渡辺えりの「大切な」言葉たち~渡辺えりの名言・人生・生き方など~

渡辺えりの「大切な」言葉たち

2歳のとき、こたつの上で『荒城の月』を歌うと周りの大人たちから『えりちゃん上手ね』って煽てられて、歌手になろうと思いました。でも、バレリーナにも憧れましたね。森下洋子さんみたいなプリマに。でも、私の生まれたところはバレエ教室までバスで40分。車酔いが酷くて諦めました。その後、オペラ歌手に憧れて高校の声楽クラブに入って……と、やりたいことがたくさんあったんです。それを全部叶えられるのが演劇でした。

ウチの父は教員で、母は農協の職員でしたが、戦中はお国のために働いて、戦後は子供のために働いて、今は認知症(苦笑)。山形で、別々の老人ホームに入っています。そういう親の人生をずっと見てきたので、私がうっかりダイヤモンドの指輪なんか買ったら、両親に申し訳なくて。死にたくなっちゃうかもしれない(笑)

小学6年生のとき、『シャボン玉ホリデー』というTV番組でザ・タイガースが『僕のマリー』を歌っているのを見て、〝もう、この人だ〟って思っちゃったんですよ。それ以来ずっとタイガース、そして、そのボーカルだったジュリーの大ファン。初めて買ったレコードもザ・タイガースの『ヒューマン・ルネッサンス』でした。もうタイトルがいいじゃない?でも、当時はレコードを買うだけで不良って時代ですから、レコード屋の前を何度も行き来したんですよ。〝これを買ったら不良になっちゃう〟って(笑)。それでそのアルバムの中に入っている曲についての楽典を図書館で調べているうちに、音楽好きになっちゃったっていう。だから、今の自分を育ててくれたのが、ザ・タイガースでありジュリーだったって感じです。原点ですね。

あこがれのジュリー(沢田研二)と結婚、貧富の差をなくして社会改革、という2つの野望を胸に、18歳で山形から上京しました。トイレは共同で家賃9,500円の池袋のアパートに住みながら、舞台芸術学院で演劇を学びました。ここでのバイトは当時、平均時給が400円のところ600円もらっていました。家にテレビがなかったので、ジュリーのドラマや『紅白歌合戦』はママのマンションに行って見せてもらって、日曜日にはカレーライスと餃子を食べさせてもらい、洋服もいただいたりね。ママは私にとって東京の母。山形の実の母とも仲よくしてもらっています。

祖母や両親が夜ごと、ふるさとの民話や童話を読み聞かせてくれました。狸に化かされた村人の話とか、現実と夢がまざったようなお話に夢中になって、何度もお話をおねだりしていました。また父が詩人の高村光太郎と宮沢賢治に傾倒していて、私が1、2歳のころから詩や童話を朗読してくれていたようです。もちろん意味なんて分かるわけはないのですが、美しい言葉のリズムがとても心地良かったことを覚えています。言葉が分かるようになると、物語の続きを自分で作るのが楽しくなって。それをみんなに話して聞かせると大喜びしてくれるので、その喜ぶ顔見たさに、あれこれお話を考えていました。

犬のお母さん役だったのですが、舞台に立つと、いじめられっ子の自分を忘れることができたのでしょう。『拍手をもらってとてもうれしかった』と母に伝えたそうです。その後、3年生のときの担任の先生が、歌を歌えば『いいね』、作文を書けば『うまいね』とみんなの前で褒めてくれたことで自信がつき、学校生活に溶け込むことができるようになりました。そして5年生のとき、6年生を送る会で、人生で初めて自分で脚本を書いて演出・主演を務めたお芝居が大好評だったんですよ。

私は5歳のとき山形市内に引っ越して小学校に入った途端、いじめに遭っています。あまりのショックに2年間もひきこもり状態になりました。夢と現実のギャップを知り、不平等な世界や矛盾を知り、だからこそ、演劇の夢を追うようになりました。

当時の私は、演劇に没頭したいという理想と、娘に大学進学をと望む親の期待に沿わなければならないという現実とに板挟みになっていて、劇中のローラというちょっと神経質でデリケートな性格の娘に自分を重ね合わせて観ていました。幕が下りたとき、どんなに人生がうまくいかなくとも、『私は生きていていいのだ。明日からまた生きていける』という感動に震え、涙が止まりませんでした。

プロをめざして夢いっぱいの私は、お腹が空いていても、週1回しか銭湯に行けなくても、おしゃれができなくても、まったくつらいと思ったことはありませんでした。成人式は卒業公演の準備に奔走していたときで、同じ劇団の女の子と3人でアパートで乾杯しただけ。それも今は楽しい思い出です。

