の合弁会社「Shiseido Professional (Thailand) Co, Ltd」(SPT)設立

国連グローバル・コンパクトへの参加を表明

「グローバルビューティーコンサルタントコンテスト2004」開催

 

2005
合弁会社「資生堂マレーシア」設立

コーポレートメッセージ「一瞬も 一生も 美しく」発表

 

2006
ヨーロッパリサーチセンター設立(2016年にヨーロッパイノベーションセンターへと組織再編)

カンガルースタッフ体制を導入

銀座の本社ビル内に、セラピーメーキャップ施設「資生堂ライフクオリティービューティーセンター」開設

資生堂ライフクオリティービューティーセンター

 

2007
資生堂女性研究者サイエンスグラント開始

ロシアに100%子会社「Shiseido(RUS), LLC.」設立

企業内大学「エコール資生堂」開始

レストラン「ロオジエ」が「ミシュランガイド東京2008」で三つ星を獲得

 

2008
中国で植林活動開始

「ミシュランガイド東京2009」で、「ロオジエ」が2度目の三つ星、レストラン「ファロ」が一つ星をそれぞれ獲得

上海に資生堂中国研修センター開設

資生堂ベトナム有限責任会社設立

 

2009
化粧品業界で初めて環境省から「エコ・ファースト企業」に認定

「資生堂のマーケティング史」がマサチューセッツ工科大学(MIT)の教材として世界に無償配信

ベトナム工場完成

中国・上海、台湾・台北および高雄に資生堂ライフクオリティー ビューティーセンター開設

資生堂ライフクオリティー ビューティーセンター(中国)

 

2010
資生堂コスメティクス ベトナム設立

米国ベアエッセンシャル 資生堂傘下に

資生堂ヘラス(ギリシャ)設立

 

2011
資生堂グループ企業理念「Our Mission, Values and Way」制定

「SHISEIDO THE GINZA」開店

 

2012
創業140周年、「未来椿プロジェクト」スタート

ワタシプラス、Beauty & Co.開始

 

2013
初代「資生堂ビューティースペシャリスト」が活動開始

創業の地「銀座」に 「価値創造拠点」となる本社新社屋 「資生堂銀座ビル」オープン

 

2014
中長期戦略「VISION 2020」を策定

競泳・水球、体操、バレーボール・ビーチバレーボール日本代表チームのオフィシャルスポンサーに

 

2015
米国の皮膚科学研究所(CBRC)と提携拡大に関する契約を締結

資生堂ジャパン設立

資生堂アジアパシフィックをシンガポールに設立

 

2016
「DOLCE&GABBANA」とライセンス契約を締結

ガーウィッチプロダクツ社を買収

台湾資生堂新竹工場竣工

 

2017
「資生堂表情プロジェクト」スタート

保育事業に関する合弁会社「KODOMOLOGY株式会社」設立

 

 

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