有森裕子の「大切な」言葉たち~有森裕子の名言・人生・生き方など~

有森裕子の「大切な」言葉たち

子どもの頃から「私は何をやっても人よりできないんだ」と思い続け、小学6年生の時にようやく「頑張ればなんとかなるかも!」と思えたのが走ることでした。私にとって走るということは、人から認めてもらうための手段。私は、特に走ることが好きという訳ではないんです。

体育より、美術や音楽や手芸が好きでした。ただ、小さい頃から何をやらせても人より時間のかかる子どもで(笑)。そんな不器用な自分が嫌いで、なんとかしようとするのですが、頑張れば頑張るほど空回りして、さらに周囲をイライラさせる。自分に自信が持てない……。そんな堂々めぐりをしているとき、ある先生から声をかけられたんです。小学校時代です。体育の先生なんですが、あるとき「短所っていうのは、そんなに悪いことか?」って。「短所だって、自分にしかないたった一つのステキな部分だぞ。それこそ、お前しか持っていない武器だ」って。嬉しかったですねぇ。その先生が担当していたのが陸上部で、当時は男子しか入部できなかったのですが、5年生のときに、女子も2人いればOKということになり、入部しました。

高校から陸上部に入っていたんですが、まったく芽が出ませんでした。でも走ることしか、自分に自信が持てることがなかったものですから、恩師がつてを作ってくださった日本体育大学に進みました。

私、高校時代のあだ名は「ナマケモノ」でした。走っているとき以外はどこか抜けていると。大学時代も、ふだんぼーっとしていて抜けているところがあったので、ついた愛称が「“リ”はいらない。アリモでいいよね」って。

私は技術が秀でているわけではなかったのですが、スポーツって全力でぶつかれば何かが残るでしょう? 何ごとにも自信のない私が求めたのは、自分に対するはっきりとした評価。それまで美術で賞をいただいたこともあったし、音楽も大好きでした。でもアートに対する評価って人によってそれぞれじゃないですか。でもスポーツは違う。自分が全力を出し切った結果がすべてで、評価が揺らがない。そこがいいんですね。

(リクルート)入部当時、小出義雄監督は私をマネジャーにしようと思っていたほど期待されていませんでした。岡山の国体予選で優勝したときは、マネジャーが事前登録していなくて、岡山県代表のチャンスを逃しました。それが悔しくて。ところが、私には実績がないから文句も言えない。しかし、その悔しさが私を大きく変化させてくれました。

私の気持ちは病んでいき、やがて自分の体にも影響が出ました。動き出しても、ぎごちないし、ぎごちないから痛みが出る、すると軋んでいた体をほぐすこともできない。わかる人がいない、伝える人がいない。もがいても、もがいても、自分の考えがおかしいのか、周りがおかしいのか、わからない。そんなことしている間に、足が痛くなって走れなくなりました。

私は股関節脱臼で生まれ、小学校2年生のときにはダンプカーにひかれ、身体は硬いし、身体能力に恵まれていないことにも次第に気づいていきました。でもそれをマイナスとして受け入れたら本当にダメになってしまう。だから何事においてもよく考え、独自のトレーニングを生み出す努力をし、必要以上に物事を追求し、きちんとひもといてから身に着けていくようにしました。だから本来マイナスな自分でよかった、いい意味でついていたのだと思えます。

唯一、私が得意なのが「人より頑張ること」なんです。私は先天性股関節脱臼で、幼い頃は矯正バンドを使っていました。しかも交通事故にあい、今でも酷いO脚なんです。身体的には走るのに向いてないんですね。実際、小出監督のもとで練習を始めるまでは、たいした記録も出ませんでした。私がやったのは「人より頑張る」、それだけです。いつも「もうダメだ」と思ったら、「あとちょっとだけ頑張ろう」と思ってひと踏ん張り。少し進んだら、「もうあと少しだけ、頑張ってみよう…」そうやって、少しずつ、限界が伸びて行ったんです。母はよく「『眉の上の高さ』くらいの目標」という言葉を使います。いきなり大きな目標を果たすのは難しいけど、眉の上、ほんの少し上の目標を一歩ずつならクリアして行けるという意味なんです。私は昔から器用でもないし、要領も悪い。だから、小さな目標クリアを積み重ねてきたんです。その結果が’91の大阪国際女子マラソンの日本最高記録であったり、オリンピックのメダルなんです。

メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います。

「自分で自分を褒めたい」というのは、シンガーソングライターの高石ともやさんがおっしゃった「自分で自分を褒めなさい」という言葉からきているんです。高石さんご自身もランナーで、アメリカで走っているときにボランティアの女性に言われた言葉と聞いています。名言のように言われることも多いですが、当時は「そんな弱いこと言ってるんじゃない」とか「気持ち悪い」というご意見も結構ありました。レースまで自分を追いつめて追いつめて、必死になって、そんなことはおくびにも出さず、結果が出て、ちゃんと人に褒めてもらえればいいですよ。でも、人ってそんなにパーフェクトじゃないでしょ? だから、自分の存在ややってきたことを、ちゃんと自分が分かっていることが一番大事で。そのために使う言葉として、とてもいいものだと思っています。

この時の私は、誰が望まなくても絶対にオリンピックに出なければならなかったし、何色でもいいからメダルを獲らなければならないと思っていました。人にちゃんと自分の言葉を聞いてもらうためには、過去の実績ではなく、今の明確な実績が必要でした。だから、私にとってのアトランタは、メダルを獲らなければ自分の生き方が前に進まない、というオリンピックでした。それは精神的に非常にしんどいものでした。もう二度と他の選手にこんな思いをしてほしくない。だから、あの「自分で自分をほめたい」という言葉が出てきたのです。単に銅メダル獲得という結果から出た言葉ではありませんでした。オリンピックは出場してメダルを獲ることがすべてではありません。あくまでも手段であり、ゴールではないのです。

例えば、スポーツなら“スランプ”。スランプじゃなくて、調子が悪いっていうだけの話なんですよ(笑)。調子は良くなるし、良くならなくても悪いことじゃないんですよ。でも“スランプ”と言った瞬間に、気になりだしちゃって、身動きが取れなくなっちゃう。できることもできなくなってきて、別のことをしなくちゃいけないんじゃないかとか、やっていることは間違いなんじゃないかとか……。自分をどんどん責めて追いつめていっちゃう。でも、調子が悪いだけ、って思えば、今はそのなかで頑張ればいいじゃん!と思えるはず。ちなみに、私はスランプって考えたことがありませんでした。だって、ずっと調子悪かったから(笑)。言葉ひとつで発想が狭くなって、切り返せなくなっちゃうんですよね。

本当は落ちてもいいし、消えてもいいんですよ。人からは消えているように見えても、自分が自分を消さなければいい、自分の気持ちが消えなければいい、ってことになかなか気づけないんです。それで、辞めちゃうアスリートは意外と多いですよ。表舞台から1回消えるというのは、その人のキャリアが大きければ大きいほど、しんどいですから。でも、人間そんなに弱くないし、自分にやる意志があるなら、自分の気持ちさえ生きていれば、なんとかなるんです。だって、生きてるんですから。人間って良くも悪くも、変化していけるものなんですよ。だから何かに縛られるのではなくて、もっと思いと時間を使って楽しむことが大事だと思っています。もちろん、時間もかかるし、しんどいことも多いのですが、今の状況をネガティブにしないためにはどうしようかと自分で考えて、プラスにしていく努力はできる。

今は情報が溢れていて、いくらでも選択肢があると思えてしまう。だから、ちょっと嫌になったらすぐにやめてまた別のことを始めてしまう。でも、自分に向いているか、向いていないかは、本気で打ち込んでみないと分からないんです。途中でやめてしまったら、向いているかどうかの判断さえできない。そういう中途半端な経験を積んでしまう人が多いように思います。向き不向きが分かるまでは、「限界までやった!」と言えるくらい打ち込んで欲しい。そうすれば、例え数年経ってしまっていても、努力し続けた時間からは大きなものを学べているはずですから。

スポーツはやはり、自分で決めて自分でやり終えたことに対して結果が残るので、喜びと自信を与えてくれます。こうして身に付いた本物の自信が、まさに自分のものになっていく。これは非常にわかりやすいことですし、年代も関係ない。例えば走ることに関して言えば、たとえ人が応援をしてくれても、走る脚というのは自分の脚なんです。自分の脚でスタートして、ゴールラインを踏むのも自分の脚。走り終えたときに感じるのは、自分は頑張ったということなんです。自分が頑張ったことを一番わかっているのは、自分自身なんです。ある人がそれを実際に経験することができたら、その人は自信を持ちますよ。人間自身が力を持ち、そしてその力が生きることにつながるんです。非常にわかりやすい結果を生み出すんです。ゴールしたという事実、その形を実際に結果として目にするわけですから。スポーツはウソの無い表現です。そこにはツクリがない。オリンピックが最たるものです。人間の真なる一瞬が創られる、最高の芸術、最高の感動だと思います。私たちは何に感動するのかと言いますと、本人が感動しているということに対してなんですね。その感動があるから、それが周りに伝わって、強い感動になるんです。周りに感動を与えたい、と思ってやっているんじゃないんです。自分が感動したいからやっているんですよ。人と人との間に感動が生まれるためには、まず自分が何かを生みたいと思わない限り、自分にその感情が無い限り、自分にその人生が無い限り、その重みが相手に伝わることはないんです。