ピン子さんには、ラーメンを御馳走になったこともあるんですが、いまだに感謝しています。当時は家賃を3ヶ月滞納するぐらいお金がなかったんです。その頃は主に小劇場で活動していて、バイトを3つ掛け持ちする生活でしたから。おしんに出たギャラで、なんとか家賃を払っていました。

今まで普通にやれてきたものがやれなくなるという現実。その現実に直面し、どう乗り越えていくのか・・・と考えたとき、そもそも自分が演劇をやりたい、演劇の勉強をしようと思って東京に出てきた頃と同じだ、と思ったんです。山形から上京するとき、「人前でお芝居をしてお金もらうなんてのは夢にすぎない。諦めろ」と家族や友人たち皆に言われていました。でも、それを振り切ってでも芝居がやりたくて上京したのです。でも、そうやって出てきたものの、まだ自分には実績も活動の場もない。当然、演劇をやりたくても思うようにはやれませんでした。あの頃の自分の行き詰った状況と、コロナ禍でやりたくても芝居ができない状況がダブってきてしまったんですね。演劇は見てくださるお客様がいて初めて成立するものです。そして、なぜ、演劇をやり続けたいかと言うと、ただただ、お客様に面白い舞台を見せたい、お客様に喜んでいただきたいという思いがあるからなんです。それが、コロナで、自分がやってきたことや自分の思いをすべて否定されたような、無力感を味わいました。でも、そうやって若い頃の自分を思い出すにつれて、いつの間にか自分の芝居への情熱の原点を忘れてしまっていたことに気づかされました。どんなに大変な道のりでも、演劇をやり続けるんだという思いがあったから一生懸命やってこれたし、自分がどうしてこの仕事をやっているのかということを、改めて突き付けられましたね。

自分たちがオリジナル性を培ってきた原点となる先達のことを消したくない。だから若いメンバーも一緒にいてほしい。−−確かにこれからの時代、格差が大きくなって、寿命も長くなる中で、お金のことも含めどうやって生きていいか漠然として不安は感じます。

私たち日本人は真面目だから、みんな忙しいんですよね。ただ、その忙しいことを言い訳に、なんでも合理的に処理してしまうのは、良くないのかもしれません。例えば、お年寄りに「どうしたの?」と話しかけても、返事に時間がかかるでしょう。合理的であることだけ考えていたら、そのやり取りが面倒くさくなって、コミュニケーションそのものを断ち切ってしまう。認知症が始まってしまえば、悪くなる一方になってしまいますよね。だから、そんな世の中の流れを変えていくことが、今の日本に何より必要なことだと思うんです。

健康でいることは大事ですが、病気になることを恐れすぎても人生味気ないと思います。体のどこか一部にハンデを背負うことで、逆に人生に踏ん切りがつく人もいる。だから、例えば日本人の健康寿命とされている75歳を一つの区切りと考えて、思いっきり生きてみるのも楽しいんじゃないかな。

うちの母親はとても気が利いて、てきぱきやっていた人だったのですが、認知症になって、次第にひどくなっていく中で介護施設に入ったわけです。私は会いにいくたびに、何時に起きるかから始まって集団生活をさせられている様子が収容所にいるようだとショックだった。人間というのは自由な存在のはずで、自由に生きるために先達たちが頑張ってきた。誰もが自由な時間を得るために頑張って、苦労して働くんだと思っていましたが、それはひとつの幻想だったのかと。世の中どんどん格差社会になって、裕福な人もいるけれど、貧しい人も増えて、一生懸命働いてきた人たちが老いてなお働かなければいけない現実があるわけです。じゃあなんのために生きてきたのだろうかと思っちゃいますよね。

今寂しいなと思うのは、世界平和は、遠くなるばかりのような気がすることです。私は、自分の子供をもてなかったので、その代わりに、世界の子供たちの面倒を見なきゃいけないと思っていて。劇作家協会の会長を引き受けた理由の一つも、人がやりたがらない仕事をやることで、何でもいいから社会に貢献したいという気持ちがあったから。会長職をやることで、すぐカッとなってキレやすい自分が、(猫撫で声で)『お世話になります~』なんて、しおらしい態度が取れるようになった。“馬子にも衣装”ならぬ、“馬子にも役割”とでもいいますか(笑)

昔なら、松下幸之助でも福沢諭吉でも二宮金次郎でも、お金がある人や儲かっている人は、積極的に社会に還元しようとしていた。昔の偉い人はみんなそうしていたし、それを私たちは偉いと思って、見習おうとした。私も、生まれて初めて読んだ伝記はシュバイツァー博士でしたから、いつかは世のため人のため、という気持ちは、幼い頃からありました。でも今は、話題になる人や、若い人が憧れる大人が、単なるお金持ちばかり。『自分はこれくらいでいいから、あとは人のために使おう』という大人が、もっと増えていけばいいのにと心から思います。

