ホラを吹く、だが吹いた以上はやり遂げる。~三浦雄一郎(登山家・スキーヤー)名言集と軌跡~


新しいことに挑戦、チャレンジする人を応援したい。

私達日本人一人一人が、50cm前に一歩進むと、地球一周分に匹敵するのです。

それが、私の50センチ革命。

一人一人の個人が、一歩前に進むこと。

これが、新しい未来を生み出すのではないでしょうか。

元気になれる名言や格言、言葉や発言を「人物」にフォーカスしてご紹介いたします。

目の前にある、小さなものでも構いません。

新しい一歩を!

過去と他人は変えられない。

変えられるのは自分と未来だけです!

■三浦雄一郎(登山家・スキーヤー)名言集

65歳のおじいちゃんがエベレストというと気が遠くなりますが、ちゃんと計画を立てれば出来るものなんです。まずは、富士山、次はヒマラヤ。5000m級、6000m級、7000m級とやっていけばいいんです。

幼少の頃、僕は体がとても弱くて学校を休みがちでした。もし体が丈夫で100mを素晴らしいタイムで走れたら、違ったことをやっていたかもしれない。でも身体的に恵まれていなかったからこそ、誰もやっていない細かな隙間を見つけて突き詰めることができたんです。

父親、三浦敬三は名の知られた人でした。青森でスキーを覚え、八甲田山の主と言われるぐらいスキーに熱中し、99歳、白寿の年にはヨーロッパアルプスの一番高い山、モンブランのバレブランシュ氷河をスキー滑降し、101歳までスキーをやりました。

卒業して僕は獣医になりました。「将来はノーベル賞でも貰うか」と研究生活を送っていましたが、ある時北海道大学に「Boys be ambitious」、「少年よ、大志を抱け」などという言葉を残してアメリカに帰った、ウィリアム・スミス・クラーク博士がいたのを思い出しました。彼の言葉に惹かれ、改めて、俺のambitious、俺の大志、これはなんなんだろうと、もう1回考え直してみたんです。その時スキーや山の分野で、世界で誰もやらなかったことをやれるんじゃないか、と思いました。研究室に残って将来は教授になるとか、そういう人はいっぱいいる。じゃあ俺は、俺にしかないスキーをすることだ、と。

5000mまで行きますと、酸素は10%で半分になります。これ以上の高さになると、人間の生存限界と言われます。8000mまでいきますと酸素、気圧が3分の1。この部屋を密閉して空気を抜き、エベレスト山頂同様3分の1の酸素濃度・気圧にすると、5分も経たないうちに僕も含めて1人、2人と気を失います。10分ぐらい経つとほとんど死んでしまいます。こんな世界です。山の世界では「デスゾーン」「死の世界」と呼んでいます。あとは体質、体力、年齢にもよりますが、エベレストの山頂に辿り着くと、20歳くらいの登山家の肉体年齢が、ほぼ100歳に近づくとも言われています。それを僕は80歳で登るとなると、150、160歳の肉体年齢になる。

達成できる保証なんてどこにもありません。成功を信じて進むためには絶対にあきらめないという執念を持つことが大事です。最後は「これができたら死んでもいい」というほどの覚悟。それさえあれば自分の中で揺るぎない目標設定をして、計画的に準備を重ねることができるし不安やストレスさえもエネルギーになります。人は命を賭けると「生きて帰るんだ!」という強い力が出てきます。ビジネスでもどんな分野であっても死んでもいいほどの意志を持てたら最高の能力が発揮できるんです。

思いの強さがあればあとは努力をするかしないかに尽きる。焦らずに「いつでも今日がスタート」と思ってまたゼロから進んでいけばいい。

誰にでも失敗はつきものだし上手くいかないこともあります。どんなに入念に準備しても予定は狂うし怪我はするし限界まで追いつめられることなんてしょっちゅうです。でも、そうしながらも絶対に掲げた旗印、夢はあきらめないでほしい。夢に向かう道というのは様々な方向に伸びていて正しいと信じてやって壁に突き当たったとしても方向転換すればいい。出口の方向には必ず光があるから一度原点に戻ってみて光があるほうへ進んでいくんです。

歳を取れば、できないことが増えてくる。それは当たり前のことです。しかし、できないことを決めるのは他の誰かではありません。それを決めるのは自分自身。

可能性がゼロではない限り人間にはチャレンジする権利がある。小さなチャレンジでもかまわない。自分の可能性を捨ててはいけないと思う。可能性を見限った瞬間に心の寿命は尽きてしまう。

「無理をしないでください」「生きて帰ってきてください」みんなが僕に言いました。「ありがとうございます」と返事をしながら僕は心の中で別の返事をしていた。「無理をしなければ行けない。死ぬ気でチャレンジしなければ生きては帰ってこられない。だから僕は人生最大の無理をしますよ」と。

大きなこと難しいことをやろうとすると、できない理由がいっぱい出てくる。今できることを積み重ねる。

順天堂大学の白澤卓二先生に長寿の遺伝子、スーパーアスリート的な遺伝子、それから冒険の遺伝子という要素で、親子3代を調べていただいたんです。ところが、それらは一切なくて、まったく日本人の平均値だと。

アップルの創設者であるスティーブ・ジョブズ氏が、若い人に「ハングリーであれ、愚かであれ」と講演していましたが、その通りだと思います。僕自身も非常にハングリーだったし、周りから「馬鹿」「あいつ何やってんだ?」と言われましたけど、それを恐れちゃダメ。