私は基本的にはずっと自分のために生きていますから。何故このような活動をするのかと聞かれても、「さあ始めるぞ」と転身したわけではないんです。とにかく自分の人生を自分のために必死にやってきたんです、自分なりに。もちろんいろんな人に助けられながら、いろんなことに気付きながら、いろんなことを経験しながら、自分のできることを通して必死に自分の人生を考えてきました。その中でできることを通して私が今まで気付いてきたことは、何か自分にできるものを持てたら、それを最大限活かせる生き方をしたい、ということです。これも自分のためにです。それが結果的に人のためになればいいんですよ。

やはり人間は頑張らなければいけないということ、勝たなければいけないときは勝たなければいけないということです。そこを最大限苦しんで、やり遂げて初めて、そうでなくてもいいかなと思う気持ちが出てくるはずなんですね。だから、十分に勝利の経験をした後に、それ以外のことを求めるのであればいいと思います。しかし、その経験をしないで「勝つことに何の意味があるんだろう」と問う場合、それは率直に言って、「逃げ」なのではないかと私は思います。必死にくらいついて、死ぬほどの思いをして、その上で本当にどうなんだろうと最後の最後まで追及した言葉ではないと私は思っています。私が何故ここまで「自分のことを考えろ」と強調するのかと言えば、死ぬほどの思いで追求しないで、そこから避けてきた世界で見つかるものというのは、基本的には本物ではないと思っているからです。やはり自分の「気付き」を自分の人生に与えてやらないと。他人の人生に入っていって気付くことってそんなにないですよね。徹底的に自分の姿を見つめないと。もし本当に相手を尊敬するなら、人が他人に対してするということではなく、お互いに自分の人生を必死に考えるということが最低限必要なことだと思っています。自分に与えられた命に対して、人生に対して、ちゃんと真正面から、真剣に時間と思いを費やして生きること。これが命を大事にすることであり、私が最大限、そして最低限、人それぞれが、自分に対して、そして自分を通して人に対してしなくてはいけないことだと思っています。

確かにモチベーションには波があるものだし、調子が悪いときだってある。これも「どうせ」という気持ちになるきっかけですよね。当然私にだって最悪のコンディションの日はありました。でも、当時私を指導してくださった小出義雄監督からは、「最悪のときの最高を出してみようよ」とよく言われていましたね。普段の力は出せなかったとしても、その日のベストを尽くそうと行動できるかどうかは大きな違いがあります。「今日のベスト」を諦めてしまったら、いつまでもベストは出せないんです。

私は、ひとつでもできることがあるというのは立派なことだと思いますよ。ずっとひとつのことをやり続けて、「不器用で、これしかできないんです」という人もいますが、それをもっと誇りに思って欲しい。自信を持っていいんです。それくらい「やりぬく」というのは素晴らしいことなんですから。

有森裕子とは?(人生・生き方・プロフィール・略歴など)

有森裕子。

1966年生まれ、岡山県岡山市出身。

岡山市立牧石小学校、岡山市立岡北中学校を経て就実高等学校へ進む。

中学時代はバスケットボール部に所属したが、校内運動会の800メートル競走で3回優勝していた。

高校卒業後、高校の陸上部顧問の推薦を得て日本体育大学に進学。

1年の時に関東学生陸上競技対校選手権大会の3000mで2位、また3年間補欠であった全国都道府県対抗女子駅伝に、4度目の正直で正選手として出走を果たす。

3年の冬に学生駅伝にメンバーとして選ばれた。全日本大学女子駅伝では区間賞を獲得している。

大学で競技者としての生活は終えて卒業後は教師になるつもりでいた。

父親が教師をしている影響で、高校時代から体育教員志望であったという。しかし、記録会で自己ベストから2番目の好タイムで優勝したことで、進路を実業団へと変える。

折しもリクルート事件の真っ只中にあったリクルート社に、半ば押し掛けのような形で自分から連絡を取り、全くの無名で記録も残していない身でありながらその熱意を監督の小出義雄に認められ、最初はマネージャー兼選手という形で陸上部への入部を果たす。

1990年の大阪国際女子マラソンがマラソン初レースだった。

中間点を過ぎて先頭集団から脱落するが、その後も粘り続けて2時間32分51秒の記録で6位に入賞する。

この記録は当時の初マラソン日本女子最高記録であった。

1991年にも大阪国際女子マラソンへ2年連続で出場。

レース後半に入った35Km手前からカトリン・ドーレと激しく首位を競り合うが、終盤でドーレに突き放される。

優勝はならなかったものの日本人ではトップでゴール、2時間28分1秒の2位と健闘し、当時の日本最高記録を樹立。

同年開催の世界陸上東京大会女子マラソン代表にも選出され、一躍日本女子のトップランナーへ世間の注目を集め始めた。

同1991年夏に東京で開かれた世界陸上競技選手権大会のマラソンでは、メダルには届かなかったが、2時間31分08秒で4位入賞を果たし、バルセロナオリンピック代表の有力候補となったものの、その時点ではまだ代表内定は出なかった。

有森はその後バルセロナ五輪国内選考会の一つである、翌1992年1月の大阪国際女子マラソンに出場予定だったが、左足の怪我の為に欠場。

又次の同年3月の名古屋国際女子マラソンも回避し、バルセロナ五輪女子マラソン代表選考は決定をただ待つのみとなる。

そのオリンピックの女子マラソン代表の座をめぐり、有森が出場しなかった1992年1月の大阪国際女子マラソンでは、有森の日本最高記録を更新して2時間26分26秒のゴールタイムで優勝し、バルセロナ五輪代表を確定的にした小鴨由水に次ぎ、2時間27分2秒の好記録で2位となった松野明美と比較されることになる。

当時の国民的な大論議となり、松野が自ら五輪代表決定直前に「私を選んで下さい」という異例の記者会見も大きな話題となった。

しかし代表選考の結末は、最後の3人目に有森の方がマラソンの経験と実績が買われて、山下・小鴨と共にバルセロナ五輪女子マラソン代表となった。

その後、有森と松野は20年間に渡って一度も互いに言葉を交わすことはなかった。

その1992年バルセロナ五輪女子マラソン本番での有森は、29Km付近で3位集団から抜け出してスパート。

レース終盤の35Km過ぎ、先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワに追いつき、その後エゴロワと二人で急な登り坂が続くモンジュイクの丘にて、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げた。

競技場へ入る直前でエゴロワに引き離され、8秒差で五輪優勝はならなかったが、2位でゴールし、銀メダルを獲得する。

日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝以来、64年ぶりの五輪メダル獲得である。

1995年、五輪選考レースだった北海道マラソンへバルセロナ五輪以来、約3年ぶりのフルマラソンに出走する。

大会初のサブ30となる2時間29分17秒の当時の大会新記録を樹立し、マラソン初優勝を達成。

この成績が高く評価されて、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出。二大会連続の五輪出場となった。

1996年アトランタ五輪女子マラソン本番での有森は、30Km地点で2位集団を抜け出してスパート、トップを走っていたファツマ・ロバを追いかけ始める。

その後33Km過ぎでは、前回のバルセロナ五輪に続いて、ワレンティナ・エゴロワとの激闘を繰り広げた。

しかし35Km手前でエゴロワとは徐々に引き離され、苦しい表情を浮かべながらも3番手の位置を死守していた。

そして有森は優勝したファツマ・ロバ、2位のエゴロワに続いて陸上競技場へ入る。

4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得した。

二大会連続の五輪メダル獲得は、日本女子陸上選手では有森が初である。

この年、肖像権の自主管理を主張し、自らプロ宣言を行いCMに出演。

事実上日本の「プロランナー」第1号となった。

有森のプロ宣言や上述のライツの影響もあり、日本オリンピック委員会は選手の肖像権の一括管理を断念した。

1999年4月、アトランタ五輪以来2年8カ月ぶりのマラソンとなったボストンマラソンに出走。

練習過程で転倒し、膝や顔を打撲するハプニングに遭いながらも、自己記録を8年ぶりに更新する2時間26分39秒のゴールタイムをマークして3位入賞を果たす。

この記録が有森のマラソン自己ベスト記録となった。

翌2000年1月の大阪国際女子マラソンに出走、シドニーオリンピック代表を目指した。

体調が万全でない中、レース序盤から先頭集団のハイペースに加わるも、15Km手前で集団から脱落して結局9位に終わり、五輪3大会連続出場はならなかった。

翌2001年6月のゴールドコーストマラソンでは約6年ぶりのマラソン優勝を果たしたが、ゴールタイムは2時間35分40秒の平凡な記録に留まった。

同年11月の東京国際女子マラソンでは20km付近まで大集団を引っ張って10位でゴール、その後一旦休養を宣言する。

2006年5月、翌年2月の東京マラソン2007を最後に、競技生活から引退することを発表する。

2007年3月12日に日本陸上競技連盟の理事に新しく就任した。

2016年の東京オリンピック招致に際してはアンバサダーに任命された。

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