新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。
私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。
それが、私の50センチ革命。
一人一人の個人が、一歩前に進むこと。
これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。
元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。
目の前にある、小さなものでも構いません。
新しい一歩を!
過去と他人は変えられない。
変えられるのは自分と未来だけです!
Contents
■野茂英雄名言集
僕は練習は嫌いですから。手抜いてますよ。ただ、絶対にはずせない練習というのがあって、それはやります。できるようになるまで反復してやる。それだけです。
何かを得ようと思ったら、毎日毎日、繰り返しやりますよね。そうやらないとうまくならないし、成果が出ないじゃないですか。
やっぱりスポーツ選手は世界に出なきゃいけない、とつくづく思いました。行かなきゃ何もわからないんです。
チャンスの少ない時代だからこそ、少ないチャンスを生かしてもらいたい。そのチャンスを生かすために日々努力をしておくことが大切。
お客さんに喜んでもらってお金を稼ぐのがプロ。自分も楽しくやって、見ている人を魅了して、夢を与えられるようになりたい。
自分が’95年にメジャーで投げたことは、日本人や現地の日系人にとってすごく大きな出来事だったんだなと思えるようになった。
現状には決して満足したくない。それなら最後まで自分がなりたいピッチャーのイメージを持ち続けて挑戦して行こうと思うんです。なれるとかなれないとか考えていたって一歩も前には進めません。やるかやらないか、それしかないのですから。
若い人には、失敗してもいい場所が必要だと思うんです。
花が あるうちに 辞めるんじゃなくて落ちぶれてボロボロになっても 投げ続けようと決めました。
若いうちは無駄が栄養。
僕を通じてメジャーの良さがわかったというんであれば、それはそれで嬉しい。
思い切り振れ、思い切り投げろ。
何かを得ようと思ったら毎日毎日、繰り返しやりますよね。そうやらないとうまくならないし成果が出ない。
チャンスを生かすために日々努力。
華がある内に辞めるんじゃなくて落ちぶれてボロボロになっても 投げ続けようと決めました。
ドジャースの一員となった、この日は生涯忘れません。
希望はあるが不安はない。
100勝くらいで満足するためにメジャーに来たわけではない。いくらでも100勝くらいの選手はいる。
今、芽の出ていない人も諦める必要はない。
自分が抱いたメジャー・リーグ挑戦という夢に対してそれがただの絵空事だなんて否定的に思ったことは一度もありません。
自分の気持ちに正直になった方がいい。
メジャー・リーガーになるんだという強い意志さえ持っていれば、いつかはきっとかなう夢だと信じてやってきました。
チャレンジしないまま残りの人生を後悔して過ごしたくない。
挑戦すれば、成功もあれば失敗もあります。でも挑戦せずして成功はありません。何度も言いますが挑戦しないことには始まらない。
■野茂英雄とは?
