小島慶子の「大切な」言葉たち
私の母もルッキズム、エイジズムにとらわれていていたのだけど、とらわれる悲しみもあると思うんですよね。多分、彼女は、そうじゃないとサバイブできなかったんだろうなと思う。母は美人であることを見込まれて大企業の役員秘書の職を得て、丸の内の商社マンと結婚し、いわゆる「中流」になることができました。それを身をもって体験しているから、娘に対して「女は美人じゃないと駄目よ」と言ってしまう。
一度家族を諦めれば、名前をもった一人の女として母を捉え直すことが出来ました。すると見えてきたのは、娘を支配し憑依する母親ではなくて、不安げに辺りをうかがう、孤独な少女だったのです。
カウンセリングを受けて思い出したのが、幼いころの家族の関係でした。私は友達が1人もいなくて。人付き合いが下手な母と私は“母子カプセル”状態。母は『言葉遣いがよくないからあの子たちと遊んじゃダメ』などと、私を大事にしすぎて囲い込んでしまったんです。理想の子育てをしようと必死だったのでしょう。
ひとり稼ぎ手となった私はもう、めちゃくちゃ感謝して欲しくてたまらなくなりました。でも家族は意外といつも通り。そりゃそうです。毎日毎日「働いてくれて有り難う!お金を有り難う!」なんて言うのも不自然ですよね。でも、なれない大黒柱稼業にすっかり自意識過剰となった私は、家族のちょっとした一言に敏感になりました。次男におもちゃを片付けなさいと注意したら「ママはいま関係ないでしょ」と返され、「関係ないって、関係ないってどういうことよー!私が働いたお金で買ったおもちゃでしょ!」とぶち切れてしまったり、一緒に買い物に行った夫にいちいち「これ買ってあげる」とか言ったり。うわ、自分が今まで軽蔑しきっていた最低な男の典型じゃんか、私。人は置かれた環境によって変わるということを、しかも自分で思っている以上に下衆な変わり方をすることもあるのだと身を以て知ったのでした。これが私の正体か…最低なおやじだな。
収入ゼロ、肩書ゼロのまったくの丸腰になった夫。私、生まれて初めて無職になった男の人を見たんです。そんな男性をどうやって尊敬すればいいの? と思ってしまった。それまで私は男の価値は肩書や年収で決まるとは思ってなかったのに、心が素敵だからこの人と結婚してるんだと思っていたのに、実は収入や肩書に物すごく執着していた自分がいた。それがすごくショックでした。
東京に1人でいる時、そっちはいつも3人で、私はいつも1人だから。今は慣れたけど、“寂し死に”するかと思ったくらい、寂しかった」とし、「当時は、子どもが小さかったからなるべく帰ってあげたかったけど、そうしたら仕事の量を減らさないといけない。2人で稼いでいたのが(夫の退職で)1人になって、1人の働ける時間も今までの半分になったら、単純計算で今までの4分の1の労働で一家を養わなければいけなかったから、すごく不安だった。私の不安もどうにかしてほしいっていう思いもあったから、『何で仕事辞めたの!?』とか、『本当にあなたが仕事を辞めたから、怖くてしょうがないんだけど』とか言っちゃったんだよね。
本当にモラハラ的な自分が出てきちゃって、びっくりしました。そんな発言自体、自分は絶対に許せないと思っていたし、そんなことを思うはずはないと信じていた。マスコミの世界で男性と対等に20年近く働いてきた中で、どこかにそういうエリートサラリーマンの傲りの意識があったんですね。目の前に丸腰の人間が出てきたときに、居丈高な“上から目線”の態度が自分に現れたのです。
そこで初めて、「一家を支える男の人のしんどさ」というものが分かった。新橋の赤ちょうちんでクダを巻いているオヤジに、初めて共感したわけです(笑)。それは共働きのときには決して経験できなかったことでした。そこで私はようやく、男の人が見てきた苦しさっていうのは「選べない苦しさ」なんだと気付いたんです。私たち女性は「選べる苦しさ」を生きてきた。でも、男の人たちは最初から選択肢がなかった。選びようがないんだったら「仕事ってなんだろう」とか「家庭ってなんだろう」とか考える必要がない。考えてたところで、選びようもないんだから。
そりゃ、話がかみ合わないはずですよね。「男に生まれるっちゅうのも、しんどいな」と思いました。
多くの男性もかかっているであろう「男はスーパーマンであれ」という呪いです。だから息子たちには、自分の邪な気持ちを認め、弱音を吐かせ、苦しがってもいい、失敗したっていい、カッコ悪くたっていい、ただそれとちゃんと格闘して、辛い時は人に助けを求められる人になってほしいと伝えています。それから、「男らしさ」「女らしさ」の根深い縛りから私たちが自由になるには、地道に日々の暮らしの中で、相手の美点を発見すること以外に近道はない気がしています。私は、ひとりで向き合うには厳しすぎるこの世界を、夫が傍にいることでましに見えるなら、一緒にいたいと思う。
