「伊藤忠商事株式会社」の経営理念・企業理念(ビジョン・ミッション・バリュー・スローガン・指針・方針など)
「伊藤忠商事株式会社」の企業理念
Committed to the Global Good
豊かさを担う責任
伊藤忠グループは、個人と社会を大切にし、未来に向かって豊かさを担う責任を果たしていきます。
「伊藤忠商事株式会社」の伊藤忠商事のサステナビリティに関する基本的な考え方
「事業活動を通じて社会の期待に応えていくことが、その持続可能性(サステナビリティ)を保ち、更に成長につながる」ということを強く認識しています。
そして、CSR(Corporate Social Responsibility)とは持続可能な社会へ向けて、企業が事業活動を通じてどのような役割を果たしていくのかを考え行動していくことであると考えています。
この考え方は、創業者の伊藤忠兵衛が事業の基盤としていた近江商人の経営哲学「三方よし」の精神につながるものでもあります。
真のグローバル企業として多様な価値観を理解し、社会の期待に応え、社会から必要とされる企業であり続けることが、当社の使命であると考えています。
「伊藤忠商事株式会社」の創業者・創立者『伊藤忠兵衛』~生い立ち・名言・創業の想い・考え方など~
伊藤忠兵衛(初代)
伊藤長兵衛(初代)は伊藤忠商事と丸紅の創業者。
初代忠兵衛は、1842年8月五代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。
生家は紅長(べんちょう)の屋号で耳付物という繊維品の小売をし、また1、2町の田地を自作する手作りの地主でもあった。
伊藤家は、この初代伊藤忠兵衛と兄の六代目伊藤長兵衛が、近江湖東の犬上郡甲良郷八目村(犬上郡豊郷町八目)で安政5年(1858年)5月に近江麻布類の持下り商を開業し、堺や紀州に行商したのにはじまる。
初代忠兵衛は、1858年(安政5年)15歳で持ち下り商いに乗り出した。
下関で紅毛人との交易で賑わう長崎の噂を耳にした忠兵衛は、伯父の制止を振り切って長崎へ向かった。
物情騒然たる幕末の長崎に近づく商人はほとんどいなかったため、現地では品薄で、忠兵衛は大いに歓迎されて思わぬ利を拾った。
忠兵衛の九州での麻布の持ち下り商いに立ちはだかったのが「栄九講」という一種の同業者組合。
同じ近江商人でも神崎郡や愛知郡の持ち下り商人たちがお互い結束して、他地域の商人を締め出していた。
そこで、忠兵衛は真正面から「仲間に加えてもらえませんか」と乗り込んでいった。
栄九講の仲間たちは当然の如く拒否。
それでも忠兵衛はめげず、栄九講の宴会に飛び込み、反感と敵意に満ちた視線を一身に浴びつつ臆せず、堂々と熱弁を振るった。
その姿に栄九講の幹部たちは遂に新規参入を認めることに決めた。
そして、忠兵衛は1年後には栄九講の代表に選ばれた。
兄の長兵衛は国元で仕入れに当たり、のちに博多新川端で伊藤長兵衛商店を開業した。
その後、持ち下り商いの商圏を長兵衛に譲って、忠兵衛は、明治5年(1872年)1月に大阪本町二丁目に呉服・太物店をはじめ紅忠(べんちゅう)と称して、麻布類・尾濃織物・関東織物を取り扱った。
紅忠は開店と同時に店法を定め、利益三分主義をとった。
これは、店の純利益は本家納め・本店積立金・店員配当に分かち、これを 5:3:2 の配分率にして「三つ割銀」といった。
店員への配当を割くことによって勤労意欲を喚起したもので、これは伝統的な近江商法に拠ったものである。
この「利益三分主義」の他、「社内会議制度導入」「店員の販売権限と義務の明確化」「運送保険の利用」「洋式簿記と学卒の採用」「貿易業への進出」など、当時では画期的な方針を打ち出した。
また忠兵衛は真宗の信仰に厚く、津村別院へ熱心に通い、「商売は菩薩の業」と説いて多数の人材を育て、財産を分かつことを商売繁盛の本道としていた。
明治18年(1885年)には、甥の外海鉄治郎と組合組織で伊藤外海組を設立し、神戸に事務所をおいて直貿易を始めた。
明治26年(1893年)には安土町二丁目で綿糸卸商の伊藤糸店ができて綿糸も取り扱う。
明治29年には日東合資会社をつくり、中国綿の輸入と日本綿糸の輸出にあたる。
晩年には郷土の豊郷村の村長も務めた。
明治36年(1903年)7月8日に忠兵衛は須磨の別邸で死去した。
家督は17歳の次男の精一が相続、二代目伊藤忠兵衛を襲名した。
伊藤忠兵衛(初代)の名言・考え方
初代忠兵衛の座右の銘
商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの
伊藤忠兵衛(二代目)
1886年(明治19年)滋賀県豊郷町に伊藤忠兵衛 (初代)、八重の次男として生まれる。
長男が夭逝したために早くから後継者となった。
1903年(明治36年)父の死去に伴って二代目伊藤忠兵衛を襲名。
当時まだ滋賀県立商業学校在学中で、東京高等商業学校への進学を目指していたが学業を断念、翌年丸紅伊藤本店に入社。
初代の妻、八重夫人は二代忠兵衛に伊藤各店の役職 には就かさず、丁稚小僧扱いで一からたたき上げ、伊藤本店への入店から5年の間、得意先に商品を担いで訪問する「地方回り」 などの下積みを重ね”帝王学”を学んだ。
1908年(明治41年)丸紅伊藤本店、丸糸伊藤糸店など4店を統合して伊藤忠兵衛本部を設立、代表に就任。
1909年(明治42年)イギリスへ留学、翌年帰国。
イギリスに留学した忠兵衛は、外国商館を通さず直接イギリスと商売をすれば、中間の利潤がカットされ日本の国益になることに気が付きます。
この経験が、今日の日本の「総合商社」の原点となっています。
また留学中は、ドイツ、フランスからも織物を仕入れて日本経由で韓国にも輸出するなど、初代忠兵衛の持ち下りの国際版として「総合商社」の3国間貿易の草分けとなります。
イギリス留学から帰国した忠兵衛は、本格的な国際化に向けて、海外の営業拠点づくりに奔走します。
大正初期には、綿布は輸出を柱とし、販路はアフリカ東海岸にまで及び、アメリカから紡績機の輸入などで着実に業績を拡大していきま す。
1914年(大正3年)伊藤忠兵衛本部を改組して伊藤忠合名会社を設立、代表社員に就任。大阪本町二丁目に社屋新築。
1918年(大正7年)伊藤忠合名を分割し、伊藤忠商事株式会社と伊藤忠商店株式会社を設立、伊藤忠商事の社長に就任。なお、伊藤忠商店の社長には姉婿の伊藤忠三が就任した。
1920年(大正9年)伊藤忠商店と伊藤長兵衛商店と合併して株式会社丸紅商店とする。
長兵衛が社長、忠兵衛は監査役となる。
また共同綿糸とともに新しく富山紡績を設立する。
この年は第一次大戦の好景気の反動で株価が暴落し、大不況となった。
その中で商事・商店とも大打撃を受けたが、忠兵衛は一族の全財産を売り払って債務を返済するとともに、大幅な人員削減を行い、苦境を乗り切った。
1923年(大正12年)忠兵衛が富山紡績の社長に就任。
1929年(昭和4年)呉羽紡績を設立し、忠兵衛が社長に就任。
1934年(昭和9年)呉羽紡績と富山紡績を合併する。
1937年(昭和12年)伊藤忠三が丸紅商店会長で死去。忠兵衛が取締役会長に就任。
1939年(昭和14年)トヨタ自動車工業の監査役となり、また伊藤忠商事の取締役会長に就任。
1941年(昭和16年)伊藤忠商事・丸紅商店・岸本商店を再合併して三興株式会社を設立し、取締役会長に就任。
1944年(昭和19年)三興・大同貿易・呉羽紡績を合併して大建産業株式会社を設立、取締役社長に就任。
1945年(昭和20年)敗戦を機にすべての役職を辞任。
1946年(昭和21年)GHQにより大建産業は制限会社となり、持株会社に指定される。
1947年(昭和22年)GHQによって公職追放。
1949年(昭和24年)大建産業は過度経済力集中排除法によって生産部門と商事部門に分離される。
1950年(昭和25年)公職追放解除。その後、富国生命取締役、東洋パルプ会長、呉羽紡績社長などを務めた。
1960年(昭和35年)伊藤忠商事の相談役に就任。越後正一が取締役社長に就任。
1966年(昭和41年)呉羽紡績は東洋紡績に合併する。
1973年(昭和48年)最晩年は熱海にこもり、5月29日胃癌により国立熱海病院で死去、満86歳。
母である伊藤八重とは?
初代伊藤忠兵衛の妻であり、二代伊藤忠兵衛の母である伊藤八重(1952年没)は、「内助の功」を超えた働きで、伊藤家の事業を支えた女性である。
初代忠兵衛が1872年(明治5年)、大阪・本町に「紅忠」を開店した際、八重は豊郷にある伊藤本家の運営を一手に引き受けた。
大阪店で使う米やたばこの選定、味噌や梅干しの漬け込み、ふとんの打ち直し、店員の着物や下駄の調達などの裏方的な仕事はもとより、初代忠兵衛のパートナーとして、江州地域での近江麻布の仕入れを一人で取り仕切った。
新入店員の教育も八重の重要な仕事のひとつだった。
当時、伊藤家の店に見習い店員として採用されると、まず豊郷の本家に送り込まれ、八重から行儀作法や読み書きそろばんなど店員として必要な教育を施された。
そして八重は、この教育の過程で一人ひとりの性格や能力を見極め、それぞれの力量、適正に応じた配属先を考え、初代忠兵衛に進言するなど、人事面でも重要な役割を担っていた。
のちに二代忠兵衛は母八重のことを「彼女は家庭の主婦とか人の母であるとかいうより、仕事の上で父のパートナーであった」と述懐している。
伊藤忠兵衛(二代目)の名言・考え方
私は勉学よりも商売の方が面白くなってきた。ここでひとつ、私の胸に油のように広がってきた野心は、日本は将来外国製品輸入よりも、自国で製造すべきだということであった。
およそ商業者の貴む所は機敏にあり。
勉学が目的だが、実家の織物の仕事もあるから、有名大学を避けて最初ロンドン大学に行った。経済学部で講義を受けたがさっぱりわからぬ。ところが下宿屋へ帰って教科書を読むと大半理解できる。これで私は通学しなくとも勉強できると考え、本ばかり買い入れて商売の方に精を出した。
長い間に自分が得た商売人としての小さな哲学は、商人はいかなるときでも嘘をいわぬこと、というものである。数字なるものは非常に正直な生きものであるから、一度、嘘をつくと何倍かになって暴れ出す。
別に聖人風をふかす要はないが、私にはまったく別の世界であった。父を失ったことと、番頭兼主人なので若いながら責任を感じたのか、英語の勉強と商品の研究に、出張地帯では夜はまったく僧院生活の様式を続け、自然、変り者の扱いをされた。青春というものに時間を見いだせず自発的に遠ざかり、呉服屋らしからぬ生活を続けた。
欧州大戦が始まってから、実業界の人は皆いい気になって豪勢な暮らしをしているのに、武藤山治さん(元鐘紡社長)だけは奥さんの作った弁当を下げて、住吉から毎日汽車で兵庫の工場に通っていた。これを見て私は武藤さんも時勢に遅れたなと感じたことがあった。しかし、相場が暴落し、いままで宴会ばかりやっていた連中は尾羽打ち枯らし、銀行に頭を下げて回っている中で、武藤さんは相変わらず平然と弁当箱を下げて兵庫の工場へ通っている。やはり武藤さんは偉いなとつくづく感心した。
悪いとき、落ち目のときに人間はすべてをさらけ出すものだ。
私は、ただ真一文字に進む勇気だけは絶やさなかった。あらゆるものを執着せずに手放した。そこから道が拓けたのである。
「伊藤忠商事株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1858年(安政5年)初代伊藤忠兵衛、大阪経由、泉州、紀州へ初めて麻布の持ち下りをする(伊藤忠商事創業)。
1872年(明治5年)大阪市東区本町2丁目に呉服太物商「紅忠」を創立。
大阪・東区本町2丁目、中橋筋東に呉服太物商「紅忠」が開店した。
主力の取扱品は麻布全般と尾濃織物、関東織物であった。
当時、大阪の呉服問屋街といえば伏見町であり、本町あたりには古着商が集まっていた。
初代伊藤忠兵衛は、大阪に本拠を定めるにあたって将来の発展を見越し、あえて本町を選んだ。
それは、船着場のある川口町からの道が本町へ通じており、しかも伏見町に比べると地価が半値以下であったからだという。
また開店と同時に「店法」を定め、当時としてはあまり例のない店員の権限と義務を明らかにし、若い店員にいたるまで、それぞれの持つ能力をひきだすことに努めたとされる。
いわゆる「経営の民主化」ともいえる会議制度の採用など、人を信じ、有能な者を思い切って登用する人材育成は、初代伊藤忠兵衛の生涯にわたる重要な事業経営精神であったといわれる。
1884年(明治17年)紅忠を伊藤本店と改称。
1893年(明治26年)伊藤糸店を開店(伊藤忠商事の初め)。
綿糸卸商伊藤糸店を大阪・東区安土町2丁目に開店した。
初代伊藤忠兵衛を店主にあおぎ、店主代理、後見支配人、主任など10名の陣容であった。
利益三分主義の成文化、洋式簿記の採用、月刊誌「実業」の発行など、当時として画期的な経営方式を次々と取り入れ、店主と従業員の相互信頼の基盤を創りあげるとともに、合理的な経営を実現していく。
現在の伊藤忠商事は、この店が根幹となり、発展したものである。
1914年(大正3年)個人経営の組織を改め、伊藤忠合名会社を設立。
1918年(大正7年)伊藤忠商事株式会社を創立。ニューヨーク出張所を開設。
1928年(昭和3年)海外向け社標をつくる。社名C.Itohの頭文字をとってC.I.とした。初め海外向けの船積マークとして、[CI]や[CI]のような形で使われていた。
昭和3(1928)年にインドや東南アジアとの取引の経験から、従来使用していた[紅]マークは、漢字の通じない地域では不適当と分り、[CI]が考案され、海外取引用として使用された。[CI]マークが正式の社章として定められたのは、昭和15(1940)年。
昭和24(1949)年、伊藤忠商事と再発足した際、[CI]マークが復活した。
1941年(昭和16年)伊藤忠商事、丸紅商店及び岸本商店の合併により三興株式会社を設立。
1944年(昭和19年)三興、大同貿易及び呉羽紡績の合併により大建産業株式会社を設立。
1949年(昭和24年)伊藤忠商事株式会社を設立。
1950年(昭和25年)大阪証券取引所、東京証券取引所に株式上場する。
1952年(昭和27年)伊藤忠アメリカ会社(現・伊藤忠インターナショナル会社)を設立。
1957年(昭和32年)東京支社新社屋が完成(中央区日本橋本町2丁目)。
1967年(昭和42年)東京支社を東京本社と改称し、大阪本社との二本社制とする。
1969年(昭和44年)大阪本社新社屋が竣工。「創業100年記念新社屋完工披露パーティ」を開催。
1971年(昭和46年)伊藤忠の仲介により、いすゞ自動車と米国GMとが全面提携に関する基本契約書に調印。
1972年(昭和47年)総合商社で初めて、中国から友好商社に指定される。
日中貿易についても、伊藤忠商事は先鞭を切った。
昭和46年12月14日付で「日中貿易4条件」を遵守することを正式に発表。
社内に「中国室」を設け、中国との貿易促進に積極的に取り組み始めた。
そして47年3月には、当時の越後社長を団長とするミッションが訪中、このとき中国から友好商社に指定され、その後の日中友好、日中貿易の推進に一役買った。
田中角栄首相が日中国交正常化を実現したのはその後昭和47年9月29日のことであった。
1974年(昭和49年)伊藤忠商事再発足25周年を記念し、財団法人伊藤忠記念財団を創設する。
1977年(昭和52年)安宅産業株式会社を合併。
1980年(昭和55年)東京本社新社屋が完成(港区北青山2丁目)。
1989年(平成元年)日本初の民間通信衛星JCSAT-1の打ち上げに成功。
1996年(平成8年)伊藤忠グループがサハリン石油ガス開発の民間筆頭株主となる。
1997年(平成9年)ディビジョンカンパニー制を導入。
総合商社で初めて、環境マネジメント国際規格ISO14001認証を取得。
1998年(平成10年)伊藤忠グループが株式会社ファミリーマートの株を取得。
1999年(平成11年)執行役員制を導入。
2001年(平成13年)伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社を設立。
2005年(平成17年)連結純利益1,000億円超を達成。
株式会社オリエントコーポレーションと資本・業務提携。
2008年(平成20年)ブラジル鉄鉱石権益を買収。
2011年(平成23年)米国Drummond社コロンビア炭鉱へ出資。
大阪本社が本町から梅田へ移転。
2015年(平成27年)中国CITIC Limited、タイCharoen Pokphand Group Company Limitedと戦略的業務・資本提携
【参考】「丸紅株式会社」の沿革・歴史(年表・社歴など)
1858年5月 伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業として大阪に創業。
1872年1月 紅忠(べんちゅう)を創立する。
1914年12月 伊藤忠合名会社に改組する。
1918年12月 伊藤忠合名会社を株式会社伊藤忠商店(丸紅の前身)と伊藤忠商事株式会社に分割する。
1921年3月 伊藤忠商店と伊藤長兵衛商店(伊藤忠兵衛の兄の六代伊藤長兵衛が創立)が合併して、株式会社丸紅商店となる。初代社長には七代伊藤長兵衛が就任する。
1941年9月 丸紅商店、伊藤忠商事、岸本商店の3社が合併して、三興株式会社となる。
1944年9月 三興、大同貿易、呉羽紡績の3社が合併して、大建産業となる。
1949年12月1日 大建産業が過度経済力集中排除法の適用を受け、4社(伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所)に分割され、丸紅株式会社として設立される。
1955年9月 貿易会社の高島屋飯田株式会社(高島屋系)と合併し、商号を丸紅飯田株式会社に変更する。
1966年4月 東通株式会社(旧・浅野財閥)を合併する。その際に東京支社を東京本社に昇格し、2本社制を採用した。管理本部の殆どを大阪本社から東京本社に置き、丸紅の本社機能は実質的に東京に移った。
1972年1月 商号を丸紅株式会社に変更する。
1973年1月 株式会社南洋物産を合併する。
2001年10月 伊藤忠商事株式会社と鉄鋼製品部門を統合し、伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社が発足する。
2003年6月 本店を大阪市中央区から東京都千代田区に移転する。
2016年8月 本店(丸紅ビルヂング)建て替えのため、東京都中央区日本橋日本橋タワーに移転する。
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