自分のキャリアを棚卸しして思い浮かんだこととは?
吉田浩一郎/クラウドワークス創業者
自分のキャリアを棚卸ししていくと、新卒のときから10年以上関わっていた「法人向け営業」と、ドリコムで働いたときの知見を生かせる「インターネットビジネス」の2つが思い浮かびました。
つまり「BtoB×インターネット」の事業こそが、自分に適した仕事だと気づいたのです。
そこから投資家回りをはじめました。
日本での受託業務では利益を出していたことから、会社には約3000万円の現金が残っており、これだけは一つの成果といえます。
「事業は立ち上がりませんでした。人も逃げていきました。でも3000万円の現金は手元にあります。私が新たに始めるべきBtoB×インターネットの仕事はないでしょうか。その領域なら私はとことんできるので、投資してもらえませんか」。
そんなふうに言って、投資家に頭を下げ続けました。
すると、ある人が「BtoB×インターネットの世界でいま革新が起きているのは『クラウドソーシング』だ」と教えてくれたんです。
吉田浩一郎(クラウドワークス創業者)とは?
吉田浩一郎。
1974年兵庫県神戸市生まれ。
東京学芸大学卒業後、パイオニア、リードエグジビションジャパンなどを経て、ドリコム執行役員として東証マザーズ上場を経験した後に独立。
ベトナムへ事業展開し、日本とベトナムを行き来する中で、インターネットを活用した時間と場所にこだわらない働き方に着目。
2011年11月株式会社クラウドワークスを創業。
日本初の本格的なクラウドソーシング(ウェブ上の仕事マッチング)サービスとして急成長。
サービス開始約1年半で登録された仕事の予算総額は40億円を突破、上場企業をはじめとして1万5000以上の事業者が活用し、クラウドソーシング業界最大手に急成長。
2014年12月、東京証券取引所マザーズ市場に上場。
吉田浩一郎(クラウドワークス創業者)の「コトバ」
母に与えられた一番のものは、「承認」だったと思います。幼い頃は、泥んこになったり、ゴミまみれになったり、多少危ない場所で遊んでいたりしても「ダメ!」と叱るのではなく、ちゃんと受け入れてくれました。小学生の頃は成績が良かった優等生でしたが、自分から主体的に勉強する習慣を身につけないまま進学した中高一貫の進学校では、おちこぼれへ転落してしまいました。10代にして早くも“どん底” だと自分では感じていましたが、特に成績について「もっと勉強しなさい」など言われた記憶はなく、母はあるがままの自分を受け入れてくれました。中高生時代は、勉強ではないことで自分が身を立てられるものがないか、人生の方向性を色々と模索していました。プロを目指してボウリングやビリヤードに打ち込んだり、漫画を描いてコミケに出したり、宗教に興味を持って、一人で高野山の宿坊に泊まったりしたこともありました。おそらく大人から見れば、形にならない無駄なことだと予想できたと思いますが、母は決して止めたりせず、私の「やりたい気持ち」を承認してくれて、何も言わずに送り出し、何に使用しているかまでは説明しなかったものの、費用面でも協力をしてくれました。母はよく「生きている以上、人間だから一つくらい変なところがあるのよ」と言っていました。当時は特に感じてはいませんでしたが、今思えば、無駄を許容し、圧倒的な承認を与えてくれたことで、私の自己肯定感が高くなったと思います。
父は大学を卒業後、大手鉄鋼メーカーで働いていました。経理・財務の仕事をしており、毎日、夜遅くに帰宅していました。エジプトやサウジアラビアなどにプラントを造る仕事にも携わっていたので海外出張も多く、出かけて行ってはその国の硬貨や紙幣を持ち帰ってくれました。異国の読めない文字を見るのが、結構楽しかったです。出張先の外国では切手も買ってきてくれました。珍しい三角形をしている切手、鉄でできた切手…そういうものを通して、まだ知らない海外を少しだけ感じることができたのを覚えています。最初の起業の際にアジアの国々を巡ったのは、どこか根底にその記憶があったからかもしれません。それから父のことで思い出すのは、何事にも嘘をついたり真剣に取り組まないときは、厳しかったことです。キャッチボールすら真面目にやらないと相手になってくれませんでした。また、私が考えたボードゲームやカードゲームに付き合ってもらったこともありましたが、子ども心に勝ちたい一心でゲームのルールを途中で勝手に変更したら、ものすごく怒られました。小学生の頃は、地元神戸の菊水山や六甲山、鳥取の大山などへ2人で山登りや川下りに出かけていました。囲碁や将棋、オセロもよくやりました。次の手をどうしようかと考えこんでいると、「下手の考え休むに似たり」と言われていたことを思い出します。忙しい父でしたが、思い出してみると時間を見つけてよく関わってくれていました。