だって私、こんな必死な思いをして大黒柱として働いているのに、もし息子たちに「臭いからあっち行けよババア」なんて言われたり、夫に「見た目が劣化したね」とか「もっと稼げないの?」とか言われたら椅子投げそうです(笑)。でもそれをやるとDVだからダメ。昔は新橋のSL広場でウィ〜って酔っ払っているサラリーマンを嘲笑していましたが、今はもう、SL広場でフリーハグしたいくらい彼らの気持ちがわかります(笑)。
あれ? 同じお金をかけるなら、最初から海外に住めばいいんじゃないか、と思った。そうだ。“教育移住”という手があるじゃないか! そう思いついたんです。
夫が仕事をしていない中、どんなことができるのか考えた結果、日本じゃないところでの子育てに行き着いた。世界中のどこでも生きていけるようになってほしかったので、語学もそうですし、いろいろな人と触れ合ってほしかった。多様な人々との触れ合いの中で育つということが大事かなと思った。オーストラリアは移民の国ですし。教育目的なので“教育移住”という言い方ができるのかな。
身近な世間話のなかで『うちの子、そうかも』とか『クラスの困った子、それっぽいの』とか。何かまるで不吉なもののように発達障害を捉えている人が多いんですよ。一方で、すごく雑に扱う人も。『俺って変わり者でたぶん、そうなんすよ』とか、『テレビに出てるあの人もきっとそうよ』とか。ネガティブな先入観だけで話してほしくないし、ひとくくりにして軽はずみに扱ってほしくもない。だったら、その当事者である私が手を挙げて、一口に発達障害といってもいかに“いろいろ”あるのかを『私の場合はこうなんですよ』と発信してもいいかなと。そう考えたんです。
普通とか定型にきちんと当てはまる人だって、全員同じ脳みその持ち主じゃないでしょう。世の中、とくに日本の社会は、巨大な“普通幻想”があって、その、普通という型に自分をはめ込んだ人たちで世の中が回ってる。でも、その人たちが全員、機械のように同じ中身のはずないじゃないですか。マジョリティとされてるなかにも多様性はあるんです。なかには窮屈な思いをしてる人だっている。そういう人たちがいて当たり前だよね、とならないと、世の中は変わっていかない。
何の根拠もなく、人とちょっと違っていて、才能があるというのをADHDと自称したり、他人を勝手に決めつける。正しいADHDの理解を歪めていると思います。ちゃんとADHDというものを知ったうえで、もっと丁寧に使ってほしいと思ったんです。
細かいことをいちいち考えているので、描写が的確で、物事を説明するときに要約したり詳細な説明にしたり自在に切り替えることができるんですね。長年の工夫の積み重ねと、診断をきっかけに得た知識と、周囲の理解のおかげでこの特徴は、今ではむしろ“ギフト”であると思えるようになったんです。
多少仕事でいろんな経験をしてきて、そこそこデキる女のつもりでいたけど、そんな能力、何の役にも立たなかった。幼児というものは、それまで出会ったどんな話の通じない上司よりもわからずやで、どんな世話の焼ける後輩よりも手がかかる。誰より大事な人に誰より辛い目にあわされるって、なんて苦しいことだろう……と、それまでの恋愛なんか鼻息で吹き飛ぶほどの思いをするわけだ。今も中2と小5の息子たちは、私を苛立たせては笑わせてくれる憎いやつらだ。そういう関係を一言で言い表すのは、とても難しい。でもひとつはっきり言えるのは、私は彼らがいなかった頃の世界がどれほど寂しかったか、知っているってことだ。
発達障害の他にも今注目されているひきこもりや不登校など、世間が押した負の烙印ゆえに、そうだと言い出せない人は多いでしょう。「話しても大丈夫だよ。仲間がいるよ」という空気を作ることが重要だとつくづく思います。また、一人を見て全体を判断しないことが大事ですね。発達障害は「ニューロダイバーシティー(脳神経の多様性)」と捉える見方もあります。多数派との違いを一律に欠陥とみなすのではなく、人間の多様さの表れと捉え、長所は伸ばし、必要な支援をする。言うほど簡単ではないですが、経済界ではすでにそのような取り組みは始まっています。人間の複雑さを知る上でも、発達障害は多くの気づきを与えてくれるのです。