日本は戦後の貧しかった時代を一生懸命に乗り越え、やっとここまで豊かになったのに、最近は勉強をしたいけれど高校を中退する人が増えているなんていうことを聞くと、なんだか時代が逆戻りしている感じがしますね。経済的な格差も広がっているというし、貧困が貧困を生む社会構造は変えなければならないと思います。

宮沢賢治に『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』という言葉があります。私の思いも同じ。別に私が正義感が強いというわけじゃなく、昭和30年代生まれにはそういう価値観を持っている人って多いのでは。子どものころに読んだ本や漫画、受けた教育も影響しているのかもしれません。物語に出てくるのは、いつも決まって貧しい生活の中でも努力と忍耐で成功する主人公でした。それを生まれながらにしてお金持ちで意地悪な人が出てきて邪魔をする。『お金持ちは悪人』で、『お金で人の心を動かすのは醜いこと』だとすりこまれてきたんですね(笑)

私もとにかくお客さんに笑っていただきたいです。同時に、自分にとっても今笑いが必要だと感じています。陽気な性格と言われる私ですら自粛期間には色々考え込んでしまって、「生きていていいのかな」と思うほどに落ち込むこともありました。そんな時期に真っ先に人の心を助けなきゃいけない私たち演劇人が、上演中止に追いやられて何もできなかったことも辛かった。古代ギリシャ時代は、演劇は医療として用いられていたほどなんです。今こそそんな演劇の笑いの力が必要だと痛感しています。だから、毎公演悔いなく笑わせたいし、笑いたい。喜劇の力でお客様の心の傷も癒し、その笑い声で自分も癒されたいと思っています。

渡辺えりとは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

渡辺えり。

1955年生まれ、山形県出身。

山形県立山形西高等学校卒業後、舞台芸術学院に入学。高校在学中は演劇部に所属していた。

1978年、もたいまさこらと「劇団2○○」(げきだんにじゅうまる)を結成。

1980年に「劇団3○○」(げきだんさんじゅうまる)と改名。

1997年 同劇団解散後、2001年に「宇宙堂」を結成。作、演出、出演の三役をこなす。

1980年 シアターグリーン賞受賞 『改訂版タ・イ・ム(夢坂下って雨が降る)』

1982年、幻児プロの『ウィークエンド・シャッフル』にて映画初出演。

1983年 連続テレビ小説(NHK)おしん – 谷村とら 役

1983年、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞受賞。野田秀樹、山元清多と同時受賞。

1987年 第22回紀伊國屋演劇賞『瞼の女 まだ見ぬ海からの手紙』

1991年 プラハ国際テレビ祭グランプリ 『音・静かの海に眠れ』

1994年 連続テレビ小説(NHK)春よ、来い- 佐藤かね 役

1995年 第17回日本アカデミー賞優秀助演女優賞 『忠臣蔵外伝四谷怪談』

1995年 第4回日本映画プロフェッショナル大賞特別賞 『忠臣蔵外伝四谷怪談』『怖がる人々』

1996年 第21回報知映画賞助演女優賞 『Shall We ダンス?』

1997年 第20回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞 『Shall We ダンス?』

1998年 連続テレビ小説(NHK)天うらら – 松尾百合子 役

2006年4月に関東学院大学工学部客員教授に就任。担当は現代芸術論。2005年3月、「マガジン9条」発起人となった。

18代目中村勘三郎とは昔から酒をよく飲み語り合う仲。

美輪明宏とは親交があり、その縁で宇梶剛士を紹介され、舞台経験を積ませたこともある。

2007年9月26日、美輪の助言で芸名を「渡辺 えり子」から「渡辺 えり」に変更したことを9月27日に公表した。

人形劇団結城座自主公演『森の中の海』では、作・演出を務める。

客演として稲荷卓央(唐組)を迎え人形と役者の共演を初演出する。

2008年4月1日から「シス・カンパニー」が所属事務所になった。

同年5月10日‐6月8日シス・カンパニープロデュース公演『瞼の母』(主演:SMAP・草彅剛)で演出を担当。

2011年 連続テレビ小説(NHK)おひさま – 村上カヨ 役

2013年 連続テレビ小説(NHK)あまちゃん – 今野弥生(騒音ばばあ) 役

2015年 2015 55th ACC CM FESTIVAL・クラフト賞 フィルム部門 演技賞 – 東京ガス「家族の絆・母とは」のCMの演技に対して。

2016年3月1日付で、日本劇作家協会副会長に就任。

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