■中学校社会 歴史/ヨーロッパ諸国によるアジア侵略(中学校社会 歴史)
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・ヨーロッパによるアジア侵略
日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは産業革命などにより科学技術が大きく発達したため、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。
19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。
結論から言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。
もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。
日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。
だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。
(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)
たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。
また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。
・イギリスのインド支配
1800年代のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。
イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。
イギリスに対する大きな反乱が1857年に起きました。
インド大反乱です。
シパーヒーが反乱を起こしたので、シパーヒーの乱(あるいは「セポイの乱」)とも言います。
ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますますつよめ、インドを直接の支配下に置き、植民地にしました。
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中学校社会 歴史/ヨーロッパ諸国によるアジア侵略(中学校社会 歴史)
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■ミャンマー(旧ビルマ)
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インドを支配するイギリスはビルマ王国(コンバウン王朝)に対して植民地になるよう一方的に通告、ビルマ側が拒否すると武力に訴えた。
これを英緬戦争という。
3次にわたる英緬戦争に敗れたビルマは1886年に英領インドに編入されてその1州となった。
1937年、イギリスの自治領になる。
1942年、アウンサン将軍がビルマ独立義勇軍を率い日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐。
しかし今度は日本が占領し軍政を布いた。
その後インパール作戦で失敗を繰り返すなど日本の敗色濃厚とみるやそれまで日本軍と行動を共にしていたアウンサン将軍はビルマ人の国を守るためイギリスについて抗日運動を指導した。
日本軍に勝利したもののイギリスは独立を許さず、再びイギリスの植民地となった。
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ミャンマー(旧ビルマ)
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■フィリピン
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米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。
1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。
5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。
フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。
1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。
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フィリピン
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■インドネシア
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オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。
この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島の全てがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。
ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命戦争でフランス軍に占領されて滅亡。
バタヴィア共和国(1795年-1806年)、ホラント王国(1806年-1810年)と政体を変遷した。
インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。
1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発。
1824年に英蘭協約が締結され、オランダ領東インドの領域が確定した。
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インドネシア
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■ラオス
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・フランス植民地支配
19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めた頃には、ラオスの3国はタイの支配下にあった。
が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年に仏泰戦争が起こる。
その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年にフランス領インドシナに編入された。
ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた[9]。
第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。
大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、独立を宣言をした[9]。