子どもたちがもし大学院までいってマスター(修士号)を取りたいと言ったら、下の子が今14歳ですから、あと10年は学費を稼がないといけない。今のところは私の人生、すべての基準は学費ファーストですよ。何をするときにも、『これで●円のギャラが入るということはすなわち、学費がいくら増える!』って、頭の中に学費が詰まってる状態。そんなんだから、子育て後の人生なにしようなんて考えたこともなかったなあ。
上の子がパースの小学校で修学旅行みたいなのに行ったときに驚いたのが、親だけでなく、子どもも同意書にサインをするんです。国立公園に5日ぐらいキャンプに行ったんですけど、「ルールを守らず、皆を危険にさらすような人間には帰ってもらいます。その場合の交通費は親の負担です」って書いてあって、子どももそれにサインしなければいけない。それって、子ども自身に判断を委ねている、裁量が与えられている、っていうことじゃないですか。全部大人が決めるんじゃなくて、「君が決めなさい」といってもらえる領分が、子どもにあるわけですね、これ、日本でもやればいいのにと思ったんです。
「オーストラリアに移住するくらいだから、昔からさぞ英語教育には力を入れてたんでしょ」と言われるんですが、移住するつもりなんて夫が仕事を辞めるまで全くなかったですからね・・・。ただなんとなくしまじろうの英語から始めて、近所のプリスクールのサマーキャンプに行かせたりとか、あとはいろんな英会話学校を渡り歩きながら、週に1回の英会話を続けてました。行くことが決まってからの2ヶ月間だけ、日本人の先生に海外に引っ越す子どもたち向けのプログラムを作ってもらって、週に2回みてもらいました。彼らはオーストラリアの初日に、“May I go to the bathroom?”をおまじないのように言ってたんですよね。
午後3時に迎えに行って「どうだった?」って言ったら、「僕ら英語すごくできるんだよ」と自己肯定感がすごく高まっているんですよね。「なんで?」って言ったら、「ABCが全部言えるし、自分の名前をアルファベットで書けるもん!」と。ABCが読めないとか、あと戦争で学校に行けず、母語での読み書きも習う機会がなかった子どももいます。だから日本で英語を習っていた息子たちは、初日に「僕らは英語ができるんだ」っていう幸福な誤解をしたようなんです。
日本語は課題ですね。英語圏でも、最低でも2ヶ国語ができないと生き残れないと言われているし、いかに日本語を忘れず、かつ向上させるかは今我が家の大きな課題です・・・。次男は気をぬくとルー大柴さんみたいになりますから。「今日、スクールのアセンブリーでティーチャーがね」とか(笑)
はい日本語で言い直して!と言ってるんですけどね・・・次男の日本語のショートメールがタチの悪いグーグル翻訳のような感じで、理由を聞いたら、音声入力にしたと。頭の中の英語を日本語に直して喋っているので無加工で文字にするとこうなるんだな、と妙に感心しましたが、やっぱりこれ日本語としてはマズイでしょ、と。そこはとても悩みどころです。バイリンガルの強みを活かさない手はないですから。
子どもたちにはなるべく多様な世界を見て、自分とうんと違う人たちと協力して生きるための力をつけて欲しいと思っています。ですから、いつか日本以外の場所で学んだり暮らしたりすることもあるだろうと思ってはいたのですが、小学校からと考えたことはありませんでした。英語と算数は世界共通語だから、自分なりの最善を尽くして勉強すること。それと、何でもいいから手に職をつけること。そうすれば、人生の選択肢はうんと多くなる。世界は多様で、人はみんな違う。だけど共感したり協力することで一緒に行きて行けるんだよ。そう繰り返し息子たちに言ってきました。
オーストラリアのパースは私の生まれ故郷。多文化政策のもと、様々な人種や文化的背景の異なる人々が暮らしています。一家でパースに引っ越して、私は稼ぎ手として日本と行ったり来たりする。やってできないことはないかも!完璧な教育なんてどこにもないし、リスクがゼロの明日なんてないのは、みんな同じ。ならば、今なら出来る!ということを大切にしようと思いました。
世界は多様で、人と人とはバラバラで、だけど分かり合えることもある、っていうことを彼らには体感して欲しかった。日本人どうしでも、自分と他人はうんと違っているものだし、違っていることは面白くて豊かなことだってことに変わりはないけど、「普通」でないと不安だとか、逸脱しない範囲で個性的であるべきとか、誰かの意図を読んで要領よく振る舞うことが知性だとか、言葉にならない縛りがいっぱいある。同族であることを前提にした内輪の理屈にうまく順応しないとしんどい社会だと思う。私はそれにあまりうまく適応できなかった。