野茂英雄。
小・中学校時代は全くの無名選手であったが、「体を捻って投げると直球の威力が増す」と理解し、後のトルネード投法の原型となるフォームで投げていた。
高校時代の監督はその投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。
大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)に進学。
高校では2年生からエースとなり、1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦の大阪府立生野高等学校戦で完全試合を達成。
3年時はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。
高校卒業時に既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社。
新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。
新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、最大の武器となるフォークボールを習得。
2年目にはチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表に選出される。
1988年のソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。
名実共にアマチュアNo.1投手となった進路が注目される中で行われた1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団から1位指名を受け、抽選の結果近鉄が交渉権を獲得した。
推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。
1990年4月10日の西武ライオンズ戦でプロ初登板。
その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利を挙げた。
同年は新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。
奪三振に関してはシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)など従来の記録を次々に更新。
1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した他、1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。
同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成。
1991年のオールスターゲームでは第1戦に全パの先発投手としてマウンドに上がり、先頭打者の立浪和義をはじめ奪三振6を記録。
1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。
4年連続最多勝のシーズンオフに現状維持の年俸を提示された。
球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。
自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ないためであるが、これがメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。
1993年に監督に就任した鈴木は、監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。
こうした指導法が元で鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。
交渉が不調に終わった結果近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。
1995年2月8日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。
契約金200万ドル(約1億7000万円)、年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。
村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
1995年6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。
29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月はピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。
前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。
後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54・236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。
日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。
また、実況はあまりにも野茂が三振を取ってしまうことから、彼が三振を取るたびに日本語で「SANSHIN」と発言していた。
ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではチッパー・ジョーンズを抑えて受賞し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。
1996年のスプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。
4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。
7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球でNPB/MLB通算100勝を達成。
9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。
後半戦は15試合の登板で7勝4敗・防御率2.84・WHIP1.10と好調を維持し、最終的にチーム最多の16勝をマークした。
チームはサンディエゴ・パドレスと地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたがワイルドカードを獲得。
アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、4回途中5失点と力を発揮できずに敗戦投手となり、チームも前年に続き3連敗で敗退した。
1997年4月25日のマーリンズ戦では、ドワイト・グッデンの記録を更新して当時のメジャー最速記録となる444回2/3での500奪三振を達成。
8月28日のオークランド・アスレチックス戦でもグッデンに続きメジャー史上2人目となる新人年から3年連続の200奪三振を達成した。
前半戦は18試合の登板で8勝7敗・防御率3.81・WHIP1.27の成績で折り返すが、7月26日のフィリーズ戦で打球を右肘に受けて退場、打撲と診断される。
故障者リスト入りすることなく復帰したが、後半戦は15試合の登板で6勝5敗・防御率4.81・WHIP1.50と不調に陥る。