子どもの頃は意識せずに過ごしていても、年月を経て「ここに繋がっていたのか」と思うことがあります。ゲームがその一つです。子どもの頃流行して、友達の多くが持っていた家庭用テレビゲーム機は、買ってもらえませんでした。でも、パソコンは買ってくれました。渋々ながらもパソコンを扱いながら少しずつ高度なことに挑戦していき、プログラミングをするようになり、自分でゲームを作るようになりました。その経験が今、仕事をする上で、プログラマの方とお話しする時にとても役立っています。また、テレビゲーム機と同様に、当時友達の間で流行っていた、ある漫画雑誌を買うことも禁止でした。読むのがダメなら描いてやろうと、漫画を自分で描いてコミケに出していましたが、これは許してくれました。ゲームで遊ぶのではなくてゲームを作る、漫画を読むのではなくて漫画を描く、そういう体験から「ものを作る」ことに自然と思い入れを持ったことが、現在に繋がっていると感じます。特に私の両親は何かを意図してこのように教育しようと思っていたわけではないと思います。子どもを育てるのに一生懸命で、毎日を過ごしていたと思います。しかしその結果、今思い出してみると「やって良かったな」「やらせてもらえて良かったな」と思うことが案外多いものです。
小学生のとき、朗読コンクールで学校の代表になりました。感情を込めて文章を読むことが得意だったようで、周りからもほめられたことを覚えています。その経験からか演劇にも興味を持ち、高校の文化祭の演劇に出演しました。それまで特に演技の勉強をしてきたわけでもないのに、演じながら自分の頭の中では演技がどういうものか描けていて、自分に向いているという確信を持ちました。そんなことがきっかけになり、役者になりたいと強く思い、進路を決める際、父に「大学へは行かずに上京して役者を志す」と言いましたが、当然反対されました。「人間は生きていると、放っておいても人生の可能性は目減りしていく。選択肢も狭まっていく。あえて自分から選択肢を狭めるようなことはするな。大学だけは行け。卒業後は自由にしていい」と言われ、結局、大学へ進学することに決め、高校を卒業してから1年間大阪の予備校に通うことにしました。その後、最初の起業をした時もその他の時も、私を見守ってくれ、人生の大きな選択のときは節目節目で声を掛けてくれていました。
じつは劇団で手痛い失敗をしまして。寺山修司にインスパイアされ、廃墟を借りて屋外演劇をしようとしたことがありました。廃墟の管理人という人と契約して半年間かけて準備したのですが、途中で別に管理人がいることが発覚して公演が中止に。注ぎ込んだ200万円は返ってこなくなり、劇団員にも「俺の半年間を返せ」と木材で殴られてケガしました。この事件で、契約やお金のことを何も知らないとやりたいこともできないと痛感。1回、社会に出て勉強しようと、就職しました。
昔から寺山修司が好きで、学生時代はずっと、いわゆるアングラ演劇といわれるものをやっていました。それがある時、契約書の行き違いで準備していた公演が中止になって、200万円の借金を背負うことになったんです。その瞬間、「社会の仕組みを知らなくては、やりたいことはできないんだな」と痛感しました。これが就職を決意するきっかけになったんです。「契約と金」に負けたという気持ちがありましたから、社会に出たらその世界で必ず結果を出してやる、と思っていました。営業職を選んだ理由は、人から「向いている」と言われたからです。やりたいことをやって駄目だったので、今度は向いていることをやろうと思ったんですね。死ぬ気で働いた結果、初年度に関東圏で2位、2年目の夏には、関東圏で1位の営業成績を出しました。