英語の授業でレポートを書くときなどでも、当然、自分が何を考えているか?書かないといけないわけです。どこかから借りてきたモノではなくて自分のものを出すことを小学生の頃から習慣的にやらないといけない教育なんですが、長男は最初の頃、それが苦手でした。日本では先生が『自由に意見を言いましょう!』と言っても、実は先生が意図している答えを当てにいくというのが多いですよね。小学校高学年まで日本にいたのでそれがもうわかっていて身についていたんですね。だから、『君はどう思う?』という質問になんてこたえていいかわからないと戸惑っていたんです。だから私たちは夫婦で『本当に君が考えている事を言ってもいいんだよ。』と繰り返し繰り返し伝えてきました。どれだけ他の人と違っても、先生の予想と違っていてそれでいいということを何度も何度も。そしたら『そういうことなんだ』と納得して自分の考えを言う事ができるようになったんです。それができるようになってから顔つきが変わっていきました
私だって3週間一人暮らしをした後は、家族でいることに慣れるのに少し時間がかかる。子どもと一緒にいることは、とっても幸せだけど、とってもエネルギーを使うのだ。加えて私は幸せ恐怖症である。いつも家族の誰かが怒っていた家で育った身としては、自分たち一家4人が能天気にIKEAでミートボールなんか食べているのをふと俯瞰すると、あんまり幸せで怖くなる。こんなの幻なんじゃないかと、と急に不安になるのだ。もっと屈託なく、幸せに浸れればいいのに。
出稼ぎ母さんです(笑)。だいたい5、6週間日本で働いて、パースには2週間、戻る感じ。東京にいるときは、“ひとりブラック企業”ですね(笑)。テレビや講演などで飛び回り、部屋に戻るとずっと原稿を書いています。
人は変化で何かを失うことを恐れるけれど、変化はすでに手の中にあるものの新たな価値に気づくチャンス。やってみてダメだったとしても、見えてくるものがある。
可能性は無限じゃないし、何にでもなれるわけじゃない。だったら、あるもので勝負するしかありません。
誰だって何気ない言葉に救われる瞬間があるし、気づかないうちに自分も他の人の支えになることがあるんです。きっとみんな無意識にきらきらしたものや、あったかいものを誰かに渡しているんだと思います。
常識を知らないというか、視界にも入れていない。常識のことなんか考えないし、非常識のことも考えない。
小島慶子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)
小島慶子。
1972年オーストラリア生まれ。
両親はいずれも日本人。
父親が商社マンで、海外転勤を繰り返してきたそうです。
香港にも住んでいた時期もあり、国内外転々とした生い立ちだったそうです。
のち日本に帰国、日野市立三沢台小学校、学習院女子中・高等科へ進学。
母親は、いわゆる「毒親」だと告白しています。
母親の過干渉に心を病み、母親の作る食事を吐いて戻すようになり摂食障害になったそうです。
学習院大学卒業後、1995年にアナウンサーとしてTBSに入社。
入社3年目(1997年11月)に番組宣伝がきっかけで『日立 世界・ふしぎ発見!』のミステリーハンターを務めます。
入社4年目(1998年)の秋、ラジオ番組『BATTLE TALK RADIO アクセス』の初代ナビゲーターに。
1999年に第36回ギャラクシー賞DJパーソナリティー部門賞を受賞。
『ニュースフロント』『時事放談』と主に報道番組を担当し、ラジオのレギュラー番組『久米宏 ラジオなんですけど』も担当。
2009年3月末より『小島慶子 キラ☆キラ』のメインパーソナリティーに就きます。
2000年に番組制作会社の一般男性と結婚。その後、2人の子どもを授かります。
約15年ほど在籍したTBSを、2010年退社していますが、フリーのまま、『小島慶子 キラ☆キラ』メインパーソナリティーを継続。
『小島慶子 キラ☆キラ』は、高い聴取率を誇り、「ラジオの女王」とまで呼ばれていたそうです。
2011年は3月11日、『小島慶子 キラ☆キラ』番組途中で東日本大震災が発生、冷静な対応も評価が高かったそうです。
同番組は約3年継続し、2012年3月一杯で番組終了。
次男出産後、職場復帰への不安も重なって不安障害になります。
2014年、夫が仕事を辞めたのをきっかけにオーストラリアのパースに家族で移住、現在に至っています。