資金集めは飛び込みですよ。ホンダの本田宗一郎さん、松下幸之助さん、サントリーの佐治敬三さんなどの元へ飛び込んではプレゼンテーションをしました。

本田宗一郎さん、佐治敬三さん、盛田昭夫さん、私が会った一流の企業家は、やっぱりみなさん前向きで、上機嫌な人たちだった。そして、年齢に関係なく何かを追い続ける生き方は、全員に共通していたと思います。

できない理由より、できる理由を考える。

どんな人にも冒険のあることがわかってきます。いろんな人の冒険があったおかげで、今の人類はあるのでないでしょうか。人類の祖先が安住の地である森林から草原へ一歩を踏み出したことは、外敵に身をさらすとても危険な冒険だったはずです。

人間も国も企業も、夢を持ってチャレンジし続けることが大切。

諦めることはとても簡単なこと。人生の中で遭遇するさまざまな困難。「自分には無理だ。もういいや」と諦めてしまえばきっと楽になれるのでしょう。でもそれは山を目の前にして登ろうとする努力もせずふもとでただウロウロしているだけ。それでは人生はつまらない。

愚かと言われるくらい人の理解を超えた新しい分野に挑戦することが必要です。それを成し遂げてはじめて、新しい時代、あるいは自分自身がひらけるのですから。

自分の弱さを乗り越えようとしてホラを吹く。だが吹いた以上はやり遂げる。

涙がでるほど、辛くて、厳しくて、嬉しい。

■三浦雄一郎(登山家・スキーヤー)とは?

三浦雄一郎。

1932年生まれ、青森県青森市出身。

幼少期は病弱で劣等生、幼稚園は中退、小学校4年生から5年生時には結核で肋膜炎を患い長期入院のため一年の半分近くは学校に通えなかったほどだったという。

農林省営林局に勤めていた父の仕事の都合で小学校は5回転校、旧制中学校は先述の健康問題が理由で1度旧制黒沢尻中学校への入試に失敗し小学生浪人、入学後も4回転校を繰り返した。

初めてスキーに接したのは小学校2年時、当時住んでいた弘前市の弘前城公園の坂をスキーで滑ったのがきっかけで、その後一家で仙台市郊外の農場に引っ越した際に本格的にスキーを始め、旧制青森中学校在学時に岩木山で開かれたスキー大会で優勝し初タイトルを獲得する。

青森県立弘前高等学校在学時に、全日本スキー選手権大会の滑降競技で入賞、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人優勝するなどの実績を重ねた。

大学進学において、スキーが出来るからという理由で北海道大学を受験先に選び、獣医学部に進学。

在学中に当時の学長秘書、かつアルペンスキーの女子選手だった妻・朋子と出会い同棲の後結婚。

肺の病気を患い、暫く母校の北大獣医学部に助手として勤務、札幌市月寒にあった当時の北大農事試験場でブタやウシをあつかう獣医師をしていた。

26歳で助手の職を辞任、スキーに挑戦するも、優勝した全日本スキー選手権青森県予選閉会式で、全日本選手権への青森県からの派遣人数をめぐりスキー連盟関係者と対立、結局アマチュア資格を剥奪され、アマチュアスキー界永久追放の憂き目に遭う。

アマチュア資格剥奪後暫く、体力を鍛え直す意味も込めて、北アルプスの立山で歩荷として働いていた。

1960年代始め頃からスキー学校を開設し、1962年、アメリカ合衆国でスタートしたばかりの世界プロスキー選手権に参加、トニー・ザイラーら冬季オリンピックの元メダリストも名を連ねる大会で世界ランク8位となるなど、 プロスキーヤーとして活躍。

1964年7月イタリアで開催されたキロメーターランセに日本人で初めて参加、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立。

1966年4月、富士山での直滑降を成功させる。

この時ブレーキとしてパラシュートを使用した映像から、後にパラグライダーが開発されたという。

1970年5月にはエベレストのサウスコル8000m地点からの滑降を成功させ、その映像が『The Man Who Skied Down Everest』(「エベレストを滑った男」)というタイトルでドキュメンタリー映画化され、アカデミー賞記録映画部門で賞を獲得した。

最終的に、1985年に54歳で南アメリカ大陸最高峰アコンカグアからの滑降を成功させたことにより、世界七大陸最高峰全峰からの滑降を成功させた。

1971年スポーツ英雄大賞(スペイン)、1975年に米アカデミー賞(長編記録映画部門)=「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」。

1992年4月からクラーク記念国際高等学校(北海道深川市納内)校長。

2006年6月からNPOグローバル・スポーツ・アライアンス理事長を務める。

七大陸最高峰の滑降後に目標を失い、不摂生な生活を送った挙句、身長164cmに対し体重85kg超、血圧は200近くまで上がり、不整脈まで出る不健康な状態となってしまう。

しかし、99歳にしてなおモンブラン氷河の滑降という挑戦を続ける実父や、オリンピックに出場した次男の豪太らを見て改心、65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を果たすという目標を立てる。

外出時には常に両足に重りを付け20kg近いリュックを常に背負うというトレーニングを再開、当初は藻岩山登山ですら息切れするという体たらくだった。

体力を回復させ、2003年5月22日、世界最高峰のエベレストに世界最高齢(ギネスブックに掲載)となる70歳7か月での登頂を果たす。同時に二男・豪太との日本人初の親子同時登頂も達成した。

2005年6月、全国森林レクリエーション協会会長に就任。

2006年9月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載する。

2008年5月26日、75歳でエベレストに再登頂。

2010年、オーストリア・アルベルト・シュバイツァー協会よりアルベルト・シュバイツァー章を受章。

2013年5月23日、80歳で3度目のエベレスト登頂に成功した。再びエベレスト最高齢登頂者となる。

2018年、第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られる。

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