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ラオス
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■カンボジアの歴史
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・近代(植民地時代)
19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島(インドシナ)の植民地化が始まった。
1863年8月11日、フランスはカンボジア王国との間に「修好、通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結。
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カンボジアの歴史
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■ベトナム
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・フランス植民地支配
1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを艦砲射撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い(英語版))。
1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊がダナンに侵攻(コーチシナ戦争(英語版)、1858年-1862年)。
1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。
1867年6月、フランス領コーチシナが成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。
1882年4月、フランスがハノイを占領した。
1883年6月、トンキン戦争(英語版)(1883年6月 – 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(英語版)(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナンとトンキンがフランスの保護領となる。
1884年5月、天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(英語版)(第2次フエ条約、パトノートル条約)で清への服従関係を絶つ。
1884年8月、清仏戦争(1884年8月 – 1885年4月)が勃発。
1885年6月、天津条約で、清は宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。
1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。
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ベトナム
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■マレーシアの歴史
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・イギリスによる植民地統治時代
1795年 イギリス、マラッカを獲得。
1805年 トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
1821年 クダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島 (マラッカ海峡) を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結 イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレンとオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る。
1826年 イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立
1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始
1840年 ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊が海峡植民地シンガポールから阿片戦争へ出撃。ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力
1841年 サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立
1842年 ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる
1855年 イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約 (不平等条約) を締結。
1874年 イギリス領マラヤ成立
1882年 阿片戦争で有名なランスロット・デントのデント商会のデント兄弟がイギリス北ボルネオ会社による北ボルネオ (スールー王国とブルネイ王国) の統治を開始
1888年7月 イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立
1909年 英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。
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マレーシアの歴史
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■欧米列強はこうして植民地を支配した
2020年7月28日 レキシジン ドン山本
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2-10.アジア植民地支配の3段階
これまで見てきたように、白人によるアジア侵略は大航海時代にはキリスト教の布教を口実に行われ、18世紀以降は「文明化」という正義の旗印を立てて行われました。
しかし、欧米列強が植民地の争奪に明け暮れた原動力は、本国への富の還元にほかなりません。
植民地支配の実態は宗主国と地域によって大きく異なりますが、おおよそ3つの段階にまとめることができます。
その1.第一段階 脅迫と殺戮による恐怖政治
第一段階は支配権を確立するための脅迫と殺戮です。
東南アジアに栄えていた小国を征服するための手段は、そのほとんどが軍事力の行使でした。
ヨーロッパ列強の植民地支配は、圧倒的な武力を背景とした恐怖政治とともに行われたのです。
その地域にとってはよそ者に過ぎないヨーロッパ列強が支配権を握るために、旧王族やその親族、取り巻きたちを一掃することは、ごく普通のことでした。