最終的にリーグ4位の奪三振数を記録するも、チームはポストシーズン進出を逃す。
オフには6月から張りがあったという右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。
1998年4月3日のレッズ戦ではメジャー自己最多となる7連続奪三振を記録したが、18日のシカゴ・カブス戦では2/3回を8失点で降板。
メジャー通算100先発となった28日のミルウォーキー・ブルワーズ戦の7回には日本人メジャーリーガー初本塁打を記録し通算45勝目をマークするも、5月9日のマーリンズ戦では右手中指のフェイクネイルの圧迫による痛みを訴え、途中降板。
5月まで12試合の登板で2勝7敗・防御率5.05・WHIP1.40と不調。
6月1日に退団の意思を示し、4日にトレードでメッツに移籍。
7月に3連勝を記録したものの、1試合のリリーフ登板を含む17試合に登板し4勝5敗・防御率4.82・WHIP1.44の成績で、シーズン通算では6勝12敗・防御率4.92に終った。
1999年1月18日に1年292万5000ドルでメッツと再契約。
しかし3月24日に40人枠から外れ、3月30日に放出された。
4月1日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、AAA級アイオワ・カブスに配属されたが、3試合に先発しただけで自由契約となった。
4月29日にミルウォーキー・ブルワーズと1年25万ドルで契約。
AA級ハンツビル・スターズに配属された。
調整登板で1試合を7イニング無失点に抑えると、5月9日にメジャー昇格。
前半戦を13試合の登板で7勝2敗・防御率3.95・WHIP1.37の成績で折り返す。
9月8日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロジャー・クレメンス、グッデンに次ぎメジャー史上3番目のスピード記録となる147試合目でのメジャー通算1000奪三振を達成。
後半戦は15試合の登板で5勝6敗・防御率5.06・WHIP1.46と調子を落としたものの、最終的にチーム最多の12勝を挙げた。
2000年1月22日にデトロイト・タイガースと年俸125万ドル+出来高225万ドルの1年契約を結ぶ。
この年からツーシームとスライダーを習得した他、セットポジションでのフォームを改良し、クイックのタイムを1.5秒台から1.3秒台に縮めた。
4月3日のオークランド・アスレチックス戦では日本人初の開幕投手を務め、7回3安打3本塁打3失点で勝利投手となった。
7月2日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦ではマック鈴木と投げ合い、7回0/3を無失点7奪三振で勝利。
9日のブルワーズ戦ではイタリアンソーセージの着ぐるみで観客に牛肉を配り、ソーセージ・レースにも参加し優勝。
しかし前半戦は20試合の登板で3勝7敗・防御率4.74・WHIP1.48の成績で折り返し、8月に右手中指の炎症で初の故障者リスト入り。
18日のアスレチックス戦で復帰し、5勝目を挙げた。
2000年12月15日にボストン・レッドソックスと年俸325万ドル+出来高75万ドルの1年契約を結んだ。
2001年4月4日のボルチモア・オリオールズ戦では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒットノーランを記録。
5月2日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対決し、第1打席と第2打席を二ゴロ、中飛に抑え、第3打席には死球を与えた。
25日のトロント・ブルージェイズ戦では7者連続を含む14奪三振1安打で完封勝利を挙げ、6年ぶりの無四球を記録。
6月16日のブレーブス戦では3回にNPB/MLB通算2500奪三振を達成。
前半戦を18試合の登板で8勝4敗・防御率3.83・WHIP1.21で折り返し、7月20日のシカゴ・ホワイトソックス戦で2年ぶり5度目の10勝に到達した。
7月は負けなしの5勝・防御率3.00・WHIP1.50の成績で、ピッチャー・オブ・ザ・マンスの投票ではマーク・マルダーに次ぐ2位となった。
8月からは2勝6敗・防御率6.07・WHIP1.49と調子を落とした。
しかしシーズンを通して奪三振率が9.00を切ることなくリーグ1位の奪三振率10.00を記録し、4年ぶりに200奪三振を越えて二度目の最多奪三振を獲得した。
2001年12月19日に2年1375万ドルで古巣ドジャースに復帰。
2002年4月2日のジャイアンツ戦では4回まで1安打に抑え、5回には2死満塁の場面で新庄剛志を迎えるが、新庄を二ゴロに抑え、ドジャース復帰後初勝利を挙げた。
その後は打線と噛み合わなかったが、5月17日からは14勝1敗の活躍で、6月21日のレッドソックス戦でメジャー通算1500奪三振を記録。
前半戦を18試合の登板で9勝5敗・防御率3.16・WHIP1.32の成績で折り返した。
2003年は自身3年ぶりの開幕投手に指名され、開幕戦となった3月31日のダイヤモンドバックス戦で、ランディ・ジョンソンと投げ合い、完封勝利。
4月20日のジャイアンツ戦でメジャー通算100勝を達成。
前半戦を20試合の登板で9勝8敗・防御率2.97・WHIP1.12の成績で折り返す。
9月に右肩回旋筋の炎症が見つかるも、故障者リスト入りはせずに療養し、14日に復帰。
最終的に防御率はリーグ6位の3.09、得点援護率がリーグワースト3位ながらもリーグ5位の16勝を挙げた。
2004年は球団がオプションを行使して残留。
前年に続いて開幕投手を務めるも、オフに受けた肩の手術からの回復が遅れて球速が戻らず、2度の故障者リスト入りを挟み、4月17日から9月1日にかけて自己ワーストの10連敗を喫した。
2005年は当時、創設八年目のタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。
6月15日のブルワーズ戦でNPB/MLB通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。
27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。
2006年3月3日にホワイトソックスとマイナー契約。
4月17日にAAA級シャーロットの先発として初登板したが、右肘の炎症を理由として故障者リストに登録され、6月8日に契約解除。
同月下旬には右肘を手術した。
2007年、ドミニカ共和国でのウィンターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。
リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた
。その後、リーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのレオネス・デル・カラカスに入団し、ベネズエラでのウィンターリーグへの参加が認められる。
10月20日のグアイラ戦では1年半ぶりの登板を果たした。
2008年1月4日にロイヤルズとマイナー契約を結ぶ。
オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つにとどめるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した。
しかしその後結果は残せず、4月20日にDFAとなった。
2008年7月17日、現役引退を表明。