原体験として「上には上がいる」という感覚があるんです。公立の小学校でつねに成績上位だったのですが、中高一貫の私立に進学してからは、6年間つねに最下位近辺でした。その体験が強烈に残っているんです。営業成績が1位になった時も、もうひとつ上のレイヤーがある、ここで舞い上がっては駄目だ、そう感じていて、もう一度自分が底辺からスタートできる場所に転職することにしました。それで、いろんな会社からトップ営業マンが集まってくる外資系企業、リードエグジビジョンジャパンに入社したんです。同社は5万人規模のイベントをやっていますが、それはアングラ演劇では絶対に集客できない規模です。そんな未知の世界、5万人を集める理屈に触れたいという気持ちもありました。
問題には、ほとんどの会社で直面していますね(笑)。ドリコム時代は、営業マンを一気に30名採用したところ、3カ月後に暴動が起きて、社内には「吉田、死ね」という空気が蔓延したこともあります(笑)。コピーの取り方から営業トークまで、“オレ流”を押し付けたからです。これまでの経緯も共通言語も違うのに、「すべてオレと同じようにしろ」では、反発しない方がおかしいですよね。結局1年後には、30人中25人が退社しました。
会社を作るためには何をどうすればよいのかわからない。そこで、大前研一さんの起業家養成塾「アタッカー・ビジネススクール」に入ることにしました。元ライブドアの堀江貴文さんやガンホーの孫泰蔵さんなどのIT企業経営者と交流する機会をもち、インターネットビジネスへの関心が高まりました。しかしまだ自分が社長として働く姿が想像できない。営業のトップとして働けばもっと自信が湧くのではないかと考えて、モバイル向けコンテンツの企画開発などをするドリコムに入社することにしました。
ZOOEE時代は、収益事業と並行して、さまざまな新規事業を立ち上げたんです。その一環としてベトナムの新規事業に投資していたら、収益事業を担当していた役員が「メインクライアントを連れて独立する」と言い出しました。もちろん説得しましたが、駄目でした。しかもメールの履歴を見ると、半年ほど前から準備を進めていたことがわかったんです。あまりの悔しさに、毎晩悪夢にうなされ、夜中に目が覚める日々が続きました。ただただその彼を恨み続け、1カ月が過ぎた頃、ふとある事実に気付いたんです。「もし自分の作った会社に夢があれば、彼はいまも一緒に夢を追いかけてくれていたかもしれない──」。その日から、恨むのは辞めました。
とりあえず社長になってみたものの、自分はプログラミングができるわけではないし、何かモノを作れるわけでもない。中途半端な気持ちのまま、上海でのワインビジネス、フランスから輸入した雑貨の販売、東南アジアでのマンガコンテンツ事業……20事業くらいをいろいろ試していくなかで、何とか前に進めたのがベトナムでのアパレル事業でした。日本のアパレル会社の在庫を買い取り、ベトナムで販売するというビジネスです。テストマーケティングをしたところ2日間で2500枚くらいの洋服が売れ、「こんなに売れるのならいけそうだ」と判断し、ベトナム人の仲間と一緒に現地にお店を出しました。 ベトナムの事業の原資になったのは、日本で受託したホームページ制作、システム開発、株式上場のコンサルなどの仕事で稼いだお金でした。それをベトナムの事業に投資していったのですが、気づけば1億円近い赤字になっていました。結局、商売がうまくいかなかったのです。 商品はお金を出せば簡単に仕入れられますが、ふつうに売れるのはそのうちの何割かで、あとは適切なタイミングで値下げ販売したり、現地で在庫処分をして現金化していく必要がある。そのサイクルを作るのが大切となるわけですが、アパレル業界で働いた経験のない私にはその辺りのことがよくわからず、現金化されない商品がどんどんたまっていく状態になりました。それでも、新しい洋服を仕入れなければ商売を続けることができない。結果、赤字が膨らんでいったのです。
メールの履歴などから調べてみると半年前から用意周到に準備を進めていたことがわかりました。私には「ベトナムの事業を頑張ってください。日本のクライアントは任せてください」と言っておきながら、その裏で得意先に対して引きはがしの工作を続けていたのです。自分は半年間ずっと騙(だま)されていたんだなと思うと本当にショックでした。恨まずにはいられませんでしたね。彼の「気づかなかったんですか」という笑い声で夜中に目が覚め、朝まで眠れない日々が1カ月間くらい続きました。さらに追い打ちをかけるように、赤字続きだったベトナム事業の担当役員も「疲れた」と言って出て行ってしまった。「取締役」の肩書があるのは、もう自分ひとり。そんな状況に置かれた2010年の年末、オフィスにしていたマンションの一室でなんとも言えない孤独感を抱きながら一人ぼっちでいると、ピンポーンとチャイムが鳴って、宅配便でお歳暮が届いたんです。むかし取引のあった上場企業からのお歳暮だったのですが、これがめちゃくちゃ嬉(うれ)しかった。このとき、自分の人生で一番大切なのは、ビジネスを通じて人の役に立ち、「ありがとう」と感謝してもらえることではないかと思いました。振り返るとこれまで、「社長になってみたい」「お金もうけをしたい」といった具合に、名誉やお金を第一に追い求めているところが確かにあった。でも結局、そういうモチベーションで仕事をしていると、それが人に伝わるんですね。自分自身が濁っていたから腹心の部下に裏切られるような目に遭うのだと、自然と受け入れられるようになりました。
企業ではない個人を信用して仕事を依頼することは、これまでの日本の商習慣上ほとんどなかったし、取引を開始するには与信、稟議、契約など社内の煩雑な工程で発注までに普通に1~2カ月かかっていました。しかし、通信インフラの発達でデータをカジュアルにやり取りできるようになった今、そのような工程で時間をかける必要もない。個人の実績もネット上で蓄積していくので、それを個人の与信として活かすことができるのです。こうした状況から考えてクラウドソーシングというビジネスは大きな意義があると考え、起業しました。
クラウドソーシングがいかなるものか調べてみると、要するに個人でもできる小さな仕事を発注したい企業と、そうした仕事を継続的に得ていきたい働き手をインターネットでマッチングするサービスだとわかりました。これなら過去にさんざんやってきた受託のビジネスに近い。どこにマッチングを成功させるポイントがあり、どこが不満の要素になるかが手に取るようにわかる。クラウドソーシングのビジネスなら私はどこまでも人の役に立てると思い、自分が持っている資金・人材をすべて突っ込んで、2011年にクラウドワークスを創設しました。すると驚くほどに周囲の人たちが味方になってくれるようになりました。エンジニア向けの派遣・転職支援を手がけるパソナテックの森本宏一さん(現会長)もその1人。新事業をはじめてすぐの頃に「飲みに行こう」と唐突に連絡をくれ、2人で飲みに行くと、「ドリコムの頃からあなたを知っているが、1回目の起業のときはなんか稼げそうなビジネスにうまく乗っかろうみたいな感じがした。しかし今回の起業は、遠くから見ていても社会のために役立とうとする本気度合いが伝わってくる。だから、今回は応援したくなった」というようなことを言われました。これには大いに励まされましたね。
全く社内からは賛同を得られなかったですし、むしろ信頼が底に落ちました。『今の事業にこんなにリソースは必要ないのに100名も採用すべきではない』『ガーデンプレイスのような坪単価の高い場所に引っ越すべきではない』『新卒採用の意味がわかっていない』などなど。私への非難はあげたらキリがない。それ以降、あらゆる僕の意思決定は社員たちから非難され続け、信頼してもらえないようになりました。ある事業の撤退を決めた時、エンジニアから『吉田さんの指示で納得できたことは、これまでにひとつもなかった』と言われましたね。特にショックだったのが、経営陣との関係性が悪くなってしまったこと。今は雪解けしたからお話しできるのですが、もうあの時は最悪な状態にまでなっていきました。本人たちも認めるところだと思います。たとえば、5000万円をつぎ込んだ広告施策を私の“ひと声”で決めたのですが、見事に大失敗しました。まったくユーザーが獲得できなかった。『5000万円はありえない』『社長には経営センスがない』と。ある経営陣から『もう限界です』『このままでは自分がやる意味がない』と言わせてしまった。僕がアレコレと口を出すから、思うようにやれていなかったんです。彼をそこまで追い詰めてしまった。気づいたときに手遅れになる寸前でした。今だから言えますけど、お互いよく気持ちが折れなかったと思います。従来のやり方だと、クラウドワークスを社会的なインフラ企業へと押し上げていくことは難しかった。これまでの業績の成長曲線を未来に延長しても、ソフトバンクや楽天、サイバーエージェントのような企業にはなれない。飛躍的成長のためには僕らの延長線上にはないやり方が必要だ、と私なりに必死でした。ただ、何をやっても上手くいかない。どん底でしたね。
以前、私のことを批判する経営層が、やたらと本を引き合いに出してきたことを思い出しました。『このビジネス書にはこう書いてあるのに、クラウドワークスはできていない』と。ウチはその本の中にある会社じゃないぞ、とカチンとは来ましたが、個人攻撃ではない。ひとつの意見として受け止められた。もしかしたら“本”を手がかりに、お互いの価値観を共有できれば、相互理解が深まるのではないか、と。私たちはお互いだけで話すと主観のぶつけ合いになってしまい、客観的に見ることが全くできなかった。しかし、本のように一定客観性があるものによって対話が進んだのです。ということは、社外のコンサルタントのような客観性のあるポジションを入れるとさらに変化があるのでは、と。外を知る人のアドバイスが必要だ考えたんです。
経営陣が少しずつ私のことを頼ってくれるようになったんです。経営陣自らが相談をしてくれた。『2016年の10月からは、吉田さんと各責任者が密にコミュニケーションをとってほしい』と。もしかしたら、思いきって全てを任せたことで、私がつまづいたところ、壁を乗り越えたところ、クラウドソーシング業界の難しさについて、体感してもらえたのかもしれない。少しずつ目線があってきたような気がしていた。1年耐えたおかげで、ようやく役員たちと腹を割って話せる雰囲気になりました。
その過程は非常に興味深いものでした。たとえば『目標』の定義ひとつを見ても、目標を『何が何でも達成しなければいけないもの』と捉えているメンバーと『高いものだから未達成でも仕方ない』と捉えているメンバーがいるわけです。まずはミッションカードをつくり、目標の定義を明確にしました。じつは私自身、会社員時代が長く、こういうカードによるカルチャー作りは苦手で避けてきた。ただ、メンバーの毎日を幸せにするためにも、形にしてメンバーへ浸透させることが重要なのだと理解できました。
先日、メンバーの前で『これから2?3年以内にもう一度大きな勝負に出たい』という話をしたんです。すると、あるマネージャーが手を挙げて『また事業や組織がぐちゃぐちゃになるかもしれないけど、私は楽しみです』と発言してくれて組織としての成長を実感しましたね(笑)
1回目の起業は自分のお金と借りたお金しか使ってないです。一方で、2回目の起業であるクラウドワークスは出資のお金でドライブさせていて、今度は借金をしていません。その経験からいうと、事業資金には3種類あると考えています。自分のお金、借りたお金、出資いただいたお金。この3つは、明確に性質が違います。自分のお金は、銀行に置いておくと減らないですよね。むしろ金利分、多少増える。ところが借りたお金というのは、金利分目減りする、置いておくと減るお金なんです。一方、出資を受けたお金は、増えるか減るかでいくと、減りはしない。自分のお金と借りたお金だけなら、株式でいうと持ち株比率は100%です。ところが出資を受けると、自分の持ち株比率が減る。専門用語でいうと希薄化といいますが、ここが大きな違いです。この3つのお金の質の違いというのを考えて、それぞれに向いた使い方があるので、自分自身がステージごとにどこを目指したいのかによって、どのお金を使うかが違ってくると思っています。用途という意味でいくと、自分のお金は何に使ってもいいわけです。でも、借りたお金は、事業投資する用途を明確にした上で借りるので、基本的には借りる際に申し込んだ事業に使います。Aという事業をやるといってるのに借りたお金で全然別のこと、例えば車を買うとか、馬を買うっていうのも昔は極端な例としてあったらしいですけど、今はそういうのは許されない。一方、出資のお金は、使途は明確にするものの、株の買い戻しは双方合意がなければできないので、一回出資が決まったら、(融資のお金と違って)「やっぱりお金返して」みたいなことはできない。つまり、事業を転換することを受け入れてくれる余地がある。だから自分で何をやっていいかわからないというときには、個人の意志だけで出資できるような個人投資家(※エンジェルと呼ばれています)から出資をお願いしてメンタリングを受けながら事業を創っていくことも選択肢の一つです。
事業会社が出資する場合、ベンチャーキャピタルと違って資金回収期限はないです。ただ、自社の経営課題を解決するために出資をしているケースがあるので、目的があることが多いんですよね。今、大手携帯キャリアが積極的に投資していますけど、あれは通信インフラに続く、次世代の事業の軸をあらゆる方面から探していくみたいなことでやっているわけですよね。個人投資家とベンチャーキャピタルは、ある意味、金銭的なリターンが最終的にあればいい感じですけれど、事業会社は、金銭的なリターン以外の事業シナジーとかを目的としていたりするので、その意図が合致してないと後々揉めることにもなりかねない。その意味においては、起業家側の価値が明確に形成されてきているステージ、ベンチャーキャピタルよりもさらに後の段階で事業会社が投資するほうが一般的かもしれません。出資の順番としては、第一段階が個人投資家、第二段階がベンチャーキャピタル、第三段階は事業会社が一つのモデルケースと言えるでしょう。もちろん戦略的に始めから事業モデルが固まっていて最初から事業会社出資で起業するようなケースもあるとは思いますのであくまで一つのモデルケースとして捉えて、そこから自分なりのやり方で考えていく必要はあると思います。
うちのケースでいくと、エンジェルラウンドでは、個人投資家は小澤隆生さんやメルカリの山田進太郎さんなどに投資をしていただきました。この方たちは起業経験者なので、起業家のマインドがわかるから苦しいときにこそ、温かく応援してくれるんですね。その後ベンチャーキャピタルで、サイバーエージェントベンチャーズ、続いて、伊藤忠テクノロジーベンチャーズ。あとデジタルガレージですね。「シリーズB(IPOに向かう資金調達期)」と呼ばれるところでは、サイバーエージェント本体や、上場寸前にはAOKIホールディングスなどの事業会社に出資してもらいました。
起業家って3つのタイプがあると思っていまして、お金軸で金融に強い起業家、テクノロジー軸で技術力を持っている起業家、人軸で組織とか仲間作りがうまい起業家。私は人に強みを持つ組織力、文化作り、そういうものにドメインがある人間なんです。テクノロジーに主軸がある人とか、金融に主軸がある人には、必ずしも私はいいアドバイスができるとは限らない。ただ、彼らが人的なもので困っていたら補完できるので、そういった出資はありますけどね。例えばテクノロジー軸の起業家って、そもそもの興味として技術が楽しくてしょうがないとかっていう人なんですよ。
私はやっぱり人を見ています。人としての覚悟ですね。これは、本当に会って2、3分でほぼわかりますよ。どれぐらいの背景を持ってこれをやりたいと思っているか、言葉のニュアンスで全部わかるんですよね。語尾や、ふとした一言でわかっちゃう。逆にいうと、事業モデルとかは私は見てないです。創業時のビジネスモデルなんかは、うまくいかないことがほとんどですので。
パイオニアを退社した時に上司から言われたことがあります。「お前は個人としては優秀かもしれない。しかしそれは、周りにいる人のおかげだ」。その時は「何を言っているんだ?すべてオレの力じゃないか」と思っていましたが、その言葉の正しさは随分あとになってから気付きました。私は幸せというのは、人との“つながり方”だと結論付けています。形は人によってさまざまでしょうけれど、私は社会人として社会に貢献し、誰かに「ありがとう」と感謝されること、それを“幸せ”と呼んでいます。
今後は、ひとりの強烈なカリスマによって成立する会社というのは、なかなか現れないんじゃないかなと思うんですよ。なぜかと言うと、インターネットによって情報は即座に共有される時代ですから、ひとつの強烈なビジョンが示されても、そのカウンターとなるイメージや情報が即座にネット上で提示されてしまうからです。これからはより個が大切にされる時代になる気がします。
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