たとえば、3回にわたるイギリス・ビルマ戦争に敗れたビルマでは、昨日までの王城を刑務所として使うことで王室の権威を失墜させるとともに、国王と王妃、4人の王女をインドに追いやりました。
王位継承者第一位の王女は、すでに妻がいる兵卒に報酬代わりに与えられ、他の王女たちは最貧層に身分を落とされています。
旧支配者に屈辱を与えることで、大英帝国が新たな支配者として君臨することをビルマの人々に知らしめたのです。
それでもなおイギリスの植民地支配に抵抗するビルマ人は多く、各地で反乱が起きました。
これらの反乱を武力をもって鎮圧するために投入されたのは、すでに植民地支配されていたインド兵たちでした。
イギリスによる反乱鎮圧は過酷を極めました。
反乱が起こった地方の指導者や有力者、関係者、さらには見せしめとしてその家族までが処刑されています。
ビルマ人の団結と復興を呼びかける識者や国士も、その多くが殺されました。
逆らえば殺されるという恐怖を住民に植え付けることで、ヨーロッパ列強は植民地を思うがままに支配したのです。
その2.第二段階 多民族を利用した分割統治
植民地支配の第二段階は、植民地の分割統治です。
宗主国であるヨーロッパ列強が恐れたことは、植民地となった住民たちが一丸となって自分たちに刃向かってくることでした。
軍事力では圧倒的に勝るとはいえ、植民地の人口比率からすれば宗主国側の人口はごくわずかに過ぎません。
反乱を抑え、宗主国の意のままに住民たちを支配するために、ほぼすべての植民地で分割統治が行われました。
植民地化された地域は、もともと統一国家ではなく小国が乱立していました。
そのため、強引に一括りとして植民地化された地域は、はじめから多くの対立関係を抱えていました。
宗主国はこれらの対立を巧みに利用し、民族や現地勢力をわざと反目させて分断することで統治したのです。
先ほどビルマを例に「脅迫と殺戮」について紹介しましたので、今回もビルマでの分割統治を見てみます。
ビルマの分割統治で利用されたのは、山岳地帯に住んでいたモン・カチン・カレン族です。
ちなみにカレン族の一部は「首長族」と呼ばれている人々です。
イギリスはこれら山岳民族をキリスト教化してから都市に移住させ、主として警察と軍隊に配しました。
さらに、仏教徒が多いビルマを解体するために、イスラム教徒のインド人を年間十万人単位でビルマに送り込んでいます。
インド人は金融業を一手に担いました。
極めつけは華僑(かきょう=中国本土から海外に移住した中国人およびその子孫)の招き入れです。
これによってビルマの経済は華僑に握られることになりました。
では、ビルマの主人であったはずのビルマ人はどうなったのかといえば、その多くが最貧層の小作人に甘んじるよりありませんでした。
植民地化した地域に異民族を移住させ、その異民族を介して先住民族を支配することは、イギリスのお家芸です。
そうすることで住民の憎悪はイギリスではなく、異民族に向けられるからです。
植民地に、イギリスが自分たちの手先として送り込んだ異民族の多くは華僑でした。
マレーシアでもオランダ支配下のインドネシアでも、同じ手口が使われています。
植民地になるまでは民族ごとに棲み分けされていたにもかかわらず、ヨーロッパ列強が植民地支配をたやすくするために異民族を大量に移住させたことにより、民族と宗教の対立は現在に至るまで東南アジア諸国を苦しめています。
東南アジア諸国はもともと多民族国家ではありません。
無理やり多民族国家という構造を作り出したのは、ヨーロッパ列強による分割統治が原因です。
その3.第三段階 巧みな、なだめ政策
植民地支配の第三段階は「巧みな、なだめ政策」です。
圧政を敷いているだけでは、現地の人々の我慢もいつかは限界に達します。
そうなると反乱が起き、鎮圧に手こずることになります。
そこで宗主国は、鞭ばかりではなく飴も与えようとしました。
多くの場合、自治や独立をちらつかせることが効果的でした。
インドはイギリスから独立を認めるような発言を度々受けては、それを信じ、インドとはなんの関係もないイギリスの戦争に多くの兵士と資金を提供してきました。
しかし、実際にインド独立が実現することは大東亜戦争前にはありませんでした。
上流階級だけに高等教育を授けることも、この段階ではよく行われました。
植民地時代の上流階級とは、政府の役人など支配者である体制側についていた人々です。
つまり、宗主国の手足となって働く人々です。
本国への留学も行われましたが、あくまで上流階級の子弟だけに許された特権です。
一般の現地人が高等教育を受ける機会は、ほぼありませんでした。
ことに、あからさまな愚民化政策を推し進めたのはオランダです。
オランダの植民地インドネシアでは、インドネシア人を無知蒙昧(もうまい)なままにしておく政策が300年以上の長きにわたって実行されました。
インドネシア人への初等教育はオランダによって制限され、多くの人々が読み書きや簡単な計算さえできない状況におかれました。
そこには、インドネシア人はオランダ人に隷属するだけでよいのだから余計な知識はいらない、という人種差別が透けています。
オランダはインドネシア人が団結して反乱を起こすことを心底恐れていました。
集会や団体行動は厳しく規制され、3人以上集まって話をするだけでも逮捕されました。
もともとは小国が乱立していたインドネシアには複数の言語がありましたが、共通語を作ることさえ堅く禁じられたのです。
共通語を介して団結されることを恐れたためです。
下手に教育を施せば、自分たちのおかれた状況が理不尽なものだと気づかれ、団結して反乱を起こされるリスクが生じます。
植民地を失うかもしれないという恐怖が、オランダを愚民化政策へと走らせました。
しかし、極端な愚民化政策は内外から批判を浴びることになり、20世紀初頭にオランダは植民地政策を転換しました。
それでも上級の学校に進むことができるのは、上流階級に属するほんの一握りの子弟だけでした。
その4.文明化の名の下に行われた愚民化
オランダほどの悪意をもって愚民化政策を進めたわけではないものの、結果的に愚民化を招いた植民地も数多くありました。
たとえばインドです。
イギリスの支配を受けることで搾取され続け、インド人は次第に貧しくなっていきました。
そのため、学校に通える子供たちが減り続けたことで、学校がどんどん閉鎖に追い込まれていったのです。
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欧米列強はこうして植民地を支配した
2020年7月28日 レキシジン ドン山本
https://seijikeizai.jp/84777/
■東南アジアの植民地化【列強によるアジア侵略③】
ゼロから世界史67講
ユーテラ授業チャンネル【YouTubeの寺子屋】
■ヘンリー・ストークス 日本は白人支配からアジアを解放した
産経新聞 2015/6/29
■大東亜戦争は日本が勝った 英国人ジャーナリストヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」
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■「大東亜戦争」と呼ぼう 岡部伸
産経新聞 2021/12/7
■悪いのは侵略した白人、東亜民族解放した日本は誇りを…オランダの市長挨拶から再び戦後体制の是非を問う
産経新聞 2016/2/23 森靖